プロローグ
ドリーム1 邂逅
ドリーム2 仕事
ドリーム3 旅行
ドリーム4 鉱石
ドリーム5 戦闘
ドリーム6 教授
ドリーム7 遺跡
ドリーム8 深淵
エピローグ
目次タイトルをクリックで移動します。
   
登場人物(人以外の存在も含む)
僕(遠い昔の青年) / 僕(未来の青年 = パロット) / 白髪の青年 / シロカミさん / 業者さん(白髪の老人) / メラ / ロンチャ / ジェミー / ポーさん / リナ / ばあちゃん / 石の妖精さま / ボルトン / 絶望 / それ(次元の狭間の住人) / クロロ / サンドロ / クヌート・クレーベ教授 / 小売店の店長 / 遺跡の作業員 / ティオ / 飲食店の主人 / ボロを着た少年 / 邪悪な王 / 深淵からの声 / 思念 / 先生


プロローグ

僕は今まで、何をしてきたのだろう?
記憶の中に“それ”はなく、現実だけが僕を追いかけてくる。
それでも僕は、“本当に正しいこと”を探していた。
終わることのない繰り返しの中で...。

僕は、何に怯え、何から逃げ、そして何を愛したのか?
深い眠りについた“時”は語ってくれない。
そして、僕もまた眠りにつく。
夢のつづきを見るために...。


ドリーム1 邂逅(かいこう)

 僕は寒いと憂鬱になる。でも今は、暑くて憂鬱な気分だ。人は当人の聞こえないところでは、ろくでもない野卑なことを言いあって、他人をそしるのが大好きなのさ。そうさ、今すれちがっていく人たちもみんな、そういう素質を持っている。若者らしい格好をしたお兄さんや、さっそうと歩くサラリーマン、つるんで歩く学生たち、どこかへ急ぐ若い女の人、横柄な態度で歩くおばさん、などなどとにかくみんなが僕を一見しては、ろくでもない感想を抱いているに違いないのだ。
 そう思いつつ、僕はコンクリートのトンネルのようで、天井のところどころに二列の灯りがつき、断面が四角い形をした暗い通路の一隅にたたずんでいた。正確にはさまよっていたといったほうがいい。あたりの空気はもやもやとしていて、あらゆるものの輪郭はぼんやりとしていた。向こうに見えるつきあたりを右に行けば、地下鉄のプラットホームやデパートに通じる入り口なんかがあり、左に行けばそこは再開発地区で、まるでシロアリの巣のようなたくさんの住居ビルが縦横無尽に続く暗い路地や線路にまとわりつくように林立しているところへ出るのだ。うしろを振り向くと人の流れがあるだけで、通路がどこに通じているのか、まったく想像がつかない。ではなぜ、この先のことだけ想像がつくのか。答えは以前そこに行ったことがあるからだ。しかし、それ以上のことは何も思い出せない。このトンネルのような暗い通路の側面には、ところどころに小さな四角い窓がついていて外の景色が見えている。でも、コンクリート色の建物がたくさん見えるばかりで、この通路が街のどのあたりにあるのかということを示してはいなかった。外はどんよりと曇っているようだ。その窓から入るわずかな弱い光を細めた目に無防備に受けとめているのを意識しながら、僕はとりあえず向こうに見えるつきあたりを右に行ってみることにした。間違っていれば左に行けばいいだけの話だ。間違い?...僕はそのとき間違いに気付くだろうか。今までだって、間違いに気付くのは、いつも家に帰ってからだ。家?──今すぐ家に帰りたい。もうホームシックだ。くそったれの弱虫め──僕は自分のことをののしった。
頼りない僕の記憶によれば、今、あのつきあたりを右に行くことが正しいと判断したのだ。つまり、とにかく僕はうしろの人ごみのほうからやってきて、向こうのつきあたりのほうへと歩いているのだ。
