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第2回新潮エンターテインメント新人賞落選作品

第一章 母の死
第二章 放蕩の改心
第三章 悪魔の声
第四章 盗賊の娘
第五章 メイの死と老絵師
第六章 西へ
第七章 岩窟にて──再び悪魔の声
第八章 エピローグ




第一章 母の死

 昨日、母さんが死んだ。涙は出なかった。人が死ぬのは当たり前のことだ。普段、一瞬で踏み潰して殺している虫ケラと命の重みはさほど変わらないのだ、と俺は思う。だからって人を殺していいっていう意味じゃない。虫ケラの命も人間と等しく大切なものなのだと柄にもなく言ってみたいだけだ。連中がどんなマヌケづらするか見てみたいんだよ。そんなことはどうでもいい。俺は仕事をこなすことに意識を集中している。笑いたけりゃ、笑ってくれ。自分の母親が死んだからって、仕事を休むわけにはいかないんだよ。一日でも休んでみろ。そんなことをしたら、解雇のまっとうな理由にされるのがおちだ。若いうちは組織の中でばりばり働いてこそ、生きている意味があるのさ。不労者の目を見てみろ。膜が張ったようにくもっていやがるだろう? あれは生きていることに絶望しているからだよ。犯罪者呼ばわりされないように、解雇されるのだけは絶対に避けなければならない。
 俺は学生の頃から悪ガキだった。だからって今さら真面目づらしようってわけじゃないが、そうやって築きあげたものが瓦解することだけは絶対に避けなければいけないんだ。リストラされた連中には俺のような根性が足りなかったんだよ。俺が根性焼きを何回やったことか、おまえらには想像すらできないだろう。ガキの頃から拝金主義の理念を叩き込まれりゃ、誰だって組織の中で働いて、報酬をもらうことがどんなに大切なことか、嫌と言うほど思い知っているだろう? もちろん、俺も賢いからそんなことは骨の髄まで染み込んでいるのさ。ただまあ、中傷するとするなら、短絡的とでも言えるかな。しかし世の中それで丸くおさまってる。単純なやつらがうようよ居やがるってことだな。
 俺が母さんの死の知らせを聞いて泣かなかったからと言って、俺が母さんに恨みでも持っていたのかと邪推するのはよしてくれ。第一、さっきも言ったが俺には誰にも負けない根性があるんだ。そんなことで涙を流すようじゃ、地獄の火の熱さには耐えられねえぜ。映画を観て泣くやつは、ははっ、ただのへなちん野郎じゃねえか。
 俺があれから変わったとするなら、本を読む気になったってことだけだな。題名は『西方の絵師』。俺がこのそそられもしない題名の本に出会ったのは、母さんの葬式が滞りなく終わったと親父から電話があった次の日のことだった。何気なく、久しぶりにエロ本でも物色しようかなと小汚い古本屋に立ち寄っただけだ。そしたら、えたいのしれないしみのついたエロ本の間からそれがころがり出てきたんだ。俺はめんどくせえなあと思いながら、それを拾い上げた。題名を見ると例のそそられない題名。ついでに値段を見ようと裏返した。いや、正確にはそうじゃない。何かの力でそう手が動いたと言ったほうがいい。そこには、俺の母親の名前が油性のボールペンで丁寧に書いてあった。──は? まさかな。俺の母親のはずがない。最初はそう思って棚に戻そうとしたが、思い直して、これも何かの縁かなと思い、値段も安かったので買っておくことにした。格式の高い賢人たちの間では、こういうそそられない題名の本が高い評価を受けるのだ、とかなんとかあとで買った理由に脚色を加えた。
 言っておくが、俺が本を読むという行為をどんなに蔑んでいるか、安酒をかっくらって、へどを床にぶちまけるように、説明すれば自然に罵詈雑言が出てくるありさまなんだ。要するに、俺が本を読むというのは天がひっくり返ってもありえない話なんだ。じゃあ、どうして読む気になったのか? それは母さんの死が影響していないと言ったらうそになるし、本の裏に丁寧に書かれた母さんの名前が影響していないと言ってもうそになる。
 かくして、俺は仕事から帰り、暇な時間には決まってこの本を読むという行為にふけったのだった。しおりには「くたばれ、アホ上司」と殴り書きされたメモ用紙を使った。慣れない活字に苦しめられながら、何度も放棄しようとしては、次の空いた時間にはその本に釘付けになった。読み進めるとけっこうおもしろいではないか。なぜ、俺がおもしろいと思ったのか? それはこの物語に出てくる主人公の境遇が俺とよく似ているからだった。その内容というのはこうだ──



