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既刊「千代見草」に収録




 気が付くと俺は知らない街の、知らないショッピングセンターの中にある、知らないレストランで、知らないメニューの早めの夕食を前にもぐもぐしていることを認識した。味はあるのだろうが、感覚がない。ふと見ると、そでに小さな血痕のようなものがある。俺は腕まくりをしてそれを隠した。そのとき、あるシークエンスが脳裏をよぎった。赤い下唇(したくちびる)のささくれを右手の人差し指と親指の爪の先でつまみ、いじっている女。どうして赤いかと言えば、少し血がにじんでいるらしい。鼻から上は見えないし、肩から下も見えない。あの女だ。俺の記憶の中にある女。いや、少女か? とにかく若いことは確かだ。
 静かに二人の男が俺を取り囲んだ。
「アラキ・ケンイチだな? アラキ・コウジ殺害容疑で逮捕する」と一方の男が令状を見せながら言う。
「この弟殺しのくそったれ野郎が」ともう一方の男が俺に手錠をかけながら言う。
 このもう一方の男は顔に絆創膏をはっている。血がにじんでいる。
 俺は何がなんだかわからず、とりあえず興奮して少し抵抗したが、すぐにあきらめて鎮まった。
「どういうことだ?」と俺。
「どういうことだ、だって? こっちが訊きたいよ」
「さあ、来るんだ」

 留置所にある取り調べ室。
「だから、俺は何も憶えてないんだよ!」と俺。
「精神病者を装う気か? どう見ても、そうは見えないぜ」と一方の刑事。
「やったのかもしれないが、憶えてないんだよ」
「やったのかもしれないだって?」
「こいつ、マジでいかれてんじゃないの?」ともう一方の刑事。
「そんなはずはない。顔に書いてあるじゃないか、俺は正気だってね」と一方の刑事。
「そうですか?」ともう一方の刑事。
「とにかく俺は憶えてないんだ。記憶がないんだよ。あるのは──」
「あるのは?」
「あるのはあの女の記憶だけ」
「話がややこしくなってきそうだな、話してみろ」