「...神か? おまえは神か?」突然、行く手をさえぎられて、僕は少し驚く。見ると、短い白髪で、とっちゃん坊やみたいに背が低く、小さな丸いレンズの眼鏡をかけた青年らしいやつが僕の前に立ちはだかって、こう尋ねてきた。
なんなんだ、こいつは。僕はどうせ何かの客引きか、怪しい宗教関係の勧誘か何かだろうと思って「いや、違います」と適当に答えておく。僕はすぐに知らん顔をして歩き出す。その短い白髪の青年は何やらぶつぶつ言いながら向こうへ行き、どうやら他の道行く人にも同じ質問をしてまわっているようだった。僕はそんなことはすぐに忘れてしまった。街を歩いていれば、よくあることなのだ。
 暗い三叉路を右に行くと、すぐに長い下り階段になっていた。僕は少しのためらいもなくその階段を下りた。一段一段下りていくとけっこう長い階段で、やっとのことで一番下まで下りると、そこはやはりがらんとした暗いプラットホームだった。見渡すと誰も居ない。さきほどの雑音の多い雑踏がうそのようだ。止まっている列車もないし、動いている列車もない。車線が十車線以上あるだろうか。反対側のプラットホームがはるかかなたに見えるようだ。そこにも人は居ない。天井からデパートの広告だの、時刻表だのといった看板がいくつもぶらさがっている(正確にはそのように見えたのだ)。僕は一通り見渡して、どうして誰も居ないんだろうと思いながら、もう一度、自分の居るホームを見てぎくりとした。今さっきまで誰も居なかったところに(これだけではあまり驚かないところだが)、ちょっとまわりの雰囲気に合わない感じのする、黒い紳士帽をまぶかにかぶった男が、少し大きめの黒いビジネスケースを片手に二メートルくらい手前に立っていた。そして、ぶっきらぼうに話しかけてきたのだ。
「ごくろうさん、遅かったな」
僕は本当に自分に話しかけたのか確認するように、まわりを見渡してから返事した。
「はい?」
「例のものは? その中かい?」
 僕はさっきから気になっていた、持っているリュックのことがどうしても思い出せなかった。何が入っているのかということが。しかし、この男はこの中身について知っているようだ。
「これですか?」と言って僕が右肩にかけたリュックを手に持ち替えると、男は片手を差し出したので、「いえ、なんにせよ、このまま渡すわけにはいきません」と言って僕はリュックを引っ込めた。この中には、大切なもの、財布や身分証明証、銀行の通帳、折りたたみ傘、ポケットティッシュといったものが入っているのだ。と、僕の頼りない記憶は判断している。なんだ、覚えているじゃないか。
「早くしな。時間がないんだ」
 僕はリュックのジッパーを開けて中を調べてみた。すると、くしゃくしゃになった包装紙や、クッション用のビニールに雑にくるまれた、大きさにしてはずっしりしたものがひとつ出てきた。この他に今要求されている、それらしいものは見当たらなかった。
「これですか?」と、僕は自信無げにそれを差し出した。僕はどう答えようもなかった。これを渡していいものかどうかと思ったが、とにかくこれが自分が何をしにここへやって来たのかを知るてがかりには違いない。男はそれを受け取った。そして、中身を見ずにそれを黒いビジネスケースの中にすばやくしまった。
「あの、それは何ですか?」
「君は知る必要はない」と言って、男はポケットから腕時計のようなものと、小さな紙きれを取り出した。「君は単なる運び屋にすぎなかったのだよ。さあ、これを。それと切符」
僕は腕時計のようなものと、どこまで行けるのかわからない切符を受け取った。
「それを腕に付けて、わきに付いたボタンを押せばいい。じゃあ、私はこれで」と男は言った。
 僕は夢を見ているように、何がなんだかわけがわからなかった。聞きたいことが山ほどあったけれども、男は自分の腕時計のようなもののわきに付いたボタンを押した。すると、うなるような奇妙な音とともに周りの空気が一瞬歪んだように見えたかと思うと、男の姿が煙のように居なくなってしまった。
