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既刊「千代見草」に収録
DNA




「空想と妄想の違いがわかるかね?」
「いいえ」と俺はつれない返事をした。
「空想は単にありえないことを想像することだ。妄想はそれだけじゃない。その想像したことを信じることなんだよ。──今その石に触れて、何を想像したかね?」
「別に何も」
「うそだね。あんたは今、わしを殺そうと思った。いや、正確にはあんたはわしがあんたを殺そうとしているのではないかと思った。その前にやってやろうと。それは空想か、それとも妄想か。ふっふぁっはっは、どっちにしろ、あんたは死ぬ。やつらは勘付いてやがるんだよ、あんたが正真正銘の“妄想”にとりつかれているってことをね」
「やつらって?」
「シルバーフィッシュだよ。テレビコマーシャルでやってるだろ。我々の使命は妄想を売ることですってやつだ。見たことないか?」
「ない」
「まあ、それ自体、わしの妄想だと言えば、それまでだがな。どうだ、その石を持っていく気になったか?」
「ああ、これは証拠の品だからな」
「成分分析なんかやったって無駄だぜ。それはただの石だ。川原や道端に転がってるような、なんの変哲もない──そうだな、科学的な言葉で言うとするなら、黒色頁岩(けつがん)だ。ただのな。重要なのはあんたがそれを持ったときに見たシークエンス、何を感じ、何を想像したか。──わかったら、とっとと消えろ。妄想が現実にならないうちにな」

 俺はそのお香の煙が充満した妙に明るい地下部屋を出た。俺はこの石を最初に持ったときに見たんだ。始まりもなければ終わりもない、永遠に続くDNAの二重螺旋構造の塩基の粒ひとつひとつにシークエンスがはりついていて、それらがてんでにそれぞれの時間を過ごしているというシークエンスを。無数の映画を同時に観ているような感覚。考えただけで頭が変になりそうだ。お香のにおいは俺の想像力を何倍も引き出してくれたようだ。この石はきっかけに過ぎないのかもしれない。空想を妄想へと導き、そしてそれを現実にする、きっかけ。

 俺がそう思うのは、一週間前の事件にさかのぼる。所見では、学校に行かず、ずっと部屋に閉じこもってテレビゲームをしていた少年がてんかん発作か何かを起こし、倒れた拍子にうしろにあった四キロの鉄アレイに頭をぶつけて、脳しんとうを併発し、そのままあの世へ行っちまった、というものだった。俺に疑問を抱かせたのは、その少年の手にテレビゲームのコントローラーではなく、この石が握られていたということ。そのう、黒色頁岩の。それだけなら新聞にも載らないほどのことだが、この石が闇で売買されていたことが、俺がしゃしゃり出なけりゃならない理由なんだ。俺はあのとき、この石をつかんだ。そして、見たってわけ。延々と続くシークエンスの二重螺旋構造を。

 あのじじいは雑魚(ざこ)だ。あいつが言ってたシルバーフィッシュっていう組織が頭らしい。

 俺は車を運転して家に帰った。正確には居候している伯母(おば)の家だ。仏壇のある居間では聞き覚えのある声がした。伯母の妹とその夫の声だった。みんな還暦をとうに過ぎている。それとテレビの音。「テレビを見るんなら、自分の家で見ろよ」と俺は冗談まじりに思った。そのおかげでおばちゃんにただいまって言えねえじゃねえか。見ての通り、俺は気が小さい。もっとも、知らないものに対して恐怖を抱くのは、普通のことであって、何も悪いことじゃない。って、こないだテレビで言ってたっけ。
 俺は自分の部屋に入り、電気ストーブの電源を入れ、コートを脱いだ。そして、階下に下り、砂糖なしミルク入りのインスタントコーヒーを入れ、また部屋に戻った。何気なくテレビをつける。
《我々の使命は妄想を売ることです。ときめきが欲しいあなた、そう、あなたにこそ、わが社は万全の体制でサービスをご提供いたします。資料のご請求はフリーダイヤル0120──》
 これか。今まで気付かなかったのは、眼中になかったからだ。と俺は注意力のない自分をなぐさめた。第一、テレビコマーシャルなんぞ見てなんの得があるんだ? 損するだけじゃないか。あれ買えこれ買え、それがあなたの不安を解消する。うそつけってんだ。逆に不安をあおっているだけじゃないか。──つまらないことに考えをめぐらすのはよそう。

