3時間前 暴風雨のはじまり
2時間30分前 ガラスの割れる音
2時間前 何かが倒れる音
1時間30分前 足音
1時間前 壁に掛かった絵
30分前 絵の中の住人
15分前 あいつが来る
10分前 マラソン
1分前 そして、その時が
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登場人物


あいつ


3時間前 暴風雨のはじまり

 この地方を嵐が通り過ぎるのは、何もこれが初めてじゃない。
 嵐が来ると必ず何人か人が死ぬ。誰も自分がこの嵐によって死ぬことになろうとは、夢にも思っていないと言えば、私の場合、それは狂言としか言いようがない。私はいつも不安にさいなまれている。とくに、嵐が来た夜には。
 私は一人で──妻が先立って、もう五年が経つ。子供たちはすでに自立し、遠くの街で働いている──夕食を済ませたあと、皿を洗い、風呂に入り、精神安定剤を飲み、早々と床につくことにした。嵐の夜には意識を別の次元に預けて、ひどい現実を認識しないようにするのが一番だ。しかし、老いぼれてもなお、意識の力が強いのには自信がある。家の外に人が来たことは呼び鈴が鳴らなくてもわかるし、朝、夢心地のときに電話が一回鳴ったことも憶えているし、テレビがいかれていて、ときどきぷっつり映らなくなると異常にいらいらするし、コーヒー豆が切れる前にもう一袋買っておかないと気が済まないし、寝る前には必ず歯を磨いてトイレにいかないと気が済まないし、トイレに行ったあとは必ずせっけんで手を洗わないと気が済まないし、要するに簡単に言えば、私は“神経質なたち”なのだ。それはなおそうと思っても、なおるものではない。若い頃からそうだった。
 私は種種の用事を済ませて──もちろん、歯を磨いてトイレに行った──布団に入り、目をつむった。しかし、そんなことで安々と眠れるはずがないのだ。しかも、今日は嵐の夜なのだ。次第に風が強くなり、窓ガラスに激しく雨が打ちつけている。窓ガラスが割れはしないかと思ったが、今のところなんともない。そんなことを考え始めると、ますます眠れなくなる。私は何も考えないようにつとめるが、ごうごういう風と雨の音を聴いていると、街で美人を見たときのように──この表現は老いぼれには似つかわしくないとお思いだろうが、人間の煩悩というものは死ぬまでなくならないのだ──頭がさえてくる。
 私は起き上がって、部屋の照明をつけ、グラスに水を注ぎ、一気に飲み干した。そして、またトイレに行き、出ないのを無理やりしぼりだすようにして用を足した。照明を消し、布団に入る。私はそれを何回か繰り返した。


2時間30分前 ガラスの割れる音

 それが聞こえたのは、零時をまわった頃だった。
《ガッシャーン!》
 あるいは、
《バリーン!》
 私にはそう聞こえた。要するにどこかのガラスが割れた音らしい。私は起き上がって、見に行くことにした。家の中の照明という照明をすべてつけてまわった。家は若い頃苦労しただけあって、わりと広い。ここで一応言っておくが、私は心底暗闇が怖い。死んだら明るい天国へ行けるだろうかと思うことはない。私の持論では、人は死ぬと暗闇へ帰るだけなのだ。
 私はどこかの窓ガラスが割れたのだろうと想像はしていたのだが、いや、あの音からして想像したというよりは確信したと言ったほうがいい。しかし、すべての窓ガラスを見てまわったが、鋭く尖ったガラスの破片が散乱して、そこから雨風が容赦なく入り込んでいるという光景を目にすることはなかった。東側の窓ガラスは今にも割れそうではあるが、割れてはいなかった。隣の家の窓ガラスかなとも思ったが、隣の家はここから1キロは離れている。聞こえるはずがない。他にあれと似た音を出すものと言えば、台所のグラスが何かの拍子に床に落ちてしまったくらいしか、私には考えられなかった。もちろん、台所でもそういう光景を見ることはなかった。
 私は目の前に食事を置かれて、待てと命令された犬のように、欲求が満たされないような思いをいだいたまま、寝床に戻った。あれはきっと、私の気付いていない所の窓ガラスが割れているのだろう。そう思ってしまったら眠れるはずがないのだ。私は布団に入るとじっとして目は閉じたが、頭の回路──脳内物質がやりとりされるところ──がますます円滑に働いているのを感じた。おそらく、スポーツをしたときのようにドーパミンが大量に分泌されているのだろう。さっき飲んだ薬は効き目があらわれるのに少し時間がかかるらしい。とにかく、私はじっとして目をつむり、耳をすまして嵐が出す音に聴き入っていた。


2時間前 何かが倒れる音

 次に私の神経を逆なでする──いや、円滑にすると言ったほうがいいかも──音が聞こえたのは、あのガラスの割れる音がした時から、三十分は経過していただろうか?
《カタン》
 最初はそんな音だった。木材がコンクリートの床に倒れた時のような音。
 次の瞬間。
《ガラガラガラガラガラガラ!》
 と、何かが大量に倒れたような音。
 私はさすがに目を開けた。あれは外から聞こえたのだから、明日の朝、嵐が過ぎ去ったあとに、家の普請をしたときに余った木材を立てかけていたのが、風で倒れてしまっているのを発見することになるだろうと思った。今見に行ったってどうしようもない。私はそう思って、再び目を閉じた。
暴風雨はいっこうに弱まる気配を見せない。鉄でできた波板に雨がパチパチと当たるような音が絶えず聞こえていた。私の神経はますます鋭さを増していった。


1時間30分前 足音

 しばらくすると、階段を誰かが上がってくる足音がした。前述のように、私は人の気配を察知することにかけては、もしそういう大会があれば、一、二を争うくらいの腕前なのだ。このような能力が人の役に立つのなら、私は喜んで協力するだろう。これと言って楽しみもなく、天に召されるのを──私的に言うなら、暗闇に帰るのを──待つだけになった老いぼれにとっては、そういうありもしない空想をすることが何よりも楽しい。しかし、女とカネに関するものだけは厳しく自粛せねばならない。女は妻だけと決めているし、先立たれたあともそれは変わりない。カネは使えばなくなるものだし、期待するだけバカを見るのはみなさんもよくおわかりかと思う。要するに、自分で言うのも変だが、私は真面目なのだ。世にそれを表彰する神的な機関でもあれば、私はおそらく優秀賞をいただくことになるはずだ。ご存知のように、実際にはそんなものはない。だからと言って、私はその心を蹂躙するようなことは絶対にしないつもりだ。それは別に最後が近づいたからという理由ではなく、言い換えれば、度胸がないだけだと言えよう。もっとも、そのことがこれからの短い人生にどう影響するかは、神のみぞ知るである。
 その足音は、一歩進むたびに階段をみしっと言わせる。ここでご承知おきいただきたいのは、私はそれが誰かの足音だと認識している点である。風で家がみしっと音を出すのとは、絶対に異なっていると私は認識している。その足音は寝室──お気付きと思うが、寝室は二階にある──のドアの前まで来るとぴたりと止まった。例の神経質症のせいで、ドアはちゃんと閉めてある。私は目をつむったまま、耳をすましていた。言っておくが、あくまで自然にそうしていただけである。
《ガチャ》
 そういう音がしたと思った。私がこの時点でそう思ったのは、何かを意識していたからと言えはしないだろうか? もちろん、泥棒でもなく、子供たちでもない。そう、妻の亡霊だ。こんな嵐の日に、私の居る寝室に入って来れる存在がひらめくとしたら、もはやそれしかあるまい。私はとうとうお迎えが来たのかと、少し緊張した。もちろん、この緊張は恐怖心によるものであると断言できる。
 ゆっくりとドアが開く。私は上体を起こしてそちらを見た。──誰も居ない。念のために照明をつけ、布団から出て、ドアの外を見てみた。そして、階段も。私の想像していたもの──おしなべて言われているように、足のない、白っぽくて透けたように見えるもの──は何も見えなかった。
 私は照明をつけっぱなしにすることを是認し、布団に入り、目をつむる。何が起こってもおかしくない嵐の夜なのだから、一夜分の電気代を余分に支払うことになっても、私は絶対に文句を言わないつもりだ。
 私はその一連の現象のことを頭の隅に追いやった。というのも、新たな心配事が浮上してきたからである。それは、裏山が崩れてきはしないかということだった。今までにそんなことはなかったし、兆候すらなかった。しかし、土砂崩れが起きたというニュースをひっきりなしに見たおかげで、すっかり感化されてしまったようだ。もし、土砂崩れに巻き込まれたらどうするか。しかるべきところに電話して、二階の窓からヘリコプターで救助してもらうか、あるいは土砂の海を泥だらけになって安全なところまで逃げるか、はたまた、道が通れるようになるまで籠城を決め込むか。その他には? 私はいろいろと考えをめぐらせているうちに、うとうととしてきた。これはいい兆候だ。明日の静かな朝にワープするのだ。


1時間前 壁に掛かった絵

 それが気になりだしたのは、ついうっかり目を開けてしまったときだった。
 それと言うのは、足元の方向の壁に掛けられた絵のことである。ついこの前、街でふらりと立ち寄った骨董店で、ほんの出来心で買ったものだ。もちろん、安物。なんのことはない、美しい庭に囲まれた古びた家が描かれている。どうしてこの絵が気に入ったのか、あまり憶えていない。何度も言うようだが、ほんの出来心だったのだ。
 具体的に何が気になっているのかと言うと、その古びた家の窓から、誰かがこちらの様子をうかがっているのではないかという単なる妄想がわいてきただけなのだ。しかし、単なる妄想ほど、恐ろしい現実を生み出すものはない。よくあるではないか、殺人者が言うに、他人が自分の悪口を言っているような妄想をいだいていたと。もちろん、良識あるわれらが一般人にとって、そのような悪い妄想は悪いものだと認識できる、はずだ。そのような妄想に従って、ことを起こすのはいつもいかれた野郎に決まっている。
 今まさに私は、いかれた野郎の仲間になろうとしているのではないか? 私はその絵を壁からはずして、見えないように裏返しにしておきたい衝動にかられた。何か視線を感じるのだ。そんなことで、布団から出るのはばかばかしいとは思うのだが、どうも気になってしかたない。私は布団を頭にかぶせて、その視線から逃げようとした。悪いことに、老眼になったおかげで、近視はかなり回復していた。それに、照明をつけっぱなしにしたせいで余計によく見える。絵を見て、布団をかぶるという動作を私は年甲斐もなく何回か繰り返した。


30分前 絵の中の住人

 ついに幻聴が聞こえてきた。最初それは、しごくかぼそいものだったが、次第に何を言っているのかはっきりと聞こえるようになったときには、心臓が跳び出るかと思ったくらいだ。それは私を呼ぶ、妻の声だったからだ。
「あなた。あなた。こっちへいらっしゃい。食事の用意ができたわよ」
「全知全能なる神よ、慈悲深き仏様よ、もし、いらっしゃるなら、我が魂を鎮めたまえ!」
 私はいよいよドーパミンの分泌が最高レベルに達したのだと思った。
「あなた、何言ってるの? さあ、こっちへいらっしゃい」
「おまえは死んだはずだ! 成仏しろ!」
「あなた、私はあなたに会いに来ただけよ。一緒に食事をしましょう」
「私を迎えに来たんじゃないのか?」
「そんなバカなこと、しないわよ。私はあなたと食事を楽しみたいだけなの。最後の食事は、病院の保健食だったわね。あれはほんとにいやだったわ。あなたとまともな食事をするだけでいいの。そしたら、また暗闇に戻るわ。あそこは病院以上に居心地が悪いの。でも、いいの。あなたと最後の晩餐を過ごすだけで」
「おまえ──」
 私は妻の魂がとても不憫に思えてきた。生前だって、彼女が幸せだったとは思えない。苦労ばかりかけていた。──私は布団から出て、絵の前に立った。
「触れてみて」
「ああ」
 私は言われるがまま、その美しい庭に囲まれた古びた家が描かれている絵に触れた。


 気がつくと、そこは天気のよい世界で、私は手入れの行き届いた庭の中にたたずんでいた。ハーブか何かの花が咲いて、蝶がその上で追いかけっこしている。どこかで鳥がさえずっている。
「あなた──」
振り向くと、その古びた家の戸口に妻が立っていた。
「おまえ──」
「さ、おいしいシチューができてるわよ。あなたの好きなサバの塩焼きもあるし、おつくりに天ぷら、唐揚げ、それにトンカツ、炊きたての白いご飯もある。デザートは何がいいかしら。リンゴにメロンにモモにブドウに、とにかくいろいろあるわよ」妻が言う──正確には妻の亡霊が。
 私はそう言えばさっきからいいにおいがしているのに気がついた。私の先ほどからの恐怖心からくる緊張は一気に解けてしまった。私は導かれるまま家の中に入った。テーブルの上には所狭しとごちそうが並んでいた。私はにやついて──これは卑しいにやつきではなく、うれしいあまりに自然に顔がゆるんだものだ。え? それが卑しいだって?──妻に言った。
「おいしそうだね」
「もちろん、おいしいわよ。さあ、座って。いただきましょう」
「おまえがつくったのかい?」私は椅子に座ってはしを取りながら言う。
「そうよ。すごいでしょ?」
「そう言えば、いつもおいしいご飯をつくってくれてたよな」私は思いのままにごちそうをつまんでいった。「おまえには感謝しているよ。ありがとう」
「まあ、あなたが私にそんなこと言うなんて、どこか具合でも悪いのかしら?」妻もごちそうをつまみながら言う。
 私たちは談笑しながら、食事を楽しんだ。こんなひとときを味わったのは何年ぶりだろうか? 妻と結婚して本当によかった。二人で暮らすというのは何物にもかえがたい幸せだ。──もちろん、私はこれは私の見ている夢なのだろうと思った。ということは、首尾よく眠れているってことだ。私は存分にこの夢を楽しむことにした。


15分前 あいつが来る

 私は満腹になっていた。腹が満たされることは人間にとって、いや、生き物すべてにとって、どんなに重要なことか。私は十分にこの夢を堪能した気になっていた。そして、妻と何年ぶりかで意思の疎通ができたことが──もちろん、これは私の記憶が作り出したものだと思うが──とてもうれしかった。いや、こんなにたくさん妻と会話したのは、正直言ってあまり記憶にないのだ。
 妻は楽しそうに私と会話していたが、突然、暗い顔になって言う。
「あの、あのね。実はあなたに知らせたいことがあるの。本当の目的はそれを知らせるためだと言ってもいいくらい、とても重要なことなの」
 私はいい気になってにやついたまま尋ねる。
「なんだい、それは?」
「今日、あいつが来るの」
「あいつ? あいつって誰だい?」
「──死神」
「!」
 私はもう少しで、飲んでいるお茶をふき出してしまうところだった。ごくりとやって、妻に問い返す。
「死神、だって?」
「そうよ。もうすぐ来るわ、あなたのところに」
「お迎えってわけかい?」
「あたし、あなたにはまだ来てほしくないの。あの世界の真実をあなたが知るまでは、暗闇に帰ってはだめ」
「あの世界の真実?──それだったら、もう知ってるよ。心の薄汚い連中がのさばっているってのが真実だろ?」
「あなたは誤解してるのよ。あなたが心の薄汚い連中と思っている人たちが、あなたのことを誤解しているのと同じようにね。そのからまった鎖は、誰かが解かないといけない」
「その誰かが、私だって言うのかい? 死が近い老いぼれに何を期待しているんだ? まだ若いって言うんなら別だが。誤解したまま死んだって、誰も文句は言わないだろう?」
「あたしが文句を言うわ」
「おまえが?」
「あたしはあなたが誤解したまま暗闇に帰るなんてことは、絶対に許しませんから」
「・・・・・・」
 私はちょっと黙ってしまった。妻の生前に妻の言うとおりにしたことはたしか一度もない。私は、わがままばかり言っていた。もし、今、妻の言うとおりにすることが本当の意味で供養になるなら、してやろうじゃないか。私はそう思った。
「──わかった。どうすればいい?」
「西の草原のはてにある、真実の結晶をあなたの身代わりにその死神に渡すの」
「真実の結晶? なんだいそれは?」
「行けばわかるわ。それを死神に渡して、元の世界に戻ったら、あたしはあなたの誤解を解く手助けをしてあげるわ」
「手助け? それはいったい──」
 そのとき、私は妖気を感じた。前にも言ったとおり、気配を察知するのはお手のものなのだ。
「もう、来たようね。あなた、急いで。西の草原のはてにある、真実の結晶を死神に渡すのよ。それまで絶対につかまってはだめ。さ、行って!」
 私は家の外に出た。見ると、東の空に黒雲がもくもくとわいて、こちらに向かってきている。あれが死神だ。私は庭をぬけて、西の草原へ躍り出た。


10分前 マラソン

 まったくこの歳になって、マラソンをするはめになろうとは夢にも思っていなかった。しかも、食べた直後に。マラソンと言えば、いい思い出はまったくない。学生のとき、体育の時間がいやでいやでしかたなかった。いつも決まって横腹が痛くなって、リタイアすることになるのだから。あんなに苦しい思いをするのはもうたくさんだ。しかし今私は、うしろの人に追いつかれはしないかという、強迫観念にさいなまれながら、早足で先を急いでいた。正確に言えば、うしろの人というのは死神だ。だから、ちょっと状況は違ってくる。かたくなった足腰を動かすのだから、早足が限界だった。私はひいひい言いながら走った。走っているつもりだった。学生のとき以上に苦しい。まあ、それは当然だろう。なにせもう歳なのだから。
 うしろを振り向くと、映画か何かで見たとおりの、黒ずくめで、大きなカマを持った死神がすぐそこに悠然と迫ってきていた。夢は記憶がでたらめに結びついて見えるものだそうだが、これはでたらめと言えるのか? 私はうめき声をもらし、また前を向いて走り出す。ご多聞にもれず、例によって横腹が痛くなってきた。だが、学生のときのようにリタイアするわけにはいかない。妻と約束したのだから。生きて、私がいだいている世界への誤解を解くと。
 そのとき、その死神が何かを言ったように聞こえた。私は足を止めない。
〈おまえは、なぜ人を憎んでいるのだ?〉
 そう聞こえた。私は大声で答える。
「憎んでない!」
〈たしかに人間は、憎むべき存在だ。そう思わないか?〉
「思わない!」
 私は自分でもよくこの問いに答える気力が残っているなと感心した。
〈おまえは憎まれているのだよ〉
「そんなことはない!」
〈だから、憎み返して当然なのだ。そう思わないか?〉
「思わない!」
〈それは困るな。ワタシの仕事がなくなるではないか〉
「そりゃあ、いいきみだな! おまえみたいなやつは一生暗闇の中で泣いていればいいんだ!」
〈おまえの妻のようにか?〉
「!」
〈おまえの妻はずっと暗闇で泣いている。それこそ、いいきみだな〉
「私の妻を侮辱するな!」
 私は前方にあずまやのような建物が見えてきて、その中心に鋭い光を放つものがあることに気付いた。あれが真実の結晶か?


1分前 そして、その時が

 私は死にもの狂いで──そう、これこそまさにそう表現するにふさわしい──、そのあずまやにたどり着いた。そして、その中心で光り輝いている“真実の結晶”を手に取った。そして、それを死神に向かって、なけなしの力で思いっきり投げつけた。それは死神の体の中に吸収されたように見えた。そのとたん、私は恐ろしいほどの疲労を感じて気を失ってしまったようだ。


 気がつくと、私は病院の象牙色の天井にある二列の蛍光灯を凝視していることを認識した。ベッドの横には息子たちがたたずんでいた。どうしたんだ? 私は尋ねた。長男の話によると、あの嵐の夜に裏山が大規模に崩れて、私は生き埋めになったそうだが、誰かが通報したおかげで救助が間に合って、今こうして病院のベッドの上に居るということだった。救助隊の一人が言うには、顔の前にあの絵が覆いかぶさっていて、その隙間があったから助かったのだということだ。誰が通報したのかは、わかっていない。


 だが、私はたしかに妻から、世界への誤解を解くためのチャンスをもらったのだと、今は思っている。そして、これからの短い人生のあいだにきっと、妻の喜びが、私のやすらぎであることに気づくだろう。
この物語はフィクションです。
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