風景1 本当のプロローグ
風景2 閉鎖空間の静かな場所で
風景3 将棋大会とサメの歯の標本
風景4 夏休みに鉱山へ
風景5 鉱石の由来
風景6 タイム・クラッシュ
風景7 勇気
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登場人物
僕(M) / S / N / Q / B先生 / G / T / 上級生 / コパ / J / Y / オズラン / K / F先生


風景1 本当のプロローグ


僕はあなたの悩みを知らない。
でも、僕はあなたのことが好きだ。
あなたのことを思っていると、雨が降っていても、寒くても、平気だ。
だからといって僕はあなたに何も望まない。
ただ、いつもどこかで笑っていてほしい。
僕はどこにいてもあなたが同じ時空に存在していると感じることができる。
僕はそれだけでいい。
でも、いけないことだと思いながらもどうしても伝えたい。
僕はいつもあなたの味方だということを。


「おい、みんな、こいつラブレターなんか書いてるぜ」
いじめっ子Sのその一言で、いじめられっ子Nの机の周りに野次馬がわらわらと集まってきた。
「ラブレターじゃないよ」Nは恥ずかしそうに赤面して言う。
「じゃあ、なんなんだよ? 誰にあてて書いたんだよ?」Sが問い詰める。
「──宇宙人」とN。
「は? 宇宙人? おまえとうとう気が狂ったのか? 宇宙人ってのはなあQみたいなやつのことを言うんだよ」
野次馬のなかのQは何も言わず一笑する。女子も数人ひそひそと笑っている。
僕は自分の席に座って社会の教科書をひろげ、勉強しているふりをして一連の状況を見守っていた。みんなからは真面目と思われているから、それはいつもの僕のパターンだった。あるいは机に伏せて寝たふりをするかのどちらかだ。でも今はもうそんな自分に嫌気がさしていた。そう、”あんなこと”が起こらなかったら、僕はいつもの僕のままだったかもしれない。
SはNの頭を叩いたり、首をはがいじめにしたりして、誰にあてて書いたラブレターなのかをしつこく、いや、もうそんなことはどうでもよく、ただプロレス技の標的にしていた。Nは椅子から転げ落ち、なおもSは攻撃する。みんなはいつものことだと見て見ぬふり。
「やめろ!」僕は突然椅子から立ち上がりリングに上がった気分でSを思いっきり押し飛ばしてそう叫んだ。
「M、てめえ!」
Sの攻撃対象は僕になり、僕は鼻に何かが当たって涙が出たところまでは憶えてる。そこへB先生がやってきて、何事もなかったかのように授業が始まった。
いつもなら、「やめろ!」から、ここまでは僕の妄想でしかない。僕は、NがSにいじめられているのをだまって見ている気にはなれなかった。それはきっと、何かが僕のなかで変わったからなんだ。さっき言った、そのキッカケらしき”あんなこと”の全貌を、これから、みなさんにお話しします。


風景2 閉鎖空間の静かな場所で

「M? 何してんだ、こんなとこで?」
そいつはGだった。
「いや、別に」僕はビクッとして箸を止め適当に答えた。
「弁当かあ。どっから入ったんだよ」
「下」
「ああ、ここか。先生が閉め忘れたんだな」
「いつも開いてる」
 Gは僕がなぜうっとうしい教室ではなく、誰も居ない理科準備室で一人で弁当を食べているのかを訊(き)かない。
「それにしても、おまえなんで科学部に入らなかったんだ? 今からでも遅くないぜ」
 僕は弁当をやけになって口のなかに放り込む。そして、もぐもぐやりながら答える。
「いいんだ」
「おまえは真面目なんだから陸上部より科学部のほうが絶対似合ってるって。それに毎回おもしろいぜ。このまえなんかウシガエルの解剖やったし、今度は鉱石ラジオっていうの作るんだ。なあ、転部届け出せよ」
「いいんだって。たしかに陸上部おもしろくないよ。でも最初に決めたんだから、今更変えられないだろう?」
「なんで陸上部にしたんだ?」
「約束したんだよ」
「何を?」
「文化部じゃなくて運動部に入るって」
「誰と約束したんだ?」
 僕は一瞬言うのをためらった。
「──その、母さんと」
「アホかおまえ。マザコンじゃあるまいし。それとも実は?」
「違うよ。とにかくこれから部活だから、じゃ」
 僕は空の弁当箱をきっちりと布の包みで包んでしっかり結び、そそくさと理科準備室の下の扉から出た。危うくなったら逃げる、これが一番だ。


