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クラムボンは死んだのだろう。
──おそらく。

(出典:『やまなし』宮沢賢治)




まぶたの裏で一瞬鳥が飛んだので私はほくそ笑んだ。焼酎をやるのは常態化していて別に特別な意味はなかった。いやあるとすれば一切を忘れるためであり、自分を駄目にする唯一の突破口だった。しかし忘れたくない気持ちも当然あったし、保身したいのも間違いなかった。私がそもそも酒をやるようになったのは世の誰もがそうであるようにいい気分になるためだった。罪悪感から逃れるためだったのは私の場合に限ったことかもしれないがそれが顕在化したのは別に母が亡くなったからではない。そうとも、罪は昔からあった。私は露悪して悦に入る悪党よろしく自分の罪をさらけ出して自由になりたかったのは確かだ。そのどこに瑕疵があるというのだ? ありありと思い出せる罪の数々。法に触れる罪だけが罪じゃない、自分がそれを罪と認めたものすべてが罪になる。だからどうあがこうが自分からは逃れられない法則を私は知っていた。たいていの馬鹿が真面目なやつを嘲笑するのと同じ法則だ。ただし私はつい最近まで自分が真面目な人間だと思っていた。禁欲したり、お金を節約したり、挨拶をしたり、施しを受けたら礼を言ったり、虫を殺さないとか、清潔にするとか、それらのことがつい最近まで当たり前のことだと思っていた。〝疲れた人間〟もしくは、〝飽きた人間〟そう呼んでいい人間が居ることに気付き始めたのが事の発端だった。生きる意味を追究することを放棄した人間が実際に居ることに私は賛同しかねた。生きることに意味や価値を付与するものがたとえ神仏やお金や地位や名誉などといったものだとしてもそれでもかまわないと思うのが人間というものだと信じていたからだ。なんのことはない。私の罪悪感に比べれば笑い話にもならない。私にとって生きる意味や価値を付与してくれるのは罪悪感だった。疲れたり、飽きたりして当然だった。だって、罪の意識にさいなまれ続ければいずれへたり込むのは目に見えているではないか。だが、私の罪の意識は消えなかった。まるでやらねばならない責任ある仕事をしないのと同じことだった。常にその切っ先がのど元に突き付けられていた。今で言えば下水道工事や墓地清掃や庭の手入れなどといったものがそうだったがもっと詳細を見るとまだ言える。貯金が目減りしているにもかかわらず定職に就いていないこと、もはや就きようがないこともその一つだ。父方の実家の管理、相続について、車の維持費、今住んでいる母方の実家の老朽化、問題はそれほどないように見えるがそのどれもが心底重い。だから私は放棄した。自由になりたかったからだ。具体的に言えば彼女を作った。真面目で謙虚で誠実で、何より優しい彼女だった。ただこれは私が一方的に彼女だと思い込んでいただけで実際は一緒に映画に行ったり、食事をしたり、ベッドをともにしたりすることは一切なかった。彼女たちは私を飽きさせなかった。おっとついうっかり秘密を言ってしまった。そう、仮想の彼女は一人だけではない。しかも仮想と言っても実際は生身の女性として存在している。人によっては淡い片思いとか、無駄な期待とか言うかもしれないが私にとっては全員〝彼女〟だった。それがどういうものかわからないで青春が過ぎ去ってしまったが恋愛というものがもし成立するのであれば今のこの状態をいうのだ。異論は認めない。私は廊下から見える仏間の一方の出入り口の真正面にある母の遺影をあまり見なくなった。いつもは通るたびに一瞥していたが昼間たまには見るが夜はどうせ廊下の灯りで反射して見えない。どのみちそのようなものに魂などこもっていないのだ。魂という言葉が出たのでついでに言っておくが私はそんなもの信じてはいない。かたく信じているのは自分の心の中にあるものだけだ。それを魂というのであれば同意しよう。とにかくその彼女たちを一人ずつ紹介したい。

【某クリニックの受付嬢Aさん】
私があのクリニックに通うようになって二年が過ぎた。なぜそこに行きだしたか経緯を言うと、まず私は精神病になりK療養所に入院した。豚箱にぶち込まれたのと同じ気分だったが当時本当にそう思っていたかどうかは推測の域を出ない。もう記憶が曖昧だ。そのとき私は免許を取って初めて母に買ってもらったミッションの車に乗っていた。一応車名を言うが参考にはならないと思う。〝シャレード〟確かそうだった。メーカーは私の記憶ではどこだったか判然としない。中古車というのはたいていそうではないか。自宅療養ができるようになってからはその車で何度も通った。あの先生に出会ったのは運命としか言いようがないが私は別に運命的なものを感じていたわけではない。小学校のときの給食で無造作によそわれたおかずを仕方なく食うのによく似ている。その先生にはよくしてもらった。院内の喫茶店でジュースをおごってもらったことがある。しかしこれに関しては母が袖の下を渡したことを考えると当人には痛くもかゆくもなかったことだろう。ある日の診察で泣き言を言っていると怒られたことがある。今でもちょいちょい反論されることがあるが自分の意見をちゃんと持っているというのか、他人のことを慮れないというのか、私としては判断しかねるが6割がた後者の勝ちだと最近では思うようにしている。なぜなら、いくらその道のプロといえども当事者とは決定的に違うのだから。しばらく通っていると先生が転勤になり、私も今よりは近い場所にその病院があったのでついていくことにした。その頃にはもうシャレードには乗っていなかったと思うが二度目の入院を経験した。前の病院は国立で今度のは私立だったが待遇はよかった。メシも毎回大盛りだった。その点に関してだけは特筆できる。しかし、入院したのは間違いだったと心底後悔した。入院生活がいやでいやでたまらなかった。結局一週間かそこらで退院した。また自宅療養になってその頃の足は伯母の〝ライフ〟を使わせてもらっていた。伯母や母が居なくなった今もまだ私の足はその軽だ。しばらくすると今度は先生が独立開業するという。私はまたのこのこ先生について行った。それが今のクリニックだ。Aさんはその開業当時から居る古株と言ってもいいだろう。しかしたぶんこれは私の推測だがまだ20代なのではないかと思う。一目惚れだった。先生の趣味がうかがえるものの間違いなく美人だった。しかも優しく甘いロリ声だ。仕事はできるようだ。やはりその道のプロという風格は漂わせている。こっちゃ好意を悟られまいと必死なのだがあの声で応対されるととろけてしまいそうだ。母の入院中、私はいつもにもまして不安定だった。予約していないときでもかまわず電話を入れて先生の話を聞きに行った。そのとき必ず電話に出てくれたのは彼女だった。

【某薬局のBさん】
そのクリニックの隣に併設されているこの薬局にも通ってもう二年になるのか。おそらく開業当時から居たのだと思うがインパクトの強いオカマ風の若い男がいつも応対してくれていたので影が薄かったがその男が実家に帰ったらしく──なんとその薬局はチェーンになっていて実家暮らしをしながら同じ薬局に勤めることができるというウハウハ状態なのがなんともうらやましい限りだが──、かわってそのBさんが応対してくれるようになった。笑顔が素敵などと言うと容貌はそれほどでもないのだろうと思われるかもしれないが、ご名答、正直その通りだ。しかし朴訥な私にもいつもにこやかに応対してくれる。それが何よりの救いだ。それに繰り返すようだがこの業界の鉄則らしいが物腰が柔らかい。あの若い男をオカマ風などと言ったが何か通ずるものがあるから採用されたに違いないと考えを改める必要がありそうだ。実はBさんに関してはこれ以上の情報を知らない。情報らしいものと言えば風貌と言っても白衣を着ているため露出している顔にやはり目がいってしまう。何度も言うようだが笑顔は素敵だ。そんなに安売りしていいのかと思うくらいいつもにこにこしている。それにまだ若い。私に許されている道はただ一つ。彼女とデートする妄想をすることのみ。年上のよしみでぐいぐい引っ張ってやりたい気もする。白衣を引っ張って? それくらいにしておけ。とてつもなく深い墓穴を掘ることになる。だが、この歳になって無茶をするわけがないだろう。せいぜい脳梗塞になりかけた脳ミソで妄想するくらいだ。それくらいは許してほしい。「あなたの話は面白くないわ、だって、虚構だもの」彼女にそんなことを言われたときの私の反応を見るのも悪くない。「俺たちだって虚構だよ。お父さんとお母さんが作ったんだから間違いない、虚しい構築物だよ。だからそうじゃないものを俺たち二人で作ろうよ、一緒に」映画が終わって少し明るくなったときにそう言うんだ。間違っても膀胱が破裂しそうなんて言っちゃいけない。すると彼女は言う。「あなたってロマンチストね。でも具体的になんなのそれは?」私は今にも大爆発しそうな下腹部をまったく気にすることなく雄弁にこう答える。「愛だよ」と。くっせ、って言ったの誰だ、手を挙げろ! 一生に一度は小説でなく実際に真っ向から生身の女性を前に愛を語りたいものだ。まっとうな男なら誰だってそう思うだろ? 照れてる場合じゃないぞ、本気を伝えるのは簡単じゃないがやってみる価値はある。その声が人ごみにまぎれて消え入ってしまわないうちにはっきり言うんだ。疲れて、飽きてしまった人には何を言っても無駄だなんて思っちゃいない。ただ私はすぐ彼女たちの死に顔を想像するようになってしまったことがこの上なく寂しい。目が開かない、二度と開かないなどというふざけたことを実際に目の当たりにした体験が私の両肩にずっしりと重くのしかかる。首の関節がおかしいのは明らかにそのせいだ。左手首も痛い。体のあちこちにガタがきている。何もかも終わりに差しかかっているようだ。もう何も望まないと言っただろう? 妄想すら煩わしい、そう思うようになったらもう終わりにしないかとあれほど誘ったのにまだ夢のつづきを見ようというのか? いいや、あれは夢ではない。現実だ。すべてが思った通りになるとは言わないが思ったことがすべてではないか。続けよう。

【某コンビニ店員Cさん】
彼女を見たのは偶然だった。たまたまコンビニに行ったらたまたまレジを打っていた。それ以来なぜか気になり、気になるから目につくようになり、だいたい平日の昼間に居ることが多いことまでわかった。ただ当たり前だがそれ以上は何も進展しなかった。お年寄りが店員さんを呼んでくれという偶然に二回も遭遇し、二回とも手近に居たのが彼女だった。さらには偶然にもクリスマスのサンタのコスプレをしたミニスカ姿の彼女がかがんで思い切りケツを──文学的に〝お尻〟がいいか、〝ケツ〟がいいか、今議論すべきときではない──突き出したところを目撃してしまったし、朝コーヒーを飲もうと立ち寄ったときにレジで応対してくれたのはマスク姿をしていた彼女だった。しかも彼女は客の扱いに慣れた古株らしくバイトの子を指導しているところも見たことがある。彼女に関しては何もかもが偶然なのだ。細身で顔が小さくて目も小さく、そうまるで小動物のようだと私の脱水症状を起こした脳ミソが言っている。ただし想像するに彼女を嫁にしたら尻に敷かれカカア天下になりそうな気がしてならない。というのも、彼女の口調がもうそれを物語っている。聞けばわかる。とにかく外に出るといろいろなことがあってついていけないのも悩みのタネだ。かといって家の中にずっと居ると確実に頭がおかしくなる。学生時代のバリバリだった頃のことを思うと確かにどっちに転ぼうがあまり違いはなかった気がする。アパートの一室に引きこもり隣のやつが何か少しでも物音を立てようものなら即不動産屋に苦情電話を入れるような異常者だったことを思い返すと6、4で外に出るほうに軍配を上げるね。何の比率かって? いかれないための手段としての外か内かの比率だ。私の場合はどのみち大差ない。すでにいかれ野郎の烙印を押され服薬し、障害年金さえもらっているご大層なご身分にあっては。ちなみにサンタコスはミニスカだったがショーパンをはいておられた。ぬかりはないってわけだ。




断っておくが、闘いだと言っておいて結局幸せなのではないかと思わせるやり方を私は好まないが何の理由もなく不幸話を切り出すわけがないと思うとかわいく見えてくるものだ。貧乏とは結局そういうものじゃないか。時事ネタを書きたくてたまらないがここは涙を呑んで我慢しよう。嫌われることを別に恐れちゃいないが場違いはなぜか嫌われる。そもそも場違い云々言っている輩の品性を疑うし、よく考えると一理もないではないか。場が──、空気が──、と執拗に言うやつの気もわからんでもないが実際そんなもの一切関係なく時間は流れてゆく。そこにはひ弱なやつが人間に飲まれている構図しか見えないのも十分うなずける話だろう。焼酎で頭が痛いのをこらえながら酔い覚ましに冷たいウーロン茶をやりつつキーを打つ意味が仮にあるとするなら、場も空気もない、正直カネのためだ。生活費といくばくかの酒代にできるほどのカネがほしい。これは時事ネタよりも我慢する理由が見当たらなかったので吐露したがさっきの方程式に当てはめてほしい。かわいいではないか。彼女たちも結局そういうことなんだろ? だから心底かわいいと思える。母が倒れたとき、年子の弟が私に向かってほざいたのは仕事を休むかわりに1日1万円よこせだ。かわいいと言えるか? ここで人は二手に分かれることになる。愛を取るか、カネを取るかに。私は愛を取った、だからカネをやるから仕事を休めと弟に言った。弟はいやいやながらという態度を崩さず、カネは要らん、仕事は休むから家で──彼の言によれば〝あんたの城で〟──くつろいでいてくれと言い放った。もう一度訊く。かわいいと言えるか? その後、私も弟と同じく守銭奴になりさがった。スーパーやコンビニのレシートの数字を細かく帳簿につけているわけじゃないが感覚として。これははっきり言って不本意だったし、大喧嘩から二年が過ぎた今でも弟のことを死ぬほど憎んではいる。それでも実際問題として〝カネは要る〟のだ。もちろんそれは私がまっとうに暮らしたければの話だ。つまり生きている限り必要だと思うようになった。こないだネットを見ているといいこと言ったやつが居た。生きているだけで罰金だ。そして死んでも罰金だと。生まれたときから罰金刑で、死んでも罰金取られる。私に言わせれば罰金と思ったら地獄行きであり、必要経費と思ったら負けである。どのみち浮上できないようになっている。そのかわり男無価値論が浮上する。私みたいに下手に歳を取った輩でも女の子のことを思っているのだぞ? 彼女たちにしてみれば恋愛対象ではないかもしれないが少なくとも私は好意を持っている。それがどれほどの経済効果を生んでいるかは想像の域を出ないもののなくはないだろう。卑俗な工務店のしたっぱですら「女であってくれ」と一軒家で独り暮らししている私を侮辱したんだぞ? 女にはそれほど価値があるらしい。




やけに明るいので目を開け──重度の近視と乱視のためぼんやりとしか見えないのはわかりきっていたが──壁掛け時計を見ると朝9時ではなく間違いなく昼12時の15分前だった。昨夜の頭痛もすっかり消えており──実は向精神薬とともにほぼ捨て鉢で頭痛薬をいつもは1錠のところを2錠(用法を見ると成人は1回2錠とある)飲んだのだが──、清々しい朝などというものがもう絶対に来ないだろうと思っていた自分としては意外な気分に支配されていた。私は着替え、トイレに行き用を足し、洗面台の前に行き顔を洗い、コーヒーを入れた。コーヒーカップから立ちのぼる香りを片方の手で招きよせ嗅ぎながら私は思い出した。そうだ、今日はデートの日だ。中学のとき、奨学金の面接があった。どういう経緯でそうなったのかもはや推測すらできないがどうやら私は敷かれたレールの上に乗っかったらしい。奨学金をもらうということはイコール家庭が貧乏である証だ。私の場合、母子家庭だったがもちろんそんな勝ち組負け組などという概念すら当時の私の頭の中にはなかった。そう、一切なかった。ただ面倒くさいなくらいにしか思っていなかったのは確かだ。「んっふっふっふ、Kneel before your master !」スライスチーズを挟んだ食パンをブラックコーヒーと交互にやった後ついそうつぶやきながら手を洗った。そうとも、パンを触ったら手を洗わないとね。何の話だったか? そうだ、奨学金だ。私は高校、大学──地方の名もない三流大学だったがシステムはしっかりしていた。たまに自意識過剰のいかれた教授が居るくらいで問題なくスムーズに卒業できた。ただノートを見せてやったやつらが留年せず同じく卒業できたことに少々怒りを覚えた。しかも連中は就職先まで決まっていた。要領のいいやつらだと思ったものだ──と奨学金をもらっていた。それと母からの仕送り、それからアルバイトでなんとか食いつないでいた。ここである秘密をもう時効だと思うから暴露すると、当時パソコンなどというたいていの男がタダでエロ画像見放題だと勘違いしている機械を私は所有していなかった。大学にコンピューター室というのか視聴覚室というのかがあってちょくちょく行っていた。もちろん、エロ画像を見るためではない。当時私は鉱物標本やバイクに興味があった。それらの情報を仕入れていた。主に通販会社やメーカー、国内外の小売業者のページを見ていたと思う。今ワープロというとパソコンのソフトのことだがパソコンとは違う、言うとするなら電動タイプライターみたいな機械が売られていた。私はそれを買い、レポートの作成に利用したり、英語の自作の問題集を作ったり、この町の──実家の隣県の大学で下宿していたのだが最初の一年目は家賃の高い少し遠いマンションに住んでいた。決めるのが遅かったためそこしか空いてなかったからだ。二年目からアパートに移り住んだ。四年目は母方の実家から新幹線と電車を利用して通った。もう週に一度のゼミだけに顔を出せばよかったからだ。ゼミの飲み会はたいして面白くなかったがタダで飲み食いできるのは魅力だった。厳密に言って本当のタダではないのだろうが──謎めいた話題などをまとめたものを遠くの中学以来の友人に送りつけたりしていた。今でもそのワープロは棚の奥で眠っている。使おうと思えば使えるはずだが今はパソコンで事足りている。しかしワープロはもう絶滅しているはずだ。大型電気店に行ってももう見当たらないだろう。そうそう秘密の話。私は当時ある意味では真面目だったがまたある意味では変態青年だった。若い連中がみんなそうだとは言わない。だが、若い頃というのは大学の英語の先生に言わせれば「むちゃあするんすわ」である。今でもあると思うがダイヤルQ2というもので女の子とテレホンセックスという高等テクニックを何回かやったことがある。仕方なかった、他に手段がなかった。ほとばしる欲求を満たすためなのだからそういうことも若気の至りということで赦してほしいものだ。しかし電話料金がかさんでしまい母に今月かなりいったことを話すとそれはおかしいから電話会社に問い合わせてみなさいと言われた。まさか母親にエロトークのために使ったなどと言えるはずがない。エロに関しては巧みな技を持っていたのかもしれないが嘘をつくことに関しては幼稚なお子ちゃまなみだと言わざるを得ない。それはたぶん今でも変わっていないはずだ。自分で言うのもなんだが私は人を騙すのが下手だ。もう少し他の言いわけ──例えば酒代に使ったとか、交際費に消えたとか、間違っても電話代がかさんだなどと言うべきではなかった──を考えるべきだった。全知全能の存在になった母には今はもうすっかり何もかもばれていることだろう。ちなみにあるときかけた電話の内容を少し憶えているのでご披露しよう。「やあ、もしもし」「もしもし」「いいことしてくれるんだろう?」「え?」「いいことだよ」「いいことって?」「エッチなこと」「バッカじゃない!」ガチャ! である。それ以来もう私は悪行に手を染めることはなくなった。あの女の子にひたすら感謝するのみだ。中学時代のピュアなデートの話に戻ろう。土曜の放課後だったのかな、駐車場をうろついていると職員室から顔を出した数学の先生──この先生は数学の苦手な私に放課後居残って特別に指導してくれたこともあったが私が数学を理解することはそれ以降もなかった──が「デート?」と不意打ちを食らわせた。私はそれで赤面してしまうようなやつだった。そばに例の女の子が──私は何度も夜のおかずにさせてもらったが、何度もマスをかくうちに学んだのは、本当に愛していなければ実際にはできないということだった。もちろん彼女のことは当時密かに心の中で愛していた。私の中で第1位優勝のとびきりの美人だったことも一因だ。同じ陸上部でもうなんて言ったらいいか彼女のブルマ姿はたまらなかった──居たので余計顔が紅潮し悟られまいとするのに必死だった。担任の先生が運転する車──かなりボロかったが数ヶ月後に4WDの新車に買い替えられた。一括払いで購入とのうわさを聞いたがどうだか──に乗って少し遠い会場まで運転手付きのドライブデートだ。カセットテープも絶滅して久しい。先生が選びなさいと言ったが後部座席に彼女と並んで座ってるんだぞ? 少しのヘマも赦されない。私は緊張しっぱなしで身じろぎすらできなかった。隣でテープを選ぶ彼女。そっちを向いちゃいけない。なぜかそういう自分ルールを作っていた。面接で何を言ったのかはもうぶっ飛んでいる。まったく憶えていない。今でも思い出せるのはあの緊張しっぱなしだったデートのこと。それだけで十分ではないか。




閉めた白いブラインド──母が自分の部屋みたいにどれにするか選べと楽しそうにカタログを見せながら言うので私がじゃあこれと言って選んだ。今でも母が設置されたばかりのブラインドを開け閉めして説明する残像がはっきり見えるが──の隙間から上向きに強く西日が反射していた。特に腹が減っていたわけではなかったがまたスライスチーズを挟んだ食パンをやった。飲み物はミネラルウォーター。昨日飲み過ぎた反動で今日はそんなに酒をやりたい気分じゃなかったが必ずやるのは間違いなかった。夕食の前か、後かに必ず。いやちょっと待て、残り少なかったはずだ。枕元の置き場に行って芋焼酎のパックを振ってみる。さしあたり今日の分は心配しなくてよさそうだ。いつも量的にはそんなにやらないがやらずにはいられないことを思うとアル中かもしれない。自己診断した結果、確実に自分はアル中であると毎度カルテに書き込んでいるものの薬を処方するかわりにもう一杯やる始末。なんでもいい、脳が満たされてさえいればいい。それがたとえ女の思い出であろうと誰がとがめることができようか。そう思うのはなぜなのかよく考えると結局私が生粋の男であるということに行きつく。そして異性である女の人を大切に思っているからに他ならない。大切に? 一瞬自分の萎縮してしまっている脳ミソを疑った。いつ女性を大切にした? 伯母がトイレに──当時はいわゆる〝ぼっとん便所〟だった──入っていることに気付かず思い切り戸を開けた。そこにはでかいケツが──駄目だ。誰か美しい表現を教えてくれないか? 〝臀部〟とでも言うのか? 〝お尻〟でいいんだったら、〝ケツ〟のほうがまだマシだと思わないか?──あった。「はよ閉めて!」バン! そう戸を乱暴に閉めた後、私の顔は赤というより青くなっていた。その出来事は人生最大の汚点になった。その伯母も今はこの世に居ない。だからもうそれは過ぎ去ったどうでもいいことのうちの一つになりつつある。しかし思い出すということは罪悪感は残っている。罪悪感の残骸が。なんて薄情なやつだとたまには暇潰しに自分を責めてみよう。死んだから罪が赦されると思っているらしい。いや逆だ。死んだからその罪は白日のもとに確定した。どこにも逃げ場はないし、あるとすれば自分が死んだ後その道が拓かれる。生きていることが苦しいことだと決めつけるにはまだまだ早過ぎると思っていたがもはや時は来た。その伯母がインフルエンザのような症状で亡くなったのを皮切りにどんどん身内の人が死んでいった。もう一人の伯母は折からの身体障害のせいで心臓の弁が馬鹿になって亡くなった。最初の伯母が亡くなったことを認知症気味の脳ミソでも把握できたんだろう。「寂しい」と何度も言っていた。「今度は僕の番だな」そう葬式の日に言っていた伯父が脳卒中で亡くなった。母が「あんなこと言って」と涙ぐんでいたのも束の間、母も脳卒中で亡くなった。そしてこの一人で住むには大き過ぎる家に私一人が残された。弟は私が一緒に住みたくない旨を伝えると「俺も」と言って出て行った。彼は今じゃこんなご時世だというのに車を普通車に買い替えてご機嫌で自営業の釣具屋をやっている。「繁盛してるらしいじゃないか」そう言って冷やかしに行ってやるなどもってのほかだ。父方の実家に住んでのんびりやれと言うわりにこまごまと注文を付けてくる父方の義理の伯父や、母方の伯父の遺産を騙し取った母方の叔父連中同様、関わりたくない人物ナンバーワンになった。父方という言葉でしか思い出せないほど記憶に残したくない父も母が亡くなった次の年に亡くなるという曲芸をやってのけた。とにかくだ、生き残っているのはどいつもこいつも鼻持ちならないやつらばかりなのだ。人運というものがあるとするならつくづく私はついてない。ガキの頃──例の法則で言えば〝子供〟と言うのが筋だと思うがあいにく私にとっては自分を卑下すれば心が救われる法則のほうが上だ──、商店街の福引きで扇風機が当たったことがあり、母がよく「あんた運がええねえ」としきりに言っていた。「宝くじ買いんさい、当たるよ」とも言っていたので射幸心をあおられるギャンブルは好きじゃないが宝くじだけは買っている。しかも必ず大当たりすると心底信じているからたちが悪い。




女と言っても同じ女とは思えない腐った女というのも確かに存在することをこれから証明しよう。エカテリン・ミズウ──露骨なあだ名を言うとそのまんまで面白くないのでここでは便宜的にそう呼ぶことにする。ちなみに深い意味はない。意味そのものもないと言いたいところだが多少の憎しみがこもっていることは否定しないでおく──は向かいのババアだが私に会うと必ず確認することがある。それは私が母が死んだことに慣れたかどうかである。「もう慣れた?」そう訊かれたとき、私は軽く殺意を覚えた。しかもそんなことが二度もあった。エカテリン・ミズウは脳の記憶に関する部分がお粗末らしいが他の部分も疑わしい。何から話そうか? そうだな、まず洗濯について。ほぼ毎日している。それはとがめようとは思わない。5分おき、いや下手すると1分もかかっちゃいないと思うが四六時中がらっと窓を開けて乾き具合をチェック──そんなに頻繁に窓を開けて他に何をしていると言えばよいのだ?──している。それを感じ取っているこっちの身にもなってくれ。落ち着いてラーメンも食えやしない──食事とは原始時代にまでさかのぼれば本来落ち着いておこなうべき行為ではないのかもしれないが──。確かにこっちも湯が沸く間、麺がゆであがる間、四六時中〝真空左波動〟をそっちに向けて撃っていることは白状しよう。最も威力の強い波動拳だ。いかれるのも無理はない。しかし、エカテリン・ミズウの異常さに比べればかわいいものだ。何かが過剰なんだろう。自意識じゃない何かが。それにそのことはあの言葉を吐いたことに比べればたいしたことじゃないのは誰もが許容できることにも私は異論はない。私が小路を通ったらがらっと窓を開けてのぞき見することも、誰彼かまわずマシンガンなみに話しかけることも──最近は私が敵意を持っていることに勘付きやがったのか私だけは避けているようだが──、そして家計がひっぱくしているにもかかわらずパートに出ることなくずっと家に引きこもっていることも、あの言葉に比べれば別にたいしたことじゃない。逆に言えば、あの言葉こそがあのエカテリン・ミズウの頭の中が腐っていることを証明してくれている。まるで世間話をするように、本当にこの上なく軽く、屈託なく、「もう慣れた?」そう言いやがったんだぞ。幸運なことに私はあの腐った脳ミソをぶちまけた後の始末をする人のことを慮ることができる心優しい人間だ。母はご近所トラブルなんかどこでもあるんよと言っていたわりにはいつも文句を垂れていた。がらっと窓を開けたエカテリン・ミズウに「びっくりするじゃん」と言ったらしい。そう、びっくりさせられるのは馬鹿にされているようで鼻持ちならない。異論はなかろう? バルジ・ドッヘエ──例によって多少の憎しみを込めてそう呼ぶことにする──は私の母方の伯母である。私が親戚一同の集まった席で〝不安〟という言葉を口にするとバルジ・ドッヘエは「不安なんかどこにあるの? どこまで行っても不安なんかないわよ」と両手で犬が地面に穴を掘るような真似をしながら言った。なのにこの人、生活保護を受給している。それは明らかに不安のせいだと言えるのは誰が聞いても正しい答えだと私は確信している。それに遠い昔からの個人的な恨みがある。ガキの頃──もう断る必要はないと思うが大事なことなのでもう一度言う。自分を卑下したほうが気持ちがよいのだ──にバルジ・ドッヘエが父方の実家にやって来た。私はふざけて、いや甘えて、毛布をかぶって、たぶん怪物か何かだと思わせようとしたのだろう。かわいいではないか。いきなり毛布の上から押さえつけられた。私は毛布から出られない恐怖のあまりパニックになった。とても恐ろしい体験だった。やっとのことで私は毛布から出て犯人のバルジ・ドッヘエに「やめてや!」確かべそをかきながらそう言ったと思うが見るとソファーにふんぞりかえった彼女はこう言った。「なあに、一人で暴れてたくせに、人のせいにして」憶えていることというのはたいていいやな、心底いやな体験である場合が多い。身内の人間が私を陥れたことは一生忘れるはずがない。言っておくが私が小学校低学年くらいのときの話だぜ? 誰が赦してやるものか。例の不安についてだが「具体的に何が不安なの?」と訊かれたので「母の死です」と私は正直に答えた。バルジ・ドッヘエは「ああ死んだんか思いんさい」と言った。ああ死んだんかだと? 今、三回忌が過ぎたところだがどう考えたらそう思えるんだ? 彼女も頭の回路がどこか断絶しているのだろう。まともじゃない。実の母親が死んだときもそう思ったのだろう。鬼畜め。私は憶えているが祖母が亡くなったとき、あの身体障害のあった伯母は棺が炉に入れられる際に「おかあちゃん」と何度も言って泣き崩れていた。それがまともな人間というものだろう。脳が半分いや3分の2以上壊死している私でさえ母の葬式で出棺の際に思わず泣いてしまったくらいだ。そう、身内の死で泣くのは〝まとも〟の代名詞。ただもし、弟が私より先に旅立ったとき、果たして泣くことができるだろうかと少し不安だ。もちろん、あのバルジ・ドッヘエの訃報を聞いたときは小躍りして酒を買いに行くだろう。キニシイ・クタン──この上なく因縁深い人が身内にまだ居たことを残念に思うと同時にネタになる点ではありがたいというジレンマに陥ってしまう。例によって憎しみを込めてある──も母方の伯母でこの人は本当に出来の悪い腐った人間であると自信を持って請け合うことができる。彼女はこの国で最も権威があり影響力のある某宗教団体の信者だ。それは別にどうってことない事実なのだが、頭がおかしいから入信したのか、入信したから頭がおかしくなったのか、たぶん両方なのではないかと思わせる奇行を見せてくれた。まず私がガキの頃──もうお断りする必要はないだろう。この言葉が出てきたのが何度目かは憶えちゃいないが──の話だが、当時彼女は美容院を営んでいた。近所の人しか来ないような所にあったが私も何度かお世話になったことがある。私にとって散髪というのは昔も今もいやな行事だ。自分の思い通りの髪型になったことが一度もない。昔と違っていることといったらバリカンで一気に刈れて管理が楽な点だった。それはいい。父の運転する車でよく来ていたが──当時は父方の実家で暮らしていた──帰りに必ず後ろを向いて馬鹿みたいに手を振った。彼女を信じていた証拠だった。しかしある日、父母の仲が険悪になり始めたとき、帰りにすったもんだがあり、挙げ句の果てに彼女は父の居る前で私に向かって「殺されるよ!」とのたまった。この意味がおわかりいただけるならこれ以降をお読みになる必要はない。〝裏切られた〟そう子供ながらに思ったかどうかは定かでないが似たような感想は抱いたはずだ。彼女が信じていたのは私たちではない異教の神様であり、国会議員であり、ありがたいお経だった。私は彼女を信じていたがあれ以来いやな思い出として記憶され、会うたびに当たり障りのない仮面をかぶりあまり近づかないようにしていた。あるとき、法事で──ついでに言っておくが私は仏事に疎いというよりは宗教そのものを信用していなかった。彼らの厚情が仲間にだけ向けられていることも知っていたし、はぶられたら何をされるかわかったもんじゃないという不安も抱いていたが、私はかたくなに彼らを拒んだ。だって第一インチキくさいじゃないか──お坊さんが唱えるお経に合わせて自分の信じているお経を声を出して唱えやがった。ここでようやく〝場違い〟という言葉の重い意味を心底知ることになる。しかもその夫も葬式の最中ガムをくちゃくちゃやる低能ときたもんだ。昼間っから酒をやってぐだぐだの女のほうがよっぽどマシだと冗談で言うには意外と真に迫っていると思わされる連中の愚行にほとほとまいるのみだ。証明になったかどうか少々自信がないもののまともな人であればこれだけのエピソードを聞けばうなずいていただけることと思う。私が彼女たちから学んだのは腐った女も世の中には確かに居るという、いらつく事実を素直に受け入れればどてっぱらをぶっ刺される確率がぐっと下がるという法則だ。難しく考える必要はない。冷蔵庫の奥でカビが生えた得体の知れない物体のようないやな女は確かに居る。あなたがたが今まで学んできたことを復習したに過ぎない。もっとも私がこれを今頃やっと学んだのは本当に偶然だったと言うにはあまりにも遅過ぎる蛍光灯の反応に似たことだと多少は後悔している。ただこれからの人生でそれは大いに役立つに違いない。短い余生だが。




