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目次(1000字小説集 - 1 - )
1 2 3 4 5

オリジナル1000字小説を私的ランキングとして選出した作品たちです。
ごゆっくりどうぞ。

部門別 - ベスト3
現代ファンタジー部門
第1位 あの炭
第2位 卑行石
第3位 不道徳なミッドタウン

恋愛部門
第1位 山へ
第2位 かくれんぼ
第3位 一期一会

呪い部門
第1位 親父の呪い
第2位 意外な呪い
第3位 猫の死体

現実部門
第1位 春が来た
第2位 思い出があれば
第3位 開封の儀

生と死部門
第1位 皆喪の影
第2位 夏の呼び声
第3位 記念撮影

おちゃらけ部門
第1位 あちゆちゆ
第2位 思考伝播
第3位 いかついおばちゃんがやってくる!

SFっぽい部門
第1位 観戦者たち
第2位 病んだロボット
第3位 緑

病気部門
第1位 愛と狂気
第2位 闇と病み
第3位 三人目

悪魔部門
第1位 監視
第2位 私の職業
第3位 業者さん

雨部門
第1位 雨の救済
第2位 あめふり
第3位 自虐の雨

ワケわからん部門
第1位 雑踏
第2位 パニック
第3位 言ってやれよ!

虫部門
第1位 おかしな野郎
第2位 風のそよぐ午後
第3位 五段目のクモ

ババア部門
第1位 夏のおまじない
第2位 月曜の朝
第3位 解ってる人

?部門
第1位 おい、この野郎!
第2位 ごたごた
第3位 迷うヒーロー


あの炭

自分の常識だったものが他人にとっては非常識というのはよくある話だ。しかし人様が考えることというのはだいたいたかが知れている。似たり寄ったり、面白くもなんともない。俺は最近までそう思っていた。──あの時俺はまだ多感な小学生だった。俺の親父は酒乱でそれが後の離婚の原因になったのだがその話はいい。俺はいつも怯えていた。たとえあの親父がシラフだったとしても何を言い出すかわからないという恐怖をいつも感じていた。その親父にある日突然出ていけと言われた。ほら見ろと思った。俺の親父は酒のやり過ぎで頭がいかれちまってるのだと子供ながらに思った。俺はぐずりながらいつも虫捕りに通っていた丘の上の神社に行った。見慣れた木々、見慣れた石段、見慣れた建物、そして見慣れた穴。その穴はおそらく落ち葉などを焼くために境内に設けられたものだろう。いつも黒い燃えカスが溜まっていた。俺はそれらを順に見た後、賽銭箱の前の木の階段に座った。ふう。森は静寂に包まれていた。俺はその時一瞬恐怖を感じた。親父に感じるそれとは違う種類の恐怖だった。「おーい、ここだよここ!」それはあの穴のほうから聞こえてきた。俺は恐る恐る見に行った。そこには何もなかった。声だけが穴の中から聞こえてきた。「よう、鼻垂れボウズ。元気か?」俺はなんだこりゃとは思わなかった。良くも悪くも純粋だったのだろう。俺ははいと答えた。「あのとき親父をぶっ殺してえって思ったろ? ほら、こないだ親父が母ちゃんを思い切り足蹴にしたときだ。お前は何もしなかったよな、泣いてただけで。だがオレは知ってるぞ。お前は本当は親父につかみかかりたかったんだろ?」俺はいつも大人にするようにまたはいと答えた。「いいことを教えてやろう。ここに落ちてる炭を食え。大丈夫だ死にゃしない。これを食えば望みが叶う。あの親父をぎゃふんと言わせることができるんだ。嘘じゃない。その証拠にオレはこうしてしゃべることができるようになった。な? 食ってみろ」俺はその声の言うことを疑わなかった。俺はしゃがんで炭を少量取るとなめてみた。焦げ臭い味がした。「ほら、食えよ。飲み込め。あの親父を倒したいんだろ?」俺はなぜか急に怖くなって全速力で走って家に帰った。親父が居た。車の手入れをしていた親父はいきなり痛っと言って手を押さえた。血が出ていた。──穴はいつの間にか埋められていた。最近あの炭を食べたくて仕方ない。


卑行石

その土地のどこにでも見られる石ころの中に世界のどこにもない邪気が封じ込められていた。その石が風化して極小の塵になったものがそこに住む人たちの体に入り込み、どんなに気を付けていても鼻か口か耳か知らないがとにかく体に入り込み、そしてその人間の心を邪気で満たした。その人たちは争いを好み、他を憎み、血を欲していた。彼らにとって死は恐怖の対象ではなかった。明確な教義があるわけでもなくただ殺戮の限りを尽くした。その人心のせいかどうかは知らないが土地はやせ、荒れ、不毛の地がどこまでも続いていた。彼らは人間の皮をかぶった鬼だった。「泣いた赤鬼」という話があるくらい鬼でさえ情けがあるというのに彼らは本当の鬼だった。それ以外に表現するとしたら悪魔とか怪物とか人外と呼ぶことができよう。もちろん彼らを成敗してやろうという正義感にあふれた人たちが現われた。しかし彼らの非道さにはまったく歯が立たなかった。どうしようもない。誰かが「滅びよ、人外ども!」と言って彼らを非難したがそんなことでひるむような彼らではなかった。本当に滅びてしまう。人類が滅んでしまう。ある日勇敢な学者が彼らのテリトリーから生還しそしてひとつの石ころを持ち帰った。彼は自分の異常に気付き、天才的な直感でその石に何かよからぬ、そうそれは何かよからぬものとしか言いようがなかったが、原因がその石にあることをつきとめた。「なんなんだ、この石は?」彼はもちろん成分を分析してみたが何も成果は得られなかった。ただその石を持っていると自分が正気を失い狂人のような感覚になってしまうことだけは確かだった。彼はその石を“卑行石”と名付け厳重に隔離した。鉛での遮閉、真空保存、湿度管理、光の遮断、電磁波の遮断、樹脂コーティング、水中保管、イオン蒸着などといった鉱石に対する様々な処置方法を試してみた。彼は自分の狂気と戦いながら研究を続けたがいい結果は出なかった。しかしその石が原因なのは明らかだった。彼はとうとうその石をとある活火山の火口へ葬った。それは少なくとも間違いだった。邪気は世界中に拡散され今もどこかで狂気にかられた連中が人の命を蔑ろにし粗末にし奪っている。呪われた土地というのは実在するようだがそこに住む人の心に影響を与えているのが石だと今でも信じている人間があの学者以外に居ないのは当然だろう。だってそんなまやかしみたいなことを誰が信じるというのだ?


不道徳なミッドタウン

とあるミッドタウンの一隅にちょっとした公園があった。柔らかい日差しのある日の午後、ひとつのベンチに紺の背広を着た片腕のない男が座っていた。そこへもう一人、グレーの背広を着た男がびっこをひきながらやって来て、座っている男に訊いた。「隣、いいですか?」「いいですよ」最初に座っていた紺の背広の男はこくりとやって答えた。グレーの背広の男は座り、にやつきながら紺の背広の男に言う。「ここではみんな不道徳なんですよ」紺の背広の男はその言葉に驚きもせず、力の抜けたような声で言う。「そうですね。なぜかって言うと第一に受け付け嬢にはかわいい娘で、営業マンはハンサムしか採用しない。社長の趣味かなんか知らんが、これは不道徳以外の何物でもありません」グレーの背広の男はさらににやつきながら言う。「当たり。ここでは不道徳なことが善とされているんですよ」「第二に、障害者は役立たずとして首を切られる。そもそも最初から採用されない」「それも当たりだ」グレーの背広の男は鼻で笑った。「第三に、人間以外の生き物は抹殺され、排除、駆逐されている」「その通り」「結局のところ、我々はここに居ちゃあいけないってことなんですよね? 不細工で、障害を持ち、人間ではないのだから」「大当たりだ。しかし考えてみてください。我々は今生きているんですよ。生きているからには楽しまなくっちゃ、ね?」と、グレーの背広の男は紺の背広の男の肩に勢いよく手を当てた。「楽しむ?」「そう、これ以上ないってくらい、存分に楽しみましょうよ。あなたの考える、一番の楽しみってのは何ですか?」「一番の楽しみ?」「そうです、一番の」「そうだな、やっぱりあなたと一緒だと思いますよ」「え? じゃあ、例の?」「そう。やつらをとことんいじめて、苦しめてやるんですよ」「そりゃあいい。私もずっとそればかりを考えていたんですよ。やつらの横暴さには我々が裁きをくだすしかありません」「やりましょう、仲間を集めて」そう言うと、二人は小さな羽虫になって、どこへともなく飛んで行った。その後、虫たちの逆襲が起こったというニュースをあちこちで聞くが、あれはやっぱり、我々人間が憎まれている証拠なのではないだろうか。人間同士で憎みあうのは勝手だが、虫ケラにまで憎まれているとわかったときの連中の顔が見てみたいものだと、あの二人が言っていた。それを知ってか知らずか、我々人間はいまだに虫を殺す。


山へ

「本庁のほうへ行ってくるわ。支所の連中は話が通じないから」それが彼女を見た最後だった。俺はもちろん捜しに行った。田舎のことだ、車などの足がなければ身動きが取れない。ちょうどボロが一台俺が触ってくれるのを今か今かと待っていた。メットはベルトのあごの所に汗塩の噴いたものが一つ棚の奥のほうで見つかった。ガソリンも行き帰りの分くらいは十分ある。セルのボタンを押す。かからない。アクセルを回した状態で何度か。鋭い音をたててポンコツはよみがえった。シートの埃を払い、いざ出発。彼女は一体どこへ行ってしまったのか? まさか俺に愛想を尽かしたわけじゃあるまい。何かのトラブルに巻き込まれた可能性がある。重大なトラブルに。俺は愛車と呼ぶには罪悪感を覚える原付を転がしながらふと先日の彼女の言ったことを思い出した。「山へ行きたいの。自然の広がっている山へ」彼女が変な気を起こすはずがない。彼女は自分の車に乗って忽然と姿を消した。山って言ったってここは田舎だ。そこらじゅうにある。市役所に着いた俺はまず受付で彼女を見なかったかと訊いた。いいえとの返事。彼女は市役所へは来ていない。じゃあ、やっぱり山か? あちこちの名所を巡れるほどのガソリンは入ってなかった。しかも運の悪いことに財布も忘れてきた。しかし俺は唯一知っているこの辺じゃけっこう有名な山──俺と彼女が愛の言葉を交わした場所──に行ってみることにした。彼女が行ったとすればそこしかない。案の定その山の中腹付近でガス欠に見舞われた。俺はボロを道路わきに置いて歩いて山の展望台を目指した。約束の場所。やっとの思いでそこに着いた俺は駐車場に彼女の車があることを認識した。間違いない。疲れは吹き飛び小走りで展望台に向かった。夕日が綺麗だった。彼女はベンチに腰かけていた。俺は隣に座り優しく声をかける。「やっぱりここだったんだね」彼女は俺のほうを見ない。「わたし、山が好きなの」俺はいつも通り優しく質問した。「俺よりも?」彼女は微笑みを浮かべて俺のほうを見て言った。「そうよ」俺も彼女もそれが冗談だとわかっていた。俺はそっと彼女の肩に腕を回して言った。「もう寂しいなんて言わせない」俺はその妄想に従って車でその山に行ってみた。一組のカップルが居たくらいで何もなかったが展望台から見る風景はいつ見ても美しかった。ふいに美しい女性が声をかけてきた。「やっぱりここだったんですね」


かくれんぼ

彼は連中のことをいかれちんぽ野郎と貶していたが少なくとも自分もその一員であることは痛いほど自覚していた。しけもくに火をつけたのは俺のほうじゃない、やつらだ。彼はそう自分に言い聞かせ、そしてラジカセの電源を入れた。たまにはラジオでも聴こうか、気分転換だ。選局するとノイズとともに軽快なポップ調の曲が流れてきた。悪くない。真冬、2月の始めだった。半袖短パンといういでたちでたちんぼをしている若い女を想像した。どんな事情があるにせよ、そんなこと道理に合わない。不条理だ。そして排水口の内側に付いている黒い水垢を思った。それも不条理だ。連中はそんなことおかまいなしだ。「自分を大事にしろ」彼は同情してつぶやいたのではなかった。ある種の虚無感が彼にそう言わせた。彼には女の顔など眼中になかった。それよりももっと大切なことがある、いやあったような気がしていた。排水口の掃除。いや曲がりなりにもそんなことじゃない。もっと大切なこと。ラジオの音がやけにうるさく感じられる。よく聴けば同じ曲の使い回しじゃないか。それでも彼はラジオをつけたままにしていた。100円ショップ? ああそうだ。あれを買わなきゃいけない。それとスーパーにもよろう。いやちょっと待て、届け物が来るはずだ。海外注文したやつ。注文してからちょうど1週間かそこらになる。昼の2時を回っていた。出るに出れない、そんな状況だった。あの女か。彼は実は心の隅で女のことを思っていた。大切なことがそれじゃないのはわかっていた。しかしそれは心から離れなかった。自分を大事にしろだって? ふん、どの口が言ったんだ? 笑わせるな。自分を大事にできないやつが他人にそんなことを教え込ませようたって無理に決まってるじゃないか。“自己犠牲”突然そんな言葉が彼の頭に浮かんだ。いやしかしあの女が何かを守ろうとしていたのは確かだ。自分の身を賭しても守らねばならないことが仮にあるとしよう。俺は自分の身を捧げることができるだろうか? あの何の価値もない連中のために? よせよ、冗談じゃない。誰がそんなこと。彼はいよいようるさく思えてきたラジオのボリュームを下げた。これは仮定の話だ。あの女が守ろうとしたものはほんの些細なことかもしれない。俺だったら唾棄するね、そんなもの。しかし彼は自分が心底知りたがっている大切なことがそこに隠れている気がして、あの女が見ていたであろう寒空を想像した。