 俺はシルバーフィッシュ社に電話をかけた。
「責任者を出せ」
「どのようなご用件でしょうか?」と女のかわいい声。だまされるなよ、男子諸君!
「警察の者だ」と俺はあくまでビジネスライクにクールに言った。
「──コールセンターの責任者でしたら居りますが」
「そいつでいい」
 しばらくの沈黙。
「もしもし、お電話かわりました」と、丁重な男の声。勘違いでもいいから女の声のほうがよかった、なんて言っている場合ではない。
「石の件なんだが──」
「当社の商品になにか欠陥でもありましたでしょうか?」
「おおありだ。少年が死んでる。あれはなんなんだ?」
「もう、ご体験されましたか?」
「ああ」
「それがすべてでございます。我々が干渉することではございません」
「あんたには不足が二つある。一つは説明不足。もう一つは役不足だ。あんたじゃ話にならない。商品を開発したやつに会いたい。連絡先を教えてくれ」

 次の日、俺はその住所を訪ねた。なんの変哲もない中流の民家で、どちらかと言えば薄汚い感じのする家だ。というのも、壁はすすで黒ずんでいるし、裏山からの落ち葉も野ざらしで、雨どいや溝には落ち葉がたまっていた。そして、腐葉土となった部分から夏に雑草が生えたらしく、冬なのでみんな茶色になって枯れていた。それは自然なことであって、俺に退廃的な感想を抱かせるのも自然なことなのかもしれない。だとしたら、冬は絶望的な季節であって、必ず春が来ることを、希望を抱いて毎夜床に就けるのは奇跡に近いことなのかもしれない。冬の朝、目が覚めるのは希望を抱いているからにほかならない。必ず春が来るという希望を。
 俺が玄関のベルを押して、主(あるじ)が出てくるのを待つ間、高尚なようで低能な感想は反復されていた。寒いのだ。かなり着込んでいるのになぜ寒いのか? それは、必ず春が来るという低能な希望が今の俺にはないからだ。孤独で、不安で、絶望しているとさえ言えるのかもしれない。ある種の低能さは人間にとって必要なことなのだ。と俺は今、猛烈にその意見に賛同していた。俺は春を求めている。暖かい春を。──冬眠する昆虫も居るが、たいていの昆虫は冬に死ぬ。しかし、卵やサナギ、あるいは幼虫として越冬する。それは希望を抱いているからと言えはしないだろうか? だから俺は、それを“低能な希望”と呼ぶ。
「どちらさま?」
と言って出てきたのはいたって普通の三十代くらいの女だった。もっとも、俺が普通の女と判断したのは、さまざまな偏見と独断にもとづいているのは言うまでもないだろう。もっとも、世の中に“普通”なんてありはしないのだ。俺はただ、主観に左右されているだけのことだ。それこそ、低能なことなのかもしれない。世間では、外界からの情報にもとづいて行動するのがかしこいことだと思われているのだから。自分の考えをさらけ出してみろ、とたんに白い目で見られるに決まってる。
「あの──」と女は寒さで緊張した声で言った。
 俺はその女の顔を見て、しばらくぼうっとしていたことに気付いた。
「警察の者です」と俺は内ポケットから手帳を出して言った。
「──訊かなくてもわかります、あの石のことでしょう?」
「はい」
「まあ、どうぞあがってください。寒いですから」
「お邪魔します」