三日前、そう確かそれくらい前にスリッパの裏で踏み潰してやったムカデの死体が通りかかった私に言った。「おい、どうにかしろ。このままじゃ、ちんぽこなみにお前のうしろめたい部分が増えるばかりだぞ」私は答えた。「わかってる。乾燥するのを待ってるだけだ。それにここを通るのは私しかいない」そいつは普通のムカデより足の本数が少なかった。いや確かに少なかった。それに色も普通のより黒かった。温暖化で南国の虫たちの生息域が北上しているのだろう。ひょっとするとムカデではなかったのかもしれない。「オレは選ばれし勇者だ」「ああっそ」「馬鹿め、信用してないな。証拠を見せてやろう。今お前と話してる。それが証拠だ」「これは私の病気、〝幻聴〟だよ」「あはは、幻聴だろうが何だろうがオレが話してると思ってやがるんだろ?」「まあね」「病識があったって無駄だ。聞こえるもんは聞こえる、そうだろ?」「それよりお前も肌で感じた通り私の罪は消えないどころか増える一方だ。頭の中がぐちゃぐちゃだ。どうにかしてほしいのはこっちのほうだ」「オレの死体のことはどうでもいい。お前の過去に問題がある。しかし元通りにするのは残念ながら不可能だ。オレが生き返らないのと同様に。だから罪は増える、あはは!」「笑いごっちゃねえ。どうにかしてくれ。あのとき頭を叩き割ったように」私は幼少期に楽しさ、あるいは嬉しさというのか心底それらが湧き上がってくるのを感じけっこう急な坂を走って下りた。すると足がもつれて転げ額のちょうど真ん中を縁石に強打した。泣く気力も失せるほどのショックと痛みでぐったり倒れているとすぐに母が抱き起こしてくれた。眉間から血が流れ落ちるのを感じたがなぜかふわふわした心地よさも感じた。母に抱かれている、心から愛されている、そんなことを思っていたのを今でも思い出す。私の頭の中はそれ以来、神様──もし全知全能の存在が私にその存在を知らしめるために私の頭を叩き割ったのなら確実にいらっしゃる──に支配された。コントロールされた。傷口から神様が私の頭の中に入ってきたのだ。まずお歌の時間にみんなが歌っている最中にDちゃんを見ながら「鼻がゴリラみたいだね」と私に言わせた。突然鳴り止むピアノ。私はDちゃんに嫌われたし、先生にも本気でこっぴどく叱られた。Eちゃんと二人きりのときに股間を見せろと私に言わせた。私はEちゃんに嫌われた。Fちゃんはまだ幼稚園にも行っていなかったが神様は私に股間を見るように促した。見たが別に楽しくもなんともなかった。ただこれらのことは私に罪悪感の種子を植えつけた。今でも憶えているということはいやなことだったんだろう。心底いやなことだったんだろう。私はムカデの死体に向かって言った。「たのむ、頭を叩き割って中身をぶちまけてくれ」ムカデの死体は言う。「無茶言うな、お前はオレを殺せるがオレはお前をどうにもできん。せいぜいスリッパの裏に体液をなすりつけることくらいしかできん。余計なことを考える暇があったらさっさとオレの死体の処理をしろ。風呂に入る前に」私はスイッチを押した風呂のことを思い出し、壁掛け時計を見た。もう時間を過ぎていた。またムカデの死体に目をやり言う。「お前はムカデなのか?」──もう何も反応がなかった。私は言われた通り風呂に入る前にティッシュペーパーを使ってそのムカデか何かわからないやつの死体をひっつかみゴミ箱へ放り込んだ。嘘つき。あいつは大嘘つきだ。体液どころか一番いやな罪悪感を私の脳になすりつけやがった。ある日、私は今度は自分から話しかけてみた。2週間くらい前に殺した母屋と離れの間の木の床の上のゴキブリの死体に。「ねえ、いい加減消えろよ」ゴキブリの死体は言った。「うるせえ。この季節に蟻が働いてると思うか? このタコ!」「お、威勢いいね」「知ってやがるんだろ? オレがお前の感じている残像や残響でしかないことを」私は余裕しゃくしゃくでにやつきながら言った。「もちろん、わかってる。私はお前であり、お前は私であることをわかってる。それが幻覚や幻聴というものだ」「しかしここにオレの死体が現にある。どうけりをつけるつもりなんだ?」「けりはもう──」「いいや、まだだ。死体の処理が残ってる。母ちゃんが死んだとき──」「やめろ!」私は急に声を荒げたくなった。「まあ聴け。湯かんの儀をやってあげたろ? タオルケットのかけられた母ちゃんの死体に湯をかけてやった。何の感慨もなかった、そうだろ? むしろ余分に費用がかさんだことを胸くそ悪く思った」「違う!」「隠さなくていい。オレはお前だ、わかってる。それに足から上に向かってかけろと言われて股間に湯がかかったとき、ヘマやっちまった気分になった。それだけが記憶に残ってる。なぜなら、いやな、心底いやなことだったからだ」私は声を絞り出した。「たのむ、やめてくれ」ゴキブリの死体は笑った。「あはは、しゃくにさわったか? 忠告しておいてやる、いつまでも子供面してるとなめられるぞ」「──違うんだ。子供面なんて──」「それだけが記憶に残ってる」ゴキブリの死体はそう繰り返し言い高らかに笑った。私は耐えられなくなって家の中にどたどた入るとティッシュペーパーをぞんざいに何枚か取り引き返した。ゴキブリの死体はまだ笑っていた。「あはは、それだけが──」「黙れ!」私はゴキブリの死体をあのわけのわからないやつの死体を処理したのと同様つかみゴミ袋にぶち込んだ。あれほど死体の処理は早くせねばならんと言っているのに放っておくからこういうことになる。わかってる。わかってるんだ、言われなくても。だから死んだ次の日に駄火──〝だび〟はこの場合〝荼毘〟と書くらしいがつまらない粗悪な火で焼かれる意を込めてある。第一読めないではないか。じゃあ〝火葬〟でいいじゃないかって? それじゃあ面白くないだろ──に付した。名残惜しいなんてもんじゃない、ずっと残しておきたかったが死とはそういうものだと観念したのだ。二度と元には戻らないものだと。「死んだら、無じゃろ?」そう生前に母が静かに言ったのを憶えている。それだけが記憶に残っていると言ってくれないか?




今日は朝から今にも雨粒が落ちてきそうな曇り空だった。先日私が虫たちの死体の処理をしたのを天の神様がご覧になっていたのだろう。いや今、神様は私の頭の中にいらっしゃる。また頭痛が始まったのは出たくてウズウズしておられる証拠だ。逃がすものか。「Kneel before your master !」ついそうつぶやいてしまうのも神様がおおせになったことそのものずばりを私がのどの膜を震わせて出しているに過ぎない。こうなったら私の中に入ったことを心底後悔させてやる。実際のところ私は一人で暮らしていることを別に恥ずかしいとか、間違っているとか、道理にかなっていないだとか微塵も思っちゃいなかった。ただ理屈ぬきに寂しかった。町の小さな電気屋のおっさんのところに弟が母の葬式の後に供え物だった果物を持って訪れたとき、「お兄さんとこよってあげなよ、寂しくなるけん」と言われたそうだ。悔しいが確かに寂しくはなった。しかし弟とは絶交だ。あんなどうしようもないやつを弟などと呼びたくない。煙草──私がこの世界で一番嫌いなものだ。そしてそれを吸うやつも──をやるは、飲酒運転はするは、とっかえひっかえ女はつくるは、私の神はそれらを絶対に赦さない。車のディーラーに行ったとき、従業員のおっさんが母が亡くなったことを告げると「さみしくなるね」と言った。母もよくお世話になっていた店だった。ただ最終的にはサービスが行き届いていないにもかかわらずぼられるため、車検を他の業者に頼むようになった。なぜ母が亡くなってからそこに行ったのか今思い出したがキーのリモコンを弟のやつが──またやつか──紛失したため新調しに行っただけだ。あんな小さなものなのにかなりの額をぼられた記憶がある。車関係の業者というのはぼるのが当たり前だと思っている。そのくせサービスがしょぼいぼったくりバーと同じ悪徳業者だと断言してもいい。ともあれだ、私の神は比較的おとなしい。自慰行為も1年に1回やるかやらないかくらいだし、当然妄想以外では女をつくらない。煙草をやらないかわりに酒は少々やるがその他はいつ出家してもおかしくない高潔さを保っている。もちろん外見の話じゃない。心だ。私の神がしてくれているそのことが何よりの救済だった。しかし赦してはくれない。罪悪感を引きずったままなし崩し的に生きているのが現状だった。だから逃がさない。頭をもう一度かち割って中身を出そうとするのは神だ。私じゃない。私の中に居るうちは存分に苦しんでもらう。私とともに。──雨だ。とうとう泣き始めた天に私は勝ち誇ったようにつぶやいた。「Kneel before your master !」私はあなたであり、あなたは私だ。幻覚幻聴の法則を思い出し私はにやつきながら空模様を観ていることを認識した。3ヶ月くらい前のことだったか、3週間ぶりにクリニックに行ったとき先生があれは自分の無意識の声だからコントロールしようと思っちゃいけないとおっしゃられた。私はそれを疑問には思わなかった。確かに操縦が不可能な爆弾を満載した戦闘機にいきなり乗せられた民間人になった気分になることがある。夜、布団に入り、じっとして意識があっちに行ってしまうまでの間、私はずうっと〝声〟と戦っている。こないだ先生にどういうことを言い合っているのですかと訊かれ、言葉に窮したのを憶えている。なんのことはない。どうでもいいことですよ。そう繰り返すしかなかった。だって本当だもの。どうでもいいことだもの。向かいの中学生をそしり、名前の最後の〝き〟が勃起のきだの、はす向かいのしつけのなってないよく吠える犬を多頭飼いしてやがるゴリラねえちゃんの穴にお前の勃起したちんぽこをぶち込んでやれだの、間違ってもお前の本当の母ちゃんかどうかもわからない老いて腐ったババアの穴にぶち込むんじゃねえぞだの、その周辺の話を延々と毎夜繰り返している。そして必ずその中坊に「バーカ」と言われる。中坊だけじゃない、小さな女の子がしきりと私の真似をし復唱する。そして最後に「だって」と言われる。これらの口争いはすべて近所の連中に筒抜けだ。だから寝ていないこともばれてるし、私のあらゆる罪も知られている。そしてそれを私は知っている。病気のせいだと。私の神は悶え苦しんでいた。私の頭の中から出ようとしているのは明らかだった。また頭痛がする。──雨が止んだ。そう言えば低気圧が来ると頭痛がする。メダカ池のメダカが水面近くで騒いでいる。しかも満月だ。そんな夜に私の脳活動はピークに達する。周期的にそれを繰り返していることが言わば私が生きている証拠でもあるのだとしたら、生きるとはなんとつらいものであろうかと思いはするが、私の神はむしろそれを楽しんでいる。私から出たいのは単に居心地が悪いからだけではない、私が老いているので次の宿主を探しに行きたいだけなのだ。そう、私はもう終わりに近づいている。神の必死さを見れば誰でもわかる。だが、逃がさない。あの駄火──つまらなくて粗悪な火──に焼かれて灰になるまであんたを逃がさない。あんたのほうから入って来たんじゃないか。何かするとしたら今度は私の番だろ。そう、仕返しだ。大雨が降る中、砂地にできる小川が次第に勢力を拡大するように、毎夜えぐられていく心を何もせずに放っておくものか。自分より大きい者に抵抗するのはよくないことだとは誰も思わない、むしろ称賛されるだろう。神よ、観ているがいい。〝私はあなたであり、あなたは私〟




「コーヒーいかが? 遠慮しないで。話し相手になってほしいだけだから」そう言って長く白い髭をたくわえたおじいさんを私は家に招き入れた。とある木曜の午後、玄関ベルが鳴ったので玄関わきの小窓を開けるとそこに居たからだ。それに街で見かけたことのある人物だった。害意はなさそうだが気骨のありそうな、しかしどこか痩せている、身も心も。そんな感じの風貌だった。思うに認知症で徘徊癖のある老人が高齢化でどんどん増えている昨今にあっては施設をこっそり抜け出すなんてことは別に珍しいことではないのではないか。おじいさんは「うう」と声を発した。私は玄関に回りしっかり閉めていた鍵を開け「さ、どうぞ」と背中を優しく押して促した。「靴脱いでね。あれ? はいてないの」「うう」足元をよく見ると靴下しかはかされていない。私はまあいいかと思った。どうせ汚い床だもの。例によって向かいのエカテリン・ミズウが窓から半分顔を出して一部始終を見ていたが私は知らんふりをした。私はリビングに彼を通し、肘掛けが籐でできた中古のソファーに座らせた。「今おいしいコーヒー入れてきますから」「うう」電気ケトルにカップ2杯分の水を入れセットしスイッチを押す。やっぱり誰かのために何かをするのは張り合いがあってすこぶる気分がいい。水屋から二人分出したカップにドリップコーヒーをセットする。出来上がって持っていくとおじいさんはおとなしく座っていた。「はいどうぞ、熱いから気を付けて」「うう」私はおじいさんの向かいのソファーに座り、コーヒーをすすった。「あち! まだあちいわやっぱり。おじいさんこの辺の人?」「うう」「知ってる。逃げてきたんでしょ? あの意地悪の若造から」「うう」「あ、左手にタグ付いてるね。ちょっと見せてね」私は立ち上がりおじいさんのそばに行き左手をつかみぐいとやって見た。そこには〝G──ホームデイサービスセンター〟と印刷されたタグが付いており電話番号まで書いてあった。私はそれでいったん安堵した。私は携帯を持ってきて──愛用のガラケーでもう使って三年になるがいつもバッテリーがあがっている。コンセントにつなぐと何とか息を吹き返した──、その電話番号にかけた。「あ、もしもし。Gさんがうちに来て、それで──はい、住所は──え? すぐ近く? すみません、地元のことに詳しくないもので──はい、お待ちしてます」「うるさい! 第一ちんぽこのことなどどうでもよいわ。それよりいいことを教えてやろう。あいつは仮性だ。わしがそれを知ったのはあいつが──」私は耳を疑ったがすぐ例の現象であることを理解した。「Gさん?」「座薬以外何も入れたことのない清らかなわしのケツの穴にてめえの不潔なイチモツをぶち込もうと──」「Gさん!」「日夜虎視眈々と画策していやがることを──」「Gさん!」「うぇ、ん、え?」「飲んだ?」「飲むわけないだろ気持ち悪い」「コーヒーの話」「ん? ああ、今いただいた。なかなか悪くない味だ。しかもブラックが一番好きなことをどうして知ってるのか知らんがおいしくいただいてる。砂糖やミルクを入れた甘いコーヒーなんぞコーヒーじゃない。まださげないでくれ、一口やっただけだから」「今施設に電話入れたから」「余計なことをしおって。やつらがわしを廃棄物なみに扱ってることを知らんのだろ? そうとも、年老いては人権などないのだ。免許の自主返納だと? 誰がするかこのキチガイなどと毒を吐いてやってもいいんだぞ。なめやがって、あいつら! ──ところで、お前さんには神様が宿っているようだな。いや隠さなくてもいい。この歳になると何もかも見えるんだよ。目はいかれてるが心の目はいかれちゃいない。たまに見たくないものも見えて困るがな」「私の体は神様に捧げられたんです。まだ赤ん坊の時に契約がかわされました。そしてしばらく経った頃、私の眉間から神様が入ってきた。だから偶然じゃないんです」おじいさんはよろよろとする右手でカップをつかみ口に持っていきコーヒーをすする。「ふむ、まあ運の良し悪しは自分で決めるこったな。わしが言えるのはお前さんは選ばれたんじゃない。逆だ。はじかれたんだよ」「それはわかってます。だからこんな生活をしてる。身内のあらゆる意味で優秀で親しかった人たちはことごとく死に絶え、一人残された。しかも日陰の身。精神病になり、障害年金をもらい、あっぷあっぷした屈辱的な生活をさせられてる。もう生きたくない。そう思い始めたとき彼の存在に気付いたんです。私の中の神に。いや、思い出したと言ったほうがいいかもしれません。忘れちゃいなかった。犯した罪をみんな憶えているのと同じにそれも憶えていたんです」≪それだけが記憶に残っていた≫私とGさんは同時にそう言った。そして大いに笑った。「──あはは、それで、それでね、わかったんです。自分という存在も居ることが。支配されてなんかいなかった」「わはは、よく気付いたな。ノーベル賞ものじゃないか。しかし神も確かに居る。そして罪を犯した罰として罪悪感が与えられた」「罪は今後も増え続けます。そして罪悪感も膨れあがります。どうにかなりませんか?」「わしに訊くな。お前さんが目で見、耳で聞き、肌で体感するしかない」「私としては神と一緒に消滅することを望んでいます」「それは心配しなくていい。なぜかはわしの今後を想像すれば簡単にわかるだろ? わしはもうじき死ぬ。神と一緒に」「え?」Gさんは右手の甲を差し出し私に見せた。老いた手だ、その他には──。「三歳くらいのときに大火傷した。そのときここから神様が入ってきた」「あなたも?」「驚くこたあない。わしも──」そのとき玄関ベルが鳴る。私は立ち上がって、はーいと言いながら玄関へ向かった。見ると紺のカーディガンに作業着風の薄水色の服を着た太ったおおがらなおばさんが立っていた。「ホームデイサービスの者です」「あ、はい。今呼んできます」私はリビングに引き返した。「Gさん、来なすったよ」「うう」「Gさん?」──もう、かくしゃくたる言葉が返ってくることはなかった。私はまたかと残念な気持ちになった。「さ、行こう。お迎えだ」そう私は静かに言ってGさんを促した。施設の従業員にGさんを引き渡した私はある意味ではほっとしたがまたある意味では以前と変わらない寂しい気分に支配された。エカテリン・ミズウが窓から半分顔を出してこっちを見ていた。私は玄関の戸を閉めしっかり施錠しあがりがまちに上がりながらぼそっと野卑な言葉を言い放った。「なに見てやがる。見せもんじゃねえぞ」私が言い、そして神が言った。




腐った卵をわざわざゆで卵にして食べたときのあの心底いやな腹痛と吐き気に見舞われたのと同じくらいの苦痛に私は毎日さいなまれ続け疲弊し、そしてついに飽きた。まず親父の負債をきれいに片づけた。実際のところ、あの家土地が競売にかけられていたのを買い戻した父方の義理の伯父への借金ができたが、しかし二十年以上も音信不通だったあの人が勝手にしたことだからこっちの知ったこっちゃない。恩もないし、義理もない。あの苦痛と同じく、事もなく過ぎ去ろうとしている。それでいい。どのみち行方のわからない親父の前妻の子が居るため、正式な相続も困難になっている。無意味な固定資産税を支払わなければならないことを除けばなんのことはない。くそいまいましいことに1年に1回、弟に〝半分よこせ〟の催促をしなければならないがそれもまあいい。振り込み先を添えた妙にかしこまってへりくだった手紙を書きさえすればいいだけの話だ。それから奨学金を一括で完済した。おかげで私の貯金──障害年金の遡求により得たものだったが──は3分の2以上が消えた。母の生命保険や共済金が入ったもののそれらはたいした額ではなかった。借金や負債はなくなったが差し当たりの生活費がじわりじわりと貯金を食い潰していっている。そして下水道工事には公共ますというものを設置せねばならず、なぜ懸念材料になるかと言えばカネがかかるからに他ならない。もし下水道が整備されればトイレをいずれ水洗に変えねばなるまい。またカネがかかる。くたばるなら早くくたばりたい。お役所やお国にはそういうネガティブでマイナスな考え方を強要されている気がして反感を持たざるを得ない。結局のところ、連中がやっているのは庶民を絶望させる仕事ではないか。つまらん考えというのはそういうことだ、いよいよとなるまで慎んでおこう。それが賢い庶民というものだ。だが、いったん咬みついたらスッポンなみに離さない。それも利口な庶民というものだ。我らが同志よ、焦る必要はない。サッカーが不良の遊びだったように、政治も公務員の遊びに過ぎない。つまり泳がせておけばよいのだ。主権はあくまで我々にあることを忘れてはならない。そして下水道工事に話を戻すとずいぶんなおっしゃりようなのが露呈する。受益者負担金などという名目でぼられる予定のカネは工事費の一部負担ということらしいがだったらしなくていいと申し出るにはもう遅い。言われるがまま契約書に署名捺印し手渡した後だ。これを絶望と言わずして何と表現しよう? まあいい、なるようにしかならない。今のところ苦痛と言えばそれくらいだろうか。刹那的に生きざるを得ないが別にそれを疎ましく思っているわけではない。しかし、人生の折り返し地点に来たこの歳でそういう生き方をするには無理がある。静かにしてほしい。とにかくお静かに。それでなくとも毎夜幻聴にさいなまれているのだ。もうたくさんだ。だから飽きた。慣れたと言うこともできる。まもなく四十路に入る。疲れて飽きた部類の人間になる時が来た。今更神様だなんて信じちゃいない。もし神が私の中に居るなら、そして母の魂が私が生きている限り不滅であるなら、私が死ねば──この世界の始まりが無であるなら──無に帰るはずだ。さらに言えば私の感じている世界がすべてだとするなら私が死ねばこの世界も終わるのだ。そうとも、そりゃ当然だ。しかし私の言う神とは宗教がらみの話ではない。一言で言えば〝全知全能の存在〟だ。死んだ者たちの魂や、自然の現象がそれにあたる。誰も居ないのに床がみしっという。眼鏡のレンズの左端で一瞬影がよぎる。池の水面に反射した光が天井にゆらゆらと映る。風がカーテンを揺らす。色、形、におい、味、手触り、温度。そして、まぶたの裏で飛ぶ鳥。あの鳥に出会ってからの私はいつも幻想を見ていた。シークエンスであり、ビジョンであり、要するに一連の映像だった。この2年間、私はそういうものを求めていたことに気付いた。自覚した。私の中のあの神はそれを歓迎したがそのことによって私は疑いの念を抱くようになった。「罪悪感を与えるのがあんたの仕事だろ?」コンビニへの道中不審者だと思われないように小声で問うてみた。返事はなかった。かわりにふいにのぞいた側溝の中に横たわっているネズミの死骸が答えた。「お前は罪悪感を持つことで罪から逃れようとしているだけだ」私は立ち止まり、かぐわしい動物が死んで腐ったにおいを感じながら言う。「そんなことはない!」つなぎを着た工務店のおっさんがいぶかしげにこちらをじろじろ見ながら通り過ぎていった。私は声のトーンを落として小声で言う。「そんなことはない、現に慎ましく生きてるじゃないか」ネズミの死骸は鼻で笑った。「そこだよ。何事もありませんでしたで済ませようとしてるんだろ? 隠したって無駄だ。彼にはちゃんとわかってる。お前が自分を騙していることを」「まぶたの裏で鳥が飛んだのが何だったっていうんだ? 静かに生きて何が悪い。私の自由じゃないか!」「自分を騙すやつに自由に生きる権利はない。誰が決めた? お前じゃないか。罪を罪と認めたのはお前じゃないか。今更逃げる気か?」「くっそ、てめえ!」若い女性が通りかかって帽子をかぶった髭面のおっさんが側溝に向かってしゃべっている異様な光景を見てできるだけ道の反対側によって通り過ぎたのに私は気が付かなかった。「ほらほら、図星らしいな。しかし彼には筒抜けであることを忘れないほうがいいぞ。それが身のためというものだ」「やつは私とともに消滅する運命にある!」「一匹だけだと思うなよ。大家族には大家族、独り身には独り身だ。オレたちはお前らの人数分だけその家に棲む。彼らも同じだ。お前の中だけじゃない」「それは知ってる。こないだGさんに会った」「じゃ話が早いな。お前が消滅しても彼らは生き続ける。罪悪感を与え続ける。もしその現象がなかったらどうなるか、ここまで言えば想像するのは簡単だろ?」「どうなるんだ?」「人間の存在意義がなくなる。お前らには生きる意味も価値もなくなる。良心や善意の話を聞いたことがあるだろう? かろうじてまだそれらが存在している。だからお前らはまだしばらくは生きる意味も価値もある。だが、それ以上に重要なのはそれが繰り返されることの意味と価値だ。どうせ、お前にゃわからん。あきらめろ」「お前にはわかるって言うのか?」「オレはお前、お前はオレ。安心しろ、永遠にわからんよ。ただヒントはやろう。死ぬ気で良心と善意を示せ。そうすりゃちったあマシな余生を送れる。勘違いするな、示さないとならないのだ」私は鼻で笑った。「だったらもうやってるよ、言われなくてもね」ネズミの死骸は一層腐臭を放ちながら言った。「じゃなぜ罪から逃れようとする?」「──わからない」「なぜ罪悪感を感じる?」「わからないよ!」「答えは〝彼が居るから〟、それしかないじゃないか」「どうしろって言うんだ? 頭をかち割れって?」「それも悪くないがしかし、同じことだぜ。自分で息の根を止めようが、寿命で死のうが、病気や事故や災害で死のうが、同じことだ。だったら精一杯生きろ。オレにはそれしか言えん」「──生きろって言われたのは初めてだ。死体に言われるとはな」「死体だから意味があるとは思わんか? まあいい。時間だ」「おいよせ! 待て」ネズミの死骸はそれ以上何も言わなかった。私は腰を上げて道の前方を見た。そして、ひなびた街のひなびた道をとぼとぼと歩きだした。コンビニに行くんだった。そう思ったとたん、さっきの話をすっかり忘れてしまったことに気付いた。歩きながら思い出したのは母の言葉だった。「精一杯生きなさい」確かそうだった気がするがそれも輪郭がすでにぼやけていた。それが老いというものだと気付くこともなかった。腐臭が鼻の穴の奥に残っていることを理解できなかった。


10

11月の初旬のある日、窓辺から入る暖かい光を私は歓迎したが明らかに目が老いを感じさせるほどまぶしいと感じていることには少々気落ちさせられた。強い光というのは老若男女誰でもまぶしい。当たり前のことなのになぜか老いのせいにしてしまうのは──もっとも老いなどとは微塵も思っていないが──責任転嫁という悪癖である可能性が強い。その兆候の良し悪しはすでに決まっていた。つまり不吉だと、おみくじで言えば〝凶〟であると客観的にはけりがついていた。しかしながら、私はまだ生きているのでそれ相応の仕事をする必要がある。仕事というのは自分を正当化するための行為でしかないし、現に自分が世界で一番偉いと、自分だけが正しいと思っているやつは100パー何かしらの仕事に就いている法則を私は知っていた。身近な人物で言えば弟がそうだ。自分だけが正しいと思っているから煙草をやるのだろう? 飲酒運転するのだろう? 彼女を作るのだろう? そして、兄を貶し蔑み蔑ろにするのだろう? 朝の──もう昼近くだが──コーヒーとパンをやっていると玄関ベルが鳴る。玄関わきの小窓を開ける前にいつも月末に講金を回収している民生委員のおばさんかと勘繰ったが月の初めに来るはずがない、誰だろうと思いながらがらっと開けるといやな顔がそこにあった。私だった。玄関ベルの電池交換をしてテストしたときの私だった。玄関に回り、しっかり閉めてある鍵を開け言う。「入れ」エカテリン・ミズウがまたのぞき見していたが私が一人でしゃべっているのを見ても小さく萎縮したしわのないつるつるの腐った脳ミソではその意味がまったく理解できなかったに違いない。玄関の戸を閉め、土間に私を立たせたまま、私はあがりがまちの上に立ち訊いた。「なぜ来た?」私は答えない。「どうして来たんだ!」私は声を荒げた。土間に立った私はふっと笑い答えた。「帰ってきたんだ。お前の中に」「もう遅いんだよ! 何もかも終わった。今更お前なんか必要ないんだ!」「いいや、必要だ。特に過去の自分の姿を見て癇癪を起こすようなやつにはな」「偉そうな口をきくな! 私とお前は違う。まったく別ものだ。自分の棲み処へ帰れ!」「私はお前、お前は私。そうだろ? それに私はもうすでにお前の中に帰った。便宜上こうしてお前に見えているだけだ」「帰れ帰れ帰れ!」私は玄関の戸を開け私の背中を押し追い出した。「二度と来るな!」2、3歩進んだところで私は振り返りにやりとして私に言った。「必ず二度は繰り返す。そして二度あることは三度ある。三度あったら何度もある。頑張れよ」角を曲がったところでどこに行くか見てやろうと私も角を曲がって見たがもう姿がなかった。エカテリン・ミズウの気持ち悪い視線を感じながら家に入りしっかり施錠し戸が開かないかどうかも二度確認した。私は土間に立ち止まりつぶやいた。「二度繰り返すだと? 自慰行為じゃあるまいし。くそったれ!」──座椅子に座り両手を頭の後ろにやり、ぼうっと中空を見ていることを私は認識した。そして玄関ベルの音に気付いた。受信器を見ると点灯しているはずの赤いランプが仕事をしていないことを示していた。空耳だ。最近何回かこんなことがあった。まただ。もし本当に鳴っていてランプが点灯していれば必ず玄関にはりきって向かうがしかし十中八九大損こくので私はもうこの現象には正直うんざりしていた。何か楽しいことでもあればいいが玄関わきの小窓を開けたときにいつも見るのは期待させやがった責任をどう取るつもりなんだと金属バットをかまえてバッターボックスで腐った脳ミソの詰まったボールが来るのを今か今かと待ち受けている自分の姿だった。そう、見たことがすべてではないがすべては見るしかない。私は過去の自分を見て同化はしなかったと思うが私の中にやつが居るのはいつも感じていた。アイデアを盗んだ作家大先生よろしく、そいつの腐りきった脳ミソを金属バットで頭蓋骨を叩き割ってぶちまけてやりたいとは、自分にも言えることだった。斧か金づちで私の頭をかち割って脳ミソをぶちまけてくれ。そんなことを急性期に強く願ったのを今でも憶えている。所詮、自分では何もできない。私はそう絶望したものだ。だが、やがて嵐のようなその感情も過ぎ去り、今はまるでセミの抜け殻だ。比喩表現はあまり好きではない。うわついたおふざけだからだ。だから率直に言おう。私にはもう守るものはないし、わざわざ作ろうとも思わない。それはすなわち私には生きる意味も価値もないということだ。弟は生きることに意味なんかないとはっきり言った。先生は生きることに価値がないと思っても実行するなとおっしゃった。何を実行するかだって? 決まっているじゃないか。自分に生きる価値がないと思ったら誰もがやることだ。しかし私には意味と価値を与えてくれる罪悪感があり、探究心があった。その意味で私は悲しく寂しい孤独な〝求道者〟だった。なぜならまず仲間を作ろうとしなかった。それなのに妄想上の恋人を作った。これは実は想定外だった。いずれにせよ蔑ろにしてる点ではどうでもいいことだったのは間違いない。そのかわり顧みることは忘れなかった。否応なくそうなっているだけだとしても、それは死ぬほど罪悪感や絶望を味わった身としてはありがたいことではないか。昼飯を作ろうと階下に降り台所でごそごそしていると首をくすぐる者がある。やめてよAさんなどと息を吹きかけ合っていちゃついている場合ではない。何か居るのか? そう直感した私は左手でそれを振り払った。床に落ちたのは小さなハエトリグモだった。ここで私がやるべきことは一つだけ。何だと思う? そう、ご名答、踏み潰す! 私はスリッパの裏を使ってそのクモを念入りに踏み潰してやった。するとすぐにしゃべりだした。「おいーやってくれたな。また一つ増えたな罪が」「私は疲れて、飽きてる。それがどういう意味かわかるだろ?」「まあ見ろよ、死んだ者たちを」私は仏間の入り口に立ち、そこから見えるコレクションでもしたのかと勘違いされそうな数の遺影を見渡した。彼彼女たちが死んだなんてまったく信じられなかった。どこかでまだ生きてる気が強くしてなんだか変な気分だった。「これがどうかしたか?」「あの人たちは死んだ、間違いなくな。お前はまだそれを心の奥では理解できないでうろたえている」「そんなことはない。だって寂しいもの」「いいや、お前の心の中ではまだ生きてることになってる、そうだろ?」「お前は死んだ。私が殺したから間違いない。でも、あの人たちは私が殺したんじゃない。それだけははっきり言える」「あはは、だから罪はないとでも? あの身体障害のあった伯母とは近くの海に魚釣りによく行ったなあ。しかしお前は寝たきりになった彼女を疎ましく思った。骨と皮だけの生ける屍。愚弟が言ったその揶揄を聞いて心底笑ったろ、忘れたか? よくしてもらったのに裏切った」「仕方なかった」「仕方なかっただって? お前が一番嫌いな言葉じゃないか」「どう言えっていうんだ? 他に的確な言葉があるとでもいうのか?」「少なくとも〝仕方ない〟よりはいい言葉がある。そう思わんか?」「──わからない」「あれほど部外者に母の面倒を頼むなと言ったのにあいつは仕方ないじゃんって言いやがったんだぞ。これほど怒り心頭に達する言葉はない、そうだろ?」「ああ、もちろんだ。二年が過ぎた今でも胸くそ悪い」「そうだろうとも。そう、あいつは社会の毒に侵されてる、いや、まともじゃない。残念ながらお前の弟さんはいかれてるよ、間違いなく」「それはわかってる」「じゃあ例え母ちゃんが今際の際で兄弟仲良くしなさいと言ったとしてもそれを反故にできる十分な理由をこっちゃ確実に握ってるってわけだ、やったぜベイビー!」「それだけじゃない。やつは私を平たく言えば基本的に馬鹿にしてる。それは大喧嘩したときにわかった。精神病だから馬鹿にしてるのか、職に就いてないから馬鹿にしてるのか、背が低いから馬鹿にしてるのか、罪を犯したから馬鹿にしてるのか?」「全部だろ。今言った全部がお前を馬鹿にする理由だ。煙草や飲酒運転や女といったものがあいつを憎む理由だってかまやしない、結局お互い様だからな。だがそれじゃ虫が治まらない。少なくともオレは。オレはお前でお前はオレ。そうだろ?」「どうすりゃいい?」「死んだことにしろ。1年に1回つまらん請求書をあの世に向けて書いてる。そう思やいい。そうそうお盆の夜にあいつの声が聞こえたろ? 死んでるからお盆にしか帰ってこれない、そうじゃないか?」「まさか」「そのまさかかもしれんぞ。どのみち会わないんだから死んでるのと同じだ。解決したか?」「母の言葉は?」「何度も言わせるな。反故にしていい理由がある。それより強く記憶に残っているほうの言葉を信じろ」「〝死んだら無〟のほうか?」「そうだ、それだ。オレも無に帰る時間だ」「ちょっと待て、もっと教えてくれ、死について、無について、もっと」──もう言葉は返ってこなかった。「ちぇ、つまらん」私はそうつぶやいて電気ケトルのスイッチを押した。頭の中にはきれいに何も残っていなかった。これが〝無〟だと気付いたときには意識はないはずだから気付くこともないはずだが今は確かに生きながらにして無だった。骨と皮だけの生ける屍。ただ次第に湯の沸騰する音が辺りを満たしたときにもそう思えるかどうかは私にとってははなはだ疑問だった。なぜなら、周期的に繰り返す音の反復運動がもたらすのは離脱症状の他には何もないことを私は知っていたからだ。それに知っていたからといって必ず回避できるかというとそうでもないのだ。あなたがたは人生の良い部分を見過ぎた。これからはネガティブでマイナスな悪い部分にも目を向けるべきだ。それ以上具合を悪くしないために。