 次の瞬間、待ち構えていたようにこのホームに列車が到着した。切符はある。とにかく、乗ればいいようだ。席に着くと車掌さんが通りかかったので、この切符でどこまで行けるのか尋ねると、不思議な顔をしながらここから5番目の駅だと言う。しばらくして列車が動き出した。窓から見える風景といったら、やたらコンクリート色の建物が見えるばかりで、ときどきなにかの広告看板が見えたり、ひどいときにはただのコンクリートの壁だけで、なにひとつ自分が何をするために、どこへ行くためにこの列車に乗っているのかを示してはいなかった。列車の中はいたって快適だった。僕は気分が良かった。ただひとつ文句を言うとすれば、あちこちから聞こえる他の乗客がしている、他人のうわさ話をえんえんと聞いていなければならないことだった。そんな感想を忘れて、うとうとしかけたところで僕の降りるべき駅に着いた。ホームに降りると、まっさきにデパートや語学塾の看板なんかが目についた。この駅はなにも華やかな感じはせず、コンクリートでかためられた暗い通路が線路に沿ってつづいていて、天井にはおなじみの二列づつ並んだ照明が規則正しく付いている。外の風景が見える窓などは一切なかった。どうやら僕が乗ってきたのは地下鉄だったらしい。けれども、僕はこの先の道順を知っている。前に来たことがあるのだ。手前の段数の少ない階段を下りてまっすぐ歩き、ふたまたの道を右に行くと...そうだ、そこにはビルの地下入り口がある。そして、僕の行くべきところはそのビルの地上二階にある第四展示ホールだ。そこに行けば、僕の仕事は完了する。仕事? ──僕の仕事はなんなんだ? まあいい、とにかくそこへ行ってみよう。そのときホームシックは消えていた。
 僕は少し早歩きに、まず手前の階段を下りてしばらくまっすぐ歩き、ふたまたの通路を右にまがった。するとすぐに、“TMビル入り口”と書かれた電光掲示板が目についた。ここだ。僕はすがるような思いでビルの中に入った。そこはがらんとしていて大きな四角い照明が明るく、静かで人もまばらだった。僕はしばらくまっすぐ歩いた。コインロッカールームやトイレにつづく角を過ぎると、正面に動く階段、そう、エスカレーターがあった。それに乗って二階まで上がった。するとすぐ手前に第一展示ホールと書かれた小さなプレートが付いたがらんとした広い部屋があった。その部屋を過ぎ、通路の奥へ進むと、今度は第二展示ホールと書かれたプレート。とすると順に行けば、隣の隣が第四展示ホールになっているはずだ。見るとずっと向こうに、照明に照らされた大きな立て看板がでんと置いてあるではないか。僕は自然と早歩きになってそこへ向かった。近くまで来ると、看板に書かれた文字が読み取れた。“鉱物展示即売ショー”とある。鉱物? そのとき僕の頭の中の回路の一部が一瞬につながった。そうだ、僕は鉱物を買いつけにやってきたのだ。ということは、僕は鉱物のバイヤー? ディーラーということもできる。とにかく僕は大きな広い部屋に入った。そこには鉱物をコレクションする趣味のある人にとっては、まるで夢のような光景が広がっていた。ショーケースの中に所せましと並べられた魅力的な鉱物の結晶たち。たくさんの業者がいろんな鉱物の標本を売っていた。この日のために、財布にはカネがたんまりと入っているのだ。確認するまでもない。僕の頼りない記憶はそう判断している。僕は手当たり次第に、近くのブースから順に見ていった。あるブースのところで気になった鉱物があったので、その業者さんに声をかけてみた。
「これ、いいですね」
「それは輝安鉱。その大きさにしては安いでしょ」眼鏡をかけたまじめそうな紳士然とした、白髪の老人は答えた。そして、あごで示しながらつづけた。「そのへんはみんなうちの卸し先でねえ。いいものを安く手に入れるにはうちが一番だよ」