 俺は石油ストーブのある暖かい部屋に通された。外観からは想像できないほどの暖かさだった。ずいぶん前からつけていたらしい。ストーブの上のやかんからは湯気が出ていた。俺はゆったりしたソファーに女と向かい合わせに座った。
「まず確認しますが、シルバーフィッシュ社に特許を売ったのはあなたですよね?」
「そうです」
「つまり、最初にあの石を開発したのはあなた?」
「はい」
「率直に訊きます、あれはなんなんですか?」
「一言で言います、映像表示装置です」
「──つまり、ディスプレイ?」
「はい」
「どういうことか──私が見たのは、その、一言で言えば、延々と続くシークエンスの二重螺旋構造だった。DNAみたいな」
 女の顔色が変わる。
「あなたは──そんな、まさか!」
「どうかしましたか?」
「この世にただ一人居るという映像の統括者、つまりあなたは神──」
「かみって、神?」
 女はうなずく。
「──おもしろい与太話だ。この私が神だって? だから、シルバーフィッシュのやつらが私を狙っているというのも説明がつく? いや、つかない。神をつかまえて、どうするって言うんですか? 先物取引にでも利用するのかな、ハハ」
 女はけわしい顔だ。
「あなたは何もわかってないのね。神の力がどういうものか」
「わかるはずがないじゃないですか。その時点で私は神じゃない。数学的な答えだと思いますが──」
「神は──神は私たちの妄想を現実にすることができるんです」
「──ヤクザのじじいが言ってましたよ、妄想は想像したことを信じることだって」
「そう、信じるっていうことは希望を抱くことでもあるんです」
「冬に春を思うような?」
 女はうなずく。
「あの少年はたぶん未来を見たのよ。凄惨(せいさん)な未来を。あの少年にはそれが未来だとわかった。そして、あんなことに。──あれは事故だったんです。誰もが明るい未来を望んでる。でも、見えたのはそうじゃなかった。──あの事件は、暗い未来を少年に見せたあなたに責任がある」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。私は何もしてない。少年が発作を起こした頃、私は風呂にでもつかっていましたよ。なんの関係があるって言うんです?」
「あなたは神であることを放棄しているんですね?」
「はなから私は神じゃない。そもそもなんでこんな話になったのか。妄想なんて、ただの前頭葉の異常ですよ。あの少年もテレビゲームをしているうちに──」
「まだわからないんですか? あの少年は明るい未来を望んでいたんですよ。どんなに凄惨なテレビゲームをしようがそんなことは関係ない。望んでいたのは明るい現実なんです」
「もし、そうだとしても、酷かもしれないが自業自得じゃないですか? ゲームをすることは明るい未来にはつながっていない。ちゃんと学校に行って勉強したほうが、よっぽど明るい未来につながってる気がしますけどね」
「だから、あの子は気付いたんですよ。このままじゃいけないって。でもそれは、自分にとって正しいことじゃなかった。そして、あなたにとっても」
「私に?」
「さっきあなたが言ったでしょう? 冬に春を思うって。それが正しいことなのよ」
「よくわからないな。──つまり、逆境にあれば、どんな妄想でも正しいってことですか?」
「あなたは神だけど、それが本心だとしたら、素質はなさそうね」
「素質がないのに働いてるやつはいくらでも居ますがね」
「いいですか、あの少年は明るい未来を信じていた。でも、あなたは暗い未来を見せた。それは教訓でも訓戒でもなく、病気とか天災とかに近いものだった。それだけです、私が言いたいのは」
「あの石を開発したのはあなたでしょ? 罪があるとしたらあなたのほうじゃないですか。とにかく留置所にしばらく住んでもらうことになります。支度をしてください」
「いいですよ」

 とんでもない女だ。責任を転嫁しようとしていやがる。第一、俺が神であるはずがない。たしかに石をつかんで見たあのシークエンスは俺に特有なものなのかもしれない。だからどうした? 俺が神である事実や証拠なんて、どこにあるっていうんだ。ばかばかしいにもほどがある。

俺は女からシルバーフィッシュ社の住所を訊き出し、殴りこみさながらにのりこんだ。
受付で尋ねる。
「社長は?」
「どういったご用件でしょうか?」
「警察の者だ。この前の事件のことで話があると言え。それに、お望みの人物だともな」
 俺はカウンターにかたひじをついて、ほとんどけんか腰に言った。
「──少々お待ちください」