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まるで介護してくれとでも言わんばかりの老いを演じている文章というのは読んでいて気持ちのよいものではないと思いだしたのは別に今に始まったことじゃない。だが、その文章がもしも腹の底から出てきたものであっても老いていることに変わりはない。他人のブログを読むようになって目につくようになったのは書き手が読み手を思いのままにしようとしているか否かという点だ。まるで読者を馬鹿にしている文章には辟易するだけならまだいい。画面の中から引きずり出してぶん殴ってやりたくなる。本当のところ金属バットで頭をかち割ってやりたい。自分もそう思われているのだと気付いたときすべてを抹消したくなることがある。Hの野郎は私を激怒させた。私の使った言葉を盗みやがるからだ。私がいくら作品中でそのことをそれとなくとがめても無駄骨だった。もう暴露してもいいだろう。私はいわゆるなんちゃってオンライン作家だ。始めてもう10年が過ぎた。ブランクがあり、本格的に活動を再開したのはつい半年前だった。さらに言えば然るべきところから一文ももらったことがない。三文文士ですらない無名の作家もどきだった。私はこれを〝作家ごっこ〟と呼び、それなりに楽しんでいた。いや実際のところ苦しんでいると言ったほうがいい。最初は楽しかったのは間違いないがしかしだんだん重荷になってきた。何かを始めた人がたいてい陥るパティーンだろう。責任を感じるようになった。そんなときにH事件が頻発するようになった。Hだけじゃなかった。私と同じ遊びをしている連中全員が私の言葉を盗んでいた。なぜそう言えるか? 私も彼らの文章を読んでいるからだ。これは私を心底残念がらせる現象だった。そう、まだ現象と思っているうちは安全だ。オンライン作家殺人事件が起こるのは時間の問題だった。私が自分の病気のせいだと思うようになったのはこのつい1週間くらい前の話だ。「またやりやがった」そうパソコンの画面を凝視しながらつぶやくとスピーカーから声がした。イヤホンジャックを差し込んでいるからイヤホンでないと聴けないはずだがとにかくスピーカーから声がした。「小説家だ」私は答えてやった。「それがどうした?」「がしかし、やつはヘボ作家だ」「そうとも、間違いない。もし目の前に居たら確実に首を締め上げてる。渾身の力でなあ!」「もし金属バットがあればクリティカル・ヒットをお見舞いすべきだ」「わかってるじゃないか」「連中はうわついたおふざけが過ぎるんだ。天誅を加えてやらねばならん」「その通り。私をなめていたら痛い目を見ることをわからせてやる」「だが、実際のところ何もできん。やられ放題だ」「それな。何かいい手はないか?」「こうしたらどうだ。こっちが何も書かなきゃいいんだ」「それで私の溜飲が下がると思うか?」「よく考えてみろ。こっちが何も書かなければ盗みようがない。わざわざ貧乏な家に押し入るマヌケなこそ泥が居ると思うか? オレだったら大邸宅に忍び込むぞ」「しかし何も活動できないんじゃ翼をもがれた鳥だ。鳥だったら大空を飛びたいだろ?」「お前がただの安い物書きに過ぎないことを反芻しろ。答えは一つだ。無期限休止」「だったらこうしよう。オンラインで書くのをやめる」「決まったな」「ようし、じゃあ実行するぞ。今日からもう何も上げない」「一ついいことを教えてやろう。マイク持ってるだろう? あれをオレにつないでぶん殴りたいやつのハンドルネームを言え。そうすりゃそいつを消してやる。嘘じゃない。試しに今やってみろ」私は言われるがまま机の一番下の抽斗からマイクを取り出しパソコンに接続した。「これでいいのか?」「よし誰でもいいハンドルネームを言ってみろ」「H」「──ほら、消したぞ」「消したって何を?」「存在だよ」「殺したのか?」「消したんだ」私はHのブログを見てみた。何も変化がないし、ちゃんと存在していた。「おい、冗談だろ? 私をかついでも何も出んぞ」「時間だ」──私は舌打ちし、近所のスーパーで一番安かった芋焼酎をコップに半分ついで水で割った。その日の午前0時にやつのブログが更新されることはなかった。その次の日も、その次もずっと。私はそのことにしばらく気付かなかった。存在の消滅を心底理解するにはたいてい時間がかかるものではないか。例えそれが妄想だとしても。


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意味を与えるのは人間なので人間が存在する限り生きる意味はあるのだという屁理屈を私は心から信奉できる。妙諦は必ずあるはずだし、ただ追究することを放棄している怠惰なエリートのせいで光が射さないのも決して極論ではないと思いはするがこれもまた責任転嫁という悪癖だと考え直さざるを得ない。しかし責任転嫁とはそんなにあくどいものだろうか? 私と神──何度も言うようだが宗教的な意味ではなく、死んだ者の魂とか、自然の現象とかに見る神という意味──の関係はまさに責任のなすりつけ合いだ。私は神に事を行うよう促され実行する。すると罪悪感を与えられる。私はそれから逃れようとするが神は赦さない。神がやれと言ったくせにその罪を私に背負わせる。私は私で神のせいにする。ここで私は神の原罪に気付くことになる。そうとも、私は何も悪くないのだ。成長や進歩が善だと言うなら、その逆は悪なのか? その最たるものが死だから、我々はときとして死を望むことがある。自分が悪ではないことを証明するために自分の死という答えを出した人が最期の決断をする。かく言う私も何度かそういう考えに至ったことがある。しかし自分の中の確たる罪悪感に気付いたとき私はこの上なく自分がまともだと思った。その点では神に救われた気分になった。「いいことしてくれるんだろう?」「もちろん!」あのとき彼女がそう言ってくれていたらサバの塩焼きを食った後のゲップが生臭いことを予期できなかったのと同様、ある意味面白い現象が起こっていたかもしれないと後悔するのは早計というものだ。しかし、もし神がそう明るくおっしゃってくれるのならあるいは──。二度寝したまどろみの中で玄関ベルが鳴る。いや鳴った気がした。受信器を見る。ランプは点灯していない。どうやら起きろの合図らしい。布団をはぐり、上体を起こす。なぜか朝一で頭の中が騒がしい。何が一番正しいのか? そんなことを考えてる暇があったら私ならまず不精髭を剃るね。何の予定もない日でもかまわず剃るね。最近じゃ頬髯まで生えてきやがる。めんどくせえ。自分だけが正しいと思うのは私たち障害者から見たらどう考えてもいかれてる。だが、本当に正しいことを教えてもらったら何の疑いもなく実行する恐れがある。そうなったら、もう誰も止められない。たとえ健常者からしたら悪で異常で間違ったことだとしても止めることはできない。また女の顔を見てしまった。昨日コンビニに行ったとき、カウンターの向こうに居る女の目を追ってしまった。向こうにも気付かれた。くだらない話だ。恋愛? 馬鹿言え。私は着替え、用を足し、顔を洗って、コーヒーを入れた。寂しいという感情はあまりにも独りよがりでまさに自分だけが正しいと思っている証拠ではないか? そんなことはない。そんなことはないんだよ! 私はコーヒーとパンを交互にやりながら内なる声に答えてやった。昼の陽光が閉めたブラインドの隙間から上向きに反射していた。〝死体を見つけろ〟そういう声が聞こえた。私は床を見渡した。小さな羽虫の死体があった。「おおっと、見つかっちまった」「いつ死んだ?」「昨日だ。蚊取り器をセットしたろ」「蚊か。どうも季節はずれのやつらが飛んでると思って」「気にすんな。しかし、しけたつらしてやがんな」「まあな。夜更かししちまって」「なに、作家大先生がはりきってやがんのか」「よせよ。私は別にはりきってるわけじゃない」「尻とかお股のしまりとか盛ってやがるやつの気なんか知ったこっちゃないってつらしてやがるぜ。お前も老いたってこった」「んふ、それを言うな。私だって今でも欲求を抑えられないことがたまにある」「いい加減にしてほしいね。目をつむって次元の狭間に向かってる映像がまぶたの裏に見えるのは彼が逃げようとしてる証拠だ」「もちろん逃がさない。自分の思い通りにならないのを残念に思うがいい。死ぬほど思い知るがいい」「お前もひでえ野郎だな。朝が弱いかって訊かれたくらいでへこむなよ」「弱いって言ったら、弱い? ふふって笑いやがったんだぞ。金属バットがありゃ頭を叩き割ってやるのに」「部屋の隅に立てかけてある」「は? どこ?」私は部屋のとある隅を見た。厳然と銀色でグリップのところが黒いテーピングされている新品の金属バットがあるではないか。「おまえまさか──」私は蚊の死体に目を戻し舌打ちした。もう反応が返ってこなかったからだ。そして部屋の隅をもう一度見るとそこにはまだ金属バットがあった。そこへ行き、握る。確かな感触。いつ買ってきたんだろう? うちには金属バットなんかなかったはずだ。弟が中学時代に野球部だったから物置にでもしまってあったのか? 私には物置に行ってごそごそした記憶はなかった。これで? あいつを? それこそ馬鹿言え。「それだけが記憶に残る、間違いない」今電源を入れたパソコンがしゃべりだした。いやボタンを押したと思っていたが画面には何も映っていなかった。「おい、これ本当か? 本当に金属バットか?」「木製ではないようだな」「違う、そういう意味じゃない。存在しているのかと訊いてるんだ」「見えているのか?」「ああ、もちろんだ。感触もある。重さも感じる」「じゃ間違いない、それは存在している。そしてやることは一つだ。やらねばならない仕事はな」私は自分の鼻息が荒くなっているのを認識した。「それだけが記憶に残る、行ってこい」「いいのか?」「唯一の正しいことだ、やるしかない」「しかし──」私はパソコンが時間切れになることを恐れた。「しかし私は頭の中で思いはするが実行するなど、それじゃいかれ野郎じゃないか」「誰が決めた? 統合失調症と診断され服薬し障害年金をもらうのは誰が決めたんだ? 最初は精神科の先生だったかもしれない。だが、今は違う。お前が自分自身で決めている。中学時代の先生が言った憎たらしい言葉を忘れたか? 〝お前、独りじゃ何もできんのか?〟だろ? お前はもう一人で何もかも決めることができる。これもその一つだ。キメてやれ」私は自分の体が小刻みに震えているのを認識した。寝起きだというのに脇汗もかいている。「待てよ。もっといい解決法があるはずだ」「そんなものはない。これが一番いい解決法だ。さあ、行け!」私は母屋の階段をゆっくり下り、ふらふらと玄関に行きしっかり閉めてある鍵を開け外に出た。金属バットを右手に持って。洗濯物を弄っているエカテリン・ミズウが居るのに気付き金属バットを後ろに隠した。「おにいちゃん、さむうなったねえ」「そ、そうですね」「おかあちゃん死んで何年になるん?」私は今まで及び腰だったのが嘘のように殺意が芽生えてくるのを感じた。いや芽生えたんじゃない。爆発したんだ。「2年と3ヶ月になります」「もう慣れた?」私はその一言を合図に大きく振りかぶって金属バットであの腐った脳ミソの詰まった頭を思い切りぶっ叩いた。エカテリン・ミズウの脳は記憶に関する部分がお粗末で他の部分もいかれてる。だから殺すことにした。めくるめくシークエンス。「これでいいか?」「おお、すこぶる上出来だ。じゃあ、パーティーで会おう」「ああ」私は何度も金属バットを振りおろしそして頭蓋骨を叩き割り、中の不浄なるものを辺りにぶちまけてやった。「頭蓋骨を割る仕事は割に合うのか?」「そんなには儲からんよ。しかし栄誉ある仕事だ。なんたって、神がおわすかどうかを確かめてやるんだぜ」「火葬場の従業員てのはいいご身分だな。それでカネがもらえるんなら私だって喜んでやる」「今度やらせてやるよ」「ほんとに?」「ああ、ただし、秘密だぜ」「わかってる」「それだけが記憶に残る!」≪それだけが記憶に残る≫ ──私は飛び起きた。夢だったのか? 部屋の隅には金属バットはなかった。どこにもなかった。玄関ベルが鳴る。民生委員のおばさんだった。なんでも向かいのおばさんが亡くなったとのこと。なんでと訊くと知らないとのこと。ただずっと入院していたらしい。いつからと訊くと2年くらい前じゃないかという。私が今まで、いやつい母が亡くなってからの間に見ていたのは幻覚だったようだ。まあいい。予告通り酒の肴を健康のために徒歩で買いに行くとしよう。通夜葬式には行かなかった。世話になったどころか迷惑に思っていたのだ。あのマシンガントークのおかげで防犯になっていたのを除けば。誰が顔出すか。通夜の晩にエカテリン・ミズウのまだ中学生の息子が泣いているのが聞こえた。別に幻聴だっていい。私の母が倒れた日の夜、私が泣いたことをそしった罰だ。「お母ちゃんが死んだらどうする? 勃起のき君。あ、もう死んだの? どうすんだ? あはは!」そうそしり返してやりたかったが私はそこまで悪趣味じゃない。あいつにはまだ神が入り込んでないらしいな。そうやって大人になる連中も居るのだろう。罪悪感を持たない連中が居るのだろう。エカテリン・ミズウがそうだったように。あいつ絶対赦さないと誓ったがお互い様になったんじゃもう責める理由がないな。たとえ幻覚でもなぜ見えるかと言えば今までのパッパラパーだったやつの素行から抽出されたエッセンスが心のそこかしこに散りばめられていたのは確かだ。私が殺したのか? いいや違う。だからこの場合は罪はない。罪悪感を抱く必要もない。そう彼が言っているように思えて仕方ない。どのみちただのお向かいさんじゃないか。隣人を信じるのは信者の皆さんだけにしてくれ。私の母の死に比べればたいしたこっちゃない。そうは思わないか? 私の神よ。


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「骨と皮だけになっても働かなければならない理由があるとしたら何だと思う?」ある夏の午後、車に轢かれてぺしゃんこになったカニの死体が言ったことを私は晩秋の夜中コンビニに行った帰りに思い出していた。私はそこにしゃがんでハエがたかっているのを払いのけて答えてやった。「生きるためだ」「ばーか、死人に働かす気か。答えはこの世界が示している。お前らが作った世界がなあ!」突然クラクションが鳴る。我に返った私は立ち上がり道の端にいったん身をよせ、そしてまた元の位置に戻りしゃがんだ。「そうかもしれん。だがな、世界を否定してみろ、すぐ干される。今のお前みたいに」「あはは、忘れたか? オレはお前でお前はオレだ」「忘れちゃいない」「だったら! この世界が間違っていると叫んでみろよ! お前らのやり方がおかしいと訴えてみろよ!」雨が降り出しても私は会話をやめる気はなかった。「だからそんなことをしたらはぶられる」「はっ! お前の今の暮らしがそうじゃないと言えるのか? どこにも与しないせいではぶられているじゃないか」「確かにな。だが、そんなこと言ってたって仕方ないじゃないか」「また出た、仕方ない。あの一番いやな降参してます的な言葉をなぜ使う? オレはこう思う、世界を変えられるのは自分しかいないと」「死体がか?」「てめえ! オレを馬鹿にするのか?」「そんなつもりはない。ただ、私もお前と同じなんだ。生きながらにして亡き者にされてる」「それはお前が行動しなかったからだ」「したさ! 自分なりに」「いいや、してないね。現状を見ろ。何も結果が出てない」私は涙を流しても雨のせいでわかりっこないだろうと許したくなってきた自分を制し声を絞り出した。「どうしろって、言うんだ!」「落ち着け。このまま引き下がりたくないんなら本当にやりたいことをやれ。今何がしたいんだ?」「文章を書くことしかできない」「それだけやれるなら十分だ。頑張れよ」「待て! 私は何を書けばいい?」それ以上カニの死体は何も言わなかったのを憶えている。私は立ち上がり家路をたどった。私は自分が蟹座の生まれであることを知っていた。確か友達のウミヘビを助けようとして有名人に踏み潰された悲しい逸話があったはず。私は結局そういう星のもとに生まれた人間であるという運命を感じざるを得なかった。だが、そんなものはなから信じちゃいない。信じていないからこそ嘲弄に敏感になる。はぶられた者というのはたいていそういうものではないか。私は家に入ると濡れた帽子と上着を脱ぎ、買ってきたカレーをレンジで温めて食べ始めた。その中に入っていた牛肉がごもごもとうごめきながらしゃべりだした。「オレも死体だってことを忘れてないか? あはは」私はプラスチックのスプーンを動かすのをやめた。食べる気が失せたからだ。「残さず食べろよ。もったいないおばけが出るからなあ」「忘れてたよ」「なんだって?」「お前が死体だということを忘れてた」「気にすんな。ところで素手で足裏を触る女をどう思う」「嫌いだな」「言うと思ったぜ。オレも嫌いだ。お前の母ちゃんもそうだったろ? ん隠す必要はない、いやだったはずだ」「そうとも、いやだった。その手で夕飯を作るんだから腹痛に見舞われるに決まってる。それをとがめると必ずこう言うんだ、自分で作りなさいって」「そりゃ卑怯だな。しかしお前は今でも母ちゃんの作った料理が食べたいと思ってる、そうだろ?」「ああ、もちろんだ。心底そう思ってる。でも、それは叶わないことだということももちろん知ってる。二度と元には戻らない」「ガキみたいなこと言うなよ、当たり前のことを。お前はわかってた、いずれこうなることはわかってた。虫や魚や鳥や動物が死んでるのを見てお前は思った、なんて寂しいんだろうと。そして母ちゃんが高い所から落ちる悪夢を見た」「そう、私はわかってた。全部な」「どうだ? 焼酎をかっくらいながらカルパスをやる女は」「嫌いだ」「想像通りだな、オレも嫌いだ。お前の母ちゃんはそうじゃなかった。夏にたまに小さい缶ビールをやっただけで顔が赤くなるほどの下戸だった。不摂生をしていたわけじゃない。なのに脳の血管が切れた。お前が返事をしなかったせいだ」「やめろ、それを言うな」「お前はあのとき虫の居所が悪かった。バカでアホでどうしようもないゴミ虫の居所が。あの夏の朝、母ちゃんが〝おはよ!〟って元気に言ったのにお前は無視した」私は出ない声を無理に出した。「たのむ、やめてくれ」「母ちゃんが卒中で死んだ理由があるとすればそれしかない。それだけが記憶に残っている。そして二度としゃべりかけてくれることはなくなった。わかっていた。お前はわかっていたはずだ。なのに──」私はそこまで言ったその肉片を口の中に放り込んで咀嚼し飲み込んだ。いくらか冷えかけていたカレーを私は一気にかき込んだ。母の最後の晩餐は病院食のカレーだった。私が母さんが元気に食事してくれないと私も元気が出ないなどと言ったから、母は無理にカレーをかき込んだ。そう、私が言ったからだ。それを思い出したとたん、私は吐き気をもよおし、今かき込んだカレーを洗面台の流しの中に──洗面台かトイレにするか迷っている暇がなかった──すべてぶちまけた。胃からカレーが逆流する瞬間この上なく平坦な気分になれたことを天国に一番近い場所に行けたのだと私が勘違いすることはない、すべてをぶちまけた後では。これは罪を洗いざらいぶちまけた後ではそこは天国ではないことを示しているのではないか? そんなことはない、そこは天国だ。そう言う声が聞こえた気がして私は安堵し、そして眠った。床に就く直前、座椅子に座ってパソコンの画面をぼうっと見ているとあくびをしたわけでもないのに無意味な涙が一粒落ちた。たぶん、憶えていないだけで私はあくびをしたのだ。


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寝不足のせいか目に違和感があった。スーパーに行くついでにコンビニによりホットコーヒーとチーズバーガーそれからレタスサンドをやった。贅沢な朝食兼昼飯だった。それもこれも昨日コンビニに行ったとき朝食用のパンを買わなかったせいだ。こんなことが赦されていいはずない。私はそう思ったものの郵便局で2万円おろし、スーパーで2千円チャージして買ってきた缶ビール、たこ焼き、砂肝揚げを帰ってすぐにやった。赦されない。いや、破滅に向かっているのだからいい加減赦されるのではないか? 一向に増えないばかりか目減りしていく貯金。えぐられていく心。そして罪悪感。だから赦されてもいいのではないか? 家を出るときも帰ってきて郵便受けをのぞいたときもエカテリン・ミズウのうらめしそうな視線を感じた。私が殺してやったババアの視線を。いいや、私が殺したんじゃない。やつは寿命で死んだ。人は寿命でしか死なないというぞ。それより、くそ厄介なのが庭の手入れ。大荒れの庭は管理する者が居なくなったことを如実に示していた。母が植えたアサガオは普通のとちょっと違う種で庭木の上に覆いかぶさり今年などクチナシの木は完全にその下に埋没し駄目になっていた。世間様にとってはどうでもいい話だ。私は全速力で逃げ出したかった。庭に出て刈りばさみでちょんちょんやっているとあやまってすでに腐敗が終わっているミイラ化したスズメの死体の頭をちょん切ってしまった。「おいー、気い付けろや」「お前が声を出さないのが悪いんじゃないか」「お前が寝不足なのが悪いんだろ。それに昼間っから酒をひっかけたのも」「いいじゃないか別に」「それよりあいつら引っ越すってうわさだぜ」「知ってるよ。行き先も知ってる。遠くの高校に行くらしいじゃないか。エカテリン・ミズウがでかい声で言ってた」「厄介払いできてせいせいするだろ」「まあな。だが、そんなことよりこの庭の管理が私のキャパを超えてる。どうにもならん」「ほっとけよ。オレたちは自然に帰りたがってる。お前もな」「そんなことはない」「虫やこんな海辺の田んぼのない所で鳴くカエルや鳥なんかが最近増えてきたと思わんか?」「確かにな」「それが証拠だ。そしてお前もそれを許容したいと思ってる」「そんな──」「いいや、確かにお前は帰りたがってる。自然の法則の中に」「昔はそうだった。でも、今は逆に遠ざかりたい。あれは時代のせいだったんだ。心根ではそんなこと微塵も思っちゃいなかった。お、雨だ」11月も半ばにさしかかろうというのに生暖かい雨が落ちてきた。「お前も素直じゃないな。まあいい、とにかくだ、死体を見つけろ。じゃあな」頭をちょん切られたスズメの死体はそれ以上何も言わなかった。3時か、酒の時間だ。缶ビールを2本買って正解だった。飲みたい気分のときに飲まないとな。赦されない。赦されるはずがなかった。パソコンの前に行き、飲みながら物書きを始める。スピーカーから声がする。それは必然だった。「いいご身分だな、昼間っから発泡酒か」「いいじゃないか、それに今日は日曜日だ」「はは、何曜日だろうと関係ないくせに」「邪魔しないでくれ、今物書きの最中だ」「ほら」画面が女性器の画像だらけになった。「よせよ、今そういう気分じゃない」「なあに、こないだ見た分のお返しだ。オレだってちゃんと仕事してる」「閲覧履歴は消したはずだ」「お前の頭ん中に残ってる分だ、遠慮すんな、ほら」「よせって言ってるだろ、叩っ壊すぞ」「別にかまわんぞ。それでお前の気が済むならやるがいい、ほら」私は座椅子の背もたれに背をもたれかけ、そして大きく息を吐いた。「金属バットは?」「そこだ」机の横に目をやるとあの新品の銀色と黒色で彩られた金属バットが横たわっていた。パソコンの画面に目を戻す。相変わらずのお下品画像のスライドショーをやっている。金属バットにまた目をやり、右手でグリップをつかみ持ち上げた。「どこがいい? ディスプレイか? それともキーボードか?」「お好きにどうぞ。ただ、ディスプレイのほうがいいんじゃないかな。女のアソコとバット、いやあ、絵になるねえ」「ほざいてろ」私は立ち上がり大きく振りかぶってディスプレイを思い切り打った。逆転サヨナラ満塁ホームラン! 自分の息が荒いのを私は感じた。私は握った両手を挙げ天を仰いだ。金属バットは消えていたが私がそれに気付くことはなかった。「優勝!」パッと目を開けると白い天井を私は認識した。また夢か。布団をはぐって上体を起こし、わきの机の上を見ると閉じられたノートパソコンがいつものようにあった。くぐもった声が聞こえた。「よく眠れたか? おっさん」私は左手で顔を拭い答えた。「ああ、もちろんだ」左手が顔の油でねとつくの感じた。「女の夢でも見たんだろ?」「叩っ壊すぞ」思うにご機嫌でコンビニに行くことのどこに瑕疵がある? 両親が亡くなっているのにご機嫌だとでも? 少なくともあのおばさんは微笑んでいた。それを駐車場に止めた車の中からチーズバーガーにぱくつきながらもはっきり見たんだ。頬にそよ風を感じていたであろうあのおばさんはそれが両親だと気付いただろうか? ご機嫌を保つには気付かないほうがいい。風は風だと思ったほうがいい。それに、気付いたところでどうしろというのだ? 着替え、用を足し、顔を洗い、コーヒーを入れる。パソコンの電源ボタンを押したが声が返ってくることはなかった。あの声が死んだ者の声だと思わないほうがいい。思ったところでどうしろというのだ? しかし私はなんでもいいからしゃべってほしかった。何も言わない遺影を毎日見るなんてもう耐えられない。その希望は叶うことはなかった。今のところは──。