 ──時間というものは頭にガツンと来るようなことが起こらないと意味を持たないのかもしれない。もっとも、俺は最近では時計を見るという行為を是認するのは、もっぱらメシを食うときと、寝るとき、それから起きたときだけだ。なぜ、わざわざ起きたときにも見るのかって? そりゃ、恐怖心だろ。学校に間に合うかどうかっていう。それが今でも、春の雪みたいに残ってるからだろう。そう、学生のときの話だ。そうだな、たしか小学校から中学校にかけての話。あいつはいじめられっ子だった。いや、いじめというよりのけ者にされていた、差別されていたと言ったほうがいいか。なぜだか理由は俺も知らない。みんなが嫌いなものは俺も嫌いなのだ。でも、俺はその気持ちを大仰にはおもてに出さなかった。それもなぜだかわからない。とにかくあの女子──赤い下唇のささくれを右手の人差し指と親指の爪の先でつまみ、いじる癖のある女子は、差別されていた。
「アラキ君、私のノート貸してあげる」
「え、ありがと」
 そう、俺が風邪か何かで学校を休んだ次の日のことだ。俺はあいつにノートを借りるしかなかった。なぜかって、俺もあいつと同じように差別されていたからだ。例によって理由がわからない。そのノートは女の子のにおいがした。いや、給食のカレーのにおいだったかもしれない。とにかく、俺はあいつからノートを借りたんだ。
 それから、何年かして中学に入った。あの女子は相変わらず差別の対象だった。差別習慣の引き継ぎ式でもやったのかと思うほどだ。俺も小学校の同級生だった連中とは口をきけなかったし、向こうも俺を避けていた。しかし、俺たちには──差別され組の俺たちという意味──それぞれ新しい友達ができた。それは喜ぶべきことだった。でも、俺はいまだにあいつとはまともに口がきけなかった。差別習慣の引き継ぎ式をやった連中の中に、俺も含まれていたんだよ。
 ある日、登校拒否をしているやつの家に話をしに行くと言って、その女子三人組が、道中にある俺の家によったことがある。俺の家は親が離婚して、母子家庭となり、新しく家を探した結果、住むことになった、ほとんど崩れかけと言っていいほどのぼろい家だった。もちろん、雨漏りがするし、トイレは水洗ではないばかりか、縁側の端にあったため、風の強い日にはにおいがなけなしの部屋まで漂ってきた。そんなことはどうでもいい。とにかく、そいつらは俺の家によった。理由は聞いていない。登校拒否をしているやつの家に向かったから、そうじゃないかと思っただけだ。
 飼い犬が──当時、俺は犬を飼うということがどういうことかまったく理解していなかった。ただ、かわいいからとか、おもしろいからとか、たぶんそんな理由で犬を飼うことにしたのだと思う──激しくほえたから来たのがわかった。俺の家には前の道を横切って、まわりこんで小さな橋を渡って来なければならなかった。その道を歩く三人の女子。その中にあいつ──赤い下唇のささくれを右手の人差し指と親指の爪の先でつまみ、いじる癖のある女子──も居た。
それを見た俺はとっさに別の部屋でマンガを読んでいた弟を呼びつけ、玄関の鍵を閉めるように言った。
「玄関の鍵を閉めろ! 早く!」
 それは間一髪間に合ったが、鍵を閉めている姿がバレバレだっただろう。俺は留守を装うつもりだったのだが、これでは、厄介なやつが来たから鍵を閉めたのだと思われてしまう。玄関の戸は昔の家によくある模様の入ったガラスがはめこんである引き戸で、人が直前に立っていれば、居ることくらいは確実にわかる。鍵がまた旧式で、つまみをいったん押し込んで回すタイプのやつだった。壊れかけているせいもあってか、なかなかかからなかった。俺はコツを知っていたが、弟はうとかった。
 あいつは玄関の前で、「見えたんだからね!」とか、「出て来い! バカ!」とか、罵詈雑言を、いや、今考えれば呪いの言葉だったかもしれないが、そういう言葉をひとしきり叫ぶと登校拒否をしているやつの家に向かって歩いていった。あいつをなだめる他のやつの声も聞こえた。その間じゅう、ずっと飼い犬がほえていたのを憶えている。
 その中に俺のことが好きだというやつも居た。それがわかったのはあることがあったからなのだが、それは関係ないな。
「あの子は違うのよ」と、あいつは言った。
 他の子とは違うという意味だと、俺は思った。つまり、本気なのだと。まあ、それはどうでもいい。差別され組の一員には違いなかった。
 あのとき、呪いが俺ではなく、間違って弟にかけられたのだ。

「だから、何が言いたい?」と一方の刑事。
「つまり、弟を殺したのはあの女なんですよ」と俺。
「バカかおまえ? ただのガキの頃のにがい経験じゃないか」ともう一方の刑事。
「話にならんな。ちょっと、頭でも冷やせ。おい、ぶちこんどけ」と一方の刑事。
「はい」ともう一方の刑事。

 刑事の会話。
「やばいっすよ。俺も思い出しました。まさかあいつだったとは」と一方の刑事。
「心配すんな。わかりゃしねえ」ともう一方の刑事。
「消しますか?」
「そうだな、消そう」