第二章 放蕩の改心

 昔々、この地よりはるか西へ行ったところに、ジエという青年が住んでいました。ジエは絵に描いたようないわゆる放蕩息子でした。唯一女には手を出しませんでしたが、酒を飲んでは汚い言葉を吐いて暴れ、周囲の人間を困らせてはいい気になっていました。母親は毎日のようにその酒場へ出向いてはぐったりしているジエを抱き起こして、連れ帰っていました。
「ジエ! ジエ! ほら起きな!」母が言います。
「うるせえな、ババアはすっこんでろ! おーい、酒もっとよこせ、このヘボ店主!」
「いつも言ってるだろ? 酒はほどほどにしなって」
「飲まなきゃやってけないだろ? このアホみてえな世界じゃ、俺みたいなやつは用無しだって言ってるんだぜ」
 ジエは小さい頃から真面目でしたが、仕官の面接試験に落ちてからずっとこの状態が続いていたのでした。
「おい、リンちゃん、俺と一発やらねえか?」
「母さんの前でそんな言葉を吐くんじゃないよ!」
「おいおい、ババアが怒ってるぜ。まだ居たのか? とっとと帰れ、このでかじり女!」
「ジエ! まったくしょうがない子だねえ。しらふのときはいい子なんですがね」
 店の人や他の客に母親がぺこぺこしているのをジエは何気なく見ていました。他の客も母親にねぎらいの言葉を言います。


 それは十二月の雪がちらつき始めた日のことでした。ジエの母親が突然死んでしまったのです。墓へ向かう葬列の中にジエは居ませんでした。昨日の晩から飲んだくれて酒場でぐったりとしていたからです。村の人がジエにそのことを伝えに来ました。ジエは二日酔いで頭がガンガンするのをまったく気にしていないふうで、墓へ急ぎました。
 今ちょうど地面に開けられた穴の中へ母親が横たえられたところでした。ジエは母親の体をゆすって大声で「母さん! 母さん!」と何度も叫びました。母親は何も答えず、ただ青白い顔をして目をつむっているだけです。「俺が悪かった! 真面目に街で働くよ、だから目を開けて! 母さん!」


 そんなことがあってからというもの、ジエは街に出て、真面目に働きました。母親は亡くなってしまいましたが、ジエはそうすることが一番の供養になると思ったのでした。いえ、供養と言うのは誤解があるといけないので、言い換えますと、ジエが改心したということです。もっとも、そのことを知っているのは村の一部の人とジエ本人だけで、街で一緒に働く同僚たちがそれを知らないというのは言うまでもありません。もちろん、ジエはそのことを話しませんでしたし、話す必要はないと思っていました。



第三章 悪魔の声

 ジエは一年ももちませんでした。早々と田舎に帰ってきました。労働するということへの不信と人間関係のしがらみに耐えられなくなった、と言えば、ジエがどんなに弱い心であるか容易に想像できるでしょう。ジエの頭の中には同僚たちの言葉がこびりついて離れませんでした。
《おまえは自分が好ましいと思ったやつじゃないと友達にならないし、口もききたくないっていうタイプなんだろ? おまえみたいなやつは自分で自分のちんぽをいじりまわして早死にするのがお似合いだぜ! ハハハハハハハッ!》
 ときどき、同僚たちの嘲笑が悪夢のようにジエを苦しめました。母親の死は、ジエには何も影響を与えなかったのでしょうか? 現実に押しつぶされ、悲嘆にくれて、毎日酒におぼれる日々を再び送ることになったのです。