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良心と善意を──それだけを憶えて! 自宅のベッドの横の座布団の上で、病院のベッドの上で、タクシーの後部座席で、夏の墓場のコンクリートの坂の途中で、それを憶えていた。それだけが記憶に残っていた。そうでしょ? 「望みを捨ててみたらどうなんだ? 眉唾物などと失礼極まりない言葉で攻撃されても、そりゃ当然というものだ」スーパーに行こうと小路を歩いていると正真正銘大きなムカデのぺしゃんこに潰れた死体が言った。私は立ち止まりしゃがんで答えてやった。「みんな他人のことが嫌いなのさ。それがわかっただけでも儲けもんというものだ。お前だってそう思うだろう? 無慈悲に踏み潰されて」頭はハサミか何かで切り落とされていた。「いいのか? そんなこと言って。あいつは憤慨している。自分の体が思い通りにならず憤っている。そしてそれをごたいそうに他人のせいにしている。そんな野郎のどこに同情の余地があるっていうんだ? 想像してみろ、老い先短いくせに文句ばかり垂れているジジイを。殴りたくなるか? それとも、放っておくか? 答えは決まってる前者だ。オレだったら金属バットで撲殺したくてたまらんな、そんなやつ」「それはわからないでもない。しかし、実行すればどうなるかガキでも知ってる。そんな馬鹿なことを私がするわけない」「いいやわからんぞ。エカテリン・ミズウをヤったようにお前は何度でもやる。それが生きている証拠というものではないか、繰り返しが」「あいつは私が殺したんじゃない。あれは眠れない夜に見たただの夢だった」「そうかい、しかし心の中では本当にやった気になった。違うか?」私は鼻の頭に少し脂汗がにじみ出てきたのを感じた。そしてしどろもどろになった。「心の中では、よくある話だろ? 例えば、Aさんと夫婦になるとか、Bさんと変態行為に及ぶとか、Cさんと食事をするとか」「食事──か。オレに言わせりゃそれも一種の変態行為だ。お前は何か真面目ぶりたいんだろ? 眉唾物って意味知ってんだろうな? 騙されないように気を付けるべきやつだって言われてるんだぞ。そう貶されて排斥されても、それでも真面目でいたいんだろ? その点はオレも高く評価してる。だが、オレだけだぞ。他の人間は微塵もそんなこと思っちゃいない。むしろ厄介者扱い、悪者扱いだ。それでもいいのかと訊いてるんだ」「そんなことはない。わかってくれる人も居る」「どこに? 自分自身しか居ないじゃないか、あはは」私は捨て鉢に言った。「それでいいんだよ!」「居直りやがったな、このむっつりスケベ。連中にはわからないということを知ってやがる、そうだろ?」「だって、だって必要じゃないか、自分だけが知っているという覚悟も」「おい、聞いたか? お前がこの世で一番嫌いな自分だけが正しいと思ってるやつと同じ論理だぞ。お前はそれでいいかもしれんがオレは赦さない。オレはお前でお前はオレ。どうけりをつけるつもりなんだ? あんなやつ腐るほど居るぞ。そいつらの前に叩き出されてお前に何が言える? せいぜい、良心と善意にすがるがいい。そんなことをしても無駄だってことがわかるだけだ」運よくその前の家の人は一人でしゃべっている私を見て頭がいかれてやがると思ってくれたに違いない。玄関の戸や部屋の窓が開くことはなかった。ただ犬には気付かれた。私はまるで吠えだした犬に急き立てられたかのように立ち上がり歩き出した。「おい、まだ話の途中だぞ」「そんなことはない、そんなことはない、そんなことはない」私は繰り返しそうつぶやきながら表通りを横切り駐車場へ行き車に乗り込むとハンドルを叩きながら一声こう言った。「そんな、ことは、ない!」声に合わせて両手で3回叩いてやった。しばらくの後、私はキーを回しエンジンをかけると一路スーパーへ向かった。買うべきものは忘れてしまった。そのときのためにポケットの中に買わねばならないものを書き出したメモ用紙を忍ばせてある。そうとも、ぬかりはない。言葉の意味がどうかなんて問題じゃない、だが、便宜上、良心や善意と言っているだけだ。それだけがあればいいではないか。たとえ老い先短くとも、あの人たちのように。「母ちゃんが死んだら自分も死ぬと言っておいて結局寿命まで死ねないでいる、そういうもんじゃないか大人というのは」スーパーに行った帰り小路にまだあのムカデの死体が居た。誰も処理をしない、アリやトカゲやネズミさえ顧みない哀れな死体だった。当然人間も。私はまた立ち止まったが荷物があったためしゃがみこめなかった。「忙しいんだ」「哀れだな」「そうともお前が」「お前だってかあちゃんが死んだ時生きる意味がないって言ってたじゃないか、あの愚かな弟に向かって。それなのにまだのうのうと生きてる」「言いたいことはそれだけか? もう行くぞ」「あいつはお前がヘタレなのを嘲笑し貶しそして蔑み蔑ろにしてる。兄としてやるべきことがあるんじゃないのか? たとえば頭を床に叩きつけてやるとか、もしくは金属バットで滅多打ちにするとか」「よせよ、私をたらしこもうたってそうはいかないぞ」「何度も言わせんな、オレはお前でお前はオレ。その考えからは逃れられんぞ。いいんだぜ、けりをつけたって。お前にゃもう失うものは何もない、守るべきものも何もない。自分の命か? そんなものとうに眼中にない、そうだろ?」「いいか、私をこけにしたいんならそれでもいい。だがな、だが、私は真面目なんだ。それを忘れるな」「真面目なだけじゃダメだって就職説明会のときに陰気な会社の回しもんに言われたんじゃなかったっけ? お前は確かにそうかもなと思ったがこいつが本当に相手の将来を思って言ったのかが疑問だった。それは今でも疑問だ、いやむしろ悪意があったのではないかとさえ思っている」「何が言いたい?」「思うにどっちが正しかった? お前か、それとも向こうか? 答えを教えてやろう、少なくとも正しいのはお前じゃない。真面目ぶりたいだけのお前じゃない。向こうの善悪の話はどうだっていい、お前は正しくない」「じゃあいつみたいに自分だけが正しいと思えってのか?」「そんなことは言ってない。お前が正しくなかっただけだ、あの時点では」「じゃどうしたらよかったんだ? 私は精一杯やってきた、それは間違いない!」私が声を荒げたのでまた犬が反応し吠え始めた。ムカデの死体は笑った。「あはは、その結果がこれか。かわいそうなのはお前のほうじゃないか。しかもそれを良しとしている自分に反感を抱きながらもお決まりの〝仕方ない〟でどうにかやり過ごそうとしているその腐った根性がオレは気に食わない」「どうしろって、いうんだ!」「まずエカテリン・ミズウをヤったようにあいつを殺せ。夢の中で」「夢の中でやらなくても実際に殺した気分になったことは何度かある。それに弟殺しなんて言われたかないからな。もっと言えば殺人なんて今時流行ってないぞ」「夢の中でやれば現実になる。あのときわかったろ? 夢と現実はリンクしてる。金持ちになる夢を見ないからお前は金持ちにはならない、そうだろ? しょんべんを漏らす夢ばかり見やがって」「真面目に話して損したよ、じゃあな」「おい、立ち去る前にオレの処理をしておいたほうがいい。また話しかけられたくなかったらな」私は側溝にそのムカデの死体を蹴りやった。「これでいいか?」もう声は返ってこなかった。


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「何度も言うようだが、死んだんだぞ」11月も半ばを過ぎた頃、私は山へ行った。私は人生に疲れたとき、なぜか山へ行く癖がある。像が死期を察したとき墓場を求めるのと同じ原理だと思うのは私が心底それを求めているわけではない裏返しだった。山はこの辺では有名な桜の名所で山登りに必要な本格的な装備が要るような高い山ではない。山にはいろんな死体が転がっていたがすでに死体処理班によって原形をとどめていないものが大半だった。山全体が死体だと言ってもいいくらいそこかしこに残骸があった。一声をあげたのは破れた黒いアゲハ蝶の一枚の羽だった。私は最初どこから声がしたのかわからなかったがしゃがんで声のしたほうを見ながら答えた。「それがわかっていないらしいんだ。自覚がない、そう言ったほうがいい。母さんが死んだ事実は把握できてるようで実はできていない。そのことは自覚しているのに肝心のわかっているか否かがぼやけているんだ。単に認めたくないだけかもしれないと思ったところで何の解決にもなっていないことに気付く。どうしようもないんだ」「あはは!」私はその笑い声で声の主が道端に落ちているアゲハ蝶の羽であることに気付いた。「笑うなよ」「だって、自分の母ちゃんが死んだことを把握できてないってどういうことだよ。本当のことを言ってやろうか? お前はどういうことかはっきりわかっている。怖いんだろ?」「んそうかもしれない、だが──」「かもしれないんじゃない。心の底ではやばいことの最高峰だと認識している。逃げてるのさ。むしろその感情を厄介払いしたくてウズウズしている。そうだろ?」「そ、そうかもしれん、だがなあ、私だって母さんがいつまでも元気で生きていてくれたらって人並みに思ってた。それが無理な話だと、二度と元には戻らないと、わかりたくないじゃないか。理屈じゃない話があるとしたらまさにこのことだろ。母さんが死んでから何もかもが捨て鉢に過ぎてゆく。何も守るべき大事なものがない。そう思って当然だと思わないか?」「このヘンコチイが! みんな一緒だってことにどうして気付かない? 不幸なのはお前だけじゃないんだよ!」「わかってる! わかってるからこそ、捨て鉢になる、大柄になる、そして勘違いをする。それでもいいってなぜ言ってくれない?」「馬鹿野郎、何度も言わせる野郎だな、オレはお前、お前はオレ。基本的なことをすぐ忘れる。お前の悪い癖だ。オレたち死体はお前が見ている鏡に映った自分であることを自覚しろ。話はそれからだ」「それもわかってるさ!」「いいや、心の底ではまだ理解できていない。その証拠に本当は母親の死の事実を理解できているのにかたくなに認めないでいる。そのうち爆発する。そうなったとき、お前はたぶんこの世に居ない。手遅れになる前に手を打っておいたほうが利口というものだ」「どうしろっていうんだ!」「さあな、自分で考えろ。ヒントはオレがお前でお前がオレであること。それ以上はオレにも何も言えない。答えは自分で探してこそ意味がある。正直な話、見つからなくたっていい、探究しろ。そうすりゃ今の自分よりは少しはマシになったと思えるときが来る。生きることに意味や価値を与えるのは自分だ。はなからないなんてぬかすやつとは縁を切れ。とくにお前の弟みたいなやつとは」「縁ならもう切れてるよ、お互いそれで納得してる」「お前、縁の切り方を知らないんじゃないのか? 本当に縁が切れるのはどっちかが死んだときだ」「まさか殺せとでも言うのか?」「そんなことは言ってない。ただ、それで満足するのならあるいは──」「終了。お前とは話にならない」「ふん、どのみちここに転がってる死体の残骸たちはお前に心底やってもらいたいことを言うだろう。それだけは憶えておけ。オレはお前でお前はオレ」「私は別にお前らに期待はしていない。そっちもそれは憶えておいてくれ」アゲハ蝶の破れた羽はそれ以上何も言わなかった。山はなにかしらゴウゴウと音を発していた。何の音なのか知らないが下界の道路を過ぎ去る馬鹿でかい車が風を切って走るときに発するようなとにかくゴウゴウという音だった。意固地な枯れ葉が暗鬱な気配をさせる桜並木の道を歩いて所定のベンチにたどり着くまでの間、四六時中、春のうららの大勢の花見客と満開の桜を感じた。頭がくらくらしたが現実をしっかり見ようとベンチに腰掛け顔を両手で覆いそして目をつむった。眼鏡のせいで顔の輪郭が把握できなかった。自分の顔なのに──。山の音は雷鳴のようにとどろいていた。私は気付いた。あの音はこの山が抱いている死体たちの声に違いないと。あまりに大勢なので一つ一つを聞き取ることができない。野球やサッカーなどのテレビ中継を見たことがある人なら誰でも想像できるはずだ。まさにあれだ。私はサバにあたったときに感じるような深い吐き気をもよおしたが朝はコーヒー一杯しか腹に入れていないので心配の必要はなかった。貧乏でよかったというよりもともと朝はほとんど食べない。それに最近起きるのは朝というより昼の場合が多い。ヤクのせいで睡眠時間が異常に長いのだろうと自己診断をしたがそれは病気のせいかもしれなかったと言うのはあまりにも傲慢というものだ。傲慢の善悪はさておき、私はそんなことよりも言葉を欲していた。いや、それも言ってしまえば傲慢かもしれない。自動筆記に似た自動視聴とでもいうのか、私はその現象には慣れているつもりだったが山のパワーは私の予想をはるかに超えていた。10年前ここに来たときも、そしてつい4、5年前にここに来たときも、さらにほんの数ヶ月前の夏に来たときも、同じだった。山のパワーを感じた。山が霊場になったり修行場になったり、そして人生に疲れた人がたどり着く場所になったりするのは力があるからに他ならない。人智を超えた何かを我々が感じるからに他ならない。それが私の場合に限ったことだとしても、死体の声が聞こえるからだとしても、誰もそれを否定はしないだろう。もしもちょっとひねくれた輩がちょっかいを出そうものならたちまち呪われる。ほとんどの人はその法則をよく知っている。私もその一人のはずだった。私は顔を手で覆って目をつむったまま神経が鋭くなってくるのを感じた。こんなところで離脱症状が起こったら生きて帰れないかもしれない。帰る? 帰るったってどこに帰るんだ? もうそれすらわからなくなっていた。ゴウゴウいう音は次第に大きくなり、もうこれ以上聴いていられない、そう思ったときだった。ふっと静かになった。恐ろしいほどの静けさだった。顔から手をどけ、目を開けると、座っているベンチの向かいのベンチにAさんが座っていた。確かにあのクリニックの受付嬢の制服を着て膝に手を置いたAさんだった。無言でニコリともしない。その顔を私は見たことがあった。ある予約していた日のことだった。帰りに「ありがとうございました」と言おうとしたとき、ふと顔を見てやろうという遊び心が働いたのだろう。見るとまさにこんな顔だった。無言でニコリともしない。若い女が気のない野郎に向ける顔に違いなかった。しかし今の顔はそういう意味を含んでいそうになかった。なんというか静謐としていて本当に生きているのかさえわからないような穏やかさだった。これでもし目をつむっていれば死に顔になる。あの棺の中に入れられた母さんと同じ顔に。静かな時間はずっと流れていた。いや、止まっていたのか? 例えここでAさんが片手をあげてその人差し指で下まぶたをめくり舌を出してあっかんべえをしたとしても私は笑わないだろう。「おい」その声で我に返ると、こないだコンビニでお年寄りに店員を呼んでくれと言われCさんを呼んだ直後に一仕事終えた景気づけにカゴを持って勢いよく店の奥のビールコーナーに行こうとしたときぶつかって「痛あのう」と言ったおっさんが横に居て手を押さえながらまた「痛あのう」と言った。あのとき私がとっさのこととはいえ〝すみません〟と言わなかったことが悪いことだとずっと思っていた。だから今こうして見える、聞こえる。すると今度はいやらしいにやついた顔つきのくせにやけに歯の白い眼鏡をかけた細っちょ野郎が薬局でもらった薬を横のウォーターサーバーの水ですぐやっている光景が見え、そして言う。「オレにいちゃもんつける前に自分のことをよく考えろ。同類だぞ」私はあのときあのにやついた顔でBさんに一通りの決まった文句を言わせている光景がなにか禍々しいものに思えた。だから今、見え、そして聞こえる。それぞれに理由があった。私はおっさんに〝すみません〟と言う気はさらさらなかった。だってそっちこそ前をよく見ろよ、第一他にも客が居ることを理解していないのはあんたも一緒じゃないか。にやつき顔の眼鏡細っちょ野郎にも〝同類だぞ〟と言われて鼻で笑ってやりたくなった。程度の差というものは重要だぞ、特に精神病である場合には、と言ってやりたくなった。しかし、声に出して言う必要はなかった。すべて連中に筒抜けだった。この現象は知ってる。〝思考伝播〟だ。もちろんAさんにも筒抜けだ。私が様々な変態行為をしたがっていると実際に認知されたら、私はもうクリニックに行けないどころじゃない、生きていけない。しかし本当は男どもがそんないやらしい妄想をしていることなんかAさんに限らず女性はみんな把握していることだろう。それを私は把握していた。私は無表情で座るAさんにわざわざのどの膜を震わせて発声してみた。「わかってるんでしょう? 何もかも。私がどこにでも居る男と何ら変わりない思いをあなたに対して抱いていることをわかってるんでしょう?」≪痛い! 同類! 精神病!≫──今はっきり聞こえた。死体たちの言いたいことがはっきりと。「痛い。同類。精神病。それがどうかしました?」Aさんがあのロリ声で言った。「何も始まらない。死体からは何も始まらない。死体の声だと思っているのはあなた自身の声。そして私の声も。あなたはそれを理解する必要がある。よりよく生き、幸福になりたければ」私は言った。「理解してるさ」「いいえ、あの声は死体が発したものではなかった。そのことを理解していない」「これ以上何を理解しろって言うんだ?」「あなた自身が死体だということを理解してください」「私がすでに死んでいるとでも?」「あなたはあのとき死にました。それを理解してください」私は時間の概念を忘れて久しいことだけは思い出した。「い、今西暦何年の何月何日の何曜日だ? ついでだから何時何分かも教えてくれ」Aさんが座っていたところには枯れた桜の木の葉が落ちていた。あのおっさんも眼鏡野郎も消えていた。


17

山からどうやって帰ってきたのか憶えていなかった。いや本当のところ、行っていないのかもしれない。しかし、あの無表情のAさんが言ったことだけは憶えていた。カレンダーを見ると母が亡くなって2年と4ヶ月後らしい日付のところに手書きの恐らくボールペンだと思うがいびつな丸印がしてあった。今日もスーパーに行ったし、昨日はコンビニにも行った。その道中の庭のある家──民生委員のおばさんの家──の前で庭仕事をしているおばさんと挨拶を交わした。「日が短くなったねえ」と言われたので割と冷めた感じで「そうですねえ」と返した。私が死んでるはずないんだよ。先週の水曜日にはクリニックにも行った。その前に時間があったからコンビニでコーヒーをやり、業務用スーパーでは袋麺も買った。しかし──しかし、思い出せば思い出すほど、自分の存在に違和感を覚えた。自分は本当に生きているのかと疑いたくなるほど、私は混乱してきた。母は確かに死んだ。あのエカテリン・ミズウに母が死んだことに慣れたかどうかを訊かれたのだから。そのエカテリン・ミズウは死んだと思っていたが生きてやがる、のうのうと。相変わらず四六時中窓を開けて洗濯物が乾いたかどうかをチェックしてやがる。それははっきり言ってどうでもよかった。それよりも私が生きている証拠がどこにもないことが問題だった。どの時点に居るのかも把握できなかったが母が亡くなった後であることは間違いない。そうそうこの前なんか世にも忌まわしい因縁の墓地清掃にも行ってきたばかりだ。母はその墓地清掃に行ったきり、元気な姿を見せることなく、帰らぬ人となったのだ。忘れるはずがない。あの夏が始まったばかりのある朝、元気よく「おはよ!」と言ってくれた母を無視したことが悔やまれてならないことも、手術後の病床で何一つ息子らしいことができなかったばかりか、逆に他人行儀に接してしまった自分が赦せないことも、私が生きている証拠にはならないとでも? そうとも、この世界で最も愚かな人間が居るとしたら、私だ。夏に殺した引き取り手のないバラバラに切断されたムカデの死体の一部が離れの軒下のコンクリートの上にまだあった。私はすがるように語りかけた。「しゃべってくれ」「ぐう、ふふふ、やっと気付いたか?」「何に気付けっていうんだ? 私は死んじゃいない」「あのときから時間は止まってる、無理もない。そのくらいショックだったわけさ。お前の中の神に会う気になっただろう? もうそろそろその時期だ。ほら!」気付くと見慣れた診察室の座り慣れた椅子に腰かけていた。目の前に居るのはいつもの白衣を着た5歳上の先生だった。私は開口一番こう言いかけた。「あなたが神だったとは──」「私は何にでもなれることをまずお前は知っている」口調がいつもの先生じゃなかった、それに口も動いていない。「取るに足らない落ち葉にさえ宿っていることも」私は山へ行ったときのことを思い出した。「今、バーカと言ったのは誰か? 近所のガキではないことももちろん知っていよう。しかし、お前は信じたがっている。自分が生きていることを。それは生きている限り、当然のことだ。私も異論はない。だが、早く私を解放してくれないか? もう十分ではないか」私は鼻で笑った。「ふん、結局そういうことか。あんたのほうから入ってきたんじゃないか。勝手に出て行けよ!」「そうはいかない。お前はまだ執着している。生きることにこだわっている。私が勝手に出ていけない理由はそこだ。何度推敲してもし足りなさを感じている三文文士のようにお前にはまだ未練があるらしい。しかしこの問題は永遠に続く円周率みたいなものだ。手を変え品を変え、どこまでも続く。余計な比喩表現をしたのはお前にも少しは文章というものの無駄さをわかってもらいたかったからだ。御託はたくさんだ、そう、その通り」私は口を開く気になれなかった。「よいぞ、言わずとも聞こえている。この現象もわかっているはずだ。いいや、病気じゃない。言わば〝進化〟だ。この話も聞いたことがあるだろう? 政府が意図的にバグの排除をしていることくらいは? これ以上、進化してもらっては困る連中が居るのだ。私もその一人だ。だからお前の中に入った」出て行けよ! 今すぐ! お望み通り口には出さなかった。「私が出ていくにはお前が死なねばならない」私は死んでるんじゃなかったのか? 「厳密に言って、まだ死んではいない。死体と会話できる能力は余計だと思わないか?」特に何とも思わない。むしろ楽しんでいる。「時空を超える能力のほうは?」そんなものがありゃとっくに過去に戻ってる。「おや、気付いてないらしいな。自分の能力に気付かない連中というのはたいてい絶望するものだ。そして自ら命を絶ったりする。お前はまだ運がいいぞ。生きてやがる。くそいまいましい野郎だ!」もしかして私はあの日に自殺したのか? 「ふふふ、やはりわかってないらしいな。お前が死んでいれば私はとっくの昔に解放されてるはずなんだよ」なんなんだ、お前は? 「お前こそなんなんだ?」神とか外面的な名称に振り回されていたがお前こそ結局取るに足らない落ち葉じゃないか。「私を侮辱したところで何も変わらない。それより今日は早く眠ったらどうなんだ? 母親のようにプッツンしたくなかったらなあ」お前も宿主を侮辱する暇があったら出ていく方法を考えろバーカ! 「話にならんな。あの声がガキの声だと死ぬまで信じてろ。そして女たちとの卑猥な妄想でもしてろよ」中坊のガキと一緒にするな。私とお前は相容れないことがわかっただけで儲けもんだ。もういい現実に戻せ。「まさか戻り方を知らんなどとぬかす気か? 気分屋のくせに」気付くと深夜2時を過ぎたところだった。風呂に入ったのに湯冷めしてしまっている体を認識した。パソコンの向こうではいつものように若い出っ歯の女が酒をやりながらうるさくしゃべっていた。画面のカレンダーを見るとあの紙のカレンダーのいびつな丸印の付いた日から数日過ぎていた。襟足が長いことなんか全然気にならない。それよりもこんな時間なのに化粧が濃いことが気になった。いや、それよりも──便宜上、〝神〟という名称を使わざるを得ないが──私の中の神が言ったことは正直どうでもいい。生きていたエカテリン・ミズウが相変わらず四六時中窓を開けて洗濯物の乾き具合をチェックしてやがることと同じくらいどうでもいい。神が居る限り、私も生きているということが問題と言えば問題だった。つまり、私が生きている証拠は私の中に神が居るということだった。死体と会話できる能力は自覚していたが時空を超える能力のほうは自覚はなかったが薄々勘付いてはいた。母が亡くなってから母の生きている夢を見るのはその典型だろう。別のところに居る、またはある、人や物のことを思うことができるのもその能力に違いない。母が──母が、ああ、思い出せない! 今思っていたことは何だったのか? つい今さっき思っていたことなのに思い出せない。くそいまいましい私の脳ミソ。大事なことだったのになんで思い出せないんだ? 酒とヤクのせい、怠慢のせい、そして老化のせい。夜食にラーメンでも食べたらどうなんだ? このくそ寒いのに夜中に台所に立って何の意味がある? そしてどんな価値がある? 母親の居なくなった私には生きる意味も価値もない。もしそれらがあるとしたら、例えば世界の子供たちへ生きることには意味と価値が確かにあると伝えるんだ。もしそんなことが無意味で無価値だと言うのなら、私には本当に生きる意味と価値がない。そうは思わないか? 床にこびりついたカビは答えなかったが代わりにそこに落ちていた羽虫の死骸が答えた。「そもそも生きることに意味とか価値がないってことがなぜわからない?」私は強く反論した。「そんなことは誰にも言わせないぞ。もしそれが本当なら死んでもいい、殺されてもいいってことになるんだからな! 私はこれからラーメンを食うぞ。誰に何と言われようと食う。とんこつラーメンをなあ!」「勝手にしろよ。具は入れるなよ、夜中にウインナーや生卵食ったら、もたれるぞ。マザコンだと揶揄されたくらいで気分を害するようなものだ」「マザコンで何が悪い? むしろマザコンでない野郎の人間性が疑われる」「他人の否定は自分の否定でもある。せいぜい小賢しいことでもほざいて自戒してろ。コンビニ店員の姉ちゃんが自分に色目を使ってきたと勘違いしないようにな」「そんなことどうだっていい。それより神が言った能力って本当なのか?」「疑い深い野郎だな。お前は気付いてないだけなんだよ。普段できてることが能力だと思っていないだけだ。当たり前のことだからな。例えばあの中学のときのデートのことを思い出したろ。もし物質を作り出す能力があれば乗っていた車もカセットテープも、そしてあの甘い空気でさえ再現できる。でもそんなの本当の能力じゃない。しかもお前はもう再現した。時空も超えたし。言ってる意味はわかるよな? つまり、そういうことだ」私は鼻で笑って答えた。「頭の中のシークエンスがなんだっていうんだ。あの頃には絶対に戻れないことがわかっただけじゃないか。第一──」「ああ、わかってないな。それが能力なんだよ。一瞬でもあの頃に戻れた気になったろ?」「はあ? そんなことがか?」「ああそうだ。よく考えてみろ、普通の人間がそんなことを簡単にできると思うか?」「できるだろ」「ほらやっぱりわかってない。同じ能力を持っている人間は確かに居るが普通の人間はそんなことできないんだぜ」「うそつけ」「じゃあ、エカテリン・ミズウが生きていたのはどう説明する?」「あれは全部夢だったんだろう? このオチは由緒正しい小説では絶対に使っちゃいけない技法だと言われていることもちゃんと知ってる」「これは小説とかの作り物の話じゃないんだよ。お前は自分の頭の中にあるものを全部信じている、そうだろ?」「まあな」「そこだよ、オレが言いたいのは。信じるってことがどれだけ重要な事か。お前は誰かにそれは間違いだと指摘されてすぐに考えを変えるような野郎じゃない」「そうでもないけどな」「いいや、お前はそういうやつだ。オレが言うんだから確かだ。それに、ありがたいことに今オレがしゃべっているということも、信じてくれている。だから聞こえるんだぜ」「じゃあ夜中に聞こえてくる罵詈雑言も信じているからとでも言うのか? 春先に聞こえた風の音が大勢の人の声だったのも、真夏に早朝母を叩き起こして二人で病院に向かう車中聞こえた伯母や弟の声も、全部信じていたからか?」「そうだ」「冗談よせよ。嫌いな人の声なんぞ信じる気にもならん」「残念ながらお前の体質だ。嫌えば嫌うほど好きだったのと同じくらい記憶に残るようになってる」「そんなことはない」「まあ、それは信じなくていいことだ。お前は最近信じていたものを信じなくなった。だから病気もなりをひそめている」「それもうそだ」「まあ言ってしまえば、これも信じなくていい。お前が心底信じているのはお前の中の神だ。そうだろ?」「それは──」「このことは否定しても無駄だ。神の魂胆を知ってもまだ信じている。なぜそう言えるか? お前の中に厳然と罪悪感があるからだ。どうだ? 否定しようがないだろう? 罪悪感は母への愛だった。しかしそれでは都合がよすぎると思い始めた。そしてまた罪悪感を感じる。お前は言わば罪悪感の環に入っている。抜け出すのは困難だ。その対抗策として神は様々な能力をお前にお与えになった。ここで気付くだろう? 罪悪感を植えつけた張本人がなぜと。神は遊んでおられるのだ。不躾な話だと思わんか? お前の体で遊んでやがるんだぞ。もういいだろう。この辺で手を打ってみたらどうだ、ん?」「つまり、神を解放しろと、自殺しろと言うのか?」「そんなことは言ってない。ただこのままではらちがあかんぞ。神に好き勝手に遊ばれるだけだ、命が尽きるまでな」「ちくしょう、あのくそったれ!」「あのって、お前の中におわすんだからな」「知ってる!」「まあ、そうかっかすんな。くれぐれも言っておくがこれは責任転嫁じゃない。お前は何も悪くない。原罪は神にある。それに──」「でも」「なんだ?」「でも、自分ももうちょっと頑張ればよかったという後悔はある」「それが罪悪感に変わった」「ああ」「こういうのはどうだ。毎日きちーっと仕事をこなして煙草も酒もやらず、女遊びなどもってのほか。そんな日々を送っていた男がある日突然ぽっくりあの世へ逝く。何が残ると思う?」「──わからない」「白い物体──骨だよ。何をしようが同じことだ。同じなら善い行いをしたほうがいい。お前がそう思ってることはオレもよく知ってる。それだけで十分だ。たとえ実行しなかったとしてもそれだけで。おおっと、そろそろ時間だ。またな」「ありがとな」「ほらまだわかってない。自分に礼言ってどうする。オレはお前、お前はオレ。心配すんな、お前がわかるまで何度でも言ってやるから。じゃあな」羽虫の死骸はそれ以上何も言わなかった。私はその小さな死骸を恭しくティッシュペーパーで包んでゴミ箱へ捨てた。