土曜の午後の校庭に出ると体育館の前で人だかりができている。見ると上級生が下級生を殴ったり、膝蹴りを入れたりしている最中だった。その下級生というのがよりによって知的障害を持つ陸上部の後輩だった。しかも僕はいつもそのTと一緒に走ったりしていた。いわば、相棒のようなやつだった。
「おまえ、むかつくんだよ」とか言いながらその上級生は思いっきり容赦なく攻撃している。
 僕はもちろんこの上級生に腹が立った。無抵抗の下級生に、しかも障害があるというのに。Tはそのせいで同級生からもよくからかわれていた。アホな言葉を繰り返して言ったりするのでみんなはそれがおもしろいらしい。僕も陰で何回かからかってみたことがある。考えてみればそれが一番陰湿かもしれない。とにかく僕にとってTはクラブの後輩で相棒みたいなやつなんだ。
 野次馬連中のなかの一人でしかない僕は、この上級生にくってかかりたい衝動にかられたが、実際には見て見ぬふりで通り過ぎた。『世界を受け入れ、悪を正せ』とは、かのアマディス・ディ・ガウラの言葉だと社会の時間に先生が言ってたけど、世界を受け入れるのは簡単でも悪を正すのは難しい気がした。いや、僕は世界を受け入れることすらできていないのかもしれない。この学校という閉鎖空間で起こることは、僕にとってすべてのはずなのに。それは学校に居ようが家に帰ろうが同じことだった。
 僕は悪を悪と認識するが、それを公然と正そうとは思わない。それが今の僕だ。
 その日も普通に陸上部の日課をこなして、普通に家に帰るだけだと思っていた。


 僕は今は徒歩で家に帰っている。というのも、父さんと母さんが離婚したおかげで学校の近くに引っ越したからだった。父さんと母さんが離婚したのは残念なことだけど、父さんの酒乱ぶりでは仕方のないことだと思っている。そういうことなどを考えながらの帰り道、後ろから誰かが僕の名前を呼ぶ声がした。
「Mくーん!」その女子は僕のところまで走ってきて言う。「途中までだけど一緒に帰ろ」
 その女子は見たことがない人だった。下級生かな?
「誰?」
「誰って、なにそれ? 新しいギャグ? それとも頭でも打った?」
「いや、ほんとに」
「同じクラスの人を知らないっていうことは、私ってそうとう影が薄いってこと?」
「ほんと誰だっけ」
 僕ははっきり言って無視して一人で帰りたかった。話をするのは苦手なのにしかも女子とつるんで帰るだなんて。
「コパ」
「なにそれ?」
「コパ、だけど」
「ああ、あだ名か」
「まあね」
僕はどうでもいいと思いながら歩き出す。コパか。そんな女子が同じクラスに居たっけ? 転校生かなとも思った。本当に今までに見たことも会ったこともなかった。
「ところでさ、どうしてT君を助けてあげなかったの?」
 僕はギクッとした。
「見てたの?」
「うん。M君のことならなんだって知ってる」
「え、なんで?」
「なんでって、好きだからじゃない?」
「好きって、何が?」
「それはいいんだけど、M君だったら絶対勝てたと思うよ、鍛えてるんだから」
「勝ち負けの問題かな。もし勝ったとしても、そのことを誰かが先生にちくって、先生が親にちくって問題はどんどん大きくなるんだ」
「T君を助けたいって思ったんじゃないの?」
「助けたいっていうか、あの上級生に腹が立っただけだよ」
「でもそうやっていつも何もしないんだね。『やめろ!』すら言えないんだね」
 僕たちはそれから沈黙したまま分かれ道まで来た。
「じゃあ、また月曜日ね」そう言うとそのコパというあだ名の女子は帰っていった。
 なんなんだ、あいつ。という感想を抱いたまま、僕は家に帰った。


家に帰ると犬のボンの散歩。晩飯。風呂。寝る。


風景3 将棋大会とサメの歯の標本

 昼休憩は一番端にある会議室の前の廊下で、仲のいいやつらが集まって、将棋大会が開催される。時には小額のカネをかける。もちろん、先生には内緒で。そうしないとおもしろみにかけるのだ。勝負をするには、何かをかけないと。と言っても、僕らはいわゆる不良グループとは違う。多少差はあるが、みんなユーモアのセンスのあるおもしろいやつばかりだ。
「はい、おまえの負け!」と、将棋のうまいJが言う。ちなみに剣道部。
「くそ」
「いさぎよく、10円よこしな」
「はいはい」僕はしぶしぶ10円をわたす。
「次はどいつだ?」
「わしがやる」と、しゃしゃり出たのは体格のがっちりしたサッカー部のYだった。
 そこで、昼休憩の終わりを告げるチャイムが鳴る。続きはまた明日、とJは言って、僕らは次の理科の授業を受けるために、理科室へ急ぐ。


 理科の授業は滞りなく、終わりを迎える。唯一腹が立ったのは、B先生がみんなにまわして観察させた紫水晶の標本を、Sが割って着服したのを見たときだった。見たからって、僕がSにそんなことをするなと言えるはずがない。
「水族館に行ったおみやげで、サメの歯の標本をいくつか買ってきました。欲しい人は職員室まで来てください」と、B先生が言う。


 もちろん、僕はそのサメの歯の標本をもらいに行った。それは歯と言うより、アゴと言ったほうがいい。アゴの骨と無数の小さな鋭い歯。よく見ると、授業で先生が言ったとおり、前列の歯が抜けても次の歯がすでに控えていて、獲物にかみついて抜けると、次の歯が前列に出てくるわけだ。僕はこのサメの歯の標本──アゴの骨と言ったほうがいい──を大人になってもずっと所有し続けることになろうとは、夢にも思っていなかった。要するに抽斗(ひきだし)に入れたまま、ずっと忘れていただけのことなのだが。


 僕は教室の窓から、雲間から一条の、いや、何条もの光が地上にそそいでいるのを見た。だからって別に、虹のたもとに理想郷があるという逸話のように、そこに何かがあるってわけじゃないだろう。僕はそのときそう思っていた。


風景4 夏休みに鉱山へ

 ひょんなことからそれが決まったのは、ある意味、宿命的だったとも言える。メンバーは提案者のB先生、いじめられっ子のN、それから科学部のG、もちろん僕を含む、というものだった。先生の大型車は新車をキャッシュで一括払いで買ったという話をきいた。かなり、無理をされたのではないだろうか? ま、いいか。
 なんでこのメンバーかと言うと、いつも不良グループにいじめられているNを慰めるためという理由があったのではないかと、あとで勘ぐった。しかしまあ、僕は石に興味がないわけではない、って言うか、おおいに興味があった。他のやつらも僕と同様だったかと言えば、ちょっと疑わしい。


 その鉱山は山の斜面にあり、ズリと呼ばれるたくさんの捨て石の海がその斜面を覆っていた。目的の鉱石はそのなかから探すわけだ。昔ここは銅を目的に採掘されていたので、酸化して青くなった石がたくさん転がっていた。
「こんなのだよ」とB先生がハンマーで割った茶色っぽい鉱石を手に取って言う。
 僕らはハンマーで石を割り、出てきたなんの変哲もない茶色っぽい石をたくさん拾ったが、おもしろくもなんともない。みんなも口数が少なかった。それはそうかもな。
 昼時になったのか、きりが良かったのか、先生が飯にしようと言って、先生の奥さんが作ったであろうおにぎりをみんなで食べた。昆布、しゃけ、梅干、たらこ、といった具。


 まあ、それなりに楽しかった。みんなで同じ時間を共有したということが。
 あの茶色っぽい鉱石は、いくつかは家に持って帰り、他の大多数は理科室の一隅に山積みにされた。そして、夏は何事もなく過ぎ去った。


風景5 鉱石の由来

 かつて、そこには巨大な精錬所があった。抗口から坑道に入り、採掘した鉱石をトロッコにのせ、選鉱所へ運ぶ。詰め所では、ほこりと汗にまみれた男たちが、弁当を食べたり、タバコを吸ったりして、休憩をとった。精錬所の煙突からは亜硫酸ガスがたえまなく風に乗り、周囲の山をはげ山にしてしまっていた。河川には鉱毒が流れ、流域の住民に不安をもたらした。【死の山】と呼ばれたのは、偶然ではあるまい。精錬した銅──あかがね──は、御用銅としておかみに献上された。それを運ぶために鉱山鉄道、もしくは渓谷鉄道なる路線が敷かれ、このあたり一帯はつかの間のにぎわいを見せていた。
 そこで働く者のなかに、紅一点、オズランという異国の女がいた。オズランは男に負けず劣らずたくましく、男まさりの姉御肌で、仕事仲間の男たちを圧倒していた。
 その落盤事故が起こったのは、そのオズランの活躍していた、もっとも栄えていた時代のことである。オズランは坑道に残された仲間を助けるべく、当時もっとも危険だと言われていた一番露頭の坑道へ入った。
「仲間を助けに行く」
それがオズランを見た最後だった。抗口付近に、オズランがいつも身につけていたサメの歯のお守りがむなしく落ちているのが発見されただけだった。
その後、その一番露頭を再採掘した際に採れた銅を『オズランの銅』と呼んで、人々はその鉱石を友愛のあかしとして大切に扱ったという。