 僕は今度は、隣にあった辰砂という鉱物を手にとって、しげしげと眺めた。
「それ辰砂」老人はすかさず答えた。僕は名前を知っていたが、知らないようなふりをして頷(うなず)いた。
「産地はわかりますか?」
「わかりますよ、貴州省。貴州省っていってもわからんでしょ。後で詳しい資料を送ってあげるよ」
 僕は辰砂の標本を持ったまま、しばらく値札とにらめっこしていた。なかなかよい結晶をしていたので買うことにした。
「これください」
「ありがとう。じゃあ、ここに名前と住所を書いて」
 そう言われて、僕ははっとした。住所がわからないのだ。僕はどうしていいかわからなくなって、自分でもわけのわからないことを言ってしまう。
「あの、住所が思い出せないから、いいです」
 僕はお金を支払って、包装され、袋に入った品物を受け取ると、決まり悪そうにそこを立ち去った。老人は不思議そうな顔をしていた。無理もない。この世の中にいい年をした青年が自分の住所を思い出せないというのだから。
 僕は住所がわからないということをずっと気にしながら会場を一通り見てまわって、もう十分堪能したので、少し重くなった荷物を持ってホールの外の暗い通路にある休憩所に行った。さて、これからどうしたものか。帰りの切符代くらいは持っているだろうと思い、財布の中を見てみた。ふむ、これだけあれば十分だろう。だけれども、そもそも僕はどこへ帰ればいいんだろう。どこから来たのかがわからないのだ。そのとき、ふと思いついた。あの見知らぬ男からもらった腕時計みたいなもの。これが帰るための唯一の“切符”だ。僕の頼りない記憶はそう判断している。僕はリュックからその腕時計みたいなものを取り出して、腕に付けてみた。なるほど、うまく装着できた。この側面に付いたボタンを押せば、僕の帰るべきところへ帰れるのだ。僕はためらうことなくそのボタンを押した。


ドリーム2 仕事

 世の中に、いやなやつ、気に食わないやつ、うまがあわない鼻持ちならないやつというのは必ず居るものだ。あいつらもご多分にもれず、まったくもって例外ではないのだ。のっぽのメラと、太っちょのロンチャのことだ。とくにロンチャときたら、やつの性格の悪さは僕が保証する。いつもメラとつるんでぺちゃくちゃ、ひそひそと無駄な、ほんとうに無駄な話をしている。メラも僕を嫌っている。なんでこんなやつらと同じ給料、同じ待遇で働かないといけないんだ?
 今日もいつものように、百貨店やオフィスの入っている高層ビルの最上階でトイレの掃除だ。そう、僕は高層ビルの清掃員なのだ。仕事自体は嫌いではないのだけれども、こんな連中の同じようなくだらない話を聞きながら、毎日仕事をするのは本当につらい。
「やっぱ、女の子がおると仕事がはかどるわ。ほんま、おらんのとは全然ちがうわ」デッキブラシの柄にあごを乗せてへらへら笑いながらロンチャが言った。するとメラが言う。
「ちがうちがう。あの子けっこうかわいいからな」
 僕は何も言わず、黙々とデッキブラシを動かしていた。僕は仕事以外のことに関しては無口で通っている。そう、確かに女子トイレやゴミ出しの担当のジェミーは、仕事中には姉御肌だがなんとなく好ましいところがある。僕もひそかにまんざらではなかったりする。でも、仕事中にへらへら笑いながら女の話をしたり、休憩時間には下品にタバコを吸い、吸い殻をせっかく掃除した便器にポイ捨てしたりするような連中に対して、僕はむしずがはしるのだ。さっさとこの広い寒々としたトイレの掃除を終わらせたいのに、こいつらが無駄話でさぼっているおかげでなかなかはかどらない気がしてくる。