 俺は最上階にある社長室に通された。
 案内役の秘書がノックをして、がちゃりと戸を開ける。
 回転椅子がぐるりとこちらを向く。
 そこには白髪の紳士ふうのじじいが座っていた。
 その人物は笑顔で「どうぞ、そちらにおかけください」と言った。
「座ってるヒマはない。場合によっちゃ、あんたをぱくらなきゃならんからな」と俺は言う。
「んっふっふ、では本題といきますか、まずあなたは妄想にとりつかれていらっしゃるわけだ。自分が人間であるという。しかし考えてみなさい、我々が自分たちを人間だと思う理由はなんですか? 人間でありたいと思うからにほかならない。そして、その思いを信じている。そうでしょ?」
「──」俺は黙っていた。
「もっと言えば、この世界はどうして存在しているのか? 人間がこうありたいと望んでいるからなのです。地球のまとう薄い大気の層、太陽の光、草木、動物。望みどおりの世界。妄想が現実になっていると言い換えることもできます」
「寒い冬は誰も望んじゃいない」
「そうですか? 暑い夏に冬もいいなと思ったことはありませんか? どこかで誰かが望んだ。あなたはそれを現実にしただけ。そうでしょ?」
「俺を洗脳してどうするつもりなんだ? 万馬券でも買うつもりか?」
「んっふっふ。我々はあの石を使って、神を捜していた。そして、思惑どおりみつかった」
「こっちが訊きたいのはその次だ」
「みつけて──殺す」
 俺は銃を取り出して、目の前の白髪の紳士ふうのシルバーフィッシュ社の社長に銃口を向けた。
「んっふっふ、冗談ですよ」社長は微笑を浮かべ落ちついて言う。「実はあなたに見てもらいたいものがある」
社長はリモコンを壁に向けて、ボタンを押した。壁がサーっと音もなく開き、cryolaboと表示のある、無菌室のような部屋が現れた。無数の銀色の筒が立ち並んでいる。
「あれには液体窒素が入ってましてね。その中にあるものが入ってる。おい、たのむ」
 社長はその部屋の中で作業をしているいかめしい格好の作業員に向かって言った。「わかりました」という応答。社長は別の壁に向かってリモコンを向け、ボタンを押す。壁の中からモニターが現れる。作業員は銀色の筒のひとつから細長いものを取り出し、顕微鏡の上にのせた。モニターに像が映る。それはDNAだった。
「見てください。これがアベルの遺伝子です」
 俺は銃をしまった。
「アベルって?」
「旧約聖書をご存じないですか? ささげものをして、神が目を留めたのがアベル。そうされなかった兄カインは怒り、弟のアベルを殺した。誰からも好かれるがゆえにねたみを生むという虚しさ、それがアベルの語源だとも言われている」
「知らないな」
「虚しい心の結晶、それがアベルの遺伝子なのです。虚しいと言っても、なぜ虚しいか、その理由が重要なのです」
「やさしさがねたみを生むからか?」
「さすが神でいらっしゃる。そう、やさしいから虚しい。この遺伝子は虚しさの結晶である前に、やさしさの結晶なのです」
「それをどうするつもりだ」
「──産婦人科に売りさばきます。そして、すべての発生段階にある卵子にこの遺伝子を注入する。すると、どうなるとお思いになりますか?」
「破綻(はたん)だ」
「違う、アベルの遺伝子を持った子はやさしい人間になるのです。犯罪はあっと驚くほど激減します。あなたの妄想である特殊捜査員という仕事もじきになくなるでしょう。これは国家のプロジェクトなのですよ」
「国がからんでたとはな。結局、あの石はなんだったんだ?」
 社長はしばらく間を置き、椅子から立ち上がって、窓のほうを向いて、うしろで手を組んだ。
「アベルの遺伝子には欠陥があった。虚しさという欠陥が。あの石はそれを補うためのツールですよ」
「まさか、あの少年にはすでにアベルの遺伝子を?」
「注入した──まだ実験段階でしてね、臨床データを集める必要があるのです」
「何年前からやってる?」
「さあ、もう十年以上になりますかな」
「数は?」
「正確な数字は私にはわかりません。ただ、出生率に比例して売り上げも落ちてます」