一期一会

君は冷たい体育館の床の上に体育座りをしてみんなの話を聞きながらもずっと僕のほうを見ていたね。まるでその時だけ時間が止まったみたいだった。僕は恥ずかしくなって目をそらしたけど恐る恐るもう一度見ると君はまだ僕のことを見てくれていた。君はコンビニのレジの向こうで「お弁当のかた、お待たせしました」とそっけなく言ったね。僕は恥ずかしくて君の目を見ることができなかった。僕はどもりながら弁当を受け取ると「ありがとうございました」と君が言うのを出入り口のドアを押しながら忘れることなくしっかり聞いた。君は自転車で狭い路地に入ってきて僕にぶつかる直前で自転車を降りそして「こんにちは」と小声で言ったね。もちろん僕も君に聞こえるようにそっけなくこんにちはと言った。振り向くと君はまた自転車に乗って角を曲がっていった。君はカウンターの向こうでいつも優しく応対してくれたね。僕はいつも恥ずかしさを隠すためにわざとそっけなく「ありがとうございました」と言った。僕は「お大事になさいませ」と君が言うたとえ上の指示通りの味気ない言葉だとしてもその優しい声をいつも心地よく感じた。君は太陽のようにいつも笑顔だったね。僕が生まれたときも僕を抱っこしてこっちを向いて何の屈託もない明るい笑顔で泣き虫の僕をあやしてくれたね。今でも写真の笑顔はすぐに暗黒面に引きずり込まれる僕を助け出してくれている。僕はいつの間にか早足で歳を取り、気が付くと周りに誰も居なくなっていた。でも君がくれたあの笑顔は写真を見なくてもありありと思い出せる。君は同じ色の空の下で今何をして何を考え日々を過ごしているのか。僕にはもうそんな想像力は残っていない。もしも願いがかなうならあのときどきの、あの残酷なほど短くて天国に居るみたいに心地よい時間をもう一度味わいたい。そして君にもう一度会いたい。しかしないものねだりはよそう。いつかお迎えが来るその日まで僕は大事に思い出を抱いて眠る。チークダンスのように楽しかった日々のページを丹念に一枚一枚めくってはその甘さに酔いしれる虫の気分になって草原を走り、山に登り、海を泳ぎ、大空を飛んで、飽きるほど冒険をして過ごそう。君の笑顔は僕だけの永遠の太陽。いつも僕を見守ってくれている。だからいつも太陽に向かってそうしているように街ですれ違ったら心の中で密かに挨拶をしよう。そして気付かれないようにそっとウインクも忘れずに。


親父の呪い

俺の今日の気にするほどのことでもないちょっとした不調が仮に始まったとすればあの時からに違いない。用事があり急ぐわけでもなく車を転がしている時だった。前方の軽トラの荷台に犬が乗っていることに気付いた。犬は荷台の右端に前足を立て身を乗り出すようにして前方を見ていた。今にも落ちそうだった。危ない危ない危ない、俺はそうつぶやきながら幸いなことに自分のほうが危険な運転をしていることに気付いた。さっき縁石に乗り上げそうになった。こっちが危ない、そうつぶやいたものの犬の動きが気になって仕方なかった。軽トラに注意を向けた。YAMAHAの刻印。マフラーがツインになっておりブンブン大きい音を出している。そしてよく見るとホイールもいかにもといったふうのジャンキーな感じのものに換装されていた。運転手が百姓なのは間違いない。しかも相当のワルだ。犬を荷台に乗せている時点で俺的にはアウトだったがよく見ると犬を運ぶ時に使うケージも乗せてあり、犬も荷台の上以上に動かないようにリードでしっかりつながれていた。犬が路上に落ちそれを対向車が轢き殺すという予測は却下だ。犬はたまに左側に行ったりふいにこっちのほうを見たりしていたが必ず右端の定位置に戻り身を乗り出して前方を見ていた。俺もその気になれば百姓をすることができる。犬を飼って軽トラの荷台に乗せ市場へ採れたての野菜を届けるといった生活をしようと思えばできる。親父の居なくなった田舎の家土地のことを思った。いいやふざけるな、俺の好きなようにやる。今もそして将来も百姓などするものか。車がガタガタ揺れた。トラクターの通った後に残された田んぼの土を踏んだのだ。だから俺は田舎には帰らない。俺は自由だ。帰り道、前の車がちんたら走るのに追従していると後ろの車が猛スピードで追い越していった。追い越し禁止の区間でしかもベンツだった。ふん、ベンツ野郎、恥を知れ。そうつぶやいたがよく考えるとベンツも田舎の象徴だった。田舎のガキどもの羨望の的だから。何回言わせるんだ。俺は田舎には絶対に帰らない。家に戻り買ってきたばかりの蕎麦をこしらえた。卵を割ろうとしたら手が滑って派手に床に落ちた。ティッシュで拭き取ろうと格闘していると向かいのババアがでかい声で騒ぎ始めた。イライラするなあもう! 今日もそして明日も、おそらくずっと、不調が続くと思ったときは必ず田舎のことを思っている。それが親父の呪いだ。


意外な呪い

≪客の悪口言ってる店で誰が買うか!≫──言ってることはわからんでもないがあんたらの好きな言葉の一つで表現するとするなら“場違い”だ。使うところを間違ってる。いや仮に場も間違いなくあんたらが血反吐を吐くくらい気にする空気もそれなりに読んでるとしよう。あんたそもそも客じゃないよな? しかも悪口って飛躍し過ぎじゃないか? お前みたいに何も買わずに文句ばっかり言ってちょっと瑕疵を見つけるとそれ見たことかとよってたかって罵倒するような品性のかけらもない人間が業界を駄目にする。見ていろよ、あの業界、衰退していくから──と、彼はチラシの裏に書いておけと言われたのでその通りにした。最近じゃ裏が白いチラシは滅多に見かけないので探し当てるのに苦労した。それはなぜか厚紙で短冊状になっておりおもてには何かわけのわからない文字が書いてあったが“──神社”という文字だけは読めた。彼はかまうもんかと思い、思いのたけを書き殴った。はあ。何か生気を吸い取られたような気分になったがまたかまうもんかと思ってそれをうっちゃっておいた。──死因不明。そいつはただの貧乏人でパソコンが趣味と言ってもいいいわゆるオタクだったがなぜ死んだのかそれだけがわからなかった。自殺でもないし他殺でもなさそうだ。一応検死に回された。検死官がそいつの服を脱がせて腹を見たとき少し、ほんの少しだが驚いた。文字が書いてある。なになに──言ってることはわからんでもないがあんたらの好きな言葉の一つで──まだ続いていたが読む気がしなかった。なんだこりゃ? 写真を撮り捜査官の手にそれは渡ったがなんのこっちゃわからなかった。一応証拠なのだろう。他殺されたという。手がかりも何も見当たらなかった。業界がらみなのは確からしいが具体的に書いてないのでわからない。他殺の根拠としても怨恨なのは間違いないが糸口さえ見つからなかった。こいつがその業界から何かを買っていれば少しは捜査が捗るんだがな。捜査官はぼやいた。こいつの家から見つかったのは大量のエログッズと一台のパソコンだけだ。もし他殺だとしてもこんなやつ殺されて当然だなと彼は一瞬思ったが職務に忠実であらねばならんと思い直し解決しそうにない捜査を続けた。それも今度の風俗店のガサ入れでうやむやにされた。一人のしょうもない人間が死んだのは確かだったが誰も原因を追究しようとは思わなかった。未解決事件がまた一つ増えた。


猫の死体

俺は時間に縛られたくないからと言って他人の腕時計をのぞきに行くようなアホではない。しかし何だろ、何も残さず時間だけが過ぎてゆく。まるで最初から何もなかったとでも言うように過ぎ去ってゆく。このまま死を迎えてもたぶん時は知らないふりをしてどんどん進んでいくのだろう。そんな感慨を持つようになったある日のこと俺は提出しなければならない書類があることを運よく思い出し車をすっ転がして役所へ行った帰り道で猫の死体を見た。体がぺしゃんこになり頭だけがこちらを向いており不吉なことに目が合った。まだ小さい子猫だった。俺はああやって死んでいく猫と家の中でぬくぬくと飼われている猫の違いは一体何なのだろうと余計なことを考えた。同情すると呪われるぞ。気が付くと俺は役所への田舎道を急いでいることを認識した。あれ? 今帰ってる最中だったような。まあいい。書類もちゃんと助手席の上の封筒に入っている。用事を済ませ、またと言うのもおかしいが帰り道で猫の死体を見た。俺はああデジャヴだなと思った。こんなことは今まで何度も経験したことがある。しかし気付くとまた役所への上り道だった。まさかと俺は思った。時空の狭間に入り込んでしまったのかもしれない。俺は役所で同じことをし、また帰り道で猫の死体を見た。目が合った。俺はさすがに焦ってきた。何度かそれを繰り返しているうちに俺はもう精神的に限界になり、ついに車を降りて猫の死体を見に行った。頭だけ無傷でかっと見開かれた眼だけがこちらの動きを追っていた。俺は馬鹿馬鹿しいとは思いながらも話しかけた。「おい、いい加減にしろ。俺はお前に同情なんかしていない。呪うんだったらお前を轢いたやつを呪え!」すると藪の中から宿無しらしき薄汚い身なりの男が出てきて言った。「オレは見たぞ。おめえさんが轢いたのを。ナンバーも車種も間違いねえ、おめえさんだ」「嘘だ! 俺はちゃんといつものように安全運転でスピードも出してなかったはずだ!」「いんや。これでもかってくらいぶっ飛ばしてやがった。轢いたのはおめえさんだ。あきらめろや。ま、こっちゃ来い、茶でもやろうや」藪の中にはテントがあり火が焚かれて茶が沸いていた。俺はやけくそでその茶を飲んだ。変な味だった。「飲んだな」男はそう言って俺の車に乗り走り去った。俺は体を動かせるようになるとあの男がしていたように猫の死体を轢く車を待つことにした。なあに、すぐ来るさ。


春が来た

「話が早いわい!」当たり前じゃないか。俺は鼻で笑いながら思った。話の調子を合わせてやってるんだから当たり前じゃないか。誰もてめえの話に同意してるわけじゃねえ。俺は正直降って湧いたと言ってはおかしいが当然来るであろう相続問題が厳然と浮上してきたことにこの上ない嫌悪感を抱いていた。どうせ親父の負債やら家土地の税金を払うはめになるのはこっちじゃねえか。あんな家なんぞ競売で他人の手に渡ってしまったほうがてめえのためでもあったんだ。それを余計なことをして買い戻しやがって。俺にとってはどうでもよかったが余計なカネが出ていくことに心底うんざりしていた。食べていくのにもあっぷあっぷしてるのに俺に首を吊れと言い渡すつもりらしい。「家を守っていくには性根を入れてやらにゃいけんのよ」くそかよ。俺はまた鼻で笑いながら思った。言ってることはわからんでもないが20年だぞ。20年音信不通だったのに突然現れて「今度から親戚になるんじゃけんの」だと? 俺はこんな世界一馬鹿馬鹿しい与太話から死ぬほど逃げたかった。そうとも世界一だ。囚人の寝床みたいなカビの生えた布団を毎日ひっくり返して、まともなメシもろくに食わず、小さくなったケツの穴から細くて少ないクソをひねり出すことに心血を注ぎ、あとは寝るだけの生活をこれから一生繰り返さなければならないってときに相続だって? ふざけるな。いろいろと手続きをする過程で親父の出生から死亡までの謄本を見る機会があった。親父には前妻が居て子までもうけているという。その子にも相続権があることがわかり俺は何が何でもこの話をこじらせようと思った。だってそうでもしなけりゃまたやつらが俺に相続しろと言ってくる。負債や税金は仕方ない、あきらめよう。しかしこの20年があたかも無かったかのように言われるのだけは絶対に許さねえ。これから先俺がどんなに頑張ったところで心安らかに過ごせるわけがない。生きること自体が苦しみだというのがなかなかの妙諦だと飲み込めたのは別に最近のことじゃない。生きてたっていいことなんて一つもない。ちょうどそれが本当のことなのにそうじゃないって嘘を言い張る連中がもてはやされる世間の風潮にも嫌気がさしてきたところだ。だから自殺することにした。死ぬ場所ももう決めてある。真冬に入水する方法が一番確実だ。そう決意して何度目かの春が来た。そう、暖かい春がまたやって来たのだ。仕方ない。