僕はその本を放り投げて──ご承知のように、実際に投げたのではありません──、大あくびをぶっこき、まわりを見まわした。なんでもない図書室の風景。
「おまえ何読んでんだよ。『恋愛について』だって!」
 Sはそう言って、K──ちょっと太りぎみの、おもしろいやつ──の読んでいた本を取り上げた。
「いいじゃないかよ」そう言うKの顔は真っ赤だ。
 Sたち──この学校の真面目君諸氏を脅かす不良グループ──は、この図書室に人をからかうためにしかやって来ない。第一やつらが本を読むなどという高尚な行為を、まるで便所虫が便のなかを這うくらいにしか考えていないだろうことは、手に取るようにわかった。
 もちろん、僕はKを助けたりしない。すれば損をするだけとしか僕は思わなかった。僕はそそくさと図書室をあとにした。


 その日、部活──僕は曲がりなりにも陸上部部員である──の大会を僕がボイコットした件で、顧問の先生に職員室に呼ばれた。最近、僕は本当に心底部活がいやだった。足の速さがビリから二番目くらいなのに、なんで短距離走を専攻しているんだよ。第一、人間関係もうまくいっていない。陸上部のなかには心をゆるせる友達が居ないのだ。仲のいいやつは剣道部だったり、サッカー部だったり、野球部だったり、科学部だったりする。この陸上部で仲がいいやつをしいて挙げれば、あの知的障害のある後輩のTくらいなのだから。Tをバカにしてるわけじゃない。僕が心から言いたいことは、すべては『運が悪いだけ』ということだ。僕の足が遅いことも。陸上部のなかに心の友が居ないのも。いじめっ子にやめろと言えないのも。そして、Tが知的障害者になってしまったということでさえも。
 僕は職員室で顧問のF先生にしぼられ、ぶざまに涙まで流すはめになった。それでも僕は、あの日は親戚の法事があったのだとかなんとか言い訳をした。涙のワケは、そういううそをついたということよりも、そもそもなぜ僕が陸上部を選んだのかという自問に答えることができないでいるのを我ながら情けなく思ってのことだろう。とにかく僕は、ぶざまに涙を流してしまったのだ。


 部活の時間をいやな気分で過ごした僕は──正直に言えば、いやな気分なのはその日だけではない。ほとんど毎日と言っていい──また、帰り道にたしかそう、コパというあだ名の女子とつるんで帰ることになった。
「いいかげん、おまえの名前教えてよ」
「おまえって言わないでよ、まだ夫婦じゃないんだから」
「まだ? それってどういう──」
「それより、夏休みに鉱山に行ったんでしょ?」
「ああ、行ったよ」
「採った石、見せてよ」
「あれなら理科室に山積みになってただろ?」
「お願い、今すぐ見たいの」
「僕のうちにもあるけど──女子をうちに呼ぶのは気が進まないな。って言うか、うちには来ないでくれ」僕は不良連中に笑い者にされている絵を想像して言った。
「じゃあ、理科室に行きましょ」
「え? 今から引き返して?」
「うん」
「冗談きついな。そんなに今すぐ見たいんなら、おまえ、いや、コパちゃん一人だけで行ってちょうだいね」僕は冗談混じりに言う。僕のユーモアのセンスは中級といったところか。可もなく、不可もない。要するにフツーってこと。


 何かが動き始めたとするなら、あの鉱石を拾ってきた時点だろうか? いや、もっともっと僕が生まれる以前からかもしれない。
 結局、僕はコパ──なぞの女子──と一緒に放課後の理科室へ行くことになった。あたりはもう薄暗くなってきており、校門が閉まっているかもしれないという予感は的中しなかった。先生たちもまだ幾人か職員室に居た。僕らは忘れ物をしたのだとかなんとかうそをついて、理科室の鍵をゲットした。そのとき、気付くべきだったかもしれない。先生たちにコパが見えていないということを。
 理科室のドアを開けると、例の鉱石がぼんやりと赤い光を放っていることに気付いた。僕らはその鉱石の山に近づいた。
「なんだこの光は?」僕は言う。
「私に反応しているのよ」
「反応? どういう──」
「これが、友愛のあかし、オズランの銅よ」
「へ? おまえも読んだのか、あの本? 考えすぎだって、第一──」
「石の精よ、われを闇の底から救いたまえ!」
 コパがこの山積みにされた石に向かって、そう言ったと思うと、石たちはひときわ明るく輝きだし、天井はぐるぐると回りだした。たちくらみかなとも思ったがどうやらそうではないらしい。
「おまえ、いったい何を──」
「ふふふ、帰るのよ」
「帰るってどこへ?」
「あの輝かしい時代に」
「わけわからんが、とにかくやめてくれ、僕は今のままでいいんだから」
「不良たちも居なくなるし、部活で苦しむこともないし、あの子の呪いも解ける」
「あの子って──Tか?」
「ふふふ、あははははははは!」


風景6 タイム・クラッシュ

 僕は怖くなって、全速力で理科室を出た。あたりは昼間のように明るく、ホームルームのほうから、まるで死の間際の人間が僕を呼ぶような声がした気がした。僕はホームルームヘ行ってみた。そこには幽霊のように──誰が幽霊かは、ご賢察のとおりです──クラスのみんなが席についていた。そして、視線は壇上に居るB先生のほうを向いている。しかし、そこに来た僕をみんなは見ない。声をかけてみるが反応がない。体が金縛りのようにこりかたまっている。そして、そのなかに僕も居た。これは、どういうことなんだろう? そのとき、僕の頭にある思考が浮かんだ。
《歯が白いのは一人です》
 それはいつか夢で見たことが今僕の思考にリンクしているのだった。なんだそれは? 僕は直感的に思いついた。白い歯、つまりサメの歯の標本をこの学校内で持っているのはB先生ただ一人。
 僕は小走りで職員室に向かった。
 職員室でも同じように、先生たちはこりかたまっていた。
 僕はB先生の机の抽斗(ひきだし)を開けた。そこには売れ残ったサメの歯の標本──しつこいようだが、アゴの骨と言ったほうがいいかもしれない──が、二つほどあった。僕はその一つを取ると、急いで理科室に向かった。このとき、何かに勘付いていなかったと言えば、うそかもしれない。
 コパはにやにやしながら、まだそこに居た。
「ねえ、いいでしょう? あなただって、あんなに苦しんでいたんだから」
「僕は苦しいこともあるけど、おもしろいやつらに囲まれてる。それだけで僕は救われているんだよ。僕は何も望まない。でも、かけがえのない動き出した時間を奪われるのはごめんだ。お願いだ、おまえの、いや、コパの居るべき所へ帰ってくれ」僕は言う。
「それは? それは私のお守りじゃないの。みつけてくれたんだね」
「いや、これはその、──なんでこれ持ってきたんだろ」
「かして」
 コパはそのサメの歯の標本を手にとり、どこから出したのかネックレスのチェーンみたいなものを手品のようにそれに付けたと思うと、首にかける。
「ありがとう。お礼に私の強い心をあなたにあげる。それでいいでしょ?」
「それはいいけど、時間は元に戻してくれるんだろうね?」
「ええ、もちろん。さ、私の手を握って」
「うん」
 僕はコパと右手どうしで約束の握手をした。言っておくが、僕が女子の手を握るなんてことはよっぽどのことなのだ。
 そのとき突然、窓が開いていないのになぜか理科室のなかを突風がかけぬけていき、あの鉱石の光もマックスに達したように見えた。


風景7 勇気

「M! M! 起きろ!」
 B先生の声で気がついた僕は、ホームルームの自分の席で、腕を枕にいつもの居眠りをしていたことを認識した。
「へ! マジメ野郎が」いじめっ子Sの野次。
「すみません先生」僕は先生に言う。
 B先生は何事もなかったかのように、朝のあいさつをする。
 僕は教室を見回すが、あのコパというあだ名のなぞの女子は居なかった。やっぱり別のクラスか、別の学年の女子なのだろうと思った。


──でも、あれって、コパがオズランの亡霊だったってことかな?


今日、僕はちょっといい気分で部活をしている。あれ以来、あの知的障害のあるTがまともな口をきくようになったのは気のせいだろうか? それに、僕もたしかに何かが変わった。いじめっ子Sに何を言われても動じないし、もしも、TやNとかがいじめられていたら、絶対助けてやるんだ。そう思うようになったのは、コパ(オズラン?)に強い心をもらったからなのだろうか? そのへんのことは、みなさんのご想像におまかせします。
この物語はフィクションです。
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