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私はクリニックの待合所の椅子に腰かけ大して面白くもない雑誌の紙面を何気なく忙しく繰っていた。すると、ふらふらとした女の姿が視界の端に映った。その女は受付で割とはきはきした言葉で受け答えしていたが私の前の長椅子に腰かけたかと思うとそのまま身を横たえてしまった。私は相当具合がよくないのだろうと勘繰った。誰でも持っているとは言わないが我々の大多数が持っているであろう野次馬根性でちょっと大丈夫だろうかと心配になった。私の番が来る。よりによって今日は採血を促され、血を採られた後、上着の片方の腕の部分を脱いだ状態で今シールを貼られ3分ほど押さえておけと言われて待合所に戻るとあの女は居なかった。私が別室で採血されている間に診察の順番が来たのだろう。今私はこんなかっこうなのに代金の支払いをしろと名を呼ばれた。受付で代金を支払い、今度は隣の薬局へ行く。しばらく椅子に座りどこを見るでもなくぼうっとしているとさきほどの女が入ってきた。そしてまた椅子に横になった。私の番がきて薬を受け取り、出入り口に差しかかったところで私はこのまま何もしないで出て行ってよいものかどうか一瞬迷ったがその女を一瞥して外に出た。若そうな女だったが顔ははっきり見てはいない。亜麻色に染めた長い髪が印象的だった。帰路私はそんなことをすっかり忘れるほどまだぼけちゃいない。牛丼屋で定食を食べている時も、スーパーで酒を買っている時も、その女のことは脳裏にこびりついていた。犬や猫などの動物は同情すると呪われるらしいが──どのみち呪われたところで私の人生には何の変化もないが──、まさかあの女だったとは。この国では何かよからぬことが行われていると勘付いたのは別に今に始まったことじゃない。年末になるとテレビで失踪者を捜す番組をやっているのがどうにも腑に落ちない、解せない、こっちが騙されているような気分になる現象を今更疑問視するほうがおかしい。それはどうでもいい。本当にどうでも。問題なのはその番組で失踪者として捜索されていた一人があの女ではないかと思った私の脳ミソだ。7割がたいかれているという自覚はあったがここまでとは。長い髪に赤いフランネルシャツにカーキ色の上着、そしてジーパン。間違いないあの女だ。しかし私はどうすることもできなかった。第一、第一おかしいじゃないか、テレビで見た人が目の前に居たなんて、たれこむ人の神経を疑うね。どうせ謝礼目当てのクズに違いない。そうは思ったが私が見たのは確かにあの女だった。電話番号を確認する、そして「もしもし──」私はこう切り出した。「もしもし、私が見たのはあの女性に間違いありませんが、少し問題があるのです」どうぞと促され私は言葉を吐き出す。「私は精神病で通院していまして、その、幻覚かもしれないと思っているんです」どんな情報でも結構ですとさらに促される。「あの女性を見たのは私が3週間に1度通っているクリニックの待合所とその横に併設されている薬局です」いつですか? と問われる。「明日です」え? との訝しがるような返答。もう一度大きな声でと言われる。「明日です!」ぶつりと電話を切られる。私はかけ直さなかった。私は再確認した。私の言うことを信じてくれる人はもうこの世に居ないのだと。今日私はもう一件再確認したことがある。あの女がクリニックに来たこと、そして薬局にも。椅子に座るなり、上半身を横に倒した。私が何か言おうとした時、言う必要がないことも解った。だって向こうから話しかけてきたのだから。何度も言うようだが私は顔をはっきり見ていない。何も言わずに薬局を出ようとした私に対して言ったのかどうかさえ怪しかったが女は横になったままはっきりこう言った。「ごめんなさい」と。私はその意味を訊き返すほど野暮じゃない。



この物語はフィクションです。
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