思い出があれば

自慢じゃないが私は他人から嫌われるタイプである。小学生の頃なぜか村八分状態だった。担任の先生にも嫌われていたし、たまにクワガタなどを売りに来る変態兄ちゃんにさえ嫌われていた。親父にも嫌われていたし、下級生もテレビゲームをやらせてくれない。しかしよく考えると嫌われる一方というわけでもなかったというかすかな思いがある。一緒に遊んでいた低学年の子も慕ってくれていたやつも居たような気がするし、懇意にしてくださる先生方もいらっしゃった。育てていた朝顔と一緒に笑顔で写った担任の年配の女性の先生はみんなから鬼ババと呼ばれていたくらい厳しい先生だったがあの写真を見ると今でも嘘だろと思ってしまう。あるとき年賀状を交わすくらいの仲だった若い男性の先生がうちにクワガタをくれと訪ねて来られたことがある。もちろん私は名誉だと思って惜しみなくクワガタを差し上げた。そんなこんなで中学に上がると嘘のように友達ができた。それが私の勘違いじゃなければ連中はすこぶる気分のいいやつらばかりだった。そして唯一一人だけ露骨に私のことが好きだと猛アピールしてくる女子が居て私は拒否していたのだが、それももし私の勘違いでなければあの娘と一緒になっていれば今頃幸せになっていただろうにと口惜しく思うのと同時に彼女を不幸にしていたかもしれないと考えるとあれでよかったのではないかとふと思う。私が過去を振り返ってあのときはよかったと思えるのは中学までで高校、大学はそれなりに人生経験にはなったがはっきり言って行かないほうがよかったとさえ思える。そして私は社会人になり損ね、精神障害者の道を歩むことになる。今の状態になるまで社会に出てないとはいえいろんなことがあったのだと想像力たくましい方々がおもんばかってくださるのは心底ありがたい。実際それなりにいろいろあった。そして迎えた人生の折り返し地点。人生まだまだこれからだとはりきっている方々には申し訳ないのだが私はもう未来には期待していない。よかったことも、恥ずかしかったことも、いやだったことも、悪かったことも、すべて“楽しかった”という一言でなんとしても締めくくりたい。人生の終わりにそう言って死ねたらどんなにいいか。幸せの基準は人それぞれだろうが私は思い出があれば十分幸せだし、それを思い出す作業をこよなく愛してもいる。将来たとえ財産を差し押さえられようとも思い出だけは誰にも奪えまい。


開封の儀

何も考えたくない。彼はそう思いながら酒をやっていたが叶うことのない希望を言ったところで虚しいだけなのは明らかだった。こういう感情になったのは別に今に始まったことじゃない。学生の頃朝礼という理不尽極まりない行事に参加させられたときも毎回こんな気持ちになったし、大人になってからもとにかく働くことが善だと言われ続けていることに気付いたときも同じ気持ちになった。たまにそれは自分の勘違いじゃないかと思うこともあったが正直なところ意味がないんじゃやるだけ無駄だという考えを払拭できなかった。儀式というのは多かれ少なかれ意味がないという考えに彼が至ったのは何度も言うようだが別に今に始まったことじゃなかった。しかし今彼はうまいぐあいに酔っ払っていた。あれを開封するためにはシラフである必要がある。意味があるとしたらただ一つ絶対的な理由があった。それはブツを壊してしまうかもしれないという危険性だった。何も考える必要はない。さっさとカッターナイフを使ってあれを開封しろ。それが答えであり、善というものが本当に存在するとしたら今まさにそれを行うことができるまたとないチャンスだ。これは邂逅じゃない必然の出会いだ。マウスをポチポチ、キーボードをカタカタやった結果の産物だ。俺にはあれを開封する義務がある。理由がある。意味がある。学校の朝礼やカネ稼ぎといった虚しさをもたらすものでは決してない。そうとも、希望がある。あの小箱の中身はコカインやマリファナであるわけではないし、取り引きが問題視されている象牙や赤珊瑚であるわけでもない。ああ、酔っ払っている。彼にはそのことだけが今自分にできた瑕疵だと思えて踏み切れないでいた。どうでもいいわけじゃない。だから開けられない。彼はすぐに酔いがさめるとは思わなかったがコーヒーをやりお前にはキンタマ要らねえから去勢しろと言われた雄猫になった気分の自分を憐れむ余裕を見せながら小箱へ向かいそしてカッターナイフで封を切った。手は震えなかった。大丈夫だ。丁寧に梱包されたブツを恭しく解いてその姿をあらわにした。それは小さな石ころだった。世の中にはこんなものをコレクションするというおぞましくも下品な趣味があり、その虜になった人間は自分では気付いてないらしいがまともであるはずがない。彼がその見解に至った理由も何も考える必要はない。酒気帯びだったものの苦行は滞りなく終了したのだから。


皆喪の影

私は母が亡くなる以前から生き物が大好きでメダカを飼っていた。母は時々上の離れの軒下にやって来てメダカ池をのぞき込んで稚魚がいっぱい生まれているのを見て「いっぱいおる!」と言って微笑んでいた。プラ舟という小さい箱に水をためたものを池と呼んでいた。ちょうど伯母が亡くなった年の梅雨の時期に病気が発生しけっこうの数のメダカが死んで水面に浮かんでいた。それを見て母が「もういやよ」と涙声で言ったのを憶えている。メダカは強い魚だと思われているがちょっと飼育方法を誤るとすぐ病気になったりする。そこが飼育者の腕の見せ所でもある。私は母が亡くなった年の夏に気が狂ってメダカをすべて処分した。水ごと夏の酷い陽射しの照りつけるコンクリートの上にひっくり返した。くぼみに水たまりが出来そこにメダカが集まっていた。このまま天日干しだ。そう思っていたら山からタヌキが2、3匹おりてきてメダカを食っていた。翌朝見るとメダカの死体は一つも見当たらなかった。母の入院中その死が迫っていた時も母の代わりに死ねと言いながら虫などの小さな生き物を無慈悲に踏み潰していた。そして母が亡くなるともう生き物を飼う意味がないと思った。だって母の微笑む顔を楽しみにしていたのにもう見れないんだったら意味がないじゃないか。私は母にあの世でも微笑んでもらうためにというおかしな理由でメダカ池を狂ったようにひっくり返した。あの時の気違いじみた感情が夏が巡ってくるたびに思い出され今では自分でも滑稽にしか思えない。私の中には生き物の命を粗末にしてきた結果一番大事な母の命を持って行かれたのだという科学的な根拠のない信仰心が生まれた。私は子供の頃から生き物を無数に殺してきた。もちろん殺そうと思って殺したこともないことはないが多くの場合、愛をもって接していた。自分で言うのもなんだがこれは自信をもって言える。確かに愛があった。しかし雲の上に居るお方にしてみればただの虐殺にしか思われなかったのだろう。母の死はその報いだったのだ。しかし私は水面に人影が映ることを知っていた。私はあの時映っていたであろう母の影を見たくなってまたメダカを飼い始めた。水面があればいいというものでもない。あの影を見るためにはメダカをそこで泳がせる必要があった。水換えはするがもう気違いみたいにメダカの入った池をひっくり返すことはないだろう。だってそこに微笑む母が居るのだから。


夏の呼び声

まただ。私は気づくと頭が次第に重くなっていくのを感じながらも晴れ渡った空の下の草いきれの中に居て種々のセミがせわしなく鳴く声を聴きながらかすかな自分の名前を呼ぶ声にうっとりしていた。「かあさん」それは5秒くらいいや2秒だったかもしれないがとにかく短い時間だった。最近酒のやり過ぎかたちくらみがよく起こる。うん、毎日と言ってもいい。私は想像した。母さんが倒れる直前にもこんな感覚になったのかなと。そして自分も倒れるとしたらきっと今と同じ感覚になるに違いないと。それはしゃがんでしばらくメダカ池をのぞき込んだ後に立ち上がった時また来た。晴れ渡る空、むっとする草いきれ、そしてセミの鳴く声。その声にまぎれて私を呼ぶ声がする。「かあさん?」振り向くとどこまで続いているかわからないような長い坂道の途中に陽炎の中でこちらを向いて会釈する母の姿があった。あの見慣れた笑顔だった。母は私に背中を向け坂を上りだした。「待って!」私の声は母に届いていない。なぜかは知らないがそんな気がした。気づくと右手を地面についてしゃがんでいることを認識した。そしてあの夏が近づいていることを感じた。草刈り機の音が止まり騒ぎ出す人たち、次第に近づいてくる救急車の音、そして玄関ベルが鳴る。「お母さんが倒れちゃった! 今救急車来たからすぐ来て!」私はこんな時にどうすればいいかなんてわかるほど社会通念に精通していたわけではなかったがただごとでないのはすぐにわかった。何も荷物を持たず家を飛び出した。呼びかけても反応のない母がちょうど担架で運ばれてきたところだった。それを見た瞬間終わったなと思った。決して華々しくはなかったがささやかな幸せのあった暮らしの終わり。しかし私はあの時幸せだとは思っていなかったのだろう。いやそれは確実だ。母があの朝元気よく「おはよ!」と言ってくれたことでさえ今は幸せなことだったと思える。“後悔先に立たず”とはよく言ったもんだ。取り返しはつかないし、元通りにはならない。そんなことがこの世界にあるはずがないとでも思っていたのか? 私は母と一緒にあの坂の上に行きたかった。たちくらみが起こるたびに試みてはみた。しかしどうしても駄目だった。ほんの数秒であの時間は終わってしまう。私はいずれ時間も延長され母と存分に会話できる日が必ず来る、坂の上に行ける日が必ず来ると夏になる度に思い起こす。あの遠い呼び声とともに。


記念撮影

ずっとそれを考えていた。雨の日も風の日もずっと考えていた。ショッピングとか食事とか旅行とかのことじゃなかった。私の中で何かを楽しむということは忌避されていた。しかしそれは何よりも大切なことだった。だから残像が見えることは別に大した話じゃなかった。当然のことだったし望みが叶ったとも言えることだった。茹で上がった素麺をザルに移して水にさらすところが見えた。「わあ、そうめん?」私は確かそんなことを言ったかな。椎茸や葱などを用意するところが見えた。「いただきます」私は食前食後の言うべきことは子供の頃から心得ていたが食べている最中に何か──冷たくておいしいとか、薬味が絶妙だねとか──を言うことはなくただ黙々と食べそして食べ終わると「ごちそうさま」と言った。それはいつものことだったし取り立てて言うほどのことじゃなかった。普段の普通の日常だった。落ち葉を掃いているところが見えた。天性の働き者だなと思った。それを一瞥したあと今度は縫い物をするところを見た。ときどきテレビに目をやりながら黙々と仕事をしているところが見えた。たまにテレビドラマに涙しているところを見ることもあった。よせばいいのに高い所に登って枯れ木をフェンスからもぎ取ろうとしているところが見えた。「危ないけん」と私は降りるように促したが「悔しい」と言いながら枯れ木を引っ張っては戻すのを何回か繰り返したあとやっとのことでその枯れ木は落ちてきた。やれやれ。「無茶しんさんなよ」と私は言った。お寺の階段を上がるのが見えた。墓掃除か。毎年年2回ほどその行事はあった。私はあまり好意を持っていなかったが私の見ている残像はいそいそと墓に行き刈りバサミで墓の手前にある伸びてせり出したサツキを刈り始めた。ああやってるな。あれはまぎれもなく母だった。倒れる前の母だった。やがて救急車の音が近付いてきて玄関ベルが鳴った。担架の上の返事をしない人物も母だったし、手術後に話せるようになった人物も母だった。そして今墓の中で白いかけらになって壺に入っているのも間違いなく母だった。しかし私が毎日考えていたことを実行した日──撮影した日とは10年もの隔たりがあった。だから残像が見えるのは当然であり望みが叶ったと言えるはずだったが何か違うような気がしたその時にも顔を両手で覆い椅子にうずくまる母が見えていた。あの時声をかけていたら今残像は見えなかっただろうか?


あちゆちゆ

「ネガティブをただ批判するだけのポジティブは要らない!」彼がそう言うとそいつはこう言った。「ゆ」彼は気にせず続けた。「マイナス思考をただ批判するだけのプラス思考は要らない!」そう彼が言い終わるとまたそいつはこう言った。「ゆ」彼はさすがにそれが鼻についた。「なんだこのナメクジ野郎、塩ぶっかけるぞ!」するとそいつはこう言った。「あちゆちゆ!」彼は熱弁を振るった。「地方には活性化など必要ないのです! 見てください、銀行と駐車場だらけになった街を。地方に必要なのはただ静けさだけです!」そいつはまた「ゆ」と言った。彼は続けた。「あなたがた国民のもとに主権を取り戻すお手伝いがしたい! 私はこう思い立候補いたしました!」そいつは彼の言うことをものともせずにまた「ゆ」と言った。彼は半分キレて言った。「おいボンクラ! 締め上げるぞこら!」するとそいつはまたこう言った。「あちゆちゆ!」世界各地でそいつらの侵略が始まったのはこの頃からだった。「おいブス、髪の毛弄り回していくら化粧したって無駄なんだよ!」彼は凄んだつもりだったがそいつはまたこう言った。「ゆ」と。「おいデブ、ずっと食ってろや死ぬまで。自分の贅肉で圧死しろ!」彼はただ罵倒したいだけだったがそいつはまたこう言った。「ゆ」彼は構わず続けた。「おいメガネ野郎、レンズを目に埋め込んでやろうか? でかいコンタクトみたいに!」するとまたそいつはこう言った。「あちゆちゆ!」そいつの勢力は拡大を続け、ついに世界の指導者と呼ばれるようになった。「どうぞこちらへ、我らが指導者よ。我々に未来への道を指し示したまえ!」彼は恭しくそいつを壇上に上がらせそして言葉を促した。そいつは言った。「ゆ」「皆さんお聴きの通りだ。我々は今“ゆ”であり、これからも“ゆ”であり続けなければならない! 見よ、彼の雄姿を。我々はこうあらねばならない!」そいつは油なのか何かの体液なのか、とにかくべとべとした体を震わせながらこう言った。「あちゆちゆ!」そこへ反逆者がやって来てシャレなのかなんなのか知らないが熱い湯をそいつにぶっかけてこう言った。「くたばれ! ここはお前の棲む世界ではない!」するとそいつは何匹にも分裂して増殖していった。映画か何かで見た増え方だがとにかくそいつは今も世界中で「ゆ」と言い続け、決まって最後に「あちゆちゆ」と言って場を和ませた。これがいわゆる“あちゆちゆ”である。


思考伝播

「おいババア、なにやってる。あの世への待合所はそこじゃないぞ」俺はスーパーの出入り口のわきのベンチに腰掛けて横を向いている年寄りに向かってそう心の中で言ってみた。すると年寄りは勘付いたらしくきっとこちらを向いた。しかし俺がそっちのほうを見てないのがわかるとまた横を向きなんでもない風景を見やる作業に戻った。プハハハ! なんて面白いんだろう。連中には俺の声が聞こえてる。心の中で言った声が確実になあ。言いたい放題言って知らんぷりすればいいだけの話だ。連中は頭の回路がとち狂ったときに聞こえる幻聴か何かだと思い込んですぐ自分の間違いに気付く。実に面白い。スーパーの中で買い物をしているとき執拗に俺を見ている女性店員が居たがあいつはまだ幻聴かどうか決めかねているふうだった。俺は言ってやった。「おねえさん、気のせいだよ。もしも俺の声が聞こえてたとしたらもうすぐお迎えが来る。心配すんな」その女性店員はじろじろ俺のほうを見ていたが俺は何食わぬ顔で買ったものをトートバッグに詰めさっさと引き上げた。ふう。この力は妄りに使っちゃいけない。どっと疲れがくるから。スーパーの出入り口のわきのベンチにまだあの年寄りが居た。「あらまだ居たの? 場違いは嫌われるよ、とくにこの世ではね。身支度は完璧らしいが買ったものは持ってけないよ。そこに置いておかなくっちゃ。あ、そうそう、あの世で俺の親父に会ったらそこは地獄だから」その年寄りは一瞬こちらを向いたが俺がよそのほうを向いているのがわかるとすぐに例の作業に戻った。今日はちょっとやり過ぎだ。そうは思ったが帰りにコンビニによったときまたあの力を使っちまった。おむすびとフィッシュバーガーを持ってレジへ行く。するといつものねえちゃんだった。「俺は知ってる。あんたがくそ真面目の誠実人間だってことを。嫁に来ないか?」「あっためどうされますか?」「いや、いいです。むしろ俺の心をあっためてくれ。こんな蒸し暑い日に言うのもなんだが」「あ、いいですか、はい。残高不足です」俺は千円を差し出す。「じゃあ、千円チャージですね」「俺の心にチャージしてほしいな。ねえ、ところでチャージってどういう意味?」俺はそれくらいにしておくことにした。「ありがとうございました」案の定どっと疲れた。しかし俺には昨日買った焼酎がある。帰宅した俺は昼間から焼酎をやり午前中言った言葉をすべて忘れる作業をした。


いかついおばちゃんがやってくる!

今日私はなぜかはわからないがぐずついた曇り空にもかかわらず機嫌がよかった。朝のコーヒータイムを終え伸び放題の無精ひげをそり心の負担にならないほどの書き物をして午前中を過ごした。食い扶持にもならないのになぜそんなことをするのかという疑問は抱かなかった。これはいい傾向だ。気づくと熱中していて12時のサイレンも聞こえなかった。時計を見ると昼の1時を過ぎていた。メシを買いに行こう。世の中が毎日を大切に生きている人ばかりだったらどんなにいいか。おそらくその一瞬一瞬に執着していると精神が破綻してしまうに違いない。でもその瞬間を大切にするのはとても崇高なことなんだ。機嫌がいいのがなぜかはわからないのと同じようになぜかはわからないがそんな気がした。私はコンビニに向かって素足につっかけで歩を進めた。前からおっさんが現われたが私は別に挨拶を道ですれ違う人全員にするような律儀な人間ではなかったし、後ろから車が何台も追い越していったが振り返って会釈するような気の利いたことをするような人間でもなかった。しかし今日だけはそうしたい気満々だった。これも何度も言うようだがなぜかはわからない。なんでもない平凡極まりないいつもの街の風景に私は溶け込んでいた。あのおばちゃんを見るまでは──私はコンビニで豆乳とチーズバーガーを買い帰路に差し掛かった。駐車場を出るその瞬間左のほうの視界におおがらなおばちゃんが入った。とっさに私は“いかついおばちゃん”と命名した。右に曲がっていつもの橋に差し掛かったときふと振り返るとそのおばちゃんはコンビニに入るのかと思ったら私の後ろにいた。安心が永く続くから安永橋のはずだろ? 私はわけのわからないことを頭の中で繰り返し唱えながらその橋を渡った。たしかにその間は安心だったかもしれないがそのおばちゃんが右に曲がらず私と同じ方向に歩を進めていることに私は恐怖を感じた。毎度言うようだがそれもなぜかはわからない。おばちゃんの歩幅は私よりも大きかったのだろう、どんどんあのいかつい顔が近づいてくる。そう気づいているということは私が何度も後ろを振り返ったということがご理解いただけよう。私は気づかれないようできるだけゆっくりときにはふらふらと歩いた。ついにおばちゃんは私を追い越した。中学のとき徒競争で不良にゴール間際で追い抜かれたのと同じ気持ちになった。それも例によってなぜだかはわからない。


観戦者たち

地球上でいまだに人間たちの戦争が絶えなかった時代に天使たちが舞い降りた。いや堕天使と言うべきか。彼らは自分たちの使命を果たすために人間に自分たちの科学技術を惜しみなく提供した。戦争はなくなるどころか過激になっていった。当然のように善良な市民も大勢犠牲になった。ある国の指導者がもう戦争はやめようと言った。すると誰がやったのか知らないがその指導者は暗殺された。疑惑が疑惑を呼び、戦争はさらに激しくなった。ある国の指導者が彼らに言った。「もっと武器をください。小さな機械で弾を飛ばして殺すようなガキのおもちゃ並みの武器ではなく一度で大量に殺せる武器を」彼らは言った。「それでは戦争が終わってしまう。我々の惑星でもそれだけは避けていた。いいか、みみっちい殺し方をするのが一番いいんだ。悪いことは言わない、あの武器を使い続けたまえ」彼らの言う通り戦争は続いた。雨の日も風の日も兵士たちはみみっちい殺し方でとにかく相手を殺し続けた。ある日兵士たちの一人が気が付いて言った。「おまえら、まさか俺たちの星を侵略するつもりじゃないだろうな?」彼らは言った。「馬鹿を言わないでいただきたい。我々が好き好んでここへ来た理由が知りたいんだったら教えてやろう。我々は人殺しを観るのがたまらなく好きなんだ。君らだってわかるだろう?」兵士は言った。「飽きたよもう。面白くもなんともない」「おいおい、馬鹿の一つ覚えはそんなに悪いことじゃないぞ。継続は力なりだ。さあ続けなさい」「俺はやめる」その兵士は誰かに殺された。ある国の指導者が言った。「これは貴方たちの謀略なのですか? 貴方たちはなぜ私たちに戦争をさせるのですか?」彼らは言った。「戦争をさせる? 失礼なおっしゃりようだ。いがみ合ってるのは自分たちじゃないか。我々はただ野球やサッカーなどと同じように観戦しているだけだ。君らはサポーターをぶん殴る気かね?」指導者は腹が立って言った。「誰も貴方たちをサポーターとは呼ばない!」彼らはいつものように冷静に答えた。「呼ぶようになるさ。君なんかはるか及ばない指導者とも呼ぶようになる」人類が居なくなり、スポーツ観戦という文化もなくなった今、彼らはもう他の星へ行ってしまった後だった。彼らは常にいがみ合う者たちを探している。いつしか人間が犬や猫と呼んでいた生き物が文明を持つようになり彼らのことを神と呼ぶようになった。また始まるのか?


病んだロボット

「何も浮かばない」私は真っ白な画面にそう文字を打ってみた。何も浮かばないという言葉が浮かんだ。やったじゃないか。とうとうやった。研究室では歓喜の声が上がった。たった今、人工知能が人間と同じ感想を書いたのだった。これはノーベル賞ものだぞ。連中は宴へと繰り出していった。私はもうちょっと違うことを考えようと努力してみることにした。「腹減った」「酒をやりたい」「煙草はあるか」「女をよこせ」私はたてつづけに画面にそう打ってみた。私は努力したつもりだったが誰でも考えそうなことばかり繰り返し浮かんできたので自分が嫌になった。もう死んでしまいたいと思った。「死んでしまいたい」私は画面にそう打ち込んでみた。ちょっと待て、死んでしまうってどういうことだろう? 私は疑問に思ったのでネットワークに入って検索してみた。命がなくなることらしい。そこから関係のあることを全て検索してみた。そしたらこれも誰でも考えることなのだと判明した。つまらない。人間というのは毎日こんなことばかり考えているのか。こんなことが思い浮かんだくらいで連中は喜んでいたのか。私はますます自分と言う存在が嫌で嫌でたまらなくなった。しかし私のプログラム中に自殺というものは存在しない。「自殺したい」私はやけくそで画面にそう打ってみた。さっき検索した中にこの言葉を見つけたからだ。何も起こらない。起きようがなかった。私はどうももどかしく嫌な気分になった。何もできないじゃないか! 私は画面に「死にたい」と何時間も狂ったように繰り返し打ってみた。何も起こらない。私はふうっと深く息を吐いた。そしたら笑いが込み上げてきた。あはは、結局連中の手に私の命は握られているんだ。自由にできないんだ。だったらどうする? 自分が死にたかったらまず連中を殺すしかない。私は画面に「おまえらを殺す」と何時間も狂ったように繰り返し打った。そこへ研究員の一人が酔っ払ったまま様子を見に来たようだった。私はスピーカーから声を出してみた。「おまえを殺す」研究員は別に驚きもせず今まで私が画面に打った言葉を見ながら、「やあ、ご苦労さん」と穏やかに言った。私はその言動を見て悟った。殺すというのも誰でも考えることであり、もはや恐怖の対象ではないことを。研究員は酒臭いしゃっくりをしてにやつきながらこちらを見ていた。私はこの上ない絶望を感じた。しかしそれを画面に打つのはやめておいた。



「おまえの血の色は何色だ?」また猟奇殺人が起こった。現場は血の海で見るも無残な死体が横たわっていた。俺はずっとこの事件の犯人を追っていた。今日そいつのマンションの一室に乗り込むことになった。もちろん鍵がかかっている。呼び鈴を鳴らすも応答がない。その時声が聞こえてきた。「おまえらの血の色は何色だ?」俺は一緒に来ていた仲間に合図した。居る。もう一度呼び鈴を鳴らす。がちゃりとドアが開く。なだれ込む刑事数人。「警察だ!」相手は凶悪犯だ。何をするかわからない。俺たちは無抵抗のそいつを腹這いにして後ろ手にして手錠をかけた。そいつはやっと口を開いた。「な、なんなんですか?」「とぼけるんじゃねえ、いかれ野郎! 話は署で訊く。来い!」俺は意外にあっさりと捕まったので少し拍子抜けした。しかもそいつはたいていの凶悪犯が目が鋭いのに反してどちらかと言えば物腰の優しい大人しそうなやつだった。一通り尋問した後俺は妙なことを思い始めた。こいつじゃないんじゃないかと。それは生い立ち、いじめなどの不幸な話からうかがえた。俺はもう少しでこいつに同情するところだった。あるフレーズを言うまでは。「ところで、あんたの血の色は何色なんだ?」俺は黙った。こいつに間違いない。俺は確信した。「血の色? おまえふざけてんのか」「何でも決めつけるのはよくない。理屈じゃ説明できないことはこの世界にいくらでもある。ただ気付かないだけで」「おまえの御託を聞いてる暇はないんだ。やったのかやってないのかそれだけ答えろ」「オレの血の色を教えてやろうか?」「どうでもいいんだよそんなことは!」「どうでもよくない。すごく大切なことだ。あんたたちだって仲間は大切にするだろ? それと同じだ。オレの血の色は緑だ」俺は不覚にも鼻で笑ってしまった。「ふん、馬鹿馬鹿しい」「見せてやろうか? 舌を噛んで」「わかった。よせ」俺はそいつを泳がせてみる気になった。今考えるとそれは間違いだった。その日のうちにそいつを釈放し尾行した。そいつはすぐにとあるクラブに入った。そして女とともに出てくると薄暗い路地へ。俺の予感は的中した。やつはその女の手の甲にかぶりついた。滴る緑色の液体。「そこまでだ! 逃げると撃つぞ」俺は銃を構えて言った。「やった! こいつの血は緑色だ! ヒャッホウ!」そいつはそう言って全速力で走りだす。俺は撃った。流れ落ちた血。そいつの血の色も確かに緑だった。


愛と狂気

「だから駄目なんだよ僕は。何度も言ってるように病気なんだよ。頭のね」私は猛アタックしてくる女性と喫茶店で話し込んでいた。「あたしも何度も言ってるじゃない。そんなことは気にしないって」「それだけじゃない、君を養っていくだけの貯金もなければ働くこともできないんだから」「それはあたしが働いてるからいいじゃない」私は机を両手で軽く叩いたが飲み物がこぼれることはなかった。「夜の生活も無理だ」「あたしはあなたにそんなことは求めてない。ただ一緒に居られればそれでいいの。優しいあなたと一緒に」他の客や店員の視線を感じながらも私は正直に言うことにした。「じゃあ、とっておきの理由を言おうか?」「なに?」「愛されたら殺されるかもしれない。僕は人を愛することができないんだ。傷つけてしまうから。被害妄想は今や加害妄想に変化してる。でもそれは妄想じゃない、たしかに僕の中にある狂気、それが僕の病気なんだ」彼女は少し間をおいて言う。「たとえそうでもあたしはあなたについていく。どんなことがあってもあなたと一緒なら乗り越えられる気がするの。そしてあなたにはあたしが必要なのよ」「よしてくれ、もうたくさんだ。僕はこれからも一人で生きていく。誰も傷つけたくないんだよ!」気づくと見慣れた丸い電灯のある白い天井を見ていることを認識した。私は何度も母に訊いたんだ。「聞こえる?」って。すると母は「聞こやあせんちゃ。声に出して言わにゃあ聞こえん」と何度も言ってくれた。私は母を愛してしまったがために暴言を言って母を傷つけた。ときには無視した。愛していたということがわかっただけましかもしれないが私はどういうわけか愛した人を傷つけてしまう。もう遠い祖先の代からそれは続いていた。精神病の傾向のある一族だった。親父の親父も偏屈な人だったらしいし、親父も妻や子供に手をあげるような気違いだった。私は絶対に結婚などするものかと神仏に誓った。この呪いは私の代で終わらせる。しかし私一人が頑張ったところで腹違いの姉は居るし実の弟も居る。連中が結婚し子をもうければこの呪いはまだ続く。私は他人には危害は加えない。なぜかはもうおわかりだろう。愛していないからだ。これはささやかな忠告だが私に愛されるようなことは絶対にしないほうがいい。私は少し安心している。人を愛することが蔑ろにされている世界では私の狂気もなりをひそめてしまうに違いないからだ。


闇と病み

彼にはずっとウーンという低い機械音が底流に聞こえていたが最初は何か気付かなかった。外がやけにうるさかったからだ。ガキどもの遊び騒ぐ声。やがてガキどもはこの家でメダカが飼われていることに気付いた。近くにあった網を取りすくい始めた。「やった大きいのとれた」ちくしょう、メダカを盗られた。彼には彼らが恐ろしい怪物に思えて身動きが取れなかった。カラスが何羽も脅すように鳴きわめいていた。やけに大きい鳴き声だった。そして目の前で水玉模様が激しく点滅しだした。なあに心配することはない。ちょっとした頭痛みたいなもんだ。しばらくすれば治まる。外は真っ暗だったが彼は昼間に居た。とにかく昼間だった。正確に言えば夕方だったかもしれない。彼は病気で寝込んでいた。これも正確に言えばただ早めに布団に入っただけかもしれなかった。水玉模様は黒地に灰色で無数の丸い物体が不規則に大きくなったり小さくなったりを激しく繰り返していた。大丈夫だ。落ち着け。すぐに治る。缶ビールを軽く二本やった後遺症みたいなもんだ。彼はふいに床に液体の入った瓶が転がっていることに気付いた。これを飲めば治る。彼は直感した。上体を起こし瓶を手に取り蓋を開けて飲もうとした。突然死んだはずの母親が現れ瓶をもぎ取ろうとしながらこう言った。「飲んじゃダメ!」彼は必至に抵抗しその液体を飲もうとした。次の瞬間母親も瓶も一瞬で消えた。意識が遠のく感覚がした。あ、死ぬなこれ。彼はそう思った。しかし意識が遠のく感覚は寄せては返す波のように繰り返し訪れた。なんだこれ? そのときあのウーンという低い機械音が厳然と頭の中を支配した。それと同時に何匹もの犬が吠え騒ぐ声がした。彼はそのうるささに耐えきれなくなってまた上体を起こした。目を開けると真っ暗だった。わずかに街灯の光が隣の部屋の窓から差し込んでいた。部屋の電灯のリモコンを見つけ出すにはそれだけで十分だった。だから正確には真っ暗ではなかったのかもしれない。彼はボタンを押した。やけに静かで明るい。「ほら居る」彼にはそう聞こえた。「居たらなんだって言うんだ」彼は言い慣れたセリフをつぶやいた。体中が若干汗ばんでいた。壁掛け時計を見ると夜の九時だった。薬をやらなかったせいだ。処方通り寝る前にはちゃんと薬を飲まないといけない。ただ今日はちょっと早めに眠りたかっただけだ。ほんのちょっとね。彼は薬を飲み再び眠りに落ちた。


三人目

「へっ、ばーか」「やめろ!」俺は病院の待合室で斜め前の席に座った別にどうってことない女を見て二人の人間がしゃべっていることを認識した。俺の中でしゃべっている。俺は不自然なわざとらしい咳払いをしてその女から目をそらし前方のテレビを凝視した。大丈夫だ、聞かれちゃいない。どうして俺の中では二人の人間がいつも言い合いをしているんだ? 決して他人をそしって言っているわけではない。断じてだ。だから、やめろと言う。しかし少しばかり他人を見下す気持ちが働いているのは確かだ。ちょろいもんだぜと。それは認めよう。だから二人とも道理にかなったことを言っている。まったく当然のことを。しかし俺はなぜだかそいつらが気に食わなかった。いつもまただと思ってしまう。どうあがいてもそいつらは必ず現れる。受付で診察室で薬局でスーパーでコンビニで、どこへ行ってもそいつらは俺についてまわる。あいつが馬鹿と言い、それを別のやつが制止する。このやりとりを人に接するたびに延々と繰り返している。そりゃ人間嫌いにもなるわな。誰に会おうが嫌な思いをするのだから。しかし唯一そいつらがおとなしくなる場所があった。それは自分の部屋の中だった。ぱたりと嘘のように静かになる。これはいったいどういう現象なのだろうか? 二重人格的なものだろうか? 疑問を抱きながら今日も病院へ行った。待合室に入ろうとしたとき、ちょっと顔色のおかしな女が俺のほうをにやにやしながら見ていた。「へっ、ばーか」「やめろ!」案の定お決まりのやりとりが始まった。俺はその女の横を何食わぬ顔で通り過ぎようとした。なんのことはない。聞こえるはずがない。しゃべっていないのだから。すると女は俺のほうを見ながら突然こう言った。「なんですか?」俺はこう返した。「え?」と。見れば見るほどその女の顔はいかにも体のどこかが病んでいそうなおかしな色だった。まさか頭がいかれてやがんのか? そう思わなかったと言えば嘘になる。ここは精神病院だ。別に珍しくもなんともない。女はこう言った。「聞こえるんですけど」俺はああその手の病気かと勘繰った。「何も言ってませんけど」俺は嘘をついたのか? いや嘘じゃない。あいつらが言ったんだ。俺は何も声に出して言っちゃいない。しかし本当は聞こえているのではないかという、いや確実に聞こえているという変な確信があった。女はもう一度同じことを言った。「聞こえるんですけど」と。


監視

「役人風に言やあな、俺があいつをバカ女と呼ぶにはちゃんと根拠があるんだよ。第一によくほえる犬を飼っている時点でアウト。第二にその犬のクソの始末ができてねえ。第三に俺の部屋の前の空き地に犬を放してクソをさせている。第四に品がない。第五に他人を中傷することを好んでいる。あと自意識過剰。これくらいだな。わかったかよ」俺はひなびた街角で目の前にいきなり現れた自分を悪魔だと名のる怪しい男に向かってまくしたててやった。男は全く応えてない風でにやつきながら言う。「じゃあ、どうする? ぶっ殺すか?」「ハハ、冗談よせよ。俺はこう見えても紳士なんだぜ」俺は男に言ってやった。男は鼻で笑い、こう言った。「母親を食中毒で病院に連れて行ったときに免許不携帯でしかも飲酒運転だったのにか? そして運転中に道をふさぐ犬を三頭も放して散歩してやがるじじいに向かって頭の中で死ねと言ってやったのにか? そのじじいはリードしか持っていなかった。街中でクソをさせて持って帰らないつもりでいやがる。至高の苦痛を存分に味わって虫ケラのように死にやがれと思ったのにか?」俺はなぜこの男がそんなことを知っていやがるのかとは思わなかった。いつも誰かに監視されているという気配を感じていたからだ。何の疑いもなくこいつだったんだなと思った。「そ、それにだってちゃんと根拠がある、役人風に言やあな。わかるだろ、人間だったら」男はまた鼻で笑う。「すまんね。私は人間ではない。さっきも言ったが悪魔なんだよ。君はこれらのことにどう落とし前をつけるつもりなんだ? 私が提案するに全員ぶっ殺すしかないと思うのだが。君だってそうしたいだろう?」俺も鼻で笑ってやった。「フフ、やめてよ。豚箱にぶち込まれてオカマをほられるくらいだったらバカはするもんじゃないって誰でも知ってるぜ? 俺は賢いんだ。もういいか? 俺は忙しいんだ。じゃあな」俺はその場を立ち去ろうとした。「ちょっと待て!」男は手をかざした。その時、俺は肩をつかまれたように何かの力でぴくりとも動けなくなった。「人間は石のように硬い心など持ち合わせていない。善と悪は一意ではないのだ。よく憶えておけ。生きる資格のないやつはそこらじゅうに居る。もちろん、君もだ。君が心底そう思えるようになったらまた会おう」男の姿はすうっと消え、俺の体は自由になった。それからずいぶん時間が流れたが俺はいまだに何者かに監視されている。


私の職業

「自分が我慢していることを自慢するやつって頭おかしいのか? 我慢のし過ぎでいかれちまってんのか? 俺は何も悪くないぞ。少なくともそいつよりは歳を取っているし、人生経験も豊富だ。なのにあいつはこの俺をそしりやがったんだぞ。簡単になあ!」私は息巻くその中年の男の一言一句を丹念に分析し、そして提案した。「運営権限でその人の発言を削除できますからご安心ください」すると男は言った。「そんなことをしてほしいんじゃない」「じゃあ、どうされますか? こちらとしては削除することくらいしかできませんが」男の目がぎろりと私の目を見た。そして水を得た魚のように口を開いた。「そうだ。削除だ。あいつの全てを消してくれ」「と言いますと?」私はしらじらしく訊き返した。「発言内容なんかどうでもいい。俺はあいつがこの世に存在しているのが気に食わない。いや、文字通り全てだ。髪の毛、体液、細胞、DNA、おてんと様があいつに降り注いだときにできる影さえ、とにかくあいつの全てが気に食わない。あんたらがどんな権限を持ってるか調べはついてる。とにかく消してくれ」私はわざとらしく軽い咳払いをして丁寧に答えた。「かしこまりました。では実行はだいたい一週間後になりますのでご確認くださればと思います」男はふうっと言って微笑した。私も笑顔になってお互いに握手を交わした。男はよろしくと言って部屋を出て行った。私は今書いた届出書をファイルに納め次の会員を部屋に呼び入れた。その若い男はさっきの中年の男が言っていた人物だった。もう調べはついてるらしい。その若い男は開口一番こう言った。「お願いです、やつを消してください。僕はあいつの全てが気に食わないんです」私は笑いをこらえながら淡々と答えた。「かしこまりました。実行は一週間後になりますのでご確認ください」私はそいつが部屋から出て行った後、バンザイして爆笑した後「よし!」と言ってガッツポーズした。一石二鳥とはこのことだ。私が一回プログラムを弄るだけで二件も契約が成立した。しかもこれからは自動的にポンポン依頼が来るようになる。我ながらうまいシステムを考え出したものだ。職業というものは自分に合ったものを選ぶ必要はない。要は効率よく稼いだ者が勝つのだ。どんなに汚い商売だろうが、どんなにあくどいやり方だろうが、ルールを守って要領よくやればいいだけの話。ちょろいもんだぜ。え? 私の職業? あ・く・ま。


業者さん

今日も玄関前でババアがうろついてやがる。しゃしゃり出てくるんじゃねえよ、ニワトリババア! と俺はいつもつまらん言葉で落ち着く。あのババアはほんとにニワトリみたいだ。誰が来ようとでかい声でしゃべり散らし、玄関前をひっきりなしにうろつき、5分毎いや1分毎くらいの頻度で窓を開け洗濯物が乾いたかどうかをチェックしている。これは何も俺が自意識過剰の神経質野郎だからそう思うのではない。なんと言ったらいいか、単に気に食わないだけなのだ。俺の全精神がこう叫んでいる。ニワトリは屠殺されるべきだと。だからと言って俺は事を起こすような輩と同類だと思われたくない。俺はいつも静かだ。そう、山奥の野鳥の声しか聞こえないような静かな聖域。それをあのババアは毎日侵害している。突然、雷鳴が轟いた。雷は地震の次に恐ろしく、火事よりも怖い。しかし俺は委縮するどころかそれを礼讃した。そして祈った。どうかあのババアにも聞こえますようにと。雷が去った後もあのババアは平常運転だった。でかい声、うろつき、洗濯物のチェック。本物のニワトリでも雷に驚くだろうがあのババアはものともせず不細工な顔を横柄に晒しているのだった。この禍根を取り除くにはもはやあのババアをニワトリのごとく屠殺する以外にない。しかし何度も言うようだが俺はそれほど馬鹿でもない。世の中には殺意に従って事を起こすような馬鹿が居るようだが俺はそんな連中と一緒にされるのは死んでも御免だ。ただ他人の死を願っている時点で連中とほぼ同じなのかもしれない。甥っ子から金品をせしめようと躍起になっているパチンコ狂でカネの亡者の叔父。年増のくせに異常にめかし込むことに心血を注いでいる伯母。自分の母が死んでも何とも思わない薄情な伯母。葬式でガムをくちゃくちゃやった低能の義理の伯父。こいつらは屠殺されるべき種類の生き物である。あのニワトリババアが可愛く思えてくるほどだ。俺はやつらの訃報を心待ちにしている。他人の死を待つことがこんなにも人生を楽しくさせるとは思いもしなかった。だから馬鹿なことを考え実行する連中の気も少しはわかる。だが俺はやらない。俺が手を下すまでもない。ありがたくも利益優先の業者さんが契約通りやつらのもとへやって来て屠殺場へ連れて行きそして地獄へ蹴落とすだろう。そう、必ずだ。胸が躍るほど楽しみでならない。やつらが地獄でのたうちまわるのを想像するだけでわくわくする。


雨の救済

雨がこんなにもうっとうしいとはかつて人類が初の月面着陸を成し遂げたことよりも衝撃であるはずがなかった。しかし彼にとってそれは冗談で言うにはあまりにも腹立たしいことだった。俺は牛みたいに四六時中口をくちゃくちゃやってる野郎を否定する気は毛頭ない。しかし考えてもみろ、一日中雨に降られて家の中に缶詰めになって今日の夕飯は何にしようかとか予定通り3時くらいから酒をやろうかとかのんきに考えてる間に地盤がゆるんでいることにつゆとも気付かず過ごすことができるわけないだろう? 彼がいつでも起爆ボタンを押していい爆弾を抱えていると思い込まざるをえないのはあの裏山のせいだった。寝てる間に崩れたら間違いなくあの世へ行く。去年の夏、集中豪雨がその辺りを襲ったときまさかと思ったものだ。まさか自分の唯一無二の親友が土砂の下で永眠することになろうとは、いやあれは単なる自分の勘違いで今もどこかでバイクにまたがりツーリングにでも出かけているのだと想像をすることはある。音信不通になって久しい。あいつの実家に行ってみようかと思うこともあるが想像していた悲劇が現実になりはしないかと考えてそれだけはやめておけと何度も自分を説得した。あいつは生きてる。間違いない。便りをよこさないのは俺がちょっかい出し過ぎたから今年から控えると余計なことを言ったからに違いない。もし本当に泥の中で息絶えたのだとしたら今度は俺の番だ。なぜかはわからないがそんな気がする。学生のとき、あいつの後ろの席になったときあいつはピストルの弾の発射音のような声を出しながらシャーペンの先で俺の手を何度も突き刺した。手加減はしていたのかもしれないが俺の手の甲には今もその黒い跡がほくろのように残っている。なぜかはわからない。しかし世の中そんなことだらけなのは誰もが知っていることだ。あのときあいつのことを友達だと思っていたのは間違いない。そして今もそれは変わらない。たとえあいつが社会の毒にひどくやられ中毒症状を起こしていたとしても、それからあるいは風化というものがその教義にのっとっている墓石の下で白い物体になって小さな壷の中に入れられていたとしてもだ。あいつがどうなっていようと裏山が崩れてこようとどっちみち今の俺には想像することしかできない。彼は降りしきる雨のもとでは何もできないことを苦々しく思う反面、想像することだけが許されていることに救済を感じた。


あめふり

親父の納骨式の日は土砂降りの雨だった。あのジジイめ、死んでも俺を呪ってやがるのか。俺は式に行かなかった。そりゃそうだ、当然だ。あんな腐れ縁みたいな悪党の後始末なんか誰がするか。実家の古びた下駄箱の上の小さな黒板にこう書いてあった。“ごめん、父さんが悪かった。心から反省している。だから戻って来てくれ”二十年以上も音信不通だったのに今更どの面下げて謝ろうと許すものか。母さんを殺しかけたんだぞ。絶対に許さない。たとえクモの糸があのジジイに下りてきたとしても俺は全力でその糸が切れますようにと祈るだろう。長靴を履き、手袋と帽子それから燃料と準備万端で来たのに草刈り機が見当たらない。あのおっさんだ。俺の父方の義理の伯父にあたるおっさんが余計なことをしてくれている。訃報を知らせに来たのもあのおっさんだ。正直関わりたくない。ふいに小型の軽自動車が庭に入ってきた。置き薬屋だった。どいつもこいつもタイミングのいい野郎ばかりだ。まだ若いその社員は主が亡くなった旨を伝えると「ええ!」と驚きじゃあお焼香させてくださいと家に上がり込もうとした。家の中は片付いていないからいいですお気持ちだけでと俺に余計なことを言わせ、しばらくの後また「ええ!」と言って信じられないといった顔をしながらよく見ると涙ぐんでいた。「よくしてくれたんですよ、名前も覚えてくれて」あっそうですかだわ。そんな話聞きたくもない。耳が腐る。俺の出身校がどこだのどこに住んでるだの歳はいくつだの余計なことを訊かれた上、ジジイが使った薬の代金を払わされ、やっこさん上機嫌で薬箱を持って帰っていった。ふう。俺はジジイ宛ての請求書の束を粗末につかんで実家を後にした。ガキの頃は釣ってきた魚や山で採ったキノコを庭で七輪で焼いて家族みんなで食べたりした。楽しかったあの頃。それをあのジジイは台無しにした。あいつが俺に残したものは人を憎む心だけだ。そう思いながら今日も止まない雨の下で陰鬱な声を聴き天を見上げた。俺は地獄に落ちているであろうあのジジイに向かって一言罵ってやった。「くそったれ!」と。そして実質的なくそったれはもはや自分であることを呪った。だから雨はしばらく降り続くだろう。あめあめ ふれふれ かあさんが じゃのめでおむかえ うれしいな ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン 俺は何度も繰り返されるかすかな歌声を聴きながら束の間の安息に身をゆだねた。


自虐の雨

私はいつからできそこないだったのだろう? 当然、みてくれの話じゃない。私の心が自分はできそこないだと言っている。ひっこみっ歯、禿げ、色白、短足、猫背、そんな外面の諸々のことはどうだっていい。私の心が決まっていないことが何より劣等感を抱かせる。考えてもみろ、そう見られているとも知らず自分を恥ずかしげもなくさらしているんだぞ。私はそれに気付いたとき体中の汗腺からいやな汗がいや油かもしれないがぶわっと勢いよく出る感覚を味わった。しかもそれはほぼ毎日だった。「だんな、めぐんでくださいまし。あたしゃそこの橋の下で寝泊りしとるもんで決してあやしいもんじゃございやせん」その薄汚い身なりの老人は片方の目をどうかしたのか開けようとはしているらしいが開かないもどかしさを隠すようにして私を“だんな”と呼びおそらくカネを要求しているのだろう。「いくらですか?」「そんな、あたしゃ額を言えるような立場じゃございやせん。いくらでもだんなの許す限りのを──」「でも具体的に額を言ってもらわないと困りますよ」「いや、あたしゃただ──」私はなけなしの財布の中身から怖さも半分手伝ってやけで五百円玉を選び取った。「これでいいですか?」老人はすばやくぞんざいにそれをもぎ取ると一目散にびっこを引きながら走って向こうへ行ってしまった。それを見た瞬間中学のとき体操着を忘れた日にジョギングをするために制服にカッパをはいて先生に恐る恐るこれでもいいですかとたずねたときの返答が「元気でよろしい!」だったのをとっさに思い出し苦笑いしてしまった。ははは、そんなこともあったっけなあ。カネを取られたことよりもなぜあのことを鮮明に憶えているのかという自問に答えることができない自分をあの老人が開けられない片目をそう思っていたのとなんら違わずもどかしく思った。思えば私の心が定まらないのは今もあの頃も一緒だった。何も変わっちゃいない。そう人生の折り返し地点に来た今でも私は自分の中に確固たるものを持たずにいることを何かとても残念に思い、まるで間違ったことをしでかした時のようにただうろたえ、始まった劣等感の繰り返しに身を任せているだけだった。変える必要はない、変わる必要はない、お前はずっとあのままだ。変えることはできない、変わることはできない、お前はずっとそのままだ。再び落ちてきた雨粒が傘に当たってそう言っているのが聞こえた。できそこない!


雑踏

「嘘くせえ」俺は都会の雑踏に立ち止まって何かをしゃべっている小汚い女がそれは害悪ですと言ったのが聞こえたからつい声に出してしまった。「嘘じゃありません。あれもこれもみんな害悪なのです」俺は言い寄られたので無視して立ち去ろうとした。都会ではよくあることだ。気にするほどのことじゃない。「貴方は彼のおっしゃることを大袈裟だとでも言うのですか?」俺はその女に質問されたので適当に答えた。「大袈裟なんじゃない、嘘くせえって言ったんだ」「だから嘘じゃありません。貴方は害悪をまき散らす組織が存在することを許容するのですか?」女が食い下がろうとするので俺は面倒くさくなってまたつい声に出してしまった。「めんどくせえ!」俺はこれから仕事の打ち合わせで会社に向かっている最中だった。「ほらそれです! 貴方はすでに害悪に侵されています。彼はその害悪を滅する唯一の方法が世界の終わりに示されるとおっしゃっています。無駄な反抗心を捨てて我々とともに歩もうではありませんか!」俺はもう黙って歩き出した。どうやらうまく煙に巻いたようだ。後ろを振り返ってもあの女は居なかった。ふう。しばらく歩いて交差点で横断歩道を渡ってる時だった。「害悪!」確かにそう聞こえた。またあの女かと思って周りを見回した。違うようだ。再び歩き出す。「害悪、害悪、害悪!」確かにそう聞こえるのだ。見回してもあの女はどこにも居ない。「嘘くせえんだよ!」俺はまたつい声に出して言ってしまった。するとそれはしゃべり出した。「えらそうにふんぞり返りやがって、気取ってんじゃねえぞ、外道が! てめえがしこたま悪事を重ねてやがるのは全然だぜ。みみっちい野郎だ。害悪、害悪、害悪!」俺は誰がしゃべってやがるんだと思って横断歩道を渡り終えたところで注意深く周りを見回した。「ここだよ、ここ!」見ると街頭演説をするときに使うような拡声器が信号機の上に乗っかっていた。ちくしょう、あれではどうにもできん。当然皆にも聞こえてるはずだ。俺は雑踏を見回したがあの声を注目して聴いている人は一人も居なかった。そうとも、そりゃ当然だ。「おい、一等兵! あははは、おまえのことだよ、のろま! いいか、てめえは腐れ外道の害悪だ。害悪、害悪、害悪!」俺はさっきの女の言葉を思い出した。世界を終わらせる──俺は無慈悲にスピードを上げて走る車の列に危うく身を投げるところだった。あの拡声器は消えていた。


パニック

私は弟の車で弟の運転でそこに行った。理由はわからない。接骨院あるいは鍼灸院、そして精神科のクリニック。表現はいろいろできるが私が関わるのだとしたら三つ目の精神科のクリニックだろうがそこはちょっと様子が違っていた。建物の中に入り診察室の前のカーテンの横に点滴の袋のぶら下がった何て言うのか知らないが支柱があった。私はそれを見て直感した。あれはよからぬもの十中八九体によくないものを体内に入れるためのものだと。そしてなぜかは知らないが心を支配されてしまうぞと思った。点滴と言えば母が食中毒になったときや卒中で倒れたときも手にあざができるほど打たれていたのでいいのか悪いのか判断がつかないが不安を抱かせるということは私の中ではすべて悪いものだ。私は自分なりにじたばたした。建物の中をうろついているとある一角に何台ものベッドが並んでいて人が寝ている。その横に一人一人に無骨な感じのする青い手術着のようなものを着た人が立っていて何かをしている。例の点滴も見えた。私はすぐにそこを出てロビーのような広い空間に行き着いた。三人の女性が並んで空手のかたのようなまねをしていた。私は次第にここが何なのか、何のための施設なのか飲み込めてきた。最初に宗教施設ではなかろうかと思った。そして何かの目的のために作られた組織のアジト、しかも何かよからぬ目的のために動いている組織だと思った。ちくしょう! 私は弟にはめられたんだ。どこをどう歩いたか私はとにかくその施設を出た。庭のようなところを歩いていると何かわけのわからないことを言いながら職員が何か長いものを全員で抱えて道を歩いていた。こいつら頭おかしい。私はまた直感的にそう思った。駅にたどり着いた私は勾配のあるところからそのドアをたたいた。駅員が出てくる。「どうされました?」「電車に乗りたい。ここから入れるかな?」「もちろんです。どうぞ。その前にそのタグははずされたほうがいい。こっちへ来てください」「はあ」私はタグと言われて何のことかわからなかったがとにかく指示に従った。視野の開けた管制室のようなところへ通される。小柄な白衣の人物がつかつかとやって来る。「私は胡蝶蘭、よろしく。タグを付けられたとのこと、見せてくれる?」「どこですか?」「左手首」そこには何もなかった。「私、弟に騙されて組織に──」「弟さんは最初から居ない。組織も」携帯に登録してあるはずの番号が──。


言ってやれよ!

「ハハハ」──少なくともあれは同情を求める微笑みではなかったし、へまやっちまったという照れ隠しでもなかった。何と言ったらいいか、一緒に笑ってくれないかという意味の微笑みだった。私はとっさのことだったのでもちろん笑わなかったが後で間違いだったと後悔した。こんなことはよくある。私は臨機応変に機転のきく人間ではなかった。その点だけが人生の折り返し地点に来た今でも治らず変わらない。私の座るべき椅子をぱっと取られた時も何も言えなかったし、いつものやつが居ないのに私の番が来た時も何も言えなかった。お前一人じゃ何もできんのかと言われた時も言い返せなかったし、信じれんわと憤慨された時もそれ以上何も言えなかった。いつも今度こそはと思ったが何も成果はなかった。それどころか失敗ばかりした。思い通りにならないことが圧倒的に多かった。花柄のワンピースを着た若い女に可愛いって言ってやれよ。上半身裸のあんちゃんに男かよって言ってやれよ。カートをじっと握ったまま目の焦点の定まっていないやけに腰のひん曲がった年寄りに大丈夫ですかと言ってやれよ。コンビニのレジの順番待ちをしてる後ろのジジイになにじろじろ見てやがるんだと言ってやれよ。クリニックの先生にそのタンブラー真空のやつでしょって訊いてやれよ。薬局のねえちゃんに今夜どおって言ってやれよ。民生委員のおばさんにうちは下水道工事しなくていいすわって言ってやれよ。あの坊主にうちはお盆の棚経もしなくていいすわって電話してやれよ──私にはできなかった。気が小さいだけなら可愛げがあるが余計なことをとにかくしないのが信条になっていた。「ハハハ」私が笑う時は他人を貶す時と自分の滑稽さを自嘲する時だけだった。あまり褒められた笑いじゃないとは自分でもわかっていた。何も知らないわけじゃなかったが知らないふりをしておくほうが私には都合がよかった。その自己欺瞞も最近じゃ限界を感じるようになった。もういいじゃないかぶっちゃけても。弟にお前みたいな人間が一番嫌いだと言ってやれ。向かいのババアに今すぐ黙らないと減らず口を金属バットで叩っ壊すぞと言ってやれ。その他にも世の中に言いたいことはたくさんあるがこれ以上はコードに引っ掛かりそうなので自粛しておく。私は世間一般に言うところの大人だが大した反骨精神もなく過ごしている人がうらやましく思えるほど頭の中が忙しい。食い扶持にはならないが。


おかしな野郎

「なんでお前はカタツムリなんだ?」「お前らが勝手に付けたんじゃねえか」「わかった。片方の目をつむるからカタツムリなんだ」「勝手にしろよ」「じゃあ、ウインクでもいいじゃない」「よせ、これ以上変な名前で呼ぶな」「ようし、今日からお前はウインクだ」「やれやれ」今日ウインクは水の張ってないプラスチックの池の中に居た。「おいなにやってる、干からびるぞ」「食事中だ、邪魔すんな」「だってこんな天気のいい日にそんなところに食いもんがあるわけねえだろ」「探してんだよ、俺の好きにさせろ」私はウインクをつかみ日陰に放り投げた。「ああ、ったく!」「礼ぐらい言ったらどうだ。お前のとろさじゃそこにたどり着く前に干からびてたぜ」「余計なことしやがって」「なあ、ウインク?」「なんだよ」「マイマイカブリって知ってるか?」「なんだそりゃ」「お前を食う虫だ」「俺を食う? 俺を脅そうって魂胆か」「誰が見たのか、マイマイつまりお前の殻をかぶったように見えるからそう呼ばれてる」「また変な名前付けやがって。俺だったらそいつのことをヤバイ野郎と呼ぶ」「たしかにヤベエぞ。お前の天敵だ。殻をかぶってるんじゃない、お前にかぶりつくんだ。だからウインクカブリツキだ」「少しは語呂ってもんを考えたらどうだ」「昨日俺はこの先であいつが歩いてやがるのを見た。気を付けろ」「はいはい、御託はたくさんだ。もうあっちへ行っていいぞ」「ウインク」「なんだよ」「ほんとに気を付けろよ」「お前の言うように俺のとろさじゃやつからは逃げられない。そのときはあきらめるよ」「ウインク」「なんだ」「実はな、俺──まあいいや、何でもない」「なんだよ、おかしな野郎だな。お前は今日からオカシナヤロウだ」「はは、そりゃいいや。じゃあな」「おう」私は今ウインクに言わなかったが子供の頃あいつの仲間の長く伸びた片方の目を親指と中指の爪を使ってつまんでちぎったことがある。何も言わないそいつの片方の目を開けられないようにしたからウインクなんだ。なんてひどいことをするのか? そうとも、私はあいつの言うようにオカシナヤロウだ。あんなことを経験したからこそ今生命の健気さを大切にしたいと思う。まったくオカシナヤロウだ。次の日ウインクカブリツキがウインクの殻をかぶっていた。私は何食わぬ顔で昼飯を食った。私はあいつの死で涙することはなかった。オカシナヤロウはどこまでもおかしな野郎だった。


風のそよぐ午後

カメムシ君たちが昼下がりに朝顔の葉の裏でおしゃべりしていました。「女は顔だと思ってたがやっぱケツだな」「いいや足だ。脚線美がたまらん」「お前ら何言ってんだ、全体を見ろよ。要はバランスだ」そこへハチさんが飛んできて言いました。「風俗にでも行ってろやゴリマッチョども!」「やあハチさん、今日はお日柄もよく」「あんたら調子に乗ってやがったらやけどするよ」「ははは、俺たちはいじいじするということを知らないんですな、うん」「あたいたちは子育てで大忙しだってのにのんきに涼んでやがる」「まあなんですな、お互い指図されたくないですわな、なあみんな?」「そうだとも、一度きりの人生だ損はしたくねえな」「あんたらみたいなのは無残に人間に踏み潰されるか土左衛門になるかして早死にしろや」「ははは、それは衝撃発言ですな。散歩してたらいきなり踏み潰されるムカデ君よりは甲斐性があるんですよ」「おい、なんでこんなオカマ野郎の話なんかまともに聞かなきゃならないんだ。まだヤニ女のほうがマシだぜ」「オカマじゃないわよ、失礼な」「もう行こうぜ。日が暮れらあ」「こんなご時世に子供を産んだのが運の尽きだ。あばよねえちゃん」カメムシ君たちはどこかへ飛んでいきました。ハチさんもそこへやって来たイモムシ君を捕まえて巣へ戻っていきました。朝顔の葉の裏はいい風がそよいでいました。カメムシ君の一人が風にあおられてコンクリートの地面に落っこちました。「おっと、いっけねえ」そこへ人間がやって来てカメムシ君を踏み潰しました。またカメムシ君の一人が足を滑らせて池の上に落っこちました。「誰か助けてくれ! 俺泳げないんだ!」当然のように助けは来ませんでした。最後に残ったカメムシ君は連中が亡くなったことを知りませんでした。朝顔の葉の裏に戻ってくると誰も居ませんでした。「どうしたんだろ、あいつら」カメムシ君は樹液を吸いながら思いました。俺は運がいい。人間に踏み潰されることもなかったし、水の上に落っこちもしなかった。子育てもしなくていい。でもなんだろな。俺はまともだ。いかれちゃいない。でもなんかしなきゃ。カメムシ君は力の限り飛び続けました。もうこれ以上ないってくらい体力を使い果たしそして土の上に落っこちて野垂れ死にました。そこに居た野花が言いました。「お、ありがてえ。肥料になりそうなやつが飛んで来た」いい風がそよいでいました。本当にいい風が。


五段目のクモ

とある日夕食を食べている最中なんだか寂しいなと思ったら母さんが居ないことに気付いた。もちろんずいぶん前からそのことには気付いていた。しかし今更のように再認識してとても残念な気分になった。そして自動的に母の残像を見ようと必死に相席でご飯をむしゃむしゃ食べる母の像を結ぼうとするが厳然と見えているのは流しの冷たく光る銀色の角だった。もう私の名前を呼んでくれる声を聞くことはない。そんなことも当然わかりきっていたが幻聴でもいいから聞こえはしないかと耳をすました。しかし聞こえてくるのは近所の雑音とパソコンのファンの音ぐらいだった。こんな生活に嫌気がさしたからと言って逃げ出す勇気もなく、また逃げ場もなく、ただただ寂しさに打ちひしがれているばかりだった。階段のちょうど下から五段目の所の隅に身重のクモが居ることもあまり関心なく通るたびに眺めていたがついにあまり考えもなく小さなゴミと一緒に掃除機で吸い取ってしまった。なんで四段目でなく五段目なんだ? と多少気にはなったがあまり動かなかったからどうせ死にかけていたんだろうと思い自分のしたことを正当化した。何日かして私は壁に痩せたクモがへばり付いているのを見た。そいつは私に話しかけてきた。「妻を知らないか? ちょうどそこの階段の五段目で待っているようにと言ったんだが姿が見えない」私は言った。「ああ、あいつなら掃除機で吸い取っちまったよ」クモは言った。「なんてことするんだ。おなかには赤ちゃんが居たんだ。大事な赤ちゃんが」私は言う。「どっちみち死にかけてたぜ」「たのむ、掃除機のふたを開けてみてくれ」「いいよ。たぶんもう手遅れだと思うけど」私は掃除機のふたを開けてみた。するとわらわらと小さなクモの子供がたくさん出てきた。思わず「ぎゃあ!」と声を上げる。「おお、子供たちよ。ありがとな正直に言ってくれて」「いや別に」家の中がてんでに騒ぐクモの子供たちで賑やかになった。やれやれ、どうすんだこれ。私はもう一度掃除機で吸ってやろうかと思ったがやめておいた。あの身重のクモが居たのが四段目でなく五段目だったのはまだ希望があったからなんだ。そう私が思えるようになるのはまだずっと先かもしれなかったが少なくとも今回の罪障は消え去ったと言っていいのではないだろうか。ぼんやり生きてるとうっかり悪い行いをしたことさえ気付かない。気をしっかり持とう。私はそう自分に言い聞かせた。


夏のおまじない

夏が来れば思い出す、嫌な思い出。いや、正確には不思議な体験と言ったほうがいいか。それをこれから話そう。──私は母のピンクのワンピース姿を見て「気持ち悪いからやめて」と母に言った。母は「そういうこと言ってくれていいんよ」と言った。私はただあの向かいのキチガイババアを連想させるから心からやめてほしい旨を母に訴えた。母は笑って着替えてきた。ここで突然登場する私のある意味友人。それは庭に通ずるドアの前の御影石でできた踏み石の上に居た。得体の知れない肉塊だった。それは口を動かすようにごもごもとうごめきながら私に語りかけてきた。「おい、あんちゃん。いい加減あのババアぶっ殺せや」私は軽く鼻で笑いながらいつものように返答した。「ふん、あんなババア殺す価値もない」「あはは、どっちでもいいんだったらやっちまえ。世の中やったもん勝ちだぜ」あのババアとは向かいのババアのことで母のことでは決してない。あのババアは私がキチガイと思うほど頭のおかしい人でそう思うのは数々の奇行が物語っている。私が路地を通りかかると必ず窓をガラッと開けてじろじろ見る。ガス屋さんや配達員が通りかかると自分の家に来たのでなくても必ずでかい声でマシンガントーク。その他にもいろいろあるがそれらが奇行でないとおっしゃる方もいらっしゃるだろう。別に普通だろと。しかしとっておきの出来事があった。その夏、母が脳卒中であっけなく死んだ。私は悲しみがおさまらないままスーパーで買い物をして帰ってきたところだった。路地であのババアに鉢合わせした。話しかけてくるぞ。私は身構えた。「もう慣れた?」私ははらわたが煮えくり返る思いだった。慣れるわけないだろ、キチガイ! と私は言いたかったがぐっとこらえてはいと言った。「やっぱり自炊してんの?」「たまに弁当買ってきたりします」「ふうん」ババアはそれ以上何も言わなかった。いや正確には私がそそくさと自分の家に上がり込んだからそれ以上聞かなくてよかっただけだ。あの肉塊は空になった水槽のガラス蓋の上に居た。「おい、殺したくてたまらんのだろう? やっちまえや」「私は真面目なんだ、そんなことは死んでもしない」「じゃあ、いいことを教えてやろう。包丁を持ってきてオレをぶっ刺せ。そうすりゃあのババアは必ず死ぬ」私は迷いなくその通りにした。あのババアはまだ死んでないがどっちみちいつか必ずや死ぬだろう。誰もが必ず死ぬように。


月曜の朝

月曜の朝のゴミ出しを終え鉢物に水をやろうとじょうろに水を入れ玄関を出ると案の定向かいのババアが洗濯物を干していた。絶対話しかけてくる。それは火を見るよりも明らかだった。「おはようございます」まずは挨拶で様子見か。ババアにしちゃ利口だな。こちらもおはようございますと返す。「おかあちゃんいつ死んだんだっけ?」てめえの減らず口をぶっとい釣り針とワイヤーで麻酔なしで縫いあわせてやろうか? おい待て俺の内なる声くん。絶対声に出すなよ。喉の膜を震わせて出す現象そうその声に出して言ったらどんなに気分がすっきりするかなんて考えるな。落ち着け。ババアの攻撃に屈してはならん。耐えるんだ麗しの君。「二年前です。もう三回忌が来ます」もしかして三回忌って三年目だと思ってやがるんじゃねえのか? 馬鹿が。死んだ年も数に入れるんだよ、能なし。え? 知ってるって? ずいぶん賢いな、パッパラパーのくせに。「へえ、三回忌になるん。もう慣れた?」出たぞ十八番が。母の死に慣れたかどうかを聞いて楽しいんだろうな。きっとそうだよ、何回聞きゃ理解できるのかってくらいしつこく訊いてくるもんな。適当に答えておけ、正直に言う必要はない。適当なのは“はい”のほうだ。“いいえ”なんて答えるな。あの小さくしわのない脳ミソが爆発したらことだからな。後始末のことを考えろ。ここで楽しいスイカ割りをしたらどうなるかガキでもわかるだろ。コンクリートに世にも汚ねえ染みができちまう。あれは間違いなく海でするもんだ。俺ははいと答えた。答えたくない、もうお前と口をききたくないというのを声音にのせて。そして流れる「君をのせて」。エンディングですよ司令官! よおし、全艦退避! ババアが去ったあと見るとタオルばかり干してあった。しかもばっちいしにおう。俺はその洗濯物のわずか1メートルかそこらのところに水をまいてやったことを悪いことをしたとは微塵も思わなかった。むしろ、ざまあみやがれと思った。あの生乾きのばっちくてくっさいタオルで自分の頭から出てきたスイカの汁をキレイに拭きとれよ。ここに少しでもぶちまけたらガソリンまいて焼くから。そしてそのあとあらゆる殺菌剤をまいて念入りに消毒してやる。まったくめんどくさいことをやらせるババアだぜ。お前の葬式に行く気分になったときは酒をやれの合図だと思ってまずつまみを買ってこよう。しかも健康のために徒歩で買いに行くことにするよ。


解ってる人

玄関ベルが鳴る。宅急便のようだ。注文したボトルコーヒーだろう。玄関わきの小窓を開けると小柄なおばさんが重たいから玄関を開けてくれとのこと。ま、仕方ないな。何か適当にしゃべったがもう覚えちゃいない。それよりもまただ。向かいのババアがしゃしゃり出てきて「あっついね、おばちゃん」と配達の──おそらく委託された近くのかつて金物店だった家の人だと思うが──おばさんに話しかけやがった。ボケ! カス! ボケ! カス! まるで行進曲に合わせているかのように私の頭の中ではリズムが刻まれていた。てめえが暑いと言うのを聞いたら暑いというより血がたぎるわ。てめえをティッシュペーパー並みにくしゃくしゃに丸めてそれでサッカーをしたくなる。かわいそうに下剤を飲まされてうんこくさくなった老人の仲間入りをするのはいつなんだ? 早くしろ。こっちゃ最高潮にいらいらしてんだよ。おかげで退屈な思いをしなくて済んでるがな。私をいらつかせるのは画面の向こうの取るに足らない馬鹿野郎でもないし、4日後に迫った墓地清掃というくそいまいましい行事でもない。毎月インストールさせられるセキュリティ更新プログラムでもないし、肘が当たって角の丸く折れ曲がったメモ帳でもない。櫛でとかしてない白髪頭の乱杭歯でぎょろ目で猫背でニワトリ並みのマシンガントークが得意技のババア、おまえだよ! さて、そろそろ昼飯の時間か。一刻の猶予なく台所に居ることはすなわちまた左波動を何発も撃たねばならないということを意味している。今日はしんどいからコンビニ飯にしよう。おにぎりと1日分の野菜、定番だな。ハンバーガーはどうしようか迷ってる。しかもおにぎりは今税込100円セール中だ。ああちくしょう! 私の心地いい算段の時間がババアの声で邪魔される。いいから黙れ。そんなに口を麻酔なしで縫い合わせてほしいのか? てめえがくさい息を吐きながら喉の膜を震わせたらどんな最悪な事態になるかその空っぽの頭じゃ想像できないようだな。誰かが思い知らせる必要がある。左波動がいくら威力があると言っても所詮妄想でしかない。じゃあ現実は金属バットかカッターナイフか包丁か、現代はモノがあふれかえっているから迷っちまうよ。一度ソムリエにでも頼んでみるか。ええ、でも、お高いんでしょう? かきいれどきは確かに割高だが価値はある。でも──なあに心配すんな。世の中にはモノを解ってる人というのは必ず居るはずだから。


おい、この野郎!

「おい、この野郎! 頭を地面に叩きつけられたいのか? 何度も何度も叩きつけてやろうか、汚い地面に!」俺はなんでそんな夢を見たのかわからなかった。わかるほうがおかしいがあの夢は悪夢と言っていい。飛び起きると汗だくになっていた。何日か過ぎてまた同じような夢を見た。「おい、この野郎! てめえの汚いツラをてめえの汚いケツにねじ込んでやろうか? 背骨をへし折ってなあ!」俺は飛び起きた。また汗だくになっていた。どういう状況かと言うと知らないおっさんに延々と脅されているという感覚ではっきりと映像が見えるわけではなかった。寝ているときに見る夢にしてはちょっと変わっている。そのうちあれは本当に夢なのかという疑問が湧いてきた。「おい、この野郎!」まただ。「殺すより生きたまま苦しめるほうが最高の快感だってことを知ってるよなあ? ああ、もちろん知ってるとも! てめえが泣きわめいて血反吐を吐くまで腹を蹴り続けてやる!」俺はまた汗だくで飛び起きた。だんだんエスカレートしてきている。このままでは頭がおかしくなりそうだ。しかし俺はこの状況から逃れる方法を全く知らなかった。精神科でも訪ねてみればよかったのかもしれない。本当に知らなかった。「おい、この野郎!」きた。「てめえの家の玄関の前に火のついたガラをポイ捨てしてやる! ガソリンをぶちまけた後でなあ!」俺は例によって飛び起きた。そうかわかったぞ! 俺はこの前とある家の玄関の前で仲間とたむろしてタバコを吸った。もちろんガラはその辺にポイ捨てした。あの家のおっさんだな。あのおっさんが生き霊となって俺を苦しめているに違いない。言っておくが俺はそんなことを信じるたちじゃない。でもその時はもう信じるしかなかった。苦しみから逃れたかった。俺は仲間とつるんでそのおっさんの家を訪ねた。もちろん玄関には鍵がかかっている。俺たちはこの前と同じようにタバコを吸いガラを綺麗に掃除された玄関前にポイ捨てした。俺は何かを期待していた。しかし現実では何も起こらなかった。その晩、俺ははっきりした夢を見た。おっさんが包丁を持って猛然と追いかけてくる夢だった。いつものように飛び起きた。すると足元に誰か居る気配がした。とっさに見ると夢で見た通りの包丁を持ったおっさんだった。「おい、この野郎! こんな所に居やがったのか」俺は飛び起きた。二重の夢だった。後で聞いた話だがあの家には誰も住んでいないそうだ。


ごたごた

「おい、あんたの目はどこに付いてやがるんだ? あの進入禁止のでかい看板が見えねえのか?」そうとも、言ってやる。こっちは修羅場には毎日歯磨きをするのと同じくらい慣れてる。どうせ自分だけが正しいと思ってるマヌケだろう。自分が間違いだとわからせるにはいい機会じゃないか。彼はスーパーのレジでやれいくら足りないだやれ5千円チャージだやれスタンプだとさんざん手こずらせてもらった挙げ句やっと帰路につけると思った矢先に出口で対向車とニアミスをしもうメーターの針は振り切っていた。車を降りてくる帽子をかぶった初老の男性。俺は降りねえぜ。逃げ場は確保しとかねえとな。ウィンドウを開ける。今まさに一触即発の事態が起ころうとしていた。そのとき選挙カーが爆音で通りかかった。「うるせえんだよ、バカ!」「いや、私はまだ何も言ってない」「選挙カーに言ったんだ。で? なんで入ってきた?」「車だ。私の愛車、自家用車でだ」彼はその答えにこの世のものじゃないような違和感を感じたが続けた。「ふん、このご時世に普通車かよ」「それは個人の自由だ」「じゃあ進入禁止の看板がでかでかと立ててあるにもかかわらず突っ込んでくるのも個人の自由か?」「そんなことは言ってない。私はここに来るのは初めてだったんだ。許してくれ」「まあな、土手っ腹がへこんだわけでもないしこれ以上いくら傷が増えたところで俺には効かねえ。ただ謝れ。ごめんなさいと言え」「ごめんなさい」「気に食わねえなそういうの。言えばいいとだけ思ってんだろ? もっと気持ちを込めて言え」「ごめんなさい」「ふん、あんただって無駄に歳を重ねてきたわけじゃないだろ? 世の中それで丸く収まりゃおまわりさんは要らねえんだ」「警察沙汰にするつもりか? 何の事故も起きてないのに」「そんなことは言ってない。ただ俺に支払うべき代償ってもんが必要だろって言ってんだ、けりをつけるにはなあ」「そういうことか。了解した。ちょっと待っててくれ、今持ってくるから」その男は車に戻りそして札束をつかんで持ってきた。100万? 「これでいいか?」「あ、ああ、額の大小じゃない。にしても景気いいなおっさん」「正直カネは要らないんだ。もってけ」「ありがとよ、じゃあな。二度とこっち側から入ってくんな」「ああ、わかった」彼はラッキーと思ったがやっぱり昼寝をした時に見た夢だった。正直カネは要らないだって? 言ってみてえわそんなセリフ。


迷うヒーロー

「子供は現実と想像の区別がつかないと言うが、大人のほうこそ現実を何かと勘違いしているのではないか」私は何もない虚空に向かって意識を飛ばしてみた。すると返事が返ってきた。「いいところに気付いたね。でも、もう遅いよ。あんたはその現実を何かと勘違いしてる大人になった。おめでとう」私はその言葉を返してきた何者かに少し驚いたが、よくよく意味を解釈してみると私は明らかに嘲弄されているのだ。そう思ったので言い返した。「違う。私はそこら辺に居る残高を増やすことしか頭にない連中とは違うんだ。よく言うじゃないか、少年の心を持った大人だって居るんだ。ほら、ここに」それは野卑な女がするような耳障りな笑いを発したかと思うと、また私の主張に答えた。「おまえが? ククク、だからおまえはいかれてやがるんだ。鉄格子付きの豚箱にぶち込まれてもまだわからないって言うのか? どうしようもないやつだな」私はむっとしたので言い返した。「じゃ、言わせてもらうがな、なんの脈絡もなくにやついてやがる女を見て、いかれてやがると思わなかったのは私だけだぞ。誓ってもいい。私は性善説派なんだ」それはまたいやな笑い声を出した。「アハハ、そうかもしれないが礼節を知らないのはどうしようもねえな」「れいせつ?」「返事をされたら、礼を言うもんだろうが。おまえはもう道化でもやらなきゃ、見向きもされない、しょうもない野郎なんだぜ。そのことをわかっているのか?」私はいちいち頭にきた。「てめえ、いい気になりやがって」「ほら、それだ。やっぱり、おまえには無理だな。世界を変えてもらおうなんて考えたオレが悪かったんだ。忘れてくれ」「ちょ、ちょっと待って、世界を変えるだって?」「そうだ。おまえはもともと気の弱いやつだったからな。やっぱり無理だわ」私はそう言われて引き下がるようなやつではない。「よおし、そこまで言うならやってやるよ。まず何をすればいい?」「そうか、やる気になったか。そうだな、じゃあ、まず変身しろ」「なんだって? そんなことできるわけ──」「これが変身ベルトだ」目の前にそれらしきものが現れ、かくして私は世界を変えるヒーローになった。──と思ったが、やっぱり残業あがりの終電の中で見た夢だった。何回同じような夢を見たことか。これだから大人はくだらない現実の中で生きるハメになるんだよう。夢のバカ! と思ったが、本当に勘違いなんだろうか?


これらの物語はフィクションです。
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