「いかれてる。遺伝子操作は重罪だぞ」
「さきほども申しましたように、これは国家のプロジェクト。倫理など国家の名のもとに蹂躙(じゅうりん)され、法もまた国家が定めるもの。──話を戻すようですが、欠陥のある遺伝子を我々としても今後売り続けるわけにはいかない。完全な究極の遺伝子モデル、それはもはや神であるあなたの頭の中にしかないんです。どうか、ご協力を」
「フッ、コントなみのばかばかしさだな。俺が人間であるというのが妄想なのか、神であるというのが妄想なのか、どっちにしろあんたの前頭葉の異常だ。俺はありのままに生きてる。妄想に束縛されることなく生きてる。それが健常というものなんだ」
「妄想は異常ではない。存在や現象をたしかなものにしている。それが本当の健常です」
「うるさい、だまれ。俺は神じゃない」
「──この石を持ってみてください。そうすればわかる」と社長は俺のところに来てグーにした手を差し出した。
 俺は社長の目を見ながら少し間を置いて、半信半疑でパーにした手を差し出してみた。社長はグーの手をパーにした。俺のパーにした手の中にぽとりとひとつの石が落ちた。その瞬間、俺は何かの刺激を受けて手をグーにした。手の中に石の感触。
 頭の中の目の前にあのシークエンスが現れた。始まりもなければ終わりもない、永遠に続くDNAの二重螺旋構造の塩基の粒ひとつひとつにシークエンスがはりついていて、それらがてんでにそれぞれの時間を過ごしているというシークエンス。無数の映画を同時に観ているような感覚。
 俺は耐えられなくなって、手をパーにした。石の感触は消えたが、石の落ちた音はしない。
「ありがとうございます。ほんの一部をコピーしました。これだけで十分です。あとはパターンを解析し、合成するだけ」と社長は言う。
「石は?」
「さっきの石はあなたの妄想です。おわかりになりましたか? 妄想の力が」
「だましたのか?」
「きっかけを与えてさしあげただけですよ」
「何度も言うが、俺は神じゃないんだ」
「そう、それが妄想だとしたらね。さ、もうお帰りくださって結構です」
「おまえらは悪だ」
「やさしさを植えつけるのが? 慈悲もしくはアガペー、──神の愛とも言うべきものを植えつけることが悪なのですか? たしかにある宗教では、人間は基本的に罪人であると言っている。あなたの言うことにも一理あるというわけだ」
「やさしさは虚しさに変わるんだろ? だからあの少年は絶望して死んだ」
「んっふっふ、あなたが純粋な妄想を実現させてあげなかったのが、いけないのではないですか?」
「純粋な妄想だって? 世の中に普通って概念がないのと同じように、妄想に純粋なものなんかないんだよ」
「たしかに。でも、すべてそうだと言い切れますか? あの少年が明るい未来を望んでいたように、例外はたくさんあるようですよ」
「どうして、望んでいたのが明るい未来だと言い切れる?」
「アベルの子だからです。アベルは明るい未来を望んで、肥えた羊の初子(ういご)を神にささげた。違いますか?」
「カインだって同じだろ?」
「そう、しかしカインはねたみからアベルを殺した。それは、ささげものに負い目があったからと見ることもできる。でも、もう神の遺伝子モデルを手に入れました。これでけりがつくはずです。これは罪のつぐないなのですよ」
「どういうことだ?」
「私のミドルネームはカイン。人間が基本的に罪人であるという呪いに、終止符を打つのです!」社長は大きく両手を広げて言う。
「それこそ妄想じゃないか」俺は笑いまじりに言う。「今日はこれでずらかってやる。法律が変わらないことを祈るんだな」
「郊外にあるK療養所を訪ねるといい。あなたのように妄想にとりつかれた人たちがわんさと収容されている。隔離病棟の主(ぬし)に会いなさい。あなたが覚醒する手助けになる、かもしれません、ふふふ」と社長は俺の去り際に言った。
「あんたのほうが病院に行ったほうがいいんじゃないのか?」と俺は振り向いて言ってやった。
「さすが神さまだ。見抜いていらっしゃる、ふっふふ」

 俺はその足でK療養所に向かった。それは妄想を現実にすることに他ならなかった。あの社長の言ったことを鵜呑みにしたわけじゃないが、新しい思いがわいてきたんだ。妄想の正体が知りたい。妄想とはいったいどういうもので、どういう作用を人間に及ぼすのか。それがあの少年が死んだ理由を解き明かすことにつながっている気がするのだ。

 俺はK療養所の玄関を入って受付に行き、手帳を見せながら言う。
「隔離病棟の主に会いたいんだが」
「面会ですか? こちらにお名前とご連絡先を」と受付のおばさん。

 俺は牢屋のような部屋の前に案内された。
 そこには拘束衣を着せられた男が角の丸いソファーに座っていた。
 俺はそいつの目を見た。そいつも俺の目を見た。正気に見える。お互いに。
 男は突然口を開く。
「男はなぜ仕事をしなければならないか、わかるか?」
 俺が「いいや」と声を発する間もなく、そいつは言う。
「答えは、仕事に集中していないとろくなことを考えないからだ」
 男はにやりと笑う。
「女はなぜ家事をしなければならないか、わかるか? ──答えは、家事に集中していないとろくなことを考えないからだっはあっへっひゃっは!」
 男は笑った。
「おまえ、ほんとにいかれてんのか?」と俺。
「幻聴や幻覚はなぜ聞こえたり見えたりするのか、わかるか? ──答えは、そう望んだからだよ」
「病気は天災と同じで人間が望んだものじゃない、違うか?」と俺。
「神は! ──自分が神であることを望んでいない。だから人間になった。人間であることを望んだからだ。それが病気じゃないと言えるのかっはあっへっへっは、ああ?」
「そりゃ、そうかも──」と俺は言いかける。
「永遠に続くシークエンスの二重螺旋構造を見りゃ、誰だって自分が神だと勘違いするんだよ。それを宗教妄想という」と男はよだれをたらしながら言う。
「どうして知ってる?」
「俺も見たからだっへあっひゃっはっは!」
俺は「なんだって?」と言いかけたが、男はかまわずしゃべる。
「俺がいかれてると思うか? だろうな、いかれ野郎の頂点として、ご丁寧に鉄の檻の中にぶち込まれてるんだからな。どこから見たって、いかれてる。だが、考えてもみろ。そこらじゅうにうようよいやがる連中が、そろいもそろって害虫なみの卑小な心持ちだってことに、ある日突然気付いたとしたら? ふっひゃっひゃ、そりゃ、いかれるわなあ。連中はそれに気付いてやがる。自分たちはいかれ野郎で、いかれ野郎だと思われてるってことももちろんちゃあんと知っている。ふっはっは、全員いかれ野郎なんだよう! ふは、たまたま俺はここに入ってるってだけだ、わかるか?」
「わかってやらんでもない。だがな、ちゃんと科学的な根拠にもとづいて、おまえはここに入ってる。害を及ぼすから、拘束衣を着せられてる。ちゃんと理由があるんだよ」と俺は言ってみた。
「ドーパミンの過分泌によって前頭葉が異常をきたし、視聴覚野にまで害を及ぼし、幻聴や幻覚を引き起こす。それはいまだ仮説の域を出ていない。それが科学と言えるのか? もっとも、科学というものは人間の都合のいいように作られたものだ。そんなものが真実を証明できると思うか?」と男。
「真実は人間が意味を与えるものだろ? だとしたら真実は科学で証明できないはずがない。科学も人間が意味を与えたものだからだ」と俺。
「バカめ。知ったふうな口をききやがって。科学が間違ってたらどうするんだ? 科学自体の正誤はいまだに証明されていない。その意味で科学は破綻してるのさ。何度も修正プログラムをインストールしなきゃならない、役立たずのコンピュータと一緒だよ」
「──前置きが長くなったが、妄想について教えてくれ」と俺は深呼吸をして病院の消毒薬くさいにおいを肺に入れ、話を変えた。
「妄想? ふは、妄想は想像したことを信じること、だろ?」
「どうしてそれを知ってる?」
「これ以上の答えはないと思うがね。そして、あんたは妄想を現実にできる」
「俺は神じゃないんだよ」
「さっきも言ったがあんたは一種の病気なんだよ。俺と交代するか?」
「さっきから、おまえが本当はまともなんじゃないかという妄想が反復されている」
「そりゃ、いい傾向だっはあ。普通とか純粋とかが本当はないのがわかったように、あんたはその意味で神なんだよ」
「どうしてそんなことまで知ってる?」
「さっき言ったろ、見たって」
「ここに来る前は何をしてた?」
「バイト。工場で流れ作業だよ。次々と流れていく缶詰めがシークエンスに見えてきやがったんだ。俺はその力が組織にばれちまうのを恐れて、闇であの石を買った」
「組織っていうのはシルバーフィッシュのことだな?」
「そう、紙魚(しみ)だ。やつらは俺が神じゃないかと思って、つけ狙っていやがった。じきに俺の精神はいかれ、歩行すら困難になり、救急車でここに運ばれた。すぐに筋肉注射を打たれ、二日間目を覚まさなかった。って、あとで聞いたよ。──俺は神じゃなかった。でも、あんたならやれる」
「何を?」
「妄想を現実にし、神の力を見せつけてやるんだ!」
「バカ言うな。何度も言うが俺は神じゃない」
「そうだったな、今のあんたは病気だ。だが、もうじきだ。俺は見たんだよ、永遠に続くシークエンスの二重螺旋構造の中の塩基の粒のひとつをな」
「なんだった?」
「大団円だ」
「──抽象的だな」
「すばらしい世界が訪れる。毎日がパーティーだよ。ふっはっはっへっへ、大丈夫だ。心配しなくていい。俺たちはみな解き放たれる、エデンの園へ。神がそこに命の木と知恵の木を植えたのは、最初からその実を食べさせるためだったんだよ。なぜだか、教えてやろうか? そのほうが話がおもしろいからだっはあっは! そう、あんたがそう望んだんだよ。そうとう退屈だったんだろうねえ。俺だったら、もっと木を植えて、その実を売りさばいて大もうけするんだ。ただ、先を越されちまったよ。やつらはおっぱじめる気だ。贖罪(しょくざい)をね」
「贖罪とは、具体的に言うと?」
「殺戮(さつりく)だ。静かな殺戮。死んでお詫びをってわけだ。神の遺伝子なんぞ、人間にコントロールできるはずがないんだ。俺みたいにいかれるだけだっはあっ」
「それであの少年は死んだんだな?」
「そうだ。あの石はただの映像表示装置じゃない。脳に直接、不完全な神の遺伝子を送り込む装置だ」
「じゃあ、開発したやつが本当の神?」
「いや違う。あの女はあんたの遺伝子を盗んだだけだ」
「なんだって? いつ?」
「さあな、自分で調べてみろよ。あの石をつかんで、永遠に続くシークエンスの二重螺旋構造の中にある塩基の粒をひとつひとつ検索してみな」
「あれはけっこうつらいんだぞ」
「大丈夫だ、死にゃしない。ふふふ、もっともあんたは神なんだからなっはああはっ!」男は笑いまじりに言った。

 俺は家に帰る。正確には居候している家にだ。仏壇のある線香の灰くさい居間では、伯母がせきこんでいた。
「おばちゃん、ただいま。よくなった?」
 伯母は目を合わせず黙って首を振る。
 俺はいつものように上着を脱ぎ電気ストーブの電源を入れ下に下り、トイレで用を足したあと、砂糖なしミルク入りのインスタントコーヒーを入れ、再び二階へ上がった。俺は部屋に入ってコーヒーを一口やった。テレビもつけたがチャンネルを一巡させて切った。俺は机の上に置いているあの石──科学的に言えば、黒色頁岩──を見つめた。コースターの上にカップを置く。
 俺はその石を手に取り、心を開いた。
 俺の頭の中の目の前にあの始まりもなければ終わりもない、永遠に続くDNAの二重螺旋構造の塩基の粒ひとつひとつにシークエンスがはりついていて、それらがてんでにそれぞれの時間を過ごしているというシークエンスが現れた。俺は精神に多少の負荷を感じながら、それに近づいた。
 俺が女と接触したことがあるとしたら、あのときしかない。中学校の運動会のとき、フォークダンスのオクラホマミキサーを踊ったとき。あれは本番でしか本当に手をつながない暗黙のルールみたいなのがあったっけ。画面はすばやく動き、下方に向かっていく。そして、二重螺旋も回転した。そして、ひとつの塩基の粒にズームしていく。オクラホマミキサーの曲が聞こえてくる。
 運動場では、輪になって、対になった男子と女子が踊っていた。その中に中学生の俺が居た。真面目に踊っているようだ。俺はしばらく感慨に浸っていた。俺にもこんな時間を過ごしたことがあったのか。時間はやさしい場合もあるし、酷な場合もある。どんな悩みがあったにしろ、俺はこの頃、幸福だったのかもしれない。母は生きていたし、伯母も元気だったし、犬も飼ってた。この踊りはまさに幸福の象徴だった。と思う。当時、そう考えていたとしたら、今思うより何倍も幸福だっただろう。しかし、すべて遠く次元の境界を越えた向こうへ過ぎ去ってしまった。これはどうやら、酷な場合のようだ。
 俺は涙を流していたが、そのことには自分では気付かなかった。
 そのときだった。ある女子とパートナーになったとき、俺の体じゅうからもやもやとしたエクトプラズムのようなエネルギー体が発生し、手をつたって弧を描きながら、その女子の頭に次々に吸い込まれていっているのが見えた。
「なんだ、これは?」
 その瞬間、俺の意識はもとの場所に戻った。
 気付くと部屋の中心でつっ立って、照明を見ていた。俺は手の中の石を見た。そして、机の上に戻した。コーヒーはすでに冷たくなっていた。