「パロットさん、もっとゆっくりやりましょうや」ロンチャがへらへらしながら話しかけてきた。そう、僕の名前はパロットだ。しかし、名前を気安く呼ばないでほしい。年齢がロンチャより少し上ということからか、ロンチャがこりずに僕を“さん付け”で呼ぶのだけは感心する。ばかにしているのかもしれないが、まあ当たり前のことだと思うことにする。ゆっくり仕事をすればそれだけ時給をもうけることができるのだが、当然僕はそんなことはしない。くだらない。僕はあいまいに笑ってごまかした。すると、メラとロンチャはまたひそひそと話しだした。ときどき下品に笑いあっている。この二人がひそひそ話をするのは僕に聞かれてはいけないこと、すなわち、経営者や僕に対する悪口か、相当社会的にあくどい、まともに聞かれたものじゃないひどい話をしているに決まっている。おまえらの考えていることなんて、全部お見通しなんだよ。僕はのどもとまで出かかった言葉を何回も飲み込んだ。程度の低いけんかなんかしたって後々の仕事がしにくくなるだけだし、第一くだらない。
 僕はデッキブラシを動かしながら、こんな仕事なんか本当にやめてしまいたいと思う。今まで何回そう思ったことか。そうか、やめてしまおう。そうすれば、なんとすっきりすることだろう。仕事中にくだらない話を聞くこともないし、いやなやつらともおさらばだ。でも、生活はどうする? 給料をもらわないと食べていけないんじゃないのか? 貯金がなくなったら、また働くさ。僕は運が悪くて、恵まれていないだけなんだ。この広い世界には、僕にとって好ましいことがきっとあるはずなんだ。いやなことばかりじゃないはずだ。
 僕がこう思いながら、デッキブラシを動かし続けていると、時計を見たらもうゴミ出しの時間になっていた。ゴミはトイレの外に既にかたづめてあった。僕はさっさとデッキブラシを掃除用具入れに納めると、ゴミを取りにトイレの外に出た。そして、ゴミのたんまり入ったゴミ袋を専用の手押し車に乗せ、荷物搬送用のエレベーターに向かった。そこまでの通路は南側が全面ガラス張りになっていて、高所恐怖症の人にとってはたまらない構造になっていた。僕はそんなことは言っていられなかった。仕事中なのだ。誰だって高層ビルの最上階から下を見れば怖いと思うに違いない。僕はそう思いながら気を紛らわして、できるだけその窓側から離れて歩いた。少し後ろをメラとロンチャがだらだらと、デッキブラシを担いだままついてきていた。
 最善?──窓の外を横目で見ながら、突然、そんな言葉が頭の中に浮かんだ。今の僕は最善をつくすということがどういうことなのかわからなかった。たしかに僕は仕事をしている。今の仕事をすることが最善のことだと思っている。でも、僕は本当に最善のことがしたいのだ。誰にとっての最善だろうか? 自分にとっての最善のことなら、当然わかるはずなんだ。でも、僕は自分にとって何が本当の最善のことなのかすらわからない。ときどき、家の中でずっとだらだらと過ごしたいと思うことがある。いや、だらだらしたいのではなく、ずっと家に居たいだけなのだ。家に居て、庭の手入れをしたり、好きな本を読んだり、とにかく悠々自適に過ごすのだ。それが僕の考える、僕にとっての最善だとしたら、社会は僕を認めないだろう。むしろ、排除の対象になるに違いないのだ。
 荷物搬送用のエレベーターのところに着くと、ゴミの乗った手押し車をエレベーターに押し入れて、僕は地下二階のボタンを押した。地下二階にはゴミの集積場があって、そこでジェミーたち、女性班が届いたゴミの処理をしてくれることになっている。そうなっているはずだ。僕の頼りない記憶はそう判断している。