 俺はここまで読んでこいつはつくづく心の弱い根性なし野郎だなと思い、嘲笑した。仕事は絶対的な権力を持った支配者のようなものなんだ。やらなきゃ、食いっぱぐれて、橋の下でダンボールの家をつくって生活することになる。誰も助けちゃくれない。俺はブランデーをグラスに三分の一ほど注ぎ、ストレートで一気に飲み干した。ほろ酔い気分で本を読むのも悪くないぜ。もっとも、俺が本を読むという行為を是認しているのは奇跡と言ってもいい。
 たしかに俺は、自分が好ましいと思ったやつじゃないと友達にならないばかりか、口もきかないようにはしている。でも、そんな選り好みしてたら、仕事にならない。必要があれば話したくないやつとも話すし、いやなやつとも飲みに行ったりしているはずだ。“はず”と言うのは、俺の知らないところで仲間はずれになっているやつが絶対に居ないとは言い切れないからだ。もっとも、今の俺はそんなことどうだっていいと思っている。ほら、なんて言ったっけ? つかず、はなれず? いや、違うな。──「来る者拒まず、去る者追わず」。そう、それだ。なぜ、俺がこの言葉を知っているのか、教えてやろうか? なんのことはない、ヌードの載っている低俗な雑誌にでかい文字で印刷されていたのをたまたま憶えていただけなんだよ。その意味じゃ、一概に“低俗”だと決めつけるのも考えもんだぜ、ヒヒヒ! ──おっと、酔いがまわってきたようだ。あと少し読んで寝るか。


 ジエは何をしても無駄なのだという気分で毎日を過ごしていました。絶望していた、と言えるでしょう。軽い自殺願望を抱えたまま、一日一日をまるでグラスに注いだ水を床にぶちまけたときのような気分で過ごしていました。もちろん、床にこぼれた水を拭き取る気はさらさらありませんでした。毎日がもうろうとした、酩酊の中で過ぎていきました。そしてついに、悪魔の声が聞こえてきたのです。
〈よう、ジエ、おまえは運が悪いだけなんだよ〉
──運が悪い? どういうことだ?──
〈そこらじゅうにうようよ居やがる連中にとって、おまえは害虫みたいなものなんだ〉
──そうかもしれないな──
〈かもしれないんじゃない、確実にそう思われているんだよ。運がいいやつにとって、運の悪いやつは害虫に見えるんだよ。害虫は知ってのとおり、生きる価値がない。硬い靴裏で無慈悲に踏み潰しても、誰も文句を言わない。むしろ、称讃され、代々英雄としてあがめられ、末代まで幸福が約束されることになるんだ。しかしいいか、おまえは英雄じゃない、害虫なんだ。それをよく憶えておけ〉
──そうだ、俺は害虫だ。俺は害虫として何をすればいいんだ?──
〈おお、ほほう! おまえにまだ何かをしようって気力があるとは思わなかったな。そうだな、盗賊になれ。盗賊こそ害虫の最たる者たちだ。おまえは盗賊になって、世界に復讐するのだ!〉


 えたいのしれない怪物がせまってきて俺に向かって繰り返し言っている。
〈世界に復讐するのだ! 世界に復讐するのだ! 世界に復讐するのだ!〉
「うわああああ!」
 俺は柄にもなく叫んで飛び起きた。いや、実際に叫び声が出ていたらすぐに上の階の神経質なやつが苦情を言いに来るはずだが、来なかった。
 壁掛け時計を見ると深夜三時をまわったところだった。いや、もう朝と言ってもいいかもな。俺はもうそれ以上眠る気分にはならなかった。専門用語で“早朝覚醒”と言うらしいが、俺もついにいかれてきたのか、それとも歳なのか。
 俺はマンションを出て、散歩することにした。言っておくが、これは老人がよくやる徘徊でもなければ、変態が女を物色して歩いているのでもない。れっきとした散歩だ。だが今の世の中、なんの目的もなく、ただ気晴らしに散歩することがどれだけ危険なことか。他人にとっても、もちろん自分にとっても。なぜかって? そりゃ、誤解を生み、誤解が憎しみを生み、憎しみが惨劇を生むことになるからだ。なんの根拠もなく、俺がこんなことを言っていると思うか? 長年この世界で暮らしてりゃ、誰だってわかるだろ?
 俺は夜の闇がまだ残っているコンクリートの川の土手を歩き、公園をぬけ、ちょっとした広場の街灯の下のベンチに腰を掛けた。そして、ずるずると上体を横に倒した。まだ、疲労がぬけきっていない。俺はしまったと思った。もう少し、ベッドの上に居るべきだった。しかし、疲労感はあっても意識だけは鋭くさえわたっていた。俺はいくぶん白んできた空を眺めながら、あの本の続きが読みたくてしかたない感覚がわきあがってくるのを感じた。これはいったいどういう精神状態のあらわれなのだろうか? 精神科の医者に訊いてみたいくらいだ。
 俺は自分を危険にさらしたことでいい気分転換になったと思った。もっとも、どこに居たって危険なことに変わりはないのだが。俺は安全だと思い込んでいるマンションに急いで帰り、シャワーを浴び、歯を磨くと、会社に行く支度を整えた状態にして、またあの本を開いた。



第四章 盗賊の娘

 盗賊がその村を襲ったのは偶然でしょうか? ジエは物置に隠れて、家が炎に包まれていくのをずっと見ていました。放火、略奪、殺生、あらゆる生き地獄がその村を襲いました。
 そのとき、赤いボロを着た盗賊の娘が馬から降り、ジエの居る物置に近づいてきました。ジエは覚悟を決めました。がらりと開け放たれたところに居たのは、なんのことはない、小汚い小男だと、その盗賊の娘は思いました。
「死にな」盗賊の娘は刀を振りかざして言いました。
「待ってくれ! どうか仲間にしてくれ! 言われたことはなんだってする、うそじゃない。俺は真面目なんだ。きっと役に立つ。だから殺さないでくれ!」ジエはひざをつき、手を合わせて懇願しました。
「口が増えれば、食いぶちを倍にしなきゃいけない。仕事が増えるだけだ。死にな!」
 そのとき突然、ジエは立ち上がり、この盗賊の娘にくってかかりました。娘は地面に倒れ、ジエは馬乗りになって刀を奪おうともがきました。
「じゃあ、俺がおまえを殺す! いくら害虫だからって、死にたくはないんだよ! 仲間になれないんなら、おまえら全員の息の根を止めてやる!」
 ジエは小娘一人ならなんとかなると思いましたが、意外に力が強く、なかなか刀を奪うことができませんでした。すると、急に盗賊の娘は力をゆるめて、刀をジエに譲り、快活な声で笑い出しました。
「ウハハハハハハハッ! おまえ、おもしろいやつだな。気に入ったよ、ウハハハ!」
「死ね!」ジエは刀でその娘の首をはねようとは思いませんでした。想像はできても、手はそう動かなかったのです。ジエはもともと殺生できるような人間ではないのです。たとえ、相手が極悪非道な盗賊であっても。手を止めたまま、その笑う娘の顔をのぞきこみました。
「──ハハ、いいよ、仲間にしてあげる」
「え?」
「ほら、仲間にしてやるって言ってるだろ。どきな、きれいなよそ行きの服が汚れちまうだろ、ほら!」
 二人は立ち上がって、お互いの顔色をうかがいました。
「あたしの名前はメイ。あんたは?」
「ジエ」


 俺は日頃の変態妄想癖と安っぽい映画を何度も観たせいで、てっきりこれから二人のベッドシーンになるのかと思ったが、そんなことはなかった。だからと言って、俺は珍しくがっかりしたりしなかった。むしろ、安心したくらいだ。健全な交際。ジエは盗賊の仲間になり、略奪はしても殺生はしないというルールを守ってくれと、盗賊の長に進言したんだ。盗賊の長は娘のメイと結婚するなら、その提案を承認すると約束した。ジエは喜んでメイとの結婚を受けたんだ。
 俺は今日の仕事をもう少しですっぽかすところだった。前にも言ったが、一度でもへまをすれば、たちまち首を切られるんだからな。もし首を切られたら、ジエのように盗賊にでもなるか? はは、まさかな。でも、本当にそうなったときは・・・・・・
 悲劇が起こったのはジエとメイの結婚式前夜のことだったんだ──



第五章 メイの死と老絵師

 ジエとメイの結婚式前夜のことでした。朝廷の兵隊たちがその盗賊のアジトを襲ったのです。襲ったという表現はおかしいとお思いになりますか? そう、たしかに世間をおびやかす盗賊を討つために朝廷が兵隊を送り込んだのですから、そういう表現をするのはおかしいですね。しかし、ジエにとってはまさに悲劇だったと言わざるをえません。メイがジエの目の前で殺されてしまったのです。ジエはメイの亡骸を抱き上げ、何度もメイの名を叫びました。紅蓮の炎に照らし出されたメイの顔はあのときの母親の顔と同じでした。呼びかけても何も答えてはくれないのでした。
 取り調べの結果、ジエは盗賊に捕らえられていた村人であることがわかり、釈放されました。抵抗する者はみな殺されたのです。


 俺はこのくだりを読んでも、当然泣きはしなかった。何度も言うが、俺には誰にも負けない根性があるんだ。


 ほどなくジエは再建された村に帰り、また酒場に入り浸りになりました。もちろん、つけで。ある日たまたま、そこに居合わせた西の砂漠から帰ってきたという老絵師が話しかけてきました。
「おまえさんは、何がそんなに気に食わないんじゃ?」
「すべてだよ。気に食わないやつはみんな駆逐しちまう心の薄汚い連中すべてにお手あげなのさ。けっ、連中は何も悪いことをしてねえって言い張るだろうよ。そうさ、連中は見た目は悪くない。だがな、地獄に落ちて後悔することになるんだ。ああ、やっぱり自分の心は醜いものだったのかってな。早く地獄に落ちやがれ、くそったれども!」
「──おまえさん、絵に興味はないかい?」
「絵だって?」
「そうじゃ、ただの絵じゃない、仏の絵じゃ」
「ほとけ?」
「“千の仏の絵を描けば、必ずや幸福の宝が手に入るであろう”、という話を聞いたことはないかね?」
「ないね。絵を描いたのはガキの頃だけだな」
「そうか、もう一度、童心にかえって絵を描いてみてはどうじゃ?」
「その幸福の宝とかなんとかが何か知らねえが、やる価値はあるのかい?」
「ああ、あるとも。それが何か確かめたいじゃろう? 西の砂漠にある僧院を訪ねなさい。大体の場所はこの地図に記してある」
 そう言うと、その老絵師は懐から布でできた地図を出しました。その拍子に、ひとつの小さな石ころが床に転がり出ました。老絵師はそそくさとそれを拾って大事そうに懐にしまいました。
「なんだい、その石は?」
「いやいや、これはなんでもない。──いいかい、千の仏の絵を描くんじゃ。ふざけて適当に描いたりしちゃいかん、全神経を集中させて描くんじゃ。そうすれば、幸福の宝が手に入る」
「わかった、やってみるよ。こんなことを教えてくれて、ありがとな」
「いやいや、礼には及ばん」



第六章 西へ

 次の日、ジエは下宿をひきはらって、西へ旅立ちました。もうこの村へ帰ってくるつもりはありませんでした。“世捨て人”と言われる人間が実際に居るとしたら、このジエのような人物のことを言うのではないでしょうか? ジエは村の地主の厩舎から馬を一頭かっぱらって、旅の伴侶としました。白いので、ハクロウと名付けました。


 俺はいよいよ話が佳境にさしかかってきたのかと思ったが、これでもし何も得るものがなかったら、古本屋に売り飛ばそうと思った。いくら安くてもだ。
 仙人の山で、妖怪に出会ったこと、砂漠に出ると水と食料がなくなったこと、昼間は暑く、夜は寒いこと、途中ハクロウが動けなくなって、しかたなく置き去りにしてきたこと、などなど道中での出来事が書いてあった。俺はジエとともに旅の苦労を味わった。だから、実際にそんな旅をしたいとは思わなかった。第一この国じゃ、どこに行ったって決まった風景しか見れないんだから。じゃあ、外国に行けだって? そんな時間的余裕があると思うか? 旅行している団体さんを見たことがあるだろ? みんな定年退職したじじいとばばあじゃねえか。
 俺はまたベッドの上に仰向けになり、本を開いた。


 老絵師にもらった地図のとおり、いくつかの山を越え、砂漠に出て、七つの干からびた川を渡って、二十の岩山を通り過ぎたところにその僧院はありました。かつてはこのあたりも交易の要衝として栄えていたであろう廃墟がいくつもありました。その僧院には、僧侶たちの白骨化した亡骸がいくつも転がっていました。僧侶さえも殺してしまうほど、世の中は荒廃して、いえ、ずばり言えば荒廃しているのは人心なのです。
 ジエは僧院の物置からホウキとちりとりをみつけて、僧侶たちの亡骸を一ヶ所に集め、土をかけてやりました。僧院の中はほこりまみれでしたが、絵を描く道具をみつけたときは手を叩いて喜びました。一応、絵の具は村から持ってきていましたが、なにせ、千の仏の絵を描かねばならないのです。顔料や絵筆は豊富にありました。
 僧院の壁にも仏の絵が描かれていました。描くと言っても、さてどこに描いたものか? 最初ジエは廃墟の壁という壁に仏の絵を描きました。もちろん、真剣に。そして、描き尽くすと、今度は石窟の壁に描くことを思いつきました。
 毎朝、顔料をとくための水を井戸から汲んできました。食べ物はその辺りに生えている草や、昆虫、ネズミなどをとって食べましたが、食べるのは本当におなかがすいているときだけでした。水はときどき飲みましたが、食べるのはたしか一週間に二度くらいでした。それよりも、仏の絵にこだわりが出てきました。最初は僧院の壁に描かれている仏の絵を真似ていましたが、それだけでは物足りなくなり、在りし日の母を思い出して描いたり、メイの顔にも似せて描きました。