「でかけてくるね」俺は居間でテレビを見ているおばちゃんに言う。
「──遅いが」
「大丈夫」

 俺は留置所に行った。そして、あの女の独房の前へ。寝台に横になっていた女は上体を起こして、俺を見るなり笑顔になった。
「なぜ、言わなかったんです?」俺は質問する。
「あなたが訊かなかったから」
「──俺は、どうすればいいんですか?」
「妄想を現実にするのよ。明るい未来を」
「だから、俺は神じゃないんだ」
「返すわ。あなたが私にくれたものを。そうすれば、あなたは覚醒する」
「時間をさかのぼって、あのシークエンスを見たとき、俺は思い出した。俺は、俺は君のことを──」と俺は言いかける。
「言わなくても、伝わっています。時間は過ぎ去ったのです。私はもうあなたの気持ちには応えられない」
「──そうだな。みっともないよな。俺は神なんだ。万人を幸福にする義務がある」
「さあ、私の手を握って」女は鉄格子ごしに手を差し出した。
 俺は女の手を握った。すさまじいほどのエネルギーが俺の体じゅうに流れ込んできた。
 俺は見た。
 シークエンスの二重螺旋構造が激しく回転し、画面が上方へと向かっていくのを。
 そして、あるひとつの塩基の粒に向かってズームした。それは荒涼とした荒野に、無数の人間の死体が転がっているのを眼下に見ながら、空を飛行しているシークエンスだった。死体の海はどこまでも続いていた。
 俺は苦しくなって、うなりながら女の手を離した。
「──見えたの?」
「──見えた。暗い未来が」
「え?」
「あいつらを止めなくちゃいけない」
「私も行くわ」
「君は──神の力を企業に売り飛ばした罰として、もう少しここに居てもらう」
「おカネに困ってたの」
「人間は基本的に罪人なり」
「フフ、どうするつもり?」
「俺の遺伝子のコピーをぶん取って消去する。それしかないだろ。じゃ」

 俺は車を運転しながら、遺伝子のコピーのありかをサーチした。あのcryolaboだ。すでにいくつかのプロトタイプもできあがっているようだ。だが、ビルの外には出ていない。どうするのが一番いいか? 俺の頭の中で言葉たちがひとつの文章をつむぎ出した。
「妄想は想像したことを信じること。そして、神は妄想を現実にすることができる」
 俺は神なんだ。つまり、妄想するだけでいい。
俺は寒々とした道端に車を止めた。雪がちらついている。俺は妄想した。もちろん、明るい未来を。

 気付くと朝だった。俺は自分の部屋の貧乏くさい殺風景な天井を見ていることを認識した。何より暖かいことに気付いた。もちろん、例の電気ストーブをつけっぱなしにしているわけではない。小鳥のささやくようなさえずり声が聞こえた気がした。俺は上体を起こした。なんでもない朝だ。俺は着替えて、トイレに行き用を足し、階下に下りた。台所からせわしない音が聞こえてきた。そこに居たのはあの女だった。そして、俺に気付いた伯母は朝飯をつつく手をとめ、元気な笑顔で「おはようさん」と言った。そして、もう一人居た。母さんだった。母さんは「あ、おはよ。早いねえ」と言った。そして、あの女は振り向いて、「おはよう」と言った。
「ど、どういう、ことだ?」と俺は半信半疑で言った。
「どういうことって、どういうことよ?」と女。
「──そう言えば、名前を聞いてなかったよね?」と俺。
「は? ──記憶喪失? フフフ、コンピュータで検索でもしてみたら?」と女。
 女性三人は大笑いした。俺もつられて笑う。
「──あったかいね」と俺。
「春だからね」と女。
「春?」と俺はだんだん状況が飲み込めてきた。
「そう」と女性三人。
 俺は明るい未来を妄想したんだ。そして、それは現実になった。それだけのことだ。
「花見にでも行こう! 弁当を持って」と俺は笑顔で明るい声で言った。
「あら、どういう風の吹き回しかしら? ねえ、お母さん」と女。
「めっずらしい」と母さん。
「その前に名前教えてくれる?」と俺は女に言った。
「なに? 初恋ごっこ? 私の名前は──」

 俺はその名前を聞いて、すべてを思い出した。
 あの力は一回きりらしい。いや、人間であることを望んだからかもしれない。
 もっとも、俺は一生分の妄想をしたのだから、不満はない。
 ただひとつ言えることは、冬の次には必ず春が来るっていうこと。



この物語はフィクションです。
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