 さて、僕らはこれから二時間半の休憩だ。僕はメラとロンチャには目もくれず一言も交わさずに、今来た通路を途中まで戻って、近くのトイレに入り、せっけんを付けて手を念入りに洗った。それが済むとトイレを出てすぐ右の三叉路を左にまがり、屋上に通じる階段を上がった。階段を上がると、まずゲームコーナーが目に入った。わけのわからないゲーム機がところせましと置いてあり、耳をつんざくような雑音が鳴り響いていた。そのゲームコーナーの横を逃げるように、そちらをあまり見ないように早足で通り抜ける(必ずがらの悪い連中が居るからだ)と、だんだんと雑音が小さくなっていった。そして、入ったのはペットショップだった。僕は生き物が好きで、休憩時間にはいつもここへ来るようにしていた。
 僕は生き物たちを順番に見ていった。新しく入荷したというセキセイインコのひなや、ハムスターの珍しい種類、アルビノのニシキヘビ、カミツキガメの子供、グロテスクな色をしたトカゲ。最近はいろんな生き物が売られている。僕はこれらの売られている生き物を見ていると、なぜか悲しい気分になる。おもしろいのに悲しい。自己矛盾している。だから、自分で飼ってみようとは思わない。これらの生き物を最高の環境で、満足させてやる自信がない。僕に引き取られた生き物たちはみんな、苦痛に満ちた生活を送り、やがて苦しみながら死んでいくのだ。こんな無責任で、理不尽なこともうたくさんだ。

僕の遠い記憶の片隅の黄昏の野原で、誰かが泣いている。そんな映像が突然、脳裏を支配した。その子は大声で泣きながら、畑に植えてある大きく茂った野菜を木の棒でめちゃめちゃにしていた。〈正しいことをしなさい〉──母さん? その子は...顔が見えるか見えないかというところでそのシークエンスは消えた。

 しばらくして、僕はネズミザルの大きなガラスケージの前でぼうっとしている自分に気がついた。最近、寝不足のせいか、こんなことがよくあるのだ。“あれは絶対、僕だ。そして、母さんの声”──そんな感想が強く残った。僕は正気に戻ると今度は外にある観賞魚コーナーへ行った。コンクリートの池が整然とたくさん並んでいた。金魚の売り場だ。小さい真っ赤な金魚がたくさん泳いでいる池もあれば、やたら大きな更紗模様の金魚が悠然と泳いでいる池もある。池にはそれぞれ入っている金魚の名前が書かれた名札が縁に付いていた。リュウキン、クロデメキン、オランダシシガシラ、ハナフサ、スイホウガン、アズマニシキ、それからランチュウ。一口に金魚といってもいろんな種類があるのだ。僕は全部の種類をそらで言えるのが自慢だった。サンショクデメキン、エドニシキ、セイブン、チョウテンガン...。
 次に正面の温室に入った。温室の中はなまあたたかかった。そこには大きな水槽が置いてあって、いろんな色の熱帯魚が泳いでいた。金魚の大きく高級な種類も泳いでいた。僕はしばし魚たちの優雅な泳ぎにうっとりとみとれながら、順番に水槽を見ていった。そして、ある一角にさしかかった。そこは照明がついてなくて水槽の照明だけがあたりを照らしていて、周りには人影が見当たらなかったが、なにか気配を感じた。その角を曲がると、やはりそこには黒い紳士帽をまぶかにかぶった男の人が、僕と同じように水槽の熱帯魚を見ていた。僕に気付くと、ちらと目をやって、また目の前の魚に目を戻した。そして突然ぶっきらぼうに話しかけてきた。
「遅かったじゃないか」
「え?」
 僕は一瞬耳を疑ったが、たしかにこの男は僕に向かって言ったようだ。しかしこの人、前にどこかで会ったような気がする。黒い紳士帽とコートにビジネスケース、それと何か場違いな感じのする、時代錯誤したような雰囲気。僕の記憶の片隅に、たしかに存在する風貌だった。僕がなんと言っていいかわからずもじもじしていると、その男は上下左右するカラフルな熱帯魚を目だけで追いながら思わぬことを言ってきた。
「他人が君を否定することがあっても、自分で自分自身を否定しちゃいかん。どんなことがあっても、自分を信じることだ。これはこれからの君の運命を左右する重要なことだ。よく覚えておきなさい」