 牢屋の中。
 俺は寝台に寝転がり、腕枕をしていた。そして、ふと何もないはずの空間に目をやった。俺は一瞬悪寒が走った。あいつだ。あの女だ。俺は上体を起こした。
「今度は俺を殺しに来たってわけかい? 弟を殺したのはおまえだろ?」
 女は鋭いまなざしで俺を見ている。あの女の目だ。憶えてる。そして、赤い下唇のささくれを右手の人差し指と親指の爪の先でつまみ、いじっている。しかし、何も言わない。一瞬ほほえんだように見えた。
「なんだ? どうして何も言わない? 言う必要がないってわけか?」
 突然、その像は消え。チャリンっという音。──牢屋の鍵らしいものが床に落ちた。
「え? 逃げろってことか?」
「何を一人でしゃべってる? おまえほんとにいかれてんのか?」と、少し離れたところで、椅子に座って、机に簡易将棋ゲームを広げて、一人で遊んでいる看守が言った。
 俺はその鍵を床からすばやく拾い上げ、また寝台に戻った。
「今日の仕事は何時までだい?」
「なんでそんなことを訊く?」と看守。
「コンビニに行こうと思ってね」
「バカが。そんなことできるわけないだろうが。現実認識もできんのか? このいかれちんぽ野郎。黙って寝てろ」

 俺はその留置所を抜け出し、知らない街に躍り出た。二人の刑事が追いかけてくる。あいつらだ。逃げている最中、あの女の残像がちらついた。頭の中でなのか、それとも目の前に見えているのか、判断がつかない。俺は導かれるようにあるビルの中に入った。そして、屋上へ。そこはビアガーデンで、浮かれ気分のやつらがうようよとさわいでいた。
「止まれ! 撃つぞ!」と一方の刑事は拳銃を取り出し、かまえた。
 それを見た野次馬どもは大騒ぎ、われ先にとエレベーターや非常階段に殺到した。
 俺は屋上の端まで追いつめられた。
「冥土のみやげに教えてやろう。ガキの頃、おまえらをいじめてたのは俺たちだ」と一方の刑事。
「ケーケケケ! おまえみたいなやつを見てると、吐き気がしてくるんだよ」ともう一方の刑事。
「ついでにもうひとつ。おまえの弟を殺したのは俺たちだ」と一方の刑事。
「なんだって?」と俺。
「邪魔だったもんでね」ともう一方の顔に血のにじんだ絆創膏をはった刑事。
「じゃあ、この血痕はおまえの──」
 そのとき俺はすべてを思い出した。

 俺はある情報を聞きつけ、弟の住んでいる街へやって来たんだ。ある情報というのは、弟がある組織に命を狙われているということ。弟のアパートを訪ねると、すでに弟は殺されていた。俺は死にもの狂いで調べあげ、こいつらのことをつきとめた。現場へやって来たこいつらと取っ組み合いになった。しかし、追いかける途中、弟のアパートの階段をあまりに急いでいたため転げ落ちてしまい、そのショックで記憶がとんでしまっていたのだ。

こいつらとは今まさに俺の目の前で拳銃をかまえている二人の刑事のことだ。
「思い出したぜ。このくそったれども!」と俺。
「ハハハ! おまえはほんとにいかれてるようだな。状況がわかってないらしい」と一方の刑事。
「フヘヘヘ! しょんべんちびって泣いて頼んでも、おまえは確実に死ぬんだ。どんな気分だ? え?」ともう一方の刑事。
そのとき、ものすごい音がして、ほどよい大きさの隕石がこの二人の刑事に向かって一直線に落ちた。いや、正確には二直線? 空から降ってくる石と言えば、隕石しかあるまい。この二人の刑事は一瞬で死んだ。悲鳴をあげることなく。

 その後のことなのだが、ある日、母さんがスーパーのレジ打ちをしているあの女──赤い下唇のささくれを右手の人差し指と親指の爪の先でつまみ、いじる癖のある女に会ったと言っていた。向こうから話しかけてきたそうだ。結婚し、子をもうけ、そこそこの暮らしをしているらしい。
 なぜ、あの隕石が俺には落ちなかったのか。それは神のみぞ知るだろう。いや、あの女は知っているのかもしれない。あの二人の刑事の他にも、俺たち──差別され組──を差別していた同級生は居る。でも、連中が今でもあのままだとしたら、あの二人の刑事のようにろくな死に方はしないのではないかと、俺はときどき思うんだ。



この物語はフィクションです。
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