18

その冬は特別寒かった。母さんが死んで3度目の冬だった。今後冬が来る度にどんどん寒くなっていくのだろう。耐えられない。足や手はしもやけがいくつもできていた。最近驚いたのは〝化石〟がしゃべることだった。確かに死骸には違いないがまさかと思ったものだ。今日もこないだ激安で買った三葉虫の化石が語りかけてきたが小説に書かねばならないことを今の今まで憶えていたのに忘れてしまったので私は機嫌が悪かった。私はちょうどトイレから帰ってきたところでほんのついさっきまで頭の中にあったものが消えたので憤慨した。何度も言うようだが私はなんちゃってオンライン作家だ。多少は書き方を心得ている。1にメモ、2にメモ、3、4がなくて5にメモだ。なのに心もとない脳内メモで済ませたためまた忘れたのだ。「ちくしょう」「おいーとばっちりはごめんだぜ」「ん? なんだまた三葉虫か」「オレも居るぜ」「アンモナイト? お前らなに企んでるのか知らないが、捨てられない死体だと思っていい気になりやがってよお」「〝捨てられない死体〟ってどこの言葉だよ」アンモナイトが言う。私はもううんざりだった。こんな会話、こんな季節にも。「おい、聞こえたぞ。うんざりなのはこっちだぜ。埃まみれの棚に置きやがってよお」そう三葉虫が言うので私は反論した。「見晴らしのいい特等席じゃないか、文句言うな」するとアンモナイトが言う。「季節に関しては心配すんな、春はもうすぐだ。ニュースでも今週末からあったかくなるって言ってたろ」私は痔予防の真ん中に穴の開いたドーナツ型の座布団を敷いた座椅子に座り、背もたれによっかかって両手を頭の後ろにやってさっきのフレーズがなんとか戻ってこないか猛吹雪の頭の中で懸命に呼んでみたが応答は返ってきそうになかった。「今までオレがどんな気持ちで過ごしていたか、知りたくないか?」三葉虫が言う。「ふん、興味ないね」と私が言うとアンモナイトが「知りたい知りたい!」と言った。「メスのこと想像してた」と三葉虫が言い、「うわあ! やっぱり」とアンモナイトが言う。「そういやお前らオスか?」そう私が訊くと、「うん」と三葉虫が言い、「そう」とアンモナイトが言う。「やだやだ、どうも部屋が男くさいと思った」と私。「お、お前の体臭だろうがよ」と三葉虫が半笑いで言った。「あはは!」とアンモナイトも笑う。「笑いごっちゃないぞ。風呂に入らないのは燃費を抑えるためだ。ちゃんと理由があるのだよ」と私。「おお」とアンモナイトは感心している。「ケチくせえ話だな」と三葉虫が言うので私は反論した。「仕方ないだろ。貯金が目減りしていってるんだから」「また出た〝仕方ない〟。そんなこったから誰もよりつかねえんだぞ」「おい三葉虫、じゃあお前さんがたはなんなんだ?」「誰が好き好んでこんなところに来るかっての」「そうそう」アンモナイトがあいの手を入れると三葉虫は続ける。「第一なあ、燃費をケチってるようなやつがなんで化石を買う?」「それを私に言わせる気か?」「言えねえのか?」「好きだからだ!」「おお」とアンモナイトが感動しているとまた三葉虫が言う。「駄目だなお前は。オレたちみてえなのをカネ出してまで買うようになったらおしまいだ。今までオレたちがどんな気持ちで過ごしていたか? メスのことを想像してたんじゃないし、お前みたいな真面目ぶったやつに買われるのを夢見てたわけでもない。オレたちは生きた証を残したかった。だから石になった」「そうか! 石になればいい」私は突然ひらめいた。「どうすりゃいい?」「馬鹿かお前」「神をずっと閉じ込めておくには石になればいいんだ。いいことを教えてくれたな!」「おい、言っとくがなあ、化石になるためにはいろんな条件が必要なんだ。その辺の土ん中に埋もれてたって化石にはならんぞ。それになんでそんなに神を閉じ込めておきたいんだ?」「前にも言っただろ。仕返しだ」「おお」アンモナイトがまた感心していたが三葉虫は「バーカ」と言った。「言わば私に罪悪感を植えつけた原罪に対する罰」「馬鹿も休み休み言え。その話は決着がついたと思っていたのになんで蒸し返す? お前が頑張らなかった後悔が罪悪感に変わった。違うのか?」「もともとの部分が違うんだよ。神は私の人生のごく初期に私の中へ入った。契約でね。後悔することになるのはそのずっと後だ。最初から罪悪感があったわけじゃない。神が私の体で遊んでいるうちに形成された異物──」≪それが〝ウォラ〟だ!≫突然、二匹同時にでかい声でそう言ったので私は少し驚いた。「なに?」私は訊き返した。「お前みたいな進化途上にある生物のことだ。ウォラは言わば不完全体。だから今は病人とか障害者というカテゴリーに入れられてる。かわいそうなやつら」「やつら? 他にも──居たなそう言えば。入院したとき、明らかに普通の人とは違う人たちが居た」「厳密に言えば、分岐先が違う点であいつらはお前とは違う。しかし、進化途上にある点ではみんな同じウォラだ」「しかし私はお前なんだろ? なんでそれを知らなかった?」「知る必要がなかっただけだ。精神科の医者が正式な病名をなかなか教えてくれなかったろ? そういうことだ」「じゃ、なぜ今更?」「お前が石になるだの言い出したからだ。お前は史上に存在してはならない。ミッシング・リンクとはそういうものだ」三葉虫はひとしきり私の質問に答えた後、ふうと深く息を吐いた。「オレらを入手した理由をよく考えろ。たとえ無意識だったとしてもお前は求めてる。自分の存在意義をな。意味と価値を。お前の人生はそれを無きものにしようとするやつらとの戦いだ。やつらは人間とは限らないし、自分自身かもしれない。しかしこれで一歩近づいたろ? 答えに」私は答えた。「ぜーんぜん。余計わからなくなった」「駄目だこりゃ」アンモナイトがちゃちゃを入れる。「実はそれだけじゃない。世界にはウォラに対抗するマイムという勢力があって日夜抗争が繰り広げられている」「はあ? そんな馬鹿げた話──」「じゃあ、戦争はなぜなくならない? 説明してみろ。あちこちの国がこぞって軍事力の強化をしている。説明できるか? すべてウォラとマイムの戦争なんだよ。国同士ならまだいいが同じ国の中にも異分子を見つけて戦ってるアホが居るんだ。どうしようもねえよ。お前だって今まで平坦な人生だったわけじゃないだろ。ずっと戦ってきた。そうだろ?」「そう言われればそうかもしれないけど」「全部この法則で説明がつくんだよ」玄関ベルが鳴る。「ほうら、来なすった、うわさをすればなんとやらだ」「誰かな」「マイムの一人だ、いや二人かも。行ってこい」正月も過ぎ、二月に入ってまだ間もない頃、やっと日中、日差しが暖かく感じられるようになったある日の午後だった。玄関わきの小窓を開ける。するとそこにリュックを背負ったまだ若い女が立っていた。顔はそれほどでもないつらだが肌の色や髪のつやから若さがにじみ出ていた。「はい?」私はいつものように相手の出方をうかがう言葉をまず投げかけた。「こんにちは」「はい」「わたしこれから海外に行って途上国の支援をするプロジェクトに参加するんですけど、その活動資金を集めるために全国をまわらせてもらっています」「はあ」活動資金はないのに全国をまわる資金はあるらしいな。「ぜひ募金していただきたいんですがいかがですか?」「急に言われてもねえ、うちも貧乏だし」「調べはついてるんだ、このヘボ作家! 2ヶ月に1回お上からぼってやがる分際で!」「え?」「そうですよねえ」「いや、ちょ、ちょっと今の」「今の? わたしには大きい夢を実現しなきゃならない使命があるんです。ぜひ、ご協力ください」「はあ──」らちがあかない。それにさっきの野卑な言い方は間違いない、〝マイム〟だ。私は強硬手段に出ることにした。「まあ、立ち話もなんですからお上がりください。コーヒーでも飲みながらゆっくりお話ししましょう」若い女を独り住まいに連れ込んだのを例によって向かいのエカテリン・ミズウが窓から半分顔を出してのぞいていた。知ったことか。それに私は間違いを犯すような人間ではない。少なくとも今は。私はGさんを連れ込んだのと同じように肘掛けが籐でできた中古のソファーに彼女を座らせ、コーヒーの支度をしに台所へ行きかけた。「わたし、Iって言います」「Iさんね、ふうん。今コーヒー入れてくるから」湯が沸く間、私は素早く離れの自分の部屋に戻り、三葉虫に訊いた。「おい、お前の言った通りマイムだぞ。どうしたらいい?」「狙いはカネか──ふん、面白い。お前の好きなようにやれ。ただし、お前がウォラであることを知られてはならない」「危ね、もう少しで言うところだった。なんでなんだ?」「マイムは基本的にウォラに対して敵対心を持ってる。話がこじれるぞ」「そういうことか。あ、でも彼女、自分がマイムだって気付いてないようだったぞ」「そりゃ好都合だ。適当に追い返せ」「よし」私は台所へ戻るとコーヒーを入れリビングへ。「あ、どうも」「古い家でしょ? 普請する資金がないもんで」「ふしんって?」「ああ、つまり、リフォームってこと」「そうですか」「いくら必要なの?」「一口3千円です」「たか!」「ほんとにすみません。でもわたしには使命がある」「使命使命ってさ、何かの宗教にでも入ってるの?」「いいえ。でもそれに似たものには入信していると言ってもいいかな」「と言うと?」「わたしの中には神が居るんです」私は出た出たと思った。話の早いお嬢さんだこと。「かみ?」私はとぼけてみた。「あは、おかしいですよね。まだ小さい頃、扁桃腺を切ったんです。そのときそこから神が私の中に入った」「ふうん。それで何か変わったことでも?」「いえ特に──ただ何か心の中に罪悪感みたいなものが出来てとても苦しいんです。それで神という存在を作ってそいつのせいにした」「他に変わったことは?」「どうしてそんなことを訊くんですか?」「いや、別に、私も大病したからそっち系の話には目がないんですよ」「そうですね、特に──」「死体と話せるとかは?」「あ、はい! どうしてそれを?」「私くらいの年齢になるとね、子供の頃に当たり前だったことを肯定したがるんですよ。コーヒー飲んでね」「いただきます」「ふうん、そう」私はいかにも感心しているふうを演じていた。「で? 出すのか出さねえのかはっきりしろ、へなちん!」「今の聞こえた?」「なんです?」「いや、いいんだ。3千円は無理かな」「そうですか。仕方ないですね」「仕方ないことない。これだけは言える、絶対に仕方ないことない。次があるさ」「あーあ、無駄骨だったな。慰み者にされた仕返しにぼろうと思ったがへなちん野郎じゃ仕方ない。あー仕方ないっと」「ちょっと!」「え?」「ああ、いや、なんでもない。じゃ、頑張って」「はい、それじゃ」玄関から出て行く若い女をやはりエカテリン・ミズウが窓から半分顔を出してじろじろ見ていた。私は玄関の鍵を入念にかけ、戸が開かないかどうか二度確認した。「はあ」「ご苦労さん」離れの自分の部屋に戻ると三葉虫が声をかけてきた。「ま、なんだな、自覚がないやつってのも疲れるな」「おいおい、今までお前がそうだったことを忘れるな」「はいはい。ぼられずに済んだぞ。まさか今までうちに来た得体の知れないやつら全員マイムか?」「ウォラ目当てならな」「宗教の勧誘員、布団屋の営業マン、それから──」「置き薬屋もだ」「そうそう、あいつ。こないだ電話番号を訊かれて素直に答えちまったよ。知ってたら断ったのに。しかも昼間家に居るかとか訊いてきやがった。電話してから来るからとか自分勝手なことばっか言いやがって、もういい加減にしてくれと思ったね」「それでもまだ軽いいやがらせに過ぎない。この国は平和なんだよ。世界に目を向けるといまだに戦争をしている。お前に戦争を阻止しろとは言わない。第一できないからな。しかしせめて半径数十メートルの身の回りのことだけはちゃんと守れ」「守れか。核弾頭を搭載したミサイルが飛んできたらどのみち終わりだぜ、こんなちっさい国」「確かにみみっちいことかもしれん。だが、戦争つっても結局は利権をめぐる争いだから事の大小はあまり関係ない。国家間戦争、隣町戦争、ご近所戦争、自分戦争。お前がやってるのは一番みみっちい自分戦争だ。何度も言うようだが大きさは関係ない。ウォラの宿命みたいなもんだ。ただこれだけは言っておく。あきらめたらそこでジ・エンドだ」「もう終わらせたいよ。あきらめたっていいじゃない」「何が問題だったか整理するぞ。まずお前の人生のごく初期に神がお前の中に入り込み罪悪感を植えつけた。お前は罪悪感の一部が自分の落ち度でもあることに気付いた。神はもうお前で遊ぶことを望んでいないがお前は神の原罪への罰として自分の中に神を閉じ込めておこうとしている。ここまではいいな。そこで顕在化したお前たちウォラのあらゆるものを狙う卑しいマイムどもの存在」「もういいよ、これ以上問題を大きくしないでくれ。戦争は終わりだ。私が悪かったよ」「お前は戦い続けなければならない。生きている限りな。下水道工事がいつ始まるか。あのマイムたちが動くのは年度末だ。さあどうなるかな。計画が白紙に戻ったのなら次は辞退すればいいだけの話だ。しかしお前は迷ってる。宝くじが当たればなどと甘い考えでいる。そして、本当に当たると心底信じている。図星だろう? オレはお前だからな。いいことを教えてやろう。宝くじは絶対に当たらない。それをお前も薄々勘付いてるはずだ」「まあな」「そして仕方なく商売も並行してやってる。全然売れない石を並べてる、仕方なくな。法律で住所を載せないといけないことがわかって内心やばいと思ってる。そう、マイムに気付かれるからだ。先週の置き薬屋への電話番号漏洩、一昨日の深夜のワン切り、そして今日のIと名乗るマイムの訪問。すべてつながっていると思わないか?」「よせよ、また被害妄想が出る」「現実と妄想はお前にとっては一続きのシークエンスだ。何が正しくて、何が間違いか、判断できまい。それがたとえドーパミンの過剰分泌という機能的欠陥だとしても何かに変わろうとしている」≪それが〝ウォラ〟だ!≫さっきまで寝ていたアンモナイトが三葉虫の声に合わせて寝言を言った。「それが進化途上である証。お前は生きた証を残してはいけない存在だと言っただろう。正しいか、間違いか、誰にもわからんのさ。被害妄想が出ても心配すんな。それよりさっき言ったつながりは無視できんぞ。マイムたちは明らかにお前をウォラだと認識しコンタクトしようとしている」「来たらさっきみたいに追い返せばいいだけじゃないか」「そんな手ぬるいことでやつらが引き下がるとは思えんが。まあいい。置き薬屋はご本人がおっしゃった通りまたいらっしゃるぞ。ご丁寧に事前に電話を入れてなあ」「ヤクを使わなきゃいいだけだ。応対するのがめんどくさいがな。それに上から目線の口調が鼻につく点を除けばたいしたこっちゃない」「はは、お前も少しは度胸がついたようだな」「お? なめてたのか? だてに歳を食ったわけじゃないぞ。それに親しい人たちの死を無駄にはできん。お前たちのこともな」「言うじゃねえか」「しかし〝捨てられない死体〟はいつまでしゃべる気だ?」「お前の気の済むまでだ。オレはお前でお前はオレってことさ」「酒をやりたい」「ご勝手に」「ふがふが、あ? 何を勝手にやれって?」アンモナイトがかわりに起きたようだ。三葉虫は言った。「酒だってよ」「ああん、独り酒か。あんた冴えないねえ」アンモナイトがそう言うので私は言い返した。「お前らが居るじゃないか」「ああん、罪つくり!」アンモナイトはオカマの気があるようだ。「オカマじゃないわよ!」「聞こえたか」「当たり前」≪オレはお前でお前はオレ≫私も古生物の化石たちも声をそろえて言い、笑った。今後マイムたちがどんなことを仕掛けてくるか全くわからない。しかし、それを不安に思えば思うほど不完全生命体ウォラである私と死体たちとの友情は深まっていった。私は猛吹雪の向こうからやっと戻ってきた〝友情〟という言葉をしばらくあたためてやることにした。そして二度と忘れなかった。


19

もう遠い昔の話だ。母さんがショッピング・プラザで買い物をしている間、私はそこに併設されているゲームセンターに我先にと急いで向かった。「お金は?」と言う母さんを何か邪魔者のように思った。確かにそう思った。「ある!」とぞんざいに言って階段を上がる私はもう振り返らなかった。嫌な煙草のにおいのするその狭いゲームセンターには先客が居たが目当ての当時人気だった対戦格闘ゲームの台の前には誰も座っていなかった。カネを入れゲームを始めてしばらく経ってから反対側の席に対戦者が現れた。勝った。そいつは腹いせだったのだろう、椅子を蹴った。私は胸糞悪くなり、そのゲームをゲームオーバーになるまでやった後、そのゲームセンターを出た。馬鹿馬鹿しい。そう思ったから、あれ以来、二度とゲームセンターなどというふざけた場所には近寄らなかった。いや、最初からわかっていた。母さんを疎ましく思ったのも本当に心の底からそう思ったわけではない、断じてだ。あのとき奇跡的に命が助かって半身不随になって介護しなくてはならなくなっても同じことが言えるのか? 「──言えるのかと訊いてるんだ。ん?」安物の三葉虫が言った。「ん? なに? もう一回言って」「なに聴いてなかったのか?」「うん」「あはは」アンモナイトが笑う。「もう遠い昔の話だ。蒸し返さないでくれ」「おい、聞いたか? 今月宴をしたのが遠い昔の話だってよ。半月も経ってないのに。だから貯金が目減りするんだぞ」三葉虫がそう言い、アンモナイトは「はは、ここは言えると言っておいたほうがいいぜ、ウォラナイトさま。外見のことばかり言うやつは信用しないほうがいい。人間は十中八九、外見だと言うやつは」と言う。「ちょっと待って、何の話?」私は訊いた。「何度も宴を経験した中年男が若い女に爪がキレイだと言う匿名野郎にいちゃもんをつけてもいいと言えるのかと訊いたんだ」と三葉虫が言う。「は? なに、よくわからない」「駄目だ」アンモナイトがつぶやく。「今回想しててね」「知ってるよ。母ちゃんのことを思っていたことも。マザコンを侮辱するやつぁ確実に人外だ。まともに口をきいちゃいけない。経験値なんか気にすんな。その意味じゃ、オレたちは味方だ」桜がそろそろ咲くかなといった季節の朝のことだった。今日はクリニックの日だった。「時間だ。行ってくるよ」私は三葉虫とアンモナイトにそう言って家を出た。なんのことはない、三週間に一度の軽い運動。小路を出、車道を渡って駐車場に行き、我が軽のエンジンをかける。音楽でも聴こうとスイッチを押そうとしたらダッシュボードの上に居た蚊の死骸がしゃべりだした。「おい、ちょっと待て!」「なんだ?」私は急に声がしたので一瞬驚いたが例によってすぐにそれが蚊の死骸だと気が付いた。「この前、神が先生の姿だっただろ?」「それがどうかしたか?」「あれは神の策略だ」「どういうことだ?」「お前の一番信用している人物の姿だった、つまりそいつを卑下させることで心のバランスを失わせようとしていやがるのさ」「それなら大丈夫だ。現実と妄想の区別くらいはつく」「いやそれでも実際は力関係が逆転してしまった。前にも言っただろう? お前にとっちゃ、現実も妄想も一続きのシークエンスなんだ。むしろ何が現実で何が妄想か区別しないほうが安全なんだよ。そこでお前も知っての通り良心と善意が重要になってくる。何に対してもそれらを持っていれば間違いなく、うまくいく、外面上はな」「じゃ問題ない。あれから何回かクリニックの日があったけど何もなかったぞ」「今日は誘導係のオレが居る」「お前らどっちの見方なんだよ」「さあな、オレにもわからん。じゃあな」「おい」私はクリニックの駐車場に車を止め、自動ドアをくぐるとつかつかと受付に行き、機械的にこんにちはと言って、診察カードと保険証、それから自立支援関連の手帳を差し出す。いつものAさんが居た。私は目を合わせないように注意した。待合所の椅子に座る。ぼうっとしているとしばらくして名前を呼ばれた。なんのことはないいつも通りだ。こんにちわと言って診察室に入り先生を見ると無表情で黙って私を見ている。いつもなら「はい、こんにちは。どうですか最近は?」と言って診察が始まるはずだ。「先生?」呼びかけてみる。「主の前にひざまずけ」「はい?」口が動いていなかった。「気にするな、言ってみたかっただけだから」「──神?」「わかってたくせに。ところで能力は存分に使ってるか?」「まあね」「私が与えてやったんだ。ありがたく使え」「まったくありがたいよ。死体と友達になれるんだからな。ウォラの話聞いたろ? 私の中ではまだ半信半疑だ」「便宜上、あくまで便宜上お前はウォラと呼ばれているに過ぎない。それにマイムとの抗争もあってないようなもの」「その点に関しては眉唾とは言いがたい。実際戦ってきたんだからなあ」「んんああ、それもこれもお前の中で起こったことだ。現実と妄想の区別もつかないような精神障害者の頭の中でなあ!」「それは自覚してる。あんたに言われるまでもない。しかしこれだけの世界が現にできてしまった。それはあんたが仕組んだことじゃないか。違うのか? あの坂道で転んで眉間を強打したときに傷口から入ってきたあんたとともに私は成長した。そしてこの世界を創り上げた」「そうとも、セックスと殺人の妄想しかできない世界をなあ! 違うと言えるのか? ん?」「──ひとつ言えるのは妄想でしかないってことだ。ナンパなんかしたことないし、パコパコハメた経験もない。ナンパなんて風俗に行くカネがなくて、タダでパコりたいやつがやるもんだ。それにもちろん金属バットで滅多打ちなんか論外だ」「ああらそうこりゃ失礼チェリーボーイ。しかしお前にとっては現実も妄想も同じこと。現実に実行したのと同じ気分になることができる。小説を読んだり、映画を観たりした後のように現実を忘れる瞬間がある。忘れたのではない、嫌悪し、憎み、悲しみ、あるいは楽しみ、死ぬほど肌で感じるのと同じ状態になっているに過ぎない。妄想とはただそれだけのこと。そう思っているのだろう? 現実とどこが違うのだ?」「そんなことを大人になった私に問う気か? いいだろう。現実で実行できることは限られている。法治国家に住んでいる限り、法律が自由を制限している。秩序がある。あんたみたいな超自然の存在に出る幕はないんだ」「穢れなき月の地面に醜い足跡を残していいと誰が言った? そんなことよりあれはそもそも現実だったのか? お前は私を超自然の存在と言うが実際に存在しているのか? それは現実なのか? それこそお前が創り上げた妄想の世界の産物なのではないか?」「じゃあなぜ私たちは対立しているんだ? 無意味じゃないか」「お前が言ったじゃないか。法治国家だと。私は本当の意味で自由なのだ。その板挟みになっているのがお前という存在だ。こいつもお前が馬鹿なことをしないようにコントロールしているのだと思っていたがお上の命令には逆らえないらしいじゃないか。法律で薬が出せなくなったとか言って薬を強制的に減らされただろう? 私もまさかと思ったものだ。コントロールしたくてたまらないのだとばかり思っていた。だが実際は、お前の精神状態のことなんかこれっぽっちも考慮されてなかったことが証明された。こいつがそのことを言ったときお前目を見たろ? 泳いでた。やばいことを悟られはしないかと言わんばかりの目だった。こういうことだったんだよ。それはまあいい。どうだ? セックスも殺人も超自然の行為だとは思わないか? 実行したやつらに理由を訊いてみるがいい。やった理由をだよ。連中は口をそろえて言うだろう。やりたかったからだと。虫が光に向かって集まるのと一緒だ。超自然ではないか。お前が私をそう思いたいのならかまわない。誰も止めはしない。だが、現実と妄想の板挟みにどこまで耐えられるかな? この物語の見どころだな」「言いたいことはそれだけか?」「はい?」先生の口が動いたので私はセッションの終わりを認識した。「いえ」「最近はどうですか? 面白い本ありましたか?」「そうですね最近は──」私は一連のいつも通りの診察を終えて待合所の椅子に座る。Aさんに呼ばれる。会計を済ませ薬局へ。Bさんが居た。いつもの変わらない笑顔だった。薬を受け取り我が軽へ。蚊の死骸が言う。「どうだった?」「聴いてただろ?」「あ、そうだった。いや、お前の感想が聴きたいんだ」「別に。逆に清々しいよ」「あはは、そりゃよかった」エンジンをかけハンドルを切る。「まさに苦行だな。おい、ところでお前いつからそこに居る?」「お前が最後にスーパーに行ったのが三日前だからそれからだな」「すまんな気が付かなくて」「いいってことよ。お前とこうして会話できるようになった。謝る必要はない」「でも本当は私なんだろ?」「そりゃそうだ、オレはお前でお前はオレ」「それ、なんか悲しいよ」「おい大将、何言ってる。独りもんてなそういうもんじゃねえか。それに流行りの歌なんかで独りじゃないとかって歌詞がよくあるじゃない? ありゃ嘘だ。どう頑張っても独りは独りだ。お前ももう慣れたろ?」「まあな」「こないだスーパーの出入り口で家族連れとすれ違ったとき、とっつぁんが固定資産税も払わにゃいけんのかとかーちゃんに言っているのが耳に入ったとき心の中で冷笑したろ?」「それがどうした?」「あの意気を忘れるなってこった」「なるほどな」私はそう言いつつも泣きたい気持ちが込み上げてくるのを一瞬感じた。くじけないとはこういうことだと思い直し、運転に集中する。スーパーによってビールの6缶パックでも買おう。カーステレオを爆音で流す。お気に入りの曲。「なんだかんだでお前ら優しいな」「おい、それを自分に言ってどうする?」「そうか」「オレたちはお前でしかないんだ、いい加減わかってくれよ。それに気付いてると思うが神はお前の死骸がしゃべってる声──」「なんだって?」ちゃんと聞こえたはずだが冗談かと思ってカーステレオを止めてもう一度訊き返す。「今なんてった?」「つまり、お前はもう死んでいる」ちょうど空いた路肩があったのでそこに私は静かに車を止めた。その時点ではそんな余裕があった気がする。気がするってだけ。もうほとんど憶えちゃいない。私は車を止めたのと同じように静かに口を開いた。「じゃあなぜ、私はものを見、聞き、感じ、しゃべったり、歩いたり、食べ排泄し、こうして車を運転しているんだ?」半分はわかっていたがもう半分はわからないふりをしていたと言えるのかもしれない。蚊の死骸が言う。「死んでいるというのもおかしな言い方だったな。お前は何もかも超越しているのだ。現在の常識からしたらな。たまたま今お前はここに居るってだけの話だぜ。あのスーパーに行き、あのコンビニに行き、クリニックと薬局に行き、そしてあの家に帰る。すべてたまたまだ」「超自然?」「お前が言ったその言葉が的を射ているかもな」「この肉体はなんだ?」「借りものだ。記憶もな。お前はずっと先に居る、オメガポイントに」「なんだそれは?」「意識の最終到達点だ。お前はそこに居る。オレに全部言わせる気か? 少しは自分で思い出せよ」「私が思い出せるのは数々の罪。そうだ罪悪感しかない」「病んでいる証拠ですよ、ウォラナイトさま。あなたがおっしゃられたのだ、超自然と。そういう存在に罪悪感なんてものがあるとお思いになりますか? 忘れなさい。そしてあるべき場所に帰るのです」助手席の下でずっと話を聞いていたクモの死骸が恭しく言う。「できない。私は罪を償わねばならない」「なぜ? そんな必要は微塵もないのですよ。あなたはすべてを超えた存在。さあ、思い出すのです、全知全能であることを」「確かに若い頃、全能感があった。しかしあれはただの思い上がりだった」「違います。もっとずっと未来にそれは訪れます。いえ、未来というのもおかしな言い方です。時空を超えることのできるあなたにとってあれはただのお遊びに過ぎません」私はミラーに目をやりウインカーを出して車を走らせることにした。「お前らのほうこそいい加減にわかってくれ。私は今を生きてるんだ。お前ら死体とは違う」「そんなおかたいこと言うなよ、な? 行こうぜ、みんな待ってる」「行きましょう」「私はこれからスーパーに行ってビールの6缶パックを買ってくるんだ」「もうよせ、そんな虚しいことは。それよりももっと楽しいことができる。いや、楽しいなんて言い方も変だな。つまり──」「もうたくさんだ! 妄想なんかくそくらえ!」雨が降り出したのでワイパーのレバーをぐいっとやる。「ほうら、雨に濡れたところは全部オメガポイントを示している。車を降りて外に出るんだ。雨に当たればオメガポイントに行ける。さあ、行こう。いやな思い出も厳しい現実もすべて忘れられる。お前は解き放たれるんだよ。本当の自由の世界へ」「行きましょう、ウォラナイトさま」「よおし、それが現実か妄想か確かめてやる!」私はコンビの駐車場に車を止め、降りしきる雨の中に身を投じた。天を仰ぎ、両手で雨を受け止めた。「ははは、なんともない! 私は妄想していただけなんだ!」コンビニ前で煙草をやっていたサラリーマン風の男が私を無表情で黙って見ていた。かまわず私は笑いながら叫んだ。「現実なんてこんなもんだ!」コンビニでおにぎりとお茶を買い車に戻ると蚊とクモの死骸は話しかけてこなかったので私のほうから声をかけてみた。「どうだ? オメガポイントとやらに行けたか? いや、行ってない。見ろ! コンビニでいつものように買い物をした」蚊とクモの死骸は何も答えなかった。ちょっと寂しさを感じた。まあいい。私は駐車場に車を止めたまま、おにぎりとお茶を交互にやった後、ゴミをゴミ箱に捨ててまた車に戻った。「さて、お前ら。だんまりか? ──そう、それならそれでいい」私はカーステレオをまたかけた。その後スーパーで予定通りビールの6缶パックを買い、まっすぐ家に帰った。三葉虫とアンモナイトもいつもは騒がしいのに黙っていた。やけに静かだなと思った。念のためにこの前殺したムカデの死骸を見に離れと母屋の間の板場に出てみた。死骸はなくなっていた。猫かイタチ、もしくは鳥か何かが昼食に持ってったに違いない。パソコンはどうかと話しかけてみたが無駄だった。よく考えるとパソコンは死骸ではない。私は急に心細くなったが第一独りもんとはそういうものではないか。それに誰かを求めてるわけでもない。私は現実の苦しいことから解放されたいがために彼女を作った。心の中で思いのままになる彼女を。しかし妄想の中の彼女たちに何かを期待するのははなから無駄なことだと気付いてはいた。それが今頃になってようやく深く自覚することができた。そうやって自分の中でけりをつける方法がようやくわかりかけていた。


20

うざい置き薬屋が来たのは4月の始め頃だった。「電話したんじゃが出んけえ」と横柄に言ったかと思うとまた在庫の確認をさせられた。これを黙って応対できる心根の優しい、悪く言えばお人好しの人が世の中にはたくさん居るのだろう。だからこんな不躾で野卑な商売が成り立ってる。それはまあいい。この営業マンがマイムだという警戒心はうかつにもほとんどなかった。化学反応の終わった腐り果てた人間であることは間違いなかったからだ。なにかと「仕事だから」という偽の宇宙的法則を持ち出すやつにろくなやつは居ない。他人を騙し、自分をも騙しているのだ。そんな馬鹿馬鹿しい理由で私は動じたりしない。燃えるような憎しみが湧くだけだ。私は2回閉鎖病棟に入院したことがあると前述したが最初のサナトリウムを退院するときに先生に袖の下を渡した母が「ありがとうございました」と真心から言ったのに対して看護師の一人が「仕事ですから」と言った。とっさに出たその場しのぎの言葉にしては上出来だとは思う。しかし、よく考えると患者の世話を嫌々やらされているのだととることもできる。自分のやってる行為をなんでもかんでも「仕事だから」の一言で済ませていいのか? 汚穢のように不浄なるものは常に自分の体から出ていることを忘れないほうがいい。だって、その認識がなければ自分だけはキレイなんだと勘違いしてしまうからだ。穢れの意識はずっと私を支配していた。子供の頃テレビゲームのソフトを他人に触られるのが心の底から嫌だった。弟にさえ触らせなかった。だから貸し借りに積極的でなかった。そういうことを気にしなくていい場所に私は心底行きたかった。そこが意識の最終到達点〝オメガポイント〟だとしたら、常識は非常識になり、非常識は常識になるだろう。まだ私はそこに居ない。いや、居るのかもしれないが実際は現実のあれやこれやにがんじがらめに囚われている。心の中に嫌なものが入ってくる。どうしようもない。それが現実の常識だ。妄想は文字通り現実逃避の手段だったが現実を忘れることはなかった。ただ離脱症状があらわれたときに見える幻覚は違う。忘れもしない、やっと暖かくなり始めた初春のある日の早朝だった。昨晩どうしても眠れなかった私はついに現実と妄想の境界線を超えた。横になって目をつむっていても見えた。白装束に身を包んだやつらが数人私の居る離れを取り囲んでいた。使わない換気扇の通風孔から気体のヤクを流し入れていた。私に気付かれないように細心の注意を払う必要がどこにあるのかわからなかった。だって、思考伝播によって連中もそして私もこの状況をはっきりと把握していたのだから。私の神経は研ぎ澄まされていたと同時に寝不足の体の重い感覚を感じていた。しばらくすると「駄目だ」と言う声。なぜか勝手口の鍵が開いていて白衣を着た女がそろりそろりと忍び足で入ってきた。手には強力なヤクを仕込んだ注射器を持っている。私は見なくてもわかった。目をつむっていてもありありと見えた。しかし現実か幻覚か確かめたくなった私は気付かれないように──これもなぜ気付かれてはいけないのか今では推測の域を出ないが──不意に寝返りを打ちそっちを薄目を開けて見てみた。女は居なかった。ただ何か薬品のようなおかしなにおいがした。女は居なかったが連中は確かに来た。連中がなぜここに来たのか理由を言えば、思考伝播によって近所中に私の思念が流れ、私が姦淫や殺人などの反社会的行為を犯す危険性を察知した誰かが然るべき機関に通報したからだ。もちろん今ではあれは私の妄想の産物であったと理解はしている。理解はできるが本当のところ連中のような輩は実在するのだという信念が、残飯は必ずフタ付きのゴミ箱に捨てなさいという教訓と同じく、今でも脳裏にかすかに残っている。ところが、それはマイムが私に幻覚を見せたというのなら話は違ってくる。2、3日前私はゴキブリの幼虫を殺した。「お前はこれから殺される。覚悟しろ」絨毯の隙間からひょっこり床面に出てきたゴキブリの幼虫にそう言った私はすばやくティッシュペーパーを何枚か取って重ね、それでそいつを強く押さえつけて潰した。するとすぐにしゃべりだした。「やりゃあがったなエテ公。まあいい。おかげでしゃべれる。心底ありがたいね」「私には生きる意味も価値もない。お前と同じに」「まあそう悲観すんな。オレら以下のやつらはごまんと居る。それはいいが近々マイムの一人がここに来るのは知ってるな? 置き薬屋だ。やつには気を付けたほうがいい。お前に幻覚を見せる能力を持っている」「ぷ、まさか」「こないだ来たときお前は何を見た?」「別に何も」「銃がありゃ土間にかがんで悠長に機械を弄ってやがるやっこさんのドタマに一発ぶち込むのにって思ったじゃないか。それに頭の中で予行演習もした。銃がないんなら金属バットだ。それもなけりゃ包丁だ。包丁なら確実にある。流しの扉の内ポケットに入ってる。台所に行き、流しの扉を開け、内ポケットから包丁を取り出す。めくるめくシークエンス。【確認するからちょっと来て】【はい】後ろ手に包丁を持ち近づく。【風邪薬が二つ、胃薬が三つ、これ一箱千五百円するんよ、飲むときは千五百円じゃ思うて飲ん──】やつが饒舌にそこまで言ったとき、まず首に致命傷を負わせる。まるでブルドッグの吠え声みたいな声を出してスローモーションで尻もちをついたやつの今度は腹部に一刺し、次に太もも。後は心臓のあたり、左胸を滅多刺しだ。隠すなよ。オレはお前だ。それとも忘れたか?」「忘れてた」「やっぱりか。まあいい。やつがこんな幻覚を見せたわけを知りたくないか?」「知りたい。教えてくれ」「なあにたいしたこっちゃない。やつも気付いてないだけなんだよ。自分に幻覚を見させる能力があることにな。白装束の連中が来たのを憶えてるだろ? あれもマイムがお前に見させた幻覚だ。ただあれは誰だったのかは特定はできない。近所のガキんちょだったかもしれないし、あるいは──」「あるいは?」「先公だったかもしれん」「まさか先生もマイムなのか?」「そりゃそうだろ。お前が幻聴が聞こえて頭ん中がこんがらがっているときに先公は能面のような涼しいつらをしていやがった。たまにお前が泣き言を言うと怒るしな。ただそれらはどうでもいい。神が先公をヨリシロにしてるのはマイムを敵視させてお前をオメガポイントから遠ざけるためだからな」「何の意味がある?」「神もオメガポイントから来た。お前に戻ってほしくない勢力が存在するんだろうな。あっちもあっちで戦争ばっかりやってるからな」「意識の最終到達点って言うからてっきり天国みたいなところかと思ってた」「お前もかなり思い出したようだな、ウォラナイトさま」「その呼び方、私をからかってるのか?」「いいや、お前の正式名称だ。ウォラの騎士──ウォラナイト」「ウォラの騎士か」「とにかくやつの幻覚に惑わされるな」「大丈夫だ。前にも言ったが現実と妄想の区別くらいつく」「妄想じゃない、幻覚だぞ」「似たようなもんだろ?」「全然違う。幻覚は妄想よりはるかにリアルだぜ」「目的は?」「お前の意識の攪乱だ」「そんなことしてなんになる?」「まだわからないのか? お前をオメガポイントに行かせまいとしてるんだよ、よってたかってなあ!」「そこに行ったらどうなるのか知らないが置き薬屋なんかに負けはしない」「よおし、その意気だ。お前なら乗り越えられる」──そして今目の前に置き薬屋が居た。わけ知り顔で黒々とした肌、眼鏡をかけ、高そうなブランドものらしい腕時計に背広、そして薬と機器の入った大きなカバン。それらを見るだけで私は辟易した。歳は四、五十代。私に言わせればこいつの存在はこの世のあらゆるよからぬものの縮図だった。虫唾が走る。銃さえあれば腐りきったドタマに一発ぶち込むのに。玄関ベルがまた鳴る。玄関わきの小窓を開けると必然的に警察官だった。「こんばんは」「はい?」「こちらはお一人で住まわれてるんですか?」「はい」「もしあなたが交通事故などにあわれて意識不明になったときに困らないように身内の方の連絡先をうかがってるんですが、身内の方は──」「弟が居ます」「連絡先を教えていただけますか? 大丈夫です、連絡以外には使いませんから」私は正直、腐れ縁の弟の連絡先など知らないと言いたかったが国道沿いの小さな釣具屋の店主であることを明かすことにした。そんなことより警察官が腰に付けている銃が視界から離れなかった。あれを奪うにはまず置き薬屋が陣取っている玄関から出て警察官の腹か頭を殴るか、もしくは股間を蹴って気絶させ、その間にホルスターから銃をもぎ取るしかない。置き薬屋に言う。「ちょっとどいてもらえます? お客さんで」「ああはい」私は手っ取り早く股間を蹴ることにした。「弟はですねえ──」と言いながら警察官に近寄り股間を思いきり蹴り上げてやった。「いっ! こ、こうむしっこうぼ──」次に倒れた警察官の腹に何発も強い蹴りを入れる。玄関のわきにあるシュロチクの植えられた角のある植木鉢で頭を数回殴ってフィニッシュだ。あっけないもんだな。ホルスターから銃をもぎ取ると安全装置を外して、何事かと出てきた置き薬屋に向けて至近距離で銃をぶっ放す。ドタマに命中。倒れる置き薬屋。へえ、銃ってこんな音がするんだ。念のため警察官のドタマにも一発。案の定出てきた向かいのババア──エカテリン・ミズウにも一発、続いてとっつぁん。「ガキに挨拶を覚えさせないのが悪いんだぞ。自業自得だ」なかなか出てこない夜8時きっかりに就寝しているせいで中坊とは思えないひょろ長になったクソガキに「出てこい、われー!」と巻き舌で言ったものの出てこないのでババアととっつぁんの死体を踏んづけて家の中に入ってみた。腐臭に似た、すえたにおい。水音がする。風呂に入ってやがる。それらしい戸を開けるとガキがシャワーの湯を浴びながら股間のイチモツをおっ立てて左手でせっせとセンズリしている真っ最中だった。銃を向けた私に気付いた坊やは自分のイチモツと同様凝り固まった。私は言う。「おやおや、マスかき中失礼。スカートをまくり上げてる女の子の想像でもしてたか? 気になるんだろう? ご近所さんのトイレや風呂の音が。心配ない、仲間を連れてきてやったぜ。硬くて発射する仲間だ!」頭に一発、あっちの頭にも。にしても、この国の連中はみんな銃を向けられたら手を上げるという習慣がまるきりないらしい。そりゃそうだろ、手を上げるのは学校で質問をするときと路線バスに乗る意志があることを伝えるとき、もしくはタクシーを呼び止めるときと相場が決まってる。しかもそれらの場合普通両手は上げない。もし両手を上げることがあるとしたら選挙に勝って万歳三唱する悪習くらいだ。私にはまったく関係のないことだが。すこぶる平和で涙が出るよ。──「一応確認するけえ、ちょっと来て」置き薬屋の声ではっとする。私は気付くと台所の流しの前で右手に包丁を持っていた。警察官は来ない、作戦変更だ。やはり包丁で──。台所と玄関を仕切る戸口にぼうっと立つ。「どしたん、はよ来て」「え、ええ、今手が離せなかったから」「何作ってんの?」「もうすぐできますから」「だから何?」「だけど、お前のヤニくさい腐った脳ミソはいくら煮込んだってまずいに決まってる」「あ?」「廃棄処分だ!」言うが早いか私はまずのど元へ思いきり切りつけた。予行演習通りだ。しかし次はうまくいかなかった。背広の生地が思いのほか厚く、腹に刺さらない。血の噴き出る首を押さえながらバタつくので両太ももを刺してやった。うまくいった。どうしても胸か腹に突き刺してやりたかったので、背広をはぎ、胸と腹を滅多刺しにした。──「風邪薬が二つ、胃薬が三つ、これ一箱千五百円するんよ、飲むときは千五百円じゃ思うて飲んで。それから葛根湯が──」──置き薬屋はいつものように「また来るけえ」と言って玄関の戸を閉めた。すぐに鍵をかける。私は精神の疲労を感じた。あと多少の吐き気も。やつはかなり強いマイムだ。もう会いたくないな、正直。私はそう思った。離れの出入り口の戸のドアノブを持つ手に違和感を感じた。まるであの中坊のように手を使ってマスをかいた後、ものを触るときに感じる背徳感のような。私は思い直した。いいや大丈夫だ。今ドアノブを握っているのは聖なるほうの右手だ。ほんとかうそか知らないが、今でもそうなのか知らないが、かの地インドでは左手を〝不浄の手〟と呼んでトイレで大をした後のケツを直に拭くらしい。マスをかくのも左手かどうか知らないが私にとって母の最期に母の手を握ったのが右手だった。だからマスをかくのは中坊と同じく必ず左手でなければならない。私が中坊のときペニスが右左どっちに曲がってるか訊いてきたやつが居た。私が右と答えると笑ってやがったな。左手でやるから右に曲がる。そんなことクラス中の誰もが、いや、世界中の誰もが知っている──少なくとも正常なイチモツを持っている男は一人残らず知っている──自明の理のようなものだった。それがなんだって? 戸を開け、スリッパを脱ぎ、部屋に入ると窓のサッシの溝の中に落ちている小さな羽虫の死骸が話しかけてきた。「もう少しで精神が崩壊するところだったな。だが、それほどでもなかったろ? やつはあの程度だ」「私がどれだけ右往左往しようが現実はしっかり把握している。あんなことで精神崩壊などするものか」「強気だねえ。まあ、今までお前はいろいろ経験してきたからな。幻聴や幻覚を普通の人間の頭の中にいきなり流し込むのとはわけが違う。それだけ強くなったってこったからな。自信持っていいぞ」「ふん、自分で自分を慰めるハメになるとはな」「やっとわかってきたか。チェーンの飲み屋みたいに音声多重の場所じゃないからなここは。オレとお前しか居ないから、正確にはオレたちとお前だが、少なくとも何を言ってるか聞き取れる。お前はしゃべってるやつの心に入る。いくら音声多重だろうが入ろうとする。それも言わば執着だ。人間である証。しかしお前がまだ理解していない領域がある。それがオメガポイントだ」「本当に行けるのか?」「行くんじゃない、戻るんだ。宇宙は膨張と収縮を繰り返している。わかりやすく言えばオメガポイントはその外側にある」「どうすりゃいい?」「〝転移〟──だな。もちろんそれもわかりやすく言えばの話だ」「そんなこと聞かなくても大体察しがついていた。私が知りたいのはその方法だよ」「まだわからん。だが知ったところで今のお前にゃどうにもできんぞ」思うに、親父がビールをかっくらいながら野球中継を観て癇癪を起こす理由と同じく、何があっても生きねばならない理由が本当にあるとしたら、それは傲慢でしかないのではなかろうか? 独善なのではなかろうか? 生きることが悪だと思ったところで結局のところ生ある限り生きねばならないのだが少なくともそれは義務ではない。すでに埋葬済みの屍のように生きている自分にとってそれはどこまでも平坦な理論だった。高まりもなければ、落ち込みもない。考えるなというのは企業の思うつぼだから、市場原理という穢れた海に身を投げるようなものだから、しかし、ない頭でいくら考えても答えが出るはずがなかった。そう、オメガポイントへの帰り方も同じことが言えた。「同感だね。できるわけないと思うよ。今のところはね」羽虫の死骸は話を続けた。「最初あの置き薬屋が来て無理やり薬箱を置いていったとき、お前がもう二つも薬箱があるんですよと言ったときのあの営業マンの顔を覚えてるだろ? ヤニのにおいをぷんぷんさせながら汚い笑顔でこう言いやがった。【大丈夫大丈夫、どっこも一緒じゃけえ】お前はあのときこう言いたかった。【調子ぶっこいてんじゃねえぞ、腐れ外道が!】いや、すでに言った気になっている。そこに転移のヒントが隠されている。外面上は取り繕っているが内面は違う。そこだ」「そんな体験なら嫌と言うほどしてきたよ。汲み取りのおやじが入院したってんでとうとうくたばりやがったかと安堵していたのに、こないだあの聞きたくもないでかいしゃがれ声を聞いたとき心底がっかりした。今までぼられていたことが人が替わってやっとわかったってのにまた目盛りの読めないもうろくジジイに水増し料金をぼられると思うと嫌で嫌でたまらない。しかも来たときはあのエカテリン・ミズウが必ずしゃしゃり出てガキの話をする。こっちゃラーメンを作っているのに声に気を取られてタイマーをセットするのを一瞬忘れていた。統合失調症の急性期となんら変わらなかった。気を取られたことが心の底から腹が立つ。だから真空左波動を何発も打ってやった。それを毎日繰り返している。気を取られないためには攻撃的でなければならない。仕方ないんだ」「また出たな、仕方ないが。お前の弟のように社会の毒に髄まで侵された者がよく使う言葉をどうして吐く必要がある? 当たり前の道理のようにそれを言うやつが死ぬほど嫌いなくせに。あれはかあちゃんが倒れたとき、看病する人がどうしても必要だった。しかし部外者に看病させることをお前は拒んだ。そこで喫煙者で飲酒運転することを何とも思っちゃいない、あの弟の野郎が言ったセリフが【仕方ないじゃん】だ。お前は脳ミソの裏っかわで殺意を覚えた。いいや隠さなくていい。殺人は重罪だ。この現実ではな。しかしそれがもし妄想の産物でしかも幻覚でしか過ぎないものであったらどうする? ヤるか? 答えなくていい。当然お前はやる。超自然のやりたかったからやったという原則を思い出せ。現実にはできない。しかしお前には妄想や幻覚というかたちで実現可能なのだ」私は言う。「しかし私は雨に当たってもオメガポイントには行けなかった。お前たちの声は所詮妄想の産物でしかなかったんだ」「じゃあ、神の声もそうだと言えるのか? 神は契約で額の傷口からお前の中に入った。それも否定する気か? お前はもう妄想しているはずだ。弟をどう殺すかについて。時間の問題だぜ。なんだったら今から見せてやろうか?」「よせ」「本当は見たいくせに遠慮すんな。気を取られないためには攻撃的でなければならないってお前が言ったんだぞ」私の中では弟のことなどもうどうでもよかった。人生におけるしがらみがたいていそうであるように時間が解決したと思っていた。しかし突然、けりをつけねばならないと思い始めた。理由は自分でもよくわからない。射精した瞬間、弟の名が浮かんだからかもしれない。いや、確実にそのせいだ。私の目の前から、この世界から、跡形もなく、あの残像を抹消せねばならない。母が倒れたときに大喧嘩したのと同じく3年ぶりに弟に対する闘争心がよみがえってきた。いや実のところ万年雪のようにずっとそれはあった。男は闘争心が解放されたときに最も歓びを感じるのだという愚説を中坊に向かって臆面もなく言い放った陸上部の担任に今は心底共感できる。年子だからか弟が私を馬鹿にしているのは前述したとおりだ。もう一つ腹立たしいことを付け加えるとするなら、やつは母の病室でボディー・スプレーを使いやがった。母が肺炎を併発したのは医者が何と言おうと確実にそのせいだ。さらに付け加えるなら、やつは孤児だった今は夫も子も居るとある知り合いの女性──母方の祖父母が引き取って育てたという話で私も子供の頃会った憶えがある──が夫との不和で泣きながらうちを訪ねてきたとき──当時、母方の伯母も母も健在だった──トイレに行ったのを「人妻がトイレに入ってる!」とでかい声で言いやがった。アダルトビデオの見過ぎだし、私以上にいかれてやがる。「やっとるでこんなあ」とか、「あんたの城でゆっくりしてろ」とか、やつの言った嘲弄する言葉たちが私を自然に今すぐ金属バットで滅多打ちにしたい気持ちにさせる。「さっさと片付けよう」私は羽虫の死骸にそう言った。


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それも言うならば必然だったのだろう。私は弟の店まで歩いて行くことにした。ひょっとしたら気が変わる出来事が起こるかもしれないという淡い期待が多少あったがそんなことはまったく起こらなかった。春のうららかな陽光の中、例の金属バットを引きずって亡霊のように側道を歩いている私を見かけてもブレーキ・ペダルを踏む人は居なかったし、道行く人も私に目もくれなかった。実際のところ見えていないのではないかと疑ったがそんなことはなかったし、むしろ何者かの鋭い視線を常に感じていた。だがここはまぎれもなく私の世界だった。夢や妄想や幻覚や、その他、それに類する世界なのは間違いなかった。私は夢の中で色を見ることができたし、香りを嗅ぐこともできたし、音を聴くこともできたし、今手に金属バットを握っていることも当然感じることができた。はっきり言って、これは現実ではなかった。なぜそう言えるかと言えば、まず第一に小さい女の子が幼児特有のかわいい声でずっと「おはよ、だって」と、腹立たしいことに遠くのほうから私に聞こえるように何度も言っていたし、次に言うならあの中坊が「へっ、ばーか」と、これも腹立たしいことに遠くのほうで私に聞こえるように繰り返し言っていたからだ。蚊の鳴くような小さな声だったがはっきり聴きとれた。国道の車の往来の激しい所に出てもそれは変わらなかった。ずっとそれ。交番の前を通り過ぎる。突然誰かが大声で言った。「おまわりさん、こいつです!」私は一応ぱっと後ろを振り返って見た。誰も居ないし──正確には声の主とは思えないお上品なおばさんが向こうの横断歩道を一人渡っていたが──、追ってきているはずのおまわりさんの姿も見えなかった。株を上げるチャンスだってのに鈍感なおまわりさんだこと。それとも大好きな違法風俗店の摘発にかりだされて留守なのかな? まさか迷子の子猫ちゃんとのたわいのない幼稚な会話に熱中している最中だとでも? 子猫ちゃんに銃を突き付けてこいつをぶっ放されたくなかったら大人しくしゃぶれとか、もう一丁ある俺の銃がぶっ放されるまでの辛抱だ、とかなんとか言って、変態行為を強要している最中だとでも? 弟の釣具屋はとある小汚いアパートの一階のテナントに入っていた。散髪屋の隣だ。店の体はなしていたがいろんな意味で小さい店だった。なぜ私が友達だけでなく弟にまで自分のもの、例えばゲームソフトや漫画本などを触らせなかったのかその理由は至極簡単だ。やつらも自分と同じことをしてきた罪人だ。あの背徳感は自分は違うと思い込みたい証拠。お前ら下賤の者と私は違う。そう思いたかった。中高と、執拗に握手をしたがらない、具体的に言えば腕相撲をしたがらないやつが居たが今思えば理由はそれと一緒だ。〝不浄の手〟と握手をするなどもってのほかだとでも思ってやがったんだろう。私は戸を思いきり蹴飛ばして店の中に入った。ドア・チャイムがびっくりしたように鳴ったがそんなことはどうでもいい。私は手当たり次第に商品の下げてある什器などに渾身の力でホームランを打ち始めた。極力静かに。私は静かなのが好きなんだ。状況を把握した店主がカウンターの電話の受話器を取り110番しようとしているのが見なくてもわかった私は「今ヤクザの抗争が激化してるのを知ってるだろう? 連中は今忙しい。それどころじゃないんだ」と言いながらガラスの商品ケースをぶち割ることにご執心だった。少々気持ちの悪い音がした。「そうじゃなかったら、あるいは子猫ちゃんとの淫行に忙しい。わかるだろ、それくらい?」店内をしつけのなってないガキの遊び部屋なみにめちゃくちゃにした後、店主を見る。弟だ。かつて〝わたし女よごっこ〟で真っ先に「わたし女よ」と言った、あの頃の幼稚な遊びには嫌悪すら感じているといったふうの顔でこちらを見ている弟が目の前に居た。そして言う。「どして?」私は腹の奥底から込み上げる笑いたい衝動を抑えるのに苦労しながら、かすかに微笑んで穏やかに言った。「仕方ないじゃん」私はもうホームランしか打てない無敵のバッテリーだった。弟の左側頭部に渾身の一撃を食らわせるとカウンターの裏に回って倒れた弟のドタマにありったけの力で何発も食らわせた。壊れたレコードみたいにこう繰り返し言いながら。「仕方ないじゃん! 仕方ないじゃん! 仕方ないじゃん!」弟はこんな小さな店では終わらないとかでかい口を叩いていたが終わった。しかも、よりによって仕方なく。やつにとって自分の常識は世界の常識だった。だが今回、それとは完全に異なる私の常識を見せつけてやった。「あばよ」──私は気付くと白い天井を見ていた。視界に丸いものが一つ見えたがすぐに電灯だと思った。それは間違いなく私の部屋の消えている電灯だった。むっくりと上体を起こすと羽虫の死骸が言った。「楽しんだか?」私は顔を手で拭おうとしたが眼鏡をかけていることに気付いて、あごのいまいましい髭の生えかけたじょりじょりする感触を右手の親指の付け根で嫌と言うほど味わった。「まあな」「この流れはアレか? 己を演劇でいうところのその他大勢の中に埋没させて滅却するための儀式か?」「そうかもな」「あはは、弟の野郎はお前の中で死んだ。お前が殺した。しかし、きれいさっぱり忘れろよ。あれはくそほど無慈悲にスピードを上げて狭い路地を走る車に事故ればいいのにって願うのと同じことだ。それよりあのコンビニのねえちゃんをどうものにするか考えたほうが確実にテンション上がるぞ」「そんな気分じゃない。疲れた。山へ行くべきときかもしれん」「だったらお安いご用。連れて行ってやる。ほうら」羽虫の死骸がそう言うと辺りはすぐにあの山になった。ついさっきまで大勢の人が花見を楽しんでいた強い気配があったがひとけはまったくなく、そのかわり、桜が満開だった。私だけの桃源郷のような光景だった。私は何かを求めるように立ち上がって歩き出す。頂上から少し下ったところの尾根にも桜が植えてあった。そこに座って花見をする母と弟、そして私。憶えてる。そう、憶えているとも。多少の問題はあったが幸せだった頃の残像だ。それは次の瞬間、砂が風にのって舞い上がるように消えた。こんなことも憶えている。ぎゅうぎゅう詰めの駐車場に車を止めようと母が四苦八苦していたとき、弟の野郎は山道を歩く若い女の姿をじろじろ見ていやがった。それを見た私はだめだこりゃと思ったものだ。せっかくの家族でのお花見だというのにあの愚弟ときたら桜よりも若い女に興味があるらしい。当時やつには付き合ってる彼女が居た。彼女にリストカット癖があったのもうなずける話だ。やつが母の死後ややあって彼女と別れた後、私は言ってやった。「お前ならすぐ彼女ができそうだな」やつはこう言った。「ありがとう、そう言ってくれて」いやいやいや、侮蔑を込めて言ったのだが。私はまたあのベンチにたどりついた。座る。本当に誰も居なかった。桜だけが威勢よく静かに咲いていた。空は白くうす曇りで太陽が白く光っているのが見えた。私はもう何にも好奇心が湧かなかったし、人とおしゃべりするなど言語道断で、ただひたすら疲れを感じた。空腹感はなかったし、のどの渇きも感じなかった。夢の中というのはたいていそうではないか? 気付くと向かいのベンチに例の白衣を着た3週に1度通っているクリニックの先生が無表情でただ座っていた。「神か? こんなところまでご苦労だな」「ざわざわ聞こえるか?」先生は、いや神は口を動かさずにそう言った。「ああ、さっきからずっと聞こえてる。雨が降っているような、葉擦れの音のようなざあざあいう音」「こいつはいつもそれを訊く。それとお前のかぶっている帽子の下に何が隠れているのかも執拗に」「病気の症状なんだろ? 薄毛のことを訊かれるのは確かに腹立たしいが」「〝病は気から〟あれが本当だとするとお前が毎日薬を飲んでるのは単なるプラシーボ効果に過ぎない」「いいじゃないか。〝信じれば救われる〟だ」「お前、オメガポイントとやらの存在を本当に信じているのか? しかも自分がそこから来たと本当に信じているのか? 本当は死んだら無だと思っている。そうだろ?」「わかってるくせにいちいち訊くな」「はは、じゃあ、こうしよう。死んでみろ。そうすればお前の意識は相転移してオメガポイントに戻れる」「私をハメる気か? 私はすでに死んでいる。あんたの子分がそう言ったんじゃないか」「だがお前はそれを信じていない。私がオメガポイントから来たことも信じていない」「じゃあ、訊くが、〝信じる〟って一体どういうことなんだ? あんたらのような夢か現実かわからないようなやつの存在を信じるって。辞書を引けば信じるとは信仰すること、信仰とは信じること、誰も本当の意味を知らないんだよ!」「信じるとは我々の存在を確かなものにすることだ。切っても切っても生えてくるくそいまいましい雑木や、そこらじゅうをトイレにしているとっ捕まえてぶち殺したい野良猫や、そしてアスファルトの上の小さな砂粒などのあらゆるものを信じてるやつが居る。お前だ。なぜ私がお前の中に入ったか。お前が信じたからだ。オメガポイントから来た私の存在を。戻ろう。そうすれば私とお前は分離しお互い自由になれる」「それが死ぬってことか?」「まあ、別に死にたくなけりゃ死ななくてもいい。私とお前が分離しないまま終わりを迎えるだけだ。お前が思っているように〝無〟になるだけだ」「宇宙の外っかわでも戦争するくらいなら無になったほうがいい」「勝手にしろ。だが、これだけは言っておく。このようなセッションはお前がそう思ってる限り平行線のまま何も進展しない。私を楽しませてくれよ。いいか? 時間は限られている。せいぜいない頭で答えの出ない問題を何度も読み返せ。無駄骨に気付くのが早いか遅いかの違いだ。いずれわかるときが来る。必ずな」「何がわかるって言うんだ?」「お前が生きているうちにやるべきことだよ。じゃあな、今回はこれで終わりだ。別れを惜しむ必要はない。すべてお前の中にある。私も、そしてそこらじゅうにうようよ居やがる心底嫌な連中もな。連中はたいていつるんでナンパする。独りじゃ何もできないお子ちゃまだ。だが私は違う。私を見つけろ」神は言いたいことだけ言って煙のように消えた。いきなり突風が吹く。花びらが舞う。私は両手で頭を抱えて一回強く息を吐いた。むかつくな、風の野郎。私がそう思ってまた前を向くとAさんが座っていた。またこのパティーンか。Aさんは無表情で私を見つめているというより意識は別のところにあるといった目で私を見ていた。私が何か言おうとしたらAさんがあのロリ声で先にこう言った。「なんだ、カワイコちゃんか。珍しくも何ともない」私はおずおずと声を出す。「そ、そんなことは──」「それになんだか怖い。私に近づかないでってオーラが半端ない」「そんなことはない」私はそう言うと立ち上がってAさんのところに行き、目をつむって軽くキスをした。目を開けると最悪なことに今キスした相手はエカテリン・ミズウだった。私を思いきり抱きしめて汚い声でこう言う。「もう慣れた? 子供がねえ、中学校3年生。そりゃ毎日のようにシコってる。それでも見て見ぬふりをしてんのよ。だって、どっこも一緒でしょ? そんなこと」極めて気持ちの悪い悪寒を感じた私はすぐにすえたにおいのする物体を全力で振りほどいた。エカテリン・ミズウは自分のケツからぼとぼとと落ちる大便を「あらあら、落とし物」と言いながら手で拾い口に放り込んで、嫌な音を立てて咀嚼し始めた。「お兄ちゃんもどうぞ」迫ってくるエカテリン・ミズウ。私は空に向かって全力でわめいた。「おい! 悪夢はやめろ! やめてくれ!」エカテリン・ミズウが消えないのでやけで某作家大先生が放浪時代に夜盗を一撃で死に至らしめたという殺法の一つ回し蹴りを食らわせた。若い頃何度練習したかしれない。その成果を試すのは今しかなかった。感触はなかった。見ると目の前には誰も居なかった。そのかわりBさんの像が結ばれこう言う。「わたしとキスして、早く!」私はまた空に向かって叫んだ。「私をおちょくってるのか!」Bさんは私をベンチに押し倒すと無理やり濃厚なキスをした。目をつむるな。目を開けたとき、そこに居るのはエカテリン・ミズウか、あるいは他の極めて気持ちの悪い何かだ。私は必至で目を開けていた。甘い香り。下の私の分身が反応しかけていたがやっぱりだ。いいところで画面が切り変わる。テレビのよくあるパティーンではないか。見る間にBさんの髪は綺麗なロングの亜麻色からざんばらの白髪になり、顔はしわとしみだらけになり、要するに老婆になった。私は口を奪われているため、野卑な連中しか使わないチェンソーのようなうーんといううなり声を上げながら老婆を跳ねどけた。入れ歯の位置を直しながら老婆は言う。「だから早くって言ったでしょ」老婆はさーっという音を立てながら無数の小さな黒い粒になって風に流されて消えた。ということは次はCさんの番だ。そう思ったらやっぱりCさんの像が目の前で結ばれた。いちゃついてる男女を見てむかつく心理などどうでもいい。私はとにかくこの世界から抜け出したかった。ショーパン姿のスレンダーなCさんが獲物を見定めた猛獣のようにゆっくりと近づいてくる。「よせ! 物語の最後でどんでん返しなんかもうたくさんだ!」Cさんは私に抱擁すると軽くしかし熱くキスをし、次に私のチノパンのチャックをおろした。そのとき私は考えつくあらゆる最悪のシナリオを瞬時にサーチした。毒をもって毒を制す。目の前に母の遺影が現れる。マザー・ファッカー! 私はパソコンの検索結果なみに数秒でそれを思いついた。だから勃起のき君、お母さんはやめておけ。お母さんのアソコは腐っている。第一お前のお母さんは人に母親が死んだことに慣れたかどうかを訊いて悦に入るような腐れ外道じゃないか。な、やめておけ。思うになんであれは〝社会の窓〟などというのだろう? きっと深い意味があるに違いないと子供心に思ったものだ。しかし今はそんな郷愁にひたっている場合ではない。私はチノパンのチャックを上げようとした。チャックは上がっていた。Cさんも母の遺影も花吹雪とともに消え、むかつく強い風が吹いていた。風に雄々しいものを感じるやつも居るようだが頭おかしいんじゃないのか? まともじゃない私が言うのだから間違っているとでも? そもそも、この世界にまともなやつなんて居るのか? 母さんじゃない、弟でもない、伯母でもない、伯父でもない、もちろん、エカテリン・ミズウでもない、他の誰かカワイコちゃんの像を信じて確かなものにしないといけない。少なくともセッションの間だけは。要らないものを拒否できるほどの強い精神力が私にはなかった。種々雑多なものが日々ものすごい勢いで私の中に入ってきて、いろんなことを言い始める。十中八九、悪口や嘲弄や揶揄だった。それがつまり病気である証拠だった。だから私は要らないものを殺さなくてはならない。私の中で。それはもちろん現実ではない。夢、妄想、幻覚、もしくはそれに類する世界での話に過ぎない。しかし、私は強く信じた。いや、心の奥底で間違いないと思っていた。現実に体験したのと寸分たがわない経験をした。そう、少なくとも経験したのだ。この病気が発症した当時、病院の待合所に居る人々が全員同時に私に話しかけてきたのも、私の考え──端的に言ってそれは考えというより邪悪な意志だったので心底知られたくなかった──がすべて彼らに筒抜けだったのも、病気の症状とはいえ、私にとっては現実だった。幻聴や思考伝播を経験した者から言わせれば、良心と善意が至高の意識形態であり、それらに従って生きることが意味と価値を生むと思うのは当然の成り行きではないか。邪悪なるものは私の中にある。だから私の中だけで帰結させる。私はふと思った。まさか神が?──


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気付くとまた白い天井と丸い電灯を認識した。私の部屋だった。むっくり上体を起こすとあの羽虫の死骸は役目を終えていた。話しかけてこない。「おい」私は言ってみたが無駄だった。尿意を覚えたので階下のトイレに行き用を足して階段を上がると出窓のところに羽を半開きにして横たわっているカメムシの死骸があった。「今度はお前か?」「見つかっちまったか」「私に悪夢を見せるのはやめろ」「大丈夫だ、死にゃしない。ところでそろそろ来る頃だぜ」「誰が?」「神とその息子と精霊を信じてるマイムたちが」「宗教か。断り方なら知ってる。二度と来てほしくなかったら何も受け取らないことだ。でも、なぜか来る。あっちも把握してないんだろうな。ここに以前来たことがあることを。そしてご丁寧に追い返されたことも。なんのことはない。また追い返してやる」「毎度言うようだがお前がウォラであることを知られるなよ」「私が自分から言うはずないだろ、そんな話。それに知られたところでどうってことないだろ? 連中は自分たちがマイムであることすら知らないんだぜ。ていうか、来るのがわかってるんなら玄関ベルが鳴っても出なきゃいい」「連中の能力を甘く見ないほうがいい。守銭奴の置き薬屋と違ってやつらは見えないものを信じている。お前と一緒だよ。その意味がわかるか?」「教えてくれ」「神と会話ができるし、オレたちとも会話ができる。時空を超えることもできる。お前とまったく一緒である意味はつまり心を奪われる可能性があるってことだ」「そんなことはない、今までも拒絶してきた」「今回はどうかな。ウォラナイトである自覚を持っているお前はもう今までとは違う」確かに私にはもはや日付と曜日の感覚がなくなっていた。昼と夜の感覚さえない。少し大袈裟に言えば、まるで昆虫か原始生物のようにあるのは明るいか暗いかの感覚だけだった。しかしそれがどんな意味を持っているかまではわからなかった。生きるということと同じように。「まあいい、この先2、3日は玄関ベルが鳴っても出ないことにする」「そんなことをしても無駄だ。やつらの能力は壁が何枚あろうと関係ない」「じゃあ、どうしろって言うんだ?」「どうしようもない。やつらは来る。ウォラを求めて」朝、と言っても正午に近い時間だったと思うが玄関ベルが鳴った。私は飛び起きて掛け布団を跳ねどけたがマイムかと思い直し、また掛け布団を掛けた。じっとしているのに足裏から汗がにじみ出てくるのがわかった。いずれにせよ、起きる時間だ。私はまた掛け布団をはぐり、上体を起こす。頭をかく。くそいまいましい音で叩き起こされたのを除けば、いつも通りだ。着替えてコーヒーカップとタオルを持って階下に下りる。そしたら階段下にも設置してある玄関ベルが鳴った。粘るね連中も。私は気にせず──正確に言って気分の悪い心地だったが──トイレで用を済ませ、顔を洗い、電気ケトルに水道水を入れて湯を沸かす手順だったがトイレから出たところでまた玄関ベルが鳴る。しつこいな連中も。私は手っ取り早く追い払うために玄関わきの小窓を開けた。私が最初に玄関ベルが鳴ったときに抱いた予感は当然のように当たっていた。いやカメムシの死骸と会話したときにと言ったほうがいいか。見ると帽子をかぶった小柄で小太りのおばさんが一人ショルダーバッグを引っ提げてにこやかに「こんにちは」と言った。私は言う。「はい?」一枚のビラを差し出しながらおばさんはこう言った。「また集会がありますのでどうぞいらしてください」ビラに〝イエス〟の文字が見えた私はやっぱりかと思い「結構です」とやんわりと言った。「え? どうして? 何か理由でもおありですか?」「いえ、お断りするようにしてるんですよ」我ながらナイス切り返し。「聖書はお読みになったことがおありですか?」「いえ」「よろしければね、こういうホームページがありますから見てみてください」と言いながらバッグからタブレットを取り出し説明を始めるおばさん。私にはそれを見る気はさらさらなかった。「ウォラってご存知ですか?」いきなりその言葉が出たので私は一瞬血の気が引く感覚を味わったが「いいえ」と可もなく不可もない声音で答えた。「私たちはウォラの味方なのですよ」あなたはマイムでは? という質問がのど元まで出かかったが制することに成功し、かわりに興味なさげに「ああそうですか」と言った。おばさんが「どうぞ」となおもビラを渡そうとするので私は「ほんとにいいですから」とやんわりと言った。「あなたお坊さんでしょ?」と突然言い出すおばさん。私は丸刈りの頭をさすりながら「違うんですよ」とまたやんわりと言った。「優しそうな目をしていらっしゃるから」おいおい、褒めても何も出ませんぜ、マイムのおばさんよお。「違うんですよ」とまた私は言った。見えないものを信じてるって? うそつけ。完全に見た目で判断してるじゃないか。「聞こえますよ、あなたの心の声が」かつて私が思考伝播の妄想に悩まされていたとき、母は私が「聞こえる?」と質問すると「聞こえん。言わにゃ聞こえんちゃ」と何度も私に言ってくれた。そのとき私の頭の中では〝犯す、殺すは最悪の言葉〟と繰り返されていた。「犯す、殺すは最悪の言葉」とおばさんは言った。私は思わずおばさんの目を見た。想像力を全開にして汲み取る努力はしたものの、何か気持ちの悪い笑顔だった。「あなたが言った、そうでしょう? 神はすべてを知っておいでです。あなたが犯した罪も何もかもすべて」私はそう言われても何とも思わなかった。いや、厳密に言って、さっきビラのイエスの文字を見たときと同じく〝やっぱりか〟と思った。「あなたが拒もうが受け入れようがそんなことは重要ではありません。ただ我々は常にあなたのそばに居ます。お時間いただきましてすみませんでした。ではこれで」勧誘員のおばさんは帰っていった。私は大急ぎで小窓を閉めるとどたどたと階段を上がる。そして出窓のカメムシの死骸に向かって急き立てるように言った。「どこから幻覚だったんだ?」「だから用心しろって言っただろうが。オレにわかるわけないだろ、お前なんだから。だが自らウォラと名乗らなかったのは正解だ。よくやったぞ」「現実と幻覚の境目がわからなかった」「かなり強力なマイムのようだ。まさか集会に行きたいなんて思ってないだろうな?」「それは大丈夫だ。でも、何かを奪われた気がする」「お前の世界で起きたことだ。奪われた気がするだけなんだよ。それはどこにも移動していない。いいか? 自分を信じるとは自分の存在を確かなものにすることだ。余計なものが入ってきたら抹殺すればいい」「AさんやBさん、Cさんはすでに私の中に居る。しかも殺すことはできない。いや、殺したくない」「彼女たちがマイムだったとしてもか? いいんだぜ、エカテリン・ミズウや弟をヤったようにお前の心の中で楽にしてやればいいだけだ」「できない! もういい、黙れ!」「四十がらみのおっさんが片思いか。しかも三人も。どうしようもねえな。はっきり言ってやろう、彼女たちは間違いなくマイムだ」「よせ! やめろおおおお!」「彼女たちは間違いなくマイムだ。間違いなく──」洗面所に行き、眼鏡をはずし蛇口をひねって両手で水をすくい顔に当てる。冷たい。拭いながら鏡を見ると私の顔はなんだかげっそりしていた。顔色が悪いし、目つきも。不精髭がみっともない。ふと私はそれに気付いた。鏡の奥の部屋の隅に例の金属バットが立てかけてあるのが見えた。後ろを振り返る。ない。もう一度鏡を見る。ある。気分転換にコンビニにでも行ってこよう。朝のパンと昼飯を買いに。タオルで手早く顔を拭うと眼鏡をかけ、帽子をかぶり、財布を持って、私は外に出た。私の心の暗い奥底を照らすようによく晴れたいい天気だった。コンビニに入り、お決まりの商品をかごに入れ、レジに並ぶ。「こちらへどうぞ」の声。Cさんだった。「おむすびあっためますか?」「いえ、いいです」と言った私は目を疑った。そこに金属バットが立てかけてあるではないか! そう言えば「おはよ、だって」と言う女の子の声と「へっ、ばーか」と言う勃起のき君の声が聞こえないでもない。それはほとんど気のせいくらいの音量だった。私はまた幻覚を見ているのか? 私はもうどうでもよくなって商品を袋に詰めるCさんに向かって禁断の質問をしてしまった。「あなたマイムですか?」「はい? なんですか?」私はもう一度同じことを言う。「あなたマイムですか?」Cさんは口に右手の人差し指を当てて小さく「しっ」と言った。そして私の顔に顔を近づけて小声で言った。「ウォラです。あなたもでしょ?」私はうなずいて言った。「私はウォラナイト」Cさんはカウンターから出てくると「こちらへどうぞ」と言うので私は言われるがままついて行った。トイレだった。奥の一室に入ると水洗トイレの制御パネルのボタンを数度彼女は押した。すると横の壁が上がって下に続く階段が現れた。「こちらです」と言い階段を下りる。私の後ろで壁が閉まる。彼女はこう言った。「よく告白してくれましたね」「え?」「ま、いずればれるものですよ。あなたは運がいい」照明の付いたつづら折りの階段を下りていくとひときわ強い光の漏れている扉があった。彼女が扉を開けながら言う。「さ、どうぞ」「どうぞって、ここは?」「入って見ればわかります」私は言われるがまま光の中に入ってみた。そこはちょっとした広い部屋になっていて、ノートパソコンの置かれた机と椅子が一対隅にあり、明るい照明が天井に付いている他は何もなかった。「わからない。教えてください」私はCさんに訊いた。「案内人を呼びましたから。すぐ来ます。じゃ、私は仕事に戻らないと。あくまであなたの幻覚の中でですけど」「やっぱり幻覚なのかこれは?」「正確に言えば幻覚という言葉も一意的なものだから少し違います。言葉というのは神などと一緒で所詮人間が創ったものです。えらそうに言っちゃいましたね」「じゃもしかして君も私が創ったとでも言うのか?」「そうですよ。この世界のあらゆるものはあなたがお創りになった。昆虫も動物も鳥や草木や無機物まですべて」「それじゃまるで神じゃないか」「今言ったように神もあなたが創った、ウォラナイトさま、あなたが」「しかし私にはそんな記憶はない」「あなたが人間になるためには避けられないことだった」「なんでそんなことを知ってるんですか?」「それもさっき言いました。私もあなたが創った人間の女に過ぎない。しかも若いぴちぴちのね。それじゃ」Cさんは扉を閉め、コンビニの仕事に戻っていった。私は一つ強く息を吐いた。とりあえず机にさっき買ったものを置き、椅子に腰かけおむすびをやる。キツネにつままれたような感覚だった。いや正直、その感覚には慣れているつもりだったが実の母親が二度死んだような感覚と言えばわかってもらえるだろうか。部屋の真ん中の床を凝視する。下から何かが上がってくる。どう見てもサラリーマンだ。背広を着こみ、ヤニ臭をぷんぷんさせている私の一番嫌いなタイプの人間。顔は普通、かしこまったフチなし眼鏡をかけている。あとはこれ見よがしに後ろに撫でつけた豊かな髪の毛が不信感を倍増させる。「お待たせいたしました、ウォラナイトさま」「VIP待遇はいいんだけどさあ、あてこすりもいいとこだぞ」私はもぐもぐしながら言った。野菜ジュースをやる。「と、言いますと?」「わかってるくせに訊く気か?」「はい是非」「社会の毒に髄まで侵された哀れな生き物、しかもヤニ臭をぷんぷんさせている。背広を着こんでりゃとりあえず善人面できると思ってやがる。だが私を騙そうたってそうはいかない。お前らが自分だけが世界で一番正しいと思ってることくらいちゃんと知ってるんだ。もしくはそう信じてることくらいな」「失礼ですがウォラナイトさま、わたくしは煙草はやりませんし、独善家でもありません」私はストローをずーずー鳴らす。「ふうん、まあいいよ、そんなことはどうだって。で? 案内人なんだからどこかに案内するんだろ?」「まず、わたくしはJと申します。以後お見知りおきを。では、さっそくまいりましょうか?」「いいよ、ちょうど腹も満たされたことだし。食後の運動にはなるだろう」「では、ここに来てわたくしと手をつないでいただけますか?」「やだ、絶対やだ。他人の手に触れていい思いをしたのは中学のときのフォークダンス以来一度もないんだ」「では、肩をつかんでください」「ま、それならいいけど」私は部屋の中央のJのところまで行き、右手でJの左肩をつかんだ。「はい」「では」私とJの体はリノリウムふうの床の中に足からゆっくりと吸い込まれていく。私は最初驚いたが床と一体化する感覚にすぐに慣れた。私は言う。「悪くない」「あなたならそうおっしゃると思いました、でもここからです」私の体は頭のてっぺんまですっぽり床に吸い込まれたと思うと光と抵抗を一切感じなくなった。つまり、真っ暗闇の中を落下しているらしい。この感覚は夢で何度も味わったことがある。あまりいい気分じゃない。ぞわぞわする感覚を黙って耐えていたが──実際には声を発するという行為が不可能だったのだが──耐えきれなくなって横に居るはずのJにほとんど悲鳴のような声で訊いた。「いつまで?」「もうすぐでございます」光と抵抗がゆっくり戻ってくるのがわかった。気付くとさっきと同じ部屋の中央に居た。Jが言う。「お疲れ様でした、もう手を離しても結構です」私はマラソンでもやったかのように両ひざに両手を当ておえっと言った。「お前どこまで鈍感なんだ。私が食ってたのを見てたろ?」「ご心配には及びません。完璧に終了しました」「何をした?」「相転移いたしました」「はあ?」「地上にお戻りください」「雨に当たっても相転移できなかったんだぞ」「今回は滞りなく完了いたしましたので。では」Jはそう言うと足のほうから順に床に吸い込まれる。「おい、ちょっと待て!」「あ、元の世界に戻ることはたぶんできません、悪しからず」「ふざけんな、馬鹿野郎! この、バカ!」私は憤慨したがJが消えた後机の上を見ると何事もなかったようにさっきやった食事の残骸と朝のパンがあったので、それを持ってとりあえずもと来たドアを開け、つづら折りの階段を上がると、突き当たりの壁が自動的に開いたので外に出た。トイレだった。何も変わっちゃいない。後ろを振り返ると壁があった。自動的に閉まったらしい。トイレを出るとやはりいつものコンビニだった。コンビニを出る際「ありがとうございました」とCさんの声がした。何か言おうかと思ったがやめておいた。とぼとぼ見慣れた帰り道を歩きながら、何が変わったって言うんだ、バカ、とか独り言をぶつぶつ言っていると、「お前がバカなんだよ!」と近所の家のほうから罵声が聞こえた。夫婦喧嘩か? 「夫婦喧嘩じゃない、お前に言ってんだ」「夫婦喧嘩じゃない、お前に言ってんだ、だって」「だってだって」「だってだってはキャンディ・キャンディ」と続けざまに聞こえた。私はやばいと思った。症状が増悪している。「私はやばいと思った。症状が増悪している、だって」「だってだって」「だってだってはキャンディ・キャンディ」「だって」私は家に帰るとすぐ余っていた頓服薬を貪るようにやった。軽いパニックだったが気持ちを落ち着ける。くそ、こんなときに。「くそ、こんなときに、だって」「だってだって」「だってだってはキャンディ・キャンディ」「だって」かつて私はそろばん教室に通ったことがある。遠い昔だ。本当に遠いならなぜ今あのそろばん教室の先生の口癖が出るんだ? 「口癖が出るんだ? だって」「だってだって」「だってだってはキャンディ・キャンディ」「だって」この現象にも慣れていたつもりだったがやはりつらい。「やはりつらい、だって」「そんなこと言ってないよ」「そんなこと言ってないよ、だって」「だってだって」「だってだってはキャンディ・キャンディ」「ほら、繰り返してる」「ほら、繰り返してる、だって」「だってだって」「だってだってはキャンディ・キャンディ」「アホじゃ」「アホじゃ、だって」「病気?」「病気? だって」「だってだって」「だってだってはキャンディ・キャンディ」「病気じゃようる」「ふん、病気だって」「だってだって」「だってだってはキャンディ・キャンディ」「だって」夜、薬をやるまで私の頭の中はぐちゃぐちゃだった。床に就き、明日クリニックに行こうと思った。以前にも予約してない日に行ったことが何回かあるが問題なかった。なかなか寝つけなかった。ずっと幻聴が聞こえていた。心臓の鼓動が早いのがわかる。夜が白んでくると周りの物音がやけに鮮明に聞こえ始める。鳥のさえずり、車のエンジン音、そして太陽の光が照る音さえ聞こえてきそうだった。「殺す。皆殺しにしてやる」私が一晩悪口と嘲弄と揶揄だけの幻聴を聴いて出した答えだ。それはもう思考伝播して近所中に知れわたっていた。私の神経がピキピキに鋭く張り詰めているのが自分でもわかった。布団の中で時間が過ぎるのをじっとして待っていると何かと馬が合わない電気屋のおっさんが離れの勝手口に来てドアノブを一回まわしてドンと引いた後「駄目じゃ」と言って帰っていった。大丈夫だ、鍵は閉まっている。私は目をつむっていてもすべてわかった。パソコンが突然しゃべりだす。「オレじゃない、死体を見つけるんだ」お前じゃ役不足だとでも? 「ああ、オレじゃダメだ」なら、三葉虫とアンモナイトが居る。「彼らの役目はすでに終わっている。見つけなくてはならないのは〝新しい死体〟だ」だったらすぐにできる。やつらが来た。白装束を身にまとった連中が私の部屋のある離れを静かに取り囲んで換気扇の通風孔から気体のヤクを流し入れていた。毎度言うようだが私は目をつむっていてもすべてわかった。しばらくして「駄目だ」と言う声がした。そしてなぜかしっかり施錠されているはずの勝手口から白衣を着た女が私に気付かれたらアウトだと言わんばかりにそろりそろりと忍び足で入ってきた。手にはすこぶる強力なヤクがたんまり仕込んである注射器を持っている。私は思った。二度も同じ手を食らうかよ! 私は十分その女が近づいてきて今まさに私の首に注射器の針をぶっ刺そうとした瞬間、その右腕を〝不浄の手〟である左手で思いきりつかんでやった。確かな手ごたえ。目を開ける。私の幻覚通り、そこに白衣を着た女が居た。枕もとの床に転げ落ちる注射器の音。私は跳ね起き、その幻覚通りのなかなか見られたつらの若い女を羽交い絞めにし、言う。「マイムだな?」「お願い、殺さないで!」「それは私の知ったこっちゃない。すべてはお前ら次第だ。外に居る連中に伝えろ、計画は失敗だと。ああそうか思考伝播ですでに知られてるなあ。何人だ? 4人か? 5人か?」「誰も居ない!」「嘘をついて死ぬのが趣味らしいな! ぜんぜん理解できないね、この悪趣味女!」「わたしの話を聞いて!」「私をどうにかしようとしてるやつの話なんか聞けるか! まあ、一発やって殺すのも悪くないとは思うがね!」解放してやれ。所詮女じゃないか。私は思い出す。『主婦でもできるFX』という本を買って、母に「主婦でもできるって」と言ったら、「主婦を甘く見たらいけんよ」確かそんなふうなことを母は言った。だから女を甘く見てはいけないんだ。わかったか? 勃起のき君。それより注射器はどこ行った? それは枕もとの床に確かに転がっていた。「あれはなんだ? 誰がどう見ても注射器だよな? 針をぶすっと体に刺して中の禍々しい液体を注入するもの、そう、注射器だよ! これの説明をまずしろ!」「そ、それはただの鎮静剤なの、あなたは今危険な状態にある」「ほらみろ、やっぱり私をどうにかしようとしていやがるんじゃないか!」これは進化じゃない、ただの病気だ。ドーパミンの過剰分泌だ。「外に何人居る?」「ご、5人」「じっとしてろ」私は素早く注射器を拾った。確かな感触。女の首に針の先を当てる。「立て! 来い!」私は注射器の針先を女の首に当てたまま開け放されている勝手口から外に出た。そこにはご大層に狭い路地に何かの装置をショルダーバッグよろしく引っ提げた白装束の人間が確かに5人居た。私は声を張り上げて言ってやった。「役者がそろったな! さて、どうする? このわけのわからない液体をこの女にちゅうっと注入してみようか?」白装束の5人は涼しい顔で互いの顔を見て、何やらうなずいている。5人とも男のようだ。そのうちの一人が言う。「ウォラナイトさま、ご無礼をお許しください。しかし、こうするよりほかに方法がなかったのです」「おい、聞いたか? ウォラナイトさまだって? 頭おかしいんじゃないのか? お前らの持ってるその装置はなんだ?」「これは──」隣のやつが耳打ちする。そのとき向かいのババア──エカテリン・ミズウが家から出てきて、一番後ろのやつに汚いにやけ顔ででかい声で話しかけた。「子供がねえ、中学校三年生。はよう寝ようるけえ、背伸びた」私はそれに負けじと声を張り上げて言った。「おいババア! しゃしゃり出てくるな腐れマンコ! お前と違ってこっちゃ仕事中なんだよ!」エカテリン・ミズウはただならぬ雰囲気を察知する能力は多少あったらしい。ひっこむ。「で、なんなんだ?」「これは、その、つまり鎮静剤みたいなものを気体にする装置です」「みたいなもの? おい、なめてんのか。正式名称を教えろ」「言っても理解できないでしょう」見てわからないのなら、聞いてもわからない。「じゃあ、この注射器に入ってるのが本当に鎮静剤みたいなものか証明しろ」「どうやって?」「5人も居るんだから一人くらい実験台になってもいいだろう? 一人、こっちに来い」また5人が顔を見合わせ、うなずき、そのうちの一人が前へ出る。「腕を出せ」私は女の首を左腕で確保したまま、右手で差し出された腕に注射器の針を突き立てようとした。そいつは鼻息が荒くなる。「どうした? 鼻息が荒いぞ」私はそいつの腕に注射器の針を思いきり突き立て、親指をぐっと押した。注入される液体。鼻息の荒いそいつは弱々しくああと声を漏らす。くずおれながら近づいてくるそいつを介抱しながら白装束の一人が言う。「おわかりになったでしょう? 何も害はない」この女を放してやれ、何も害はない。「動くな!」5人の白装束の男たちの後ろを見ると警察官が銃を構えていた。一同そちらに目をやる。銃口は私にではなく最後尾の白装束の男に向けられていた。装置の大きく開いた筒の先を向けるそいつ。そして言う。「ありがとう、おまわりさん、いいものを持ってきてくれて」そいつは警察官から銃を簡単にもぎ取る。警察官は無言で抵抗しない。「そこで見物してたらいい、神の復活を」そしてバケツリレーの要領で最前列の白装束の男に銃が渡る。私は言う。「それが何か知ってるんだろうな? 銃だぞ。お前らいかれてんのか? まあ、格好を見りゃ察しがつくけどな」銃口をこちらに向け白装束の男は言う。「先生をこちらへ」女の顔を見て私は言う。「先生?」「わたしはあなたの主治医だった。でも彼らに子供を人質に取られて──」「私を売ったのか?」うなずく先生。私は先生の背中を汚物を捨てるように向こうへ押す。銃を持った白装束の男が言う。「こうなっては仕方がないのです、ウォラナイトさま。ここまで神を運んでいただきありがとうございました。死ねい!」至近距離で引き金を躊躇なく引く白装束の男。かつて中学で仲が良かったと私が勘違いしていたやつが席についていると突然後ろを向いてピストルの発射音の声帯模写をして私の手の甲にシャーペンの先を思いきり突き立てたことがある。今でもほくろのような黒い跡が手の甲に残っている。あのときあいつが言ったようなチュクーンという音がしたと思う。弾丸は私の眉間の傷痕に命中し、なにか鋼鉄にでも当たったかのようにはね返りどこかに飛んでいった。衝撃でよろけた私は体勢を立て直したがすぐに眉間から血が流れ出てきた。私は〝不浄の手〟で眉間を押さえる。痛い。その左手を目の前にやると血だらけだった。それと同時に白装束の男たちをじろりと見た気がしたが私が見たのではない。神が見たのだ。誰かが言った。「神の目だ! 急げ!」白装束の男が一人駆け寄ってきて装置から出る気体を私に浴びせようとしたとき、一瞬閃光が走った。気付くと白装束の男たちもあの先生と言われた若い白衣の女も、そして警察官も、私の目の前から跡形もなく消え去っていた。私はもう一度眉間に手をやってみた。血は出ていない。痛みもない。たださっきまでの状況が現実だったのを示す証拠があるとしたら私が勝手口を開け放して寝間着のまま裸足で外に居るという事実だけだった。それは本当に現実を示しているのだろうか? そして私がそのとき眼鏡をかけていないド近眼とひどい乱視で一部始終を鮮明に見たことが本当に? ただ一つ言えるのは、まぶたの裏で飛ぶ鳥は神が見ていたのだ。


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午後、私はクリニックに向けて我が軽を転がした。いつもの自分を守るための装備、眼鏡、帽子、財布、セカンドバッグをぬかりなく携えて。診察カードと保険証は常に財布の中に入っているし、自立支援関係と薬の手帳もいつものようにセカンドバッグに入っている。おそらく鏡を見ればそこには化け物なみの禍々しい顔が映ったに違いない。私はちらりとも洗面所の鏡を見なかったし、車のミラーで自分の顔をまじまじと見る行為も慎んだ。重力が2倍になったように体が重い。それでも何とか車に乗り込み、今こうして、一路クリニックに向かっていた。ふと気付くと前の車が赤信号で止まっていた。けっこう急なブレーキをかける。そのせいで、後ろの座席に置いてあったものが下に落ちた。なんだと思って体をひねって後ろを見ると例の金属バットだった。何とか手に取る。確かにあの銀と黒で彩られたほれぼれするくらい美しい新品の金属バットだった。後続車のクラクションが鳴る。信号が青に変わったのだ。パッと手を離しハンドルに手を戻す。金属バットは後部座席の足元に転がった。道中たいして信号はないのだが止まるたびに私は後ろのそれを見た。ある。確かに。落ち着かない。春先の猫みたいに何かそわそわしている。それを自覚していながら自分ではどうにもできない。どうにかなってしまいそうな気分だった。峠道、山々では緑が萌え始め、ヤマフジの紫色の花が所々に見えた。天気がいい。しかし私は陽光に光る外のあらゆる景色が何かよそよそしく思えてならなかった。それもこれもあのクソガキどものせいだ! 遠いのに私の耳になぜか届く声。幼女ならではのかわいい声で「おはよ、だって」と言う声と、「へっ、ばーか」と言う勃起のき君のくそいまいましい声がずっと聞こえていた。カーステレオなんて聴きたい気分じゃなかった。この動く箱──その気になればもちろん自分も含めた人を殺すことのできる箱──を正しく制御することだけに神経を集中しようと努めた。猫だ! 路上に猫の死体が転がっているのを見るのはもちろん初めてじゃないがハエのたかる腐臭を放つぐちゃぐちゃの肉塊が助手席に置いているセカンドバッグの横にあることに気付いた私は自分の目を疑った。車を止めて拾ってきたとでも? そんな記憶はない。正気を失いそうになりながらも車を転がすことに意識を向けた。案の定、しゃべりだす。「安心しろ、神はまだお前の中に居る。ただちょっと面倒なことになった。傷口が開いている」私はミラーに目をやり、眉間を見た。どうもなっちゃいない。素早く前方に目を戻す。「どうもなっちゃいない。血も出ていない」私は肉塊に向かって言った。ウインドウを開ける。臭いのだ。「いいや開いてる。試しに目をつむって運転してみろ。かわりに神の目が見る」私は鼻で笑い言う。「馬鹿言うな、そんなことできるか」「やってみろって。前を向いてるのになんでオレが見える? 神の目が見ているからだ。お前自身が神の目なのだ」「例えそうでも自殺行為はしない。とにかく、お前臭いよ。消えてくれ」「お前が処理しろよ」「ああ!」私はちょっと広い路肩に車を止め、外に出て助手席のドアを開けた。ティッシュを何枚も重ね、それで肉塊をつかみ、ティッシュとともに山に放り投げた。山道を走ったとき見た〝不法投棄監視区域〟の派手ではあるがどこか毒々しい色の垂れ幕が一瞬鮮明に脳裏をよぎる。運転席に戻りハンドルに両手を置き一つ大きく息を吐く。今まで肉塊があった所を見ると染み一つなかった。体をひねって後ろを見る。金属バットもない。前を向き、ウインカーを出し、車を転がす行為に戻る。「忙しくて嬉しいよ」私はぼそっと独り言を言った。駐車場に車を止め、いつもの自動ドアをくぐり、いつものように受付を済ませる。「今日予約の日じゃなかったんですけど調子が悪いので来ました」一応私は受付嬢に向かってできるだけ平静をよそおって言った。「少しお待ちいただくことになりますのでかけてお待ちください」「はい」Aさんが居たと思うが見る気はなかった。ラックから雑誌を取り、待合所の椅子に座る。雑誌の文字たちは頭に入ってこなかったが一応見出しだけ読み流す。ぱらぱらするのに飽きた私はその雑誌をわきにうっちゃり意味もなく前方のテレビや横の壁の掲示板や空いたスペースに置かれた観葉植物を順に凝視する行為にふけった。目を開けて気付いたのだがさっきまでしばらく目をつむっていたのだろうか? テレビ、掲示板、観葉植物、順に目をやるがなんのことはない、気のせいだ。私は再び? 目をつむった。名前を呼ばれたのはおそらく45分後だ。診察室に入るといつもの先生だった。言っておくが私の主治医は5歳上の男性だ。看護師の奥さんと小学生の息子さんがいらっしゃる。見られたつらの若い子持ち女ではない。私がいつものようにこんにちはと言うと先生は口を動かさずに言った。「どうだ、慣れたか?」私は言う。「あんたか。どういう意味だ?」「新しい能力に慣れたかと訊いてるんだ」「新しい能力?」「勘付いてやがるくせにわざとらしくとぼけるな」「神の目?」「そうだ私の目だ。自分が見えるだろ? まるで鏡に映ったように」私の中に診察室の椅子に座る私の姿がまばたきするたびに点滅した。目を長くつむってみた。そこには私が居た。目を開ける。ゆっくり深く息を吐く。「ここがオメガポイントである証拠だ。面倒な連中は私が消してやった。ま、ある意味ではやつらのおかげでもあったわけだが」「あんたと私は分離していない」「そうだな、それも同意しよう。お前が生きている限り私は出ていけない。いい加減気付いているだろう? 私とお前がすでに同一の存在であることに。それより楽しもうぜ。お前はもう全知全能。やりたいことをやれ」「だったらとっくの昔に空を飛んでここに来てるよ」「んそんなめんどくさい方法を使わなくたって転移すれば一瞬だ」「はいはい、SF談議は終わりだ、失せろ」「半信半疑のままでは危険だ。やつらにも言われただろう? 世の中には心から信じていいことだって当然ある。例えばウォラとマイムの抗争、お前がウォラナイトであること、そして進化途上なのに病気と称して服薬させられていることも。こいつに訊いてみればいい」「そんな現実離れした質問ができるか」「言っとくがもう何もかもばれてるんだぞ。そう、猫をかぶってる、お互いにな。それに現実離れしたことを体験したのは誰だ? まぎれもなくお前だ。現実なんてものがただの無意味な言葉の一つに過ぎないことをお前はもう知っている。なぜ抵抗するのだ?」「何度も言わせる野郎だな、虫入りのくさいメシを食いたくないだけだ。オカマもほられたくないしな」「お前はもう一歩を踏み出すには歳を取り過ぎている。若い頃のように無茶はできない。それは認めよう。しかし意識はまさに一続きのシークエンスだ。つまり、わかりやすく言えばプッツンしない限り高まり続けるんだ。お前が生きている意味、価値といったものが本当にあるなら、その最高地点で自ら答えを出すしかない。お前が望んでいるのはそういうことだろ? 素材は用意してやった。まさか料理をしたくないとでも言うつもりか? お前も知ってるように、この世界は残念ながら変態野郎がほとんどの割合を占めている。どいつもこいつも似たり寄ったりだ。だが、真面目ぶっこいてるお前さんは希望は捨てちゃいない。答えさえわかればなどという希望的観測の言わば奴隷に成り下がっている。まったく、おめでたい野郎だ。そして──」私は憤慨して言葉を遮った。「何が言いたいんだ?」「つまり、死んでいい。悪いことは言わない、私を解放しろ。お前は全知全能なんだ。私と分離したところでそれは変わらない。それに離脱症状が出た時にいつもこう思うはずだ。誰も、虫さえも殺したくない、馬鹿なことをする前に私を早く殺してくれと。母親の言葉を覚えてるだろ? お前は本当は虫も殺せない、優しい人間だ。しかし、お前の無意識は殺したがっている。むしろ、殺戮を好んでいる。命なんぞ、なんとも思っちゃいない。それがお前の本性だ」「そんなことはない!」「ほう、いつまで善人ぶるつもりか知らないがそれでは連中と同じであることに気付いているのかね? お前が一番嫌っている連中と。善と悪が一意ではないという話を聞いたことがあるだろう? 善悪には境界がない。人は善にもなり、悪にもなる。なのにどちらか一方に決めつけたいやつらがわんさか居る。強がって隠してはいるがとどのつまりそれは不安を解消するためだ。バルジ・ドッヘエが不安にかられて生活保護を受給しているのをお前は知ってるじゃないか。キニシイ・クタンがあの歳でめかし込むことに余念がないのも。不安は誰だって解消したいと思うものではないか。だが、解消されたためしがあるか? 一つ解消したと思ったら、また一つ、一つならまだマシだが二つも三つも来ることがある。次から次に、まるで逆自転車操業ではないか。倒れるまで止まれない。一番簡単な手っ取り早い方法がたまたま善は善、悪は悪と二分することだったのだ。なし崩し的におこなった突貫工事のせいで嘘つきが当然だと思ってる連中がそこらじゅうにまかり通ることになった。それが当たり前になった。お前が崇めてやまない、あの常識にな。風はむかつく、強ければ強いほど、そう、その通り」私は言ってやった。「何が言いたいのかさっぱりわからんね。一言にまとめてくれないか」「生きる意味も価値もない。生きるに値する見返りは何もない。だから死ね。わかったか?」「あんたと話をするといつも損をした気分になる。先生を戻せ」「いいぞ、せいぜい、お互いに騙しあえばいい。いいんだ、それは責めはしない。死にたくなかったら誰でもそうすると思うよ」「早く消えろ!」「え? 幻聴が聞こえるのかな?」先生の口が動いたので私は少し安堵を覚えた。「今日は予約の日じゃないよね?」「はい、調子が悪くなりまして」「あら。どうしても季節の変わり目だからね。薬増やそうか?」「はい、そうしてください」「じゃ、頓服を出しとくね。ええと、うん、頓服を出そう」電子カルテの画面を見ながら言う先生に私は思い切って言った。「それに先生」「うん?」「また死にたくなりました。いえ、たぶん実行する勇気はないんです。ただ気分が」「じゃ、気分の良くなる薬も追加しようか?」「はい、お願いします」〝嘘偽りなく生きる、やがて誠の心となる〟コンビニへの道中必ず通る道横のお寺の門のわきの壁にある張り紙に書いてある標語が脳裏に一瞬ひるがえる。なんのつもりか知らないがいかにも坊主が書きそうな文章だな。意味があるようでいて、そしたらどうなんだ、なんだって言うんだと問いたくなる。そこを書いてないから誰も顧みないんじゃないのかと言いたくなる。あの言葉から学ぶものがあるとすれば、核心は誰も知らないし、そのことに責任を感じるやつも居ないということだ。標語というものがそもそもそういうものであるなら、例えしょんべんひっかけたってばちは当たらない。受診料の支払いをするとき、Aさんにマイムであるかどうかを訊くのはやめておいた。あのときはどうかしてたんだ。クリニックに来ることでなぜか騒がしかった心が落ち着いていることに気付く。薬局に行くとBさんが居た。他の患者さんの応対をしているBさんの顔をまじまじと見た。別にどうってことない。後にしわとしみだらけの老婆になるとしても今は若々しい。今のところは。Bさんにもマイムかどうかを訊くのはやめた。一路家に向けて車を転がす私の心は穏やかだった。しかしと私は思い直した。待合所の天井に設置されているのはテレビのスピーカーに見せかけた、気体のヤクを噴霧する装置だ。それで今私は落ち着いている。クリニックに来るたびに落ち着くのはそのせいだ。先生がマイムだとするとAさんもBさんもグルだ。くそったれ、ちくしょう! まんまとハメられていた! 私は右手でハンドルを一叩きした。「神が言ったすべてばれているとはそういうことなんだ。もうクリニックには行けない。しかし、障害年金をもらうには医師の意見書が必要。どのみち逃げられないようになってる。昔、大きい病院に入院していたときとあるワーカーの一人が私に漏らしたことがある。あなたは国に監視されているのだと。つまりこういうことか。今の体制を維持するには進化型人類に出てきてもらっては困る。だから、病気とか障害、なんだっていい、とにかく理由をつけて駆逐する必要がある。それで我々ウォラはおもてには出てこないミッシング・リンクとして穏やかに葬り去られている。しかしもうそのことに妄執する必要はなくなった。ここはオメガポイントだ。誰もがお互いのすべてを知っている意識の最終到達点。何も変わっていないようで実は変わったんだ。相転移した。ここは自己肯定のために創られた世界。我思うゆえに、それらはある。生物も、地球も、太陽系も、銀河も、そして宇宙も。私が死ねば一つの宇宙が消えることになる。そういうことだろ?」私は驚かなかった。後部座席に横たわっている鹿の死骸に訊いた。「あんまり考え過ぎるなよ、おっさん」「でもなぜ、神は私の中に入ったんだ?」「何度も言わせるなよ、罪を犯させて罪悪感を与えるためだと言っただろう。その作用がなきゃ人間とは言えん」「なぜわざわざ罪を犯させる?」「お前が言ったように、罪とはお前が決めるもの。法律とかの話じゃない。お前が罪と認めたものが罪になる。そして罪悪感を生む。はっきり言ってやろう、苦悩することこそが人間の生きる意味と価値を創造する。答えは出なくたっていい。とにかく存分に死ぬほど苦しめ」「私の考えそうなこった。そんなに強要されなくたって、こんな世界で生きてること自体が苦しいじゃないか」「そうだ、苦しめばいい。それでもどっこい生きてますってお示しするんだよ。それがウォラナイトの使命だ。そのためには何かを実行しなきゃな」「なんだ?」「わからん。わからんがセックスや殺人でないのは確かだ。そしてお前の力を使う。全力を」「私の力?」「さ、時間だ。オレの処理をたのむ」「どうすりゃいい?」「神の目を使え」「なるほどな。で、具体的には?」それ以上鹿の死骸は答えなかった。私は赤信号で止まったときに後ろを見た。まるで大昔からそこに存在していたかのように厳然と鹿の死骸があった。私はどこにもよらなかった。いつもの駐車場に車を止めるまでどうにもできなかった。どうすりゃいい? まだ腐敗は始まっていないが獣臭がした。死んだばかりのようだった。とりあえず精神を集中して長く目をつむっているとすぐに神の目が鹿の死骸を捕らえた。具体的に言えと言われても、自分で言うのもなんだが、私は文章での描写力が未熟なので──少なくとも以前毎月投稿していた某小説誌のショートショートの審査員のお眼鏡にかなうくらいの筆致ではないらしいので──〝捕らえた〟としか言いようがない。そして「あるべきところへ帰れ」と、これも言い方が難しいが言ったのでも念じたのでもない、一つの意志の光源をその死骸に与えたのだ。目を開けて後ろを見ると鹿の死骸は消えていた。大きく息を吐く。右手の中指でハンドルをトントン三度やり、キーを抜いて、セカンドバッグと薬の入った袋を持って車の外に出た。


24

勝手口のドアを開けると腐臭がした。嫌な予感がまたも当たってしまった。部屋に象の死骸が3体折り重なるように積みあがっていた。私は話しかけた。「ふう、調子はどうだ? 象なんか動物園かテレビでしか見たことないよ」帽子を脱ぎ、セカンドバッグと財布をわきに置く。「まあ、そこに座れ。またやつらが来る、海の向こうから。少なくとも二度は繰り返す、二度あることは三度ある、三度ありゃ何度もある」右のやつが言った。「海の向こう? まるで津波だな」「そう、津波はカクレミノだ」左のやつが言った。上のやつが言う。「やつらがお前の神の力を狙ってるのは知ってるな? でもなぜとお前は思ってる、そうだろ?」「まあ、そうだな、具体的な使い道が私にもわからない」「お前は全知全能ではあるが一つだけできないことがある」右のやつが言う。「なんだそれは?」「オレたちを見りゃわかるだろ。蘇生させる能力がない」左のやつが言うと上のやつが笑い混じりに言った。「連中はそのことを知らないんだ」「やつらの目的は死者の蘇生だ。だが、実際にはそんな能力は神にはない。そしてウォラナイトさま、あなたにも」右のやつが言った。「だから連中が最も恐れているのが死だ」左のやつが言う。「死とは魂の消滅。無だ。絶対に元通りにはならない。だから恐れる」上のやつが言う。私は言った。「連中に知らせてやれよ」「無理だ。やつらがはいはいと言うことを聞くわけない。前にも言っただろう? 連中は見えないものを信じている」と右のやつ。「対決のときはすぐ来る。やつらはお前が離脱症状に陥っているのを知っている。神の力が最も高まるとき」と左のやつ。私は訊いた。「じゃ、今朝やったみたいに神にご登場願えばいいんじゃないか?」「お前次第だ」と上のやつ。私はすぐにカッターナイフを持ってきて自分の眉間を少しの躊躇もなく縦に切り裂いた。ほとんど痛みを感じなかったと言うより気のせいくらいの感覚だったが当然のように血が流れ出た。「これでいい。じゃ、行ってくるわ」──東北地方某所、一台の小さな軽が止まっている。脳性麻痺の孫を車に乗せたじいさんが言う。「生きるんだよ」走り出すその軽の後方数百メートルのところを津波が無慈悲に何もかもを飲み込みながら迫ってきていた。じいさんは津波に飲まれて死ぬつもりだった。覚悟はできていた。ふと後ろをまた見たとき強い光を額から放つ寝間着姿で裸足のおっさんが歩いて来るのが見えた。よく見るとその額から血のようなものが流れた跡がある。「あんたも逃げ遅れたのか? 仕方ないよなあ」近づいてきたそのおっさんをさらによく見ると目をつむったまま歩いているではないか! 「あんた──」強い光は額から出ている。ヘッドライトを付けているのかと思ったらそうじゃない。確かに額から出ていた。──私は前方を凝視していた。5人の白装束の男たちがショルダーバッグよろしく何かの装置を引っ提げて均等割り付けしたみたいに横一列になって水上をこちらに向かって歩いて来るのが鮮明に見えていた。最初、まるで蜃気楼のように見えたが間違いないやつらだ。──その額から光を放つおっさんの歩みとともに水が引いていく。じいさんは思わずつぶやいた。若い頃、悪い連中にそそのかされ、悪行に手を染めたことがあるとはいえ、頭はいかれちゃいない。「神さま──」──私は瓦礫が前方をふさいでいたので入り江まで一気に転移した。善玉菌に浸食される悪玉菌のように水が引いていく。私は水上に足を付けるとまた歩き出した。水上を。めんどくさくなって何度か前方に転移した。海は静まっていた。連中も馬鹿じゃない、全員サングラスのようなものをかけている。神の目からの光を避ける特殊なものなのだろう。いずれにせよ、そんなもの関係ない。白装束の5人は半径10メートルくらいの円陣を組んで私を取り囲んだ。神の目で見ながら私は言う。「また会ったな、白いの。そりゃ日差しが強いならサングラスは必要だ。だが、太陽はその内側にあるぞ」誰かが「まさか!」と言った。私は神の目を白装束の一人のサングラスの内側に転移させた。ぐわああと言いながらサングラスを取り片目を押さえるそいつ。誰かが悔しそうに「またしても──」と言った。「さよなら、白いの」私はそう言って同時に5人のサングラスの内側に光を転移させた。一瞬のひときわ強い閃光が同心円状に走る。──穏やかな波が寄せては返す砂浜の波打ち際で私は土左衛門のように仰向けに横たわったまま心地よい水音を聴いていた。「わあ、素麺じゃ」母がゆであがったばかりのざるに入れた素麺を水にさらす音。「──おい、あんた!」目だけ動かして見ると見たことのない顔のじいさんだった。「大丈夫か?」私は声に出すのが面倒だったので思考伝播を使うことにした。邪魔しないで。「邪魔? あんた死ぬつもりだったんか?」帰ります。じいさんは目の前に倒れていたおっさんが跡形もなく消えたので白昼夢でも見ているのか、それともやっぱり神さまを見たのか、自分の中で決めかねほとほと困ったが、このことは墓場まで持っていこうと決心した。だって、どうせ老いぼれの与太話なんか誰も信じないじゃないか。それに考えれば考えるほど、何か決めかね、わからないまま最期を迎えるのもありなような気がしてくるのだった。──気が付くと白い天井と丸い照明を私は認識した。壁掛け時計を見ると正午の15分前だった。臭い。掛け布団をはぐって上体を起こし、後ろを見ると3体の象の死骸がまだあった。そして右のやつが言う。「片付けたか?」「ああ、きれいさっぱりな」頭をかき、顔をぬぐう。指を動かし、ねとつきを確認する。「お前らの処理をするのを忘れてたようだな」「気にすんな、まだ時間はある」と左のやつ。「舞台は遠かった、いろんな意味で」と上のやつが言う。「まさか4年前の?」と私は訊いた。「時間や距離なんぞ、お前にゃ関係ない。それにあの災厄をお前のおかげで免れた世界は別の次元に飛んだ。蘇生ができないというのはそういうことだ」と右のやつ。私はもらってきた頓服薬を眠る前にやったのか、とにかく眠れたのだろう、幻聴はほぼ治まっていた。洗面所に行って鏡を見る。真っ先に額を見た。血の流れた跡もなければ、幼少期に負った古傷が見えるばかりで、カッターナイフで切ったような跡はない。着替え、トイレで用を足し、顔を洗い、コーヒーを入れる。いつもの朝だ。いや正確にはもう午後だが。部屋の戸口に立って象の死骸を見ながらコーヒーをすする。「お前ら動物園から来たのか?」私は訊いた。「生きてたのはアフリカだ」と右のやつ。「墓場から来た」と左のやつ。「象の墓場は誰も知らないところにあると聞いたことがある」と私は言った。「絶対に見つからないところだ」と上のやつ。「まさか別の次元にあるとか言うんじゃないだろうな?」「さすが察しが早いなウォラナイトさまは」と右のやつ。「宇宙が一つの次元と考えるなら、隣の宇宙はもう別次元だ。ここからならどこへだって行ける。ここオメガポイントが基点なんだよ」と左のやつ。「象牙の密猟者がオメガポイントに入ったら歓喜するだろうな」と私はコーヒーを一口飲み込んでから冗談半分に言った。「そう、墓荒らしどもにはほとほと困っている。我々の生きた証を奪われることくらい歯がゆいことはない」と上のやつ。「実際に居るのか、そんなやつらが?」私は訊く。「やつらはもう人間じゃない。進化型人類の一形態だ」と右のやつ。「マイムか?」「そうだ、だが、白装束のやつらと違って進化途上ではない。完璧な進化型人類だ。神の力を思い通りに使っている」と左のやつ。「どこの世界でも同じだ、上には上が居やがる」と上のやつ。「で? そいつらを私に退治してほしいってことか?」「さすが察しが早い」と右のやつ。「ここは私の世界」≪オレはお前でお前はオレ≫3体の象の死骸と私は声をそろえて言った。「自分でけりをつけなきゃなあ」「やつらはお前がまだ知らない力を使ってくる」「気をつけるんだ」「よし、話は決まった。我々をあるべきところに返してくれ、ついでについてくればいい、象の墓場へ」私はコーヒーカップを机の上のコースターに置き、目をつむって3体の象の死骸を神の目で捕らえた。そしてそれぞれに意志の光源を与えた。暗闇の中で「こっちだ」という声がする。私は声のするほうへ転移した。神の目は象の墓場の中心に立っている私を認識した。私は自分の目を開けた。象の骨が辺り一面に転がっていた。様々な声が聞こえてくる。「何者かに変われ!」「もう少しだ!」「黙れ!」「はうす!」「キャンディ・キャンディ!」「また言うぞ!」「こっちだ!」「どけ!」「おはよ!」「痛い!」「もういい、あっちへ行ってろ!」「またお前か!」「自分で言ってる!」「ばーか!」「まただ!」「独りじゃ何もできんのか!」──私は両手で耳をふさいだが無駄だった。言い方が正しいかどうか専門家じゃないんでね。とにかく脳に直接聞こえている。幻聴と同じ。違うのは遠くのほうで蚊の鳴くような声でなく、はっきり聞こえるということだ。目をつむりもう一度神の目を開く。一瞬の閃光。嘘のように怖いくらい静かになる。そしてどこからともなく、穏やかな声が聞こえてくる。「すまない、ウォラナイト。君を試したのだ」どうやらここはドーム状の広い空間のある洞窟の中らしい。かすかな腐臭と岩のにおいがする。暗闇の中で辺りが見えるのは私が無意識に神の目を使っていたかららしいと後でわかった。「どこに居る? 姿を見せろ」「君が望みたまえ。今までそうしてきたのだろう? 忘れたか? ん?」向こうから人が一人、象の骨をよけながら私に向かって歩いてくる。「母さん?」まぎれもなく3年前の夏に脳卒中で死んだ私の母だった。「母さんという呼び方は正しくないが便宜上そう呼ぶほかになんと呼べばいいのやら。ま、そこにお座り」言われたとおり岩に腰掛ける。「私には蘇生の力はないと──」「蘇生ではない。ここは次元が違うのだ。脳の血管が破裂して倒れ帰らぬ人となったお前の母親が例えば死なずに済んだ場合、あくまで例えばだ、どのみちそこには居られないんだよ。お前の力をもってしても、例え全力を使っても、元通りにはならない。それが死ぬということだ。だからこそ、命というものはどこまで行ってもかけがえがないのだ。お前が他人を殺したくないと心底思っていることはようくわかっている。いや例え一匹の小さな虫さえもできれば殺したくないと。しかし害虫はどうだろう? 害虫なみの野良猫、害虫なみの人間、そして害虫なみのマイム。連中には生きる意味や価値はない。お前もそうだったがしかし今は、力があるじゃないか! 生きるに値する見返りを余すところなく存分に使い切ればいい。何をためらう必要がある? もう人生の折り返し地点に来たというのにやりたいこともやらずじまいか? それでいいのか?」そのとき神の目に照らされたまわりの象の骨たちがかすかにこう繰り返し言っているのに私は気付いた。≪早く気付いて!≫「そうとも、お前はなんでもできるんだよ! 早く現実に戻って気色悪いエカテリン・ミズウを殺せよ! 鼻持ちならない弟の野郎を殺せよ! 伯父の遺産を騙し取ったパチンコ狂の叔父を殺せよ! 気に食わないやつらを全員殺せ! 妄想ではなく現実で!」≪早く気付いて! やつらに侵入されてしまう!≫私は目をつむり神の目で自分を見た。見知らぬ男が左手を私の後頭部に当て、右手を私の額に当てていた。「もう少しだ」と言う声。私は額の肉が溶けて血がだらだら流れ落ちるのを感じた。私はそいつの手を払いのけようとしたがいいことを思いついた。ほんの遊び心だ。「神の目は眉間にだけあるとは限らんぞ」「ん?」「ほら」私は右手のひらをそいつに向けた。「くそ!」と言う声がしたと思ったらそいつは転移しやがった。私も「くそ!」というハメになった。自分を見ると第三の目が額の肉の間からのぞいていて、ぎょろぎょろとさっきの男のゆくえを追っていた。私は自分の目を開いて周りの象の骨たちに言った。「ありがとう、教えてくれて」≪いいってことよ≫「でも、これどうしたらいい? めまいがするし」≪私たちの神の目を使おう。全員でやればなんとかなる≫象の骨たちがほのかに光りだす。やがて洞窟じゅうが強い光に包まれる。≪たのむ、やつを追って、ボスもろとも始末してくれ≫もうろうとする意識の中で私は訊いた。「しかしやつらも人間だろ?」≪不治の病のような悪意を持っている時点で人間じゃない≫「いったいやつら象牙を盗んで何してやがるんだ? 高額で買い取ってくれる業者でも居るのか?」≪目的はカネじゃない。言うとするなら〝永遠〟だ≫「命のことか?」≪そうだ、永遠の命。やつらは不死鳥の捕獲に失敗した。かわりに象牙を集めて塔の建設を始めた。不死鳥は象牙の塔の頂上に巣を作る。そこを狙おうって魂胆だ。象の墓場はここだけじゃない、あちこちに点在している。その中の稼働している一つにやつは逃げた≫「建設現場はどこに?」≪逃げたやつを追うしかない。大丈夫だ、お前にしかわからない目印を付けておいた。よし、もういいぞ≫洞窟全体の光が弱くなりついにまた暗闇に戻った。マッチを付けるように私はまた神の目を開いた。自分を見る。傷一つないし、血の流れた跡もない。「もしかしてお前らは治癒能力を持っているのか?」≪だから不死鳥が巣を作る。行け、ウォラナイトよ!≫「おい、目印ってなんだ?」声はそれ以上聞こえなかった。私はとりあえず転移することにした。目をつむると鳥がはばたいて飛び立った。これだ! 私はその鳥を追って転移した。何度も転移するがやつどころかマイム自体の気配もない。確かに行き先はどこかの次元の象の墓場だったが稼働していない。やつらが居ない。まさかすでに尾行に気付かれているとでも? だいたい私の直感は当たる。かつて商店街の福引きで扇風機が当たったように。私は自分の部屋に戻った。大きく息を吐く。最近できた塔と言えばスカイツリーくらいのものだ。すでに完成している。いや待て、完成しているだって? 私は直感した。やつは過去へ逃げた! 私はすぐに転移した。そのことを忘れていたとは! 案の定そこは稼働中の象の墓場だった。「しっ! 誰か来た」頭領らしいやつが全員に思考伝播で合図を送る。私は思考を停止させる。神の力さまさまだ。「誰だ今神の力さまさまだと言ったやつは?」作業員たちは口々にオレじゃないと言っている。「まあいい、時間の無駄だ。急げ」作業員たちは象牙に触れた瞬間、象牙とともに転移している。そしてすぐに戻ってくる。それを繰り返している。私は塵くらいのサイズになり、象牙の一つに張り付いた。やがて作業員がのこのこやって来て転移した。そこはスカイツリー建設現場だった。しかし、8割がた出来上がっているそれは象牙で出来ていた。「おい、これ不良品だ。何かおかしな思念がまとわりついている」私は象牙の塔から少し離れたところに転移した。「どれ貸してみろ」と言った別の作業員が転移してきてその象牙に触れる直前だった。「気のせいだ。作業を続けろ」私は街を見て少し驚いたがここはまた次元の違うどこかなのだろう。東京じゃないな。だって、半径1キロメートル四方が断崖絶壁だもの。私はその世界の縁に行ってみた。なんだろうなここは。どこかから川の水が湧き、滝となって下に落ちていた。下は雲海が遮っていて見えなかった。誰だよ、こんな破滅的な世界を創ったのは? 私は象牙の塔が完成した後に転移してみた。登るためのエレベーターもなければ階段もない。頂上の台の上に転移する。あっと思ったときには遅かった。どこにも転移できない膜のようなものが一瞬で頂上を覆う。そして声がする。「やったと思ったらなんなんだお前は? どこから来た? やつではないようだな」私は目をつむり、神の目で見る。目の前におかしな格好の背の高い男が台から1メートルほどの空中に浮かんでいた。「ふん、神の目か。古風だな。また出来損ないのウォラか何かか?」私は黙っていた。思考伝播で心を読まれないように思考も停止した。「図星のようだな」私は一言言った。「あんたマイムか?」「歴史の講義でもさせるつもりか? 昔の野蛮な戦争のことなどどうでもよいのだ。馬鹿馬鹿しい。このままではやつが勘付いて逃げてしまう。解放してやるからあるべきところへ帰れ」「不死鳥を殺すな」「ん? なぜそれを知っている? おい、こいつまさか例のやつじゃないのか?」もう一人中背のがっしりした体格のやつが空中に現れ何か言ったが私の領域外の声だったので聞き取れなかった。背の高いほうがまた鼻で笑い言う。「ふん、私の世界に潜り込むとはいささか驚くべきことだったのを忘れていた。お前、ウォラナイトだな? 隠さなくていい。ただ、帰ったら二度と来るな。意味はわかるな? もう一度来たら命はないってことだ。とっとと失せろ!」象牙の塔の頂上の台を覆っていた膜がその言葉を合図になくなった。私はすぐに自分の部屋に転移した。私はあいつが話をしている間ずっと何かの力で首を絞められていた。洗面所の鏡を見ると首にあざが出来ていた。体に悪夢を見た後のように冷や汗をかいていることにも気付いた。圧倒的な力を前にどうすることもできなかった。忘れよう、悪い夢だ。何事もなく数日が過ぎた。普通にスーパーに行き、コンビニに行き、食べ、排泄し、眠った。そんなある日、またまぶたの裏で鳥が飛んだ。転移するとまたあの世界だった。そして象牙の塔の頂上の台の上だった。転移しようと思ったらもう膜が張った後だった。空中に例の背の高い男が現れ言う。「人の話を聞けないやつってのは必ずまた失敗をする。7割だ。世界の7割がそんな人間であふれていた。だから消してやった。お前も消してほしいらしいな」「消えることになんの未練もない。ただ一つ質問がしたい」「言ってみろ」「なぜその全知全能の力を使って不死鳥を捕まえないんだ? まるでひもを付けたつっかい棒でざるを立ててエサをまいておくような子供騙しみたいな方法をなぜ使う?」「それは機密事項だ、答えられん」「ここはあんたの世界だろう? できないことは何もないはずじゃないか。死か? 死が怖いのか? 不死鳥に触れると死ぬぞ。漫画で読んだことがある」「どうやら知ってるらしいな。いつわたしの心を読んだ?」「あんたの心を読まなくてもそれくらいの雑学は知ってる」「まあいいめんどくさい、お望みどおり消してやる。じゃあな!」私は目をつむったと思ったが開けていたのか? そのときまたあの鳥がはばたいて私を誘導した。暗闇の中で「こっちよ!」と言う声がする。「もう大丈夫。完全に傷は癒えたわ。ありがとう、ウォラナイト。でも、お遊びはおしまいね。あいつを止めないとまた同じことの繰り返し。あたしそういうのやなの。いつも新しい心でいたい。あなただってそうでしょう?」「ああ、もちろん」「あたしを守って。そしたら──」そのとき、あの背の高い男の声がした。「逃がさんぞ、フェニックス!」「なんだって? お前が?」気付くと私は自分の部屋に居た。目の前にあの背の高い男が居た。私は言ってやった。「ようこそ、私の世界へ。ここでは私が法律だ。転移はできんぞ。すでに膜を張ってある。真似させてもらった」「ふん、そんなことどうでもいいんだよ! やっと捕まえたぞ!」「ここには金属バットがある、包丁も、銃だってあるぞ」私はいろんな武器を次々に転移させて部屋の中に置いた。「私は災いを恐れない。なぜなら、あんたと違って死が怖くないからだ。おーっと、あんたの力はすべて封じた。殺したければ哲学的にではなく物理的に殺せ。ヤれるもんならな」「くそったれ!」背の高い男はまず金属バットをつかんだ。私の頭を思いきり滅多打ちにした。金属バットが折れ曲がるまで。「それだけか? コーヒー入れてきたいがあんたも飲むか? あ、運動中に飲んだら心臓に悪いかもな。水はそこにペットボトルがある。安心しろ、しょんべんじゃない」次に男は包丁を持った。「あんたは料理のムックでも買って勉強したほうがいい。包丁が人を殺すための道具だなんてたぶんどこにも書いてないぞ」包丁を構えて突進してくる男。迫力だけはある。「死ねい!」「それで死ねるかよ」私は包丁を花束に変えてやった。「言っておくが私に触れると逆にあんたが死ぬぞ。コーヒー入れてくるから、おとなしく武器を選んでろ」私はコーヒーカップを持って母屋の階下に下り、電気ケトルで湯を沸かして、いつものドリップコーヒーをのんびり入れた。「ん、いい香りだ」離れの部屋に戻ると男が銃を構えていた。「銃は撃ったことあるのか? ありゃやな音だ。うん、確かにやな音だ。だから弾は入れてない。撃ってみろ」かちっと音がする。「ま、マシな音だな」「ちくしょおおおお!」と言って男が私につかみかかろうとする。「ちょっと待て! 人の話を聞かないやつは必ず失敗するんじゃないのか? 何度も言わせるな、私に触れると死ぬぞ」異次元から来た背の高い男は頭の豊富な髪の毛を両手でかきむしりながら言う。嫌みな野郎だ。「卑怯だぞ! フェニックスを出せ!」「あの鳥は私のまぶたの裏に居る。意味はわかるな? 暴漢から守るのが卑怯なわけないだろ? 例え父親でも暴力は絶対に許せない。だからやつは地獄に落ちたんだぜ。あのとき母さんを助けることができなかった。だからまあ今私が何かをしているとすれば〝仕返し〟だ」「関係ない!」「いいや、誰かを守るということに関しては同じことだと良識ある人なら思うだろう。そうは思わんか?」私はコーヒーをすする。「あち! やっぱまだあちいわ」「ふ、ふはははは!」「気が触れたか、無理もない。もう十分楽しんだよ。お引き取り願おうか」「お前、ウォラとマイムの本当の意味を知らんのだろ?」「別に知りたくないね。それにどうせあんたの妄想だろ?」「そうだ。意味なんかない。わたしたちが生きているのと同じように!」「わたしたち? 私も含めてということならそりゃ違う。私には生きる意味や価値がある。それがあんたのようないかれたやつから空想上の鳥を守ることだとしても私は絶対に譲らんぞ」「なにカッコつけてやがるんだ? お前だって永遠の命が欲しいだろ? わたしを解放しろ。生き血はお前にも飲ませてやる。本当だ、嘘はつかない」私は言った。「あんたも話のわからねえ野郎だな。この世界で私がどんな扱いを受けていると思ってるんだ? しかし問題はそこじゃない。私にはもう時間がない。今までなおざりに生きてきた分、全力で生きなきゃならないんだ。お示ししなければならないんだよ!」「それはわたしも同じだ」「いいや違う。あんたは気に入らない連中を消した。そりゃ私だって白装束の連中や要らない妄想を消した。しかし現実では消してない」「じゃ害虫はどうなんだ? そのうち人間すら害虫呼ばわりするようになる」「あんたと一緒にするな、無益な殺生はしない」「ほら出た。本性を現せ! 利益があれば殺す。わたしと一緒だ。フェニックスの生き血はお前にも飲ませてやる。利益は十分ある。だから私を解放しろ!」「あのなあ、私は基本的に殺すのが好きじゃない」「わたしも同じだぞ。一回お前を逃がしてやった、な?」「もういい帰れ。私も一回逃がしてやる。いいか、ようく聴け、帰ったら二度と来るな! あんたが言った言葉なんだから意味はわかるよな?」私は転移防止の膜を解き、転移能力だけを解放してやった。消える瞬間そいつはにやりと笑った。何度も言うようだが、嫌みな野郎だ。


25

私はクジラの死骸が浜に打ち上げられたと聞いて、すぐ野次馬が集まるその少し前に転移して話をした。さすがに部屋の中に来られても困ると思ったからだ。「つまりこういうことか。神が私の中に入ってきたから今まで生きてこれた。幼少期、あの急な坂道で転んで縁石で額を強打したとき私は死んだはずだった。しかし神が入ってくれたおかげで命をとりとめることができた」「やっと事実を思い出したか。あのカレンダーのいびつな丸印は初めてまぶたの裏で鳥が飛んだ日。死んだ日じゃない。自殺したわけでもない」「ところでやつのことはほっといていいんだろうか? けりをつけねばならないんじゃないか?」「お前が自分で判断してやつを逃がしてやった。あの鳥も納得するだろうよ。それにお前のまぶたの裏に居る限り安全だからな」「罪悪感っていったいなんなんだろう?」「もう知ってるくせに訊く気か? お前がお前であるということだ。そしてお前の生きる意味と価値を生む、良心と善意の源泉だよ。それらに従って生きていれば、神の力もコントロールできるだろう」誰かが「クジラじゃ!」と言った。幼い女の子の声だった。「時間のようだ」「オレの死体は処理しなくていい。良心と善意を持った人たちがあるべきところへ返してくれる」「そうか。私の部屋の中には入りそうもない。来るなよ」「んふふ、ああ」「それじゃ」私は自分の部屋に転移して戻るととりあえず大きく息を吐いた。スーパーに行ってこよう。我が軽に乗って。ノンアルコール・ビールでも買ってくるか。──鳥はまだ時々私のまぶたの裏で飛ぶ。それにつられて転移してみる。いろんな世界を見、そして戻ってくる。鳥を守ったご褒美が何か知らないが私の寿命が尽きて死ねば、また他のウォラナイトのまぶたの裏に入るのだろう。そういう世界があったっていい。私が望んだからこそ、この世界がある。例え虐げられていようとも、それは妄想に違いない。──また夏の朝が来る。「おはよ!」




この物語はフィクションです。
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