 なんなんだこの人は。いきなりえらそうにのたまって。僕は率直にそう思った。僕はむきになって今度はこちらから話しかけてみた。
「あの、どこかでお会いしませんでしたか?」
 すると、その男はびっくりしたというような顔をこちらに向けて言った。
「ほう、私についての記憶が残っているとは。──ふむ、まあ、所詮、君は自分自身が“運び屋”であったことすら自覚してないようだから、その程度ならなんの問題もなかろう」
「はあ? 一体なんのことですか?」
 僕は何がなんだかわからなかったが、この人には確かに前に会ったことがある気がするのだ。男はビジネスケースから腕時計のようなものを取り出した。
「これが君をこのどうしようもなくつらい世界から解放してくれる。これがボタン。腕時計みたいに腕に付けてここを押すだけでいい」
 僕はその腕時計のようなものを疑問に思いながらも受け取った。
「あなたは一体、何者なんですか?」僕は自分でも変な質問だと思ったが、男は表情ひとつ変えずに答えた。
「うん、いい質問だね。私は君がうまくこの世界で生きていけるように手助けしている、と言ったらわかってもらえるかな」
「どうしてそんなことを?」
「どうしてって、そりゃあ仕事だからだよ」
「僕はあなたの助けを借りなくても、十分やっていけてますけど。仕事にはたしかに不満はあります...人間関係がうまくいかないなんてことですけど。そんなことどこに行ったって一緒でしょ? いつもいつも仕事をやめることばかり考えてますけど、正直、実際にやめる勇気はないんです。それに第一、これはなんですか?」僕は受け取った腕時計みたいなものをよく見てみた。よく見てみると、なんだかこれも見覚えがあるような気がしてきた。「これは...」
「それについての記憶も残っているようだね。さっき言ったように、この世界で生きていくと言っても、わかりやすく言えば、この世界は君が思っているようなひとつの次元だけで構成されているわけではないんだ。もちろん、君の好ましいと思うことが少しだけ反映されてはいるんだけど、このとおり、嫌なことのほうが多いものさ。そういう判断は君自身がどう思うかにかかっているんだが、もっと嫌なことが別の次元で起こるかもしれない。そんなことが起こったときに、君がこの世界で──と言っても実際にはこの世界、次元のことじゃないんだけど、とにかく世界を意識している主体である君が健常でいられるようにしてあげているわけなんだ」
「なんだか、よくわかりませんね」
「まあ、君はそのボタンを押せばいいだけなんだよ。簡単だろう? 便利になったもんさ」
 僕はこの腕時計みたいなものをしげしげと眺めた。このボタンを押すと、一体どうなるというんだろう。前に使ったときは──前?...前にも使ったことがあるような気がする。しかも何回も。このボタンを押すと──うーむ、思い出せない。
「む、話が過ぎたようだ。時間がない。じゃあ、よろしく。ああ、なにかの役に立つかもしれないから、一応、名前を言っておこう。私の名前はシロカミ。それじゃ」
 そう言うと、そのシロカミという人は向こうの温室の屋外側の出入口のほうに向かって歩き出した。後ろから見ていると、なにやら腕を組むようなしぐさをしたかと思うと、妙な、うなるような音とともに、姿が水面に波紋が広がるように波打つような感じになって、出入口の戸の一歩手前くらいで、フッと消えてしまった。