第七章 巌窟にて──再び悪魔の声

 いくつ仏の絵を描いたでしょうか。千にはまだまだほど遠いような気がして、ジエは石窟の中でもう一週間も何もせず、ぼうっとしていました。


 なんだよ、こいつ。本当に根性なしなのか? 俺は思った。


 そんなときでした。夜のこと。また、あの悪魔の声が聞こえてきたのです。
〈──ジエ、ジエ、おまえは本当に根性なしなんだな?〉


 そうだ、言ってやれ。おまえはどうしようもない根性なしだってな。俺は思った。


〈まあ、いい。おまえはもうたくさん仏の絵を描いた。それだけで十分だ。さあ、これをやろう〉
 すると突然、仰向けに寝転がっているジエの胸の上に小さな石ころが現れて、ぽとんと落ちました。ジエは上体を起こしてそれを手に取りました。
「これは──これはあの老絵師が大事そうに持っていた石ころと同じじゃねえか! ちくしょう、俺はかつがれたんだ!」


「フフ、フヘヘヘヘ! ざまあねえぜ!」
 俺は上体を起こして、続きを読んだ。


〈その石はただの石じゃない。そうだな、言うとするなら“希望のかけら”だ。その石を両手で包んで、そして、願うがいい。おまえの一番の望みを〉
「本当なのか? 本当に、俺の一番の望みがかなうのか?」
〈ああ、本当だ。さあ、願ってみろ〉
「──俺の大事な人たちを生き返らせてくれ。母さん、それからメイを」
 次の瞬間、その小さな石ころは急に熱くなって輝きだしました。枕元に置いているランプの灯りよりもはるかに強く。ジエはその石から手を離しました。眩しい光。その石は空中で静止したまま、強い光を放ち続けました。


 気がつくとジエは、実家の見覚えのある天井を見ていることを認識しました。明るい。そして、二人の優しげな声。
「ジエ、起きなさい。仕事に遅れるよ」
「朝ごはんも冷えちゃうよ」
 ジエはがばっと起き上がりました。そして、台所へどたどたと行ってみました。そこには母さんとメイがにこにこしながら、椅子に座って朝飯を食べていました。
「母さん! メイ! 生き返ったんだね?」
 ジエはそう言うと、その場に泣き崩れてしまいましたとさ。
 おしまい!


 いい話じゃねえか。俺は思った。読んだ甲斐があった。この本は古本屋に売り飛ばしたりしない。もちろん、高値が付いたとしてもだ。



第八章 エピローグ

 俺がそれを知ったのは、あの物語を読み終えて数日経ったときのことだった。親父から電話がかかったんだ。
「物置を片付けてたらな、あの絵が出てきたんだよ。どうする?」
「絵だって? なんの絵さ」
「なんのって、母さんが描いた、おまえの絵だよ」
「母さんが描いた?」
「そうさの、千枚近くあるかのう」
「千枚、だって?」
「“千の仏の絵を描けば、必ずや幸福の宝が手に入るであろう”、という話をどこで聞きつけたのか、はは、母さんが真に受けてな、そのう、おまえは小さいときに一度死んでるんだよ、交通事故でな。一度という言い方もおかしいが、このことは言ってなかったかの? ──おい、おい! 聞いとるのか? おい!」
 俺はそこまで聞いて、すべてを悟った。
 母さんは交通事故で死んだ俺を生き返らせるために、千枚の俺の絵を描いたんだ。
 俺の根性はそれまでだった。涙が頬をつたうのを初めて感じた。


 今度は俺が絵を描く番だ。なーに、根性だけはあるんだ。千枚なんてあっという間さ。もちろん、これ以上ないっていうくらい真剣に真面目に描くつもりだ。仕事?──んなものどうだっていい。その後、俺が“希望のかけら”を手に入れて、母さんを生き返らせたという話は、もうしなくていいだろう?



この物語はフィクションです。
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