 僕は茫然とそれを見ていた。そうだ、この腕時計みたいなもののボタンを押せば、僕もああいうふうにこの世界から消えてなくなって──そこまでしか僕には考えることができなかった。しかし、どうしてこの世界(次元?)から消えなくてはならないんだ。とにかく、毎日毎日、ろくでもない連中と一緒に仕事をしなくていいんだ。それだけはたしかだ。毎日?──僕は毎日あんなふうに考えながら仕事をしていただろうか? それは疑問だった。毎日、雨の日も風の日も、メラとロンチャがろくでもない噂話をしているのを聞きながら、それでも謙虚に仕事をこなしている。それが僕の自分への認識だ。僕の頼りない記憶の中には、そういう認識が確かにある。あるはずだった...。
 僕はとりあえず昼メシを食べることにした。熱帯魚たちの温室を、さっきシロカミという人が消えた出入口とは違うほうの出入口から出て、通路を少し歩いてすぐ左にある展望レストランに入った。窓側の二人用の席に座ると、すぐに機嫌の悪そうな顔をした若いウェイトレスがやってきた。僕はいつもの、いつもの?──いつも僕はここのAランチを食べていただろうか? 疑問に思ったが、僕はAランチを注文した。このレストランはよく従業員が利用するので、僕はグレーの作業服を着ていたが、あまり気にしなかった。しかし、もともと僕は家の外の飲食店で食べるのは好きではなかった。第一、飲食店で食べるということは、雰囲気も一緒に食べるということだ。なのにこのレストランは食べ物を食べるという行為を否定するような雰囲気がある。従業員の態度はしかたないとしても、ここは高層ビルの最上階だし、なんといっても照明の色合いが食欲を減退させる気がしてならない。それに他の客の話声を聞きながら食べるのは、テレビを見ながら食べるのより格段に精神が疲れるのだ。だから、僕はなるべくなら外で食べるのは避けたかった。でも、外で働いている以上しかたがないことだった。しかし、僕はいつもここで昼メシを食べていただろうか? 本当に僕はいつもこんな格好でレストランに入っていただろうか? そう考えると何か恥ずかしくなってきたが、考えれば考えるほど疑問の数が増えていく気がする。いつもは何も考えずに暮らしていたということだろうか。そうか、もう少しでこの世界から消えてしまうんだから、何も心配することはないんだ。僕はそう考えると気分が少し晴れてくる気がした。ただ、僕は腹がへっているので、目の前のAランチを何も考えないようにしてひたすらかきこむことに意識を集中する。今、僕に要求されているのはただそうすることのみなのだ。
 僕は無心にAランチをたいらげた。そして、ある重大なことに気が付いた。この世界で食っていくために絶対に必要なこと、そう、カネを払わなければいけないのだ。僕はあせって作業服のポケットに手を入れてみた──あった。僕の使い古したマゼンタの財布は、いつもどおり右のポケットにしっかりと入っていた。カネももちろん入っている。僕はさっさとカネを払うと、そのレストランを出た。
 レストランを出て、右左どちらに行ったらいいか、ちょっと迷ったが、あの熱帯魚の温室からやってきたのは左だった気がしたので、右に行ってみることにした。すると、通路の一角に展望休憩コーナーといって、ちょっとしたベンチがあったので、そこに座って後々のことでも考えてみることにした。正面は足元までガラス張りになっているので、少しそわそわするくらい落ち着かないところだったが、わきに置いてある観葉植物の緑の葉がなだめてくれているように見えた。遠くの空には、暗い赤色の惑星間貨物船がちょうど離陸して火星への航海に出発しているのが見えた。
 まず、あのシロカミという人物について考えてみた。前にも会った気がするのは否めない。たしかに今回が初めてではない。しかし、どこで会ったのだろう。それは思い出せない。わけのわからない腕時計みたいなものを僕に渡してすぐに去っていった。正確に言えば、この世界(次元?)から消えていなくなった。そして、僕もこの腕時計みたいなものを腕に付けてボタンを押せば、この世界から消えてしまうんだ。そこまでは納得がいかないものの、理解はできる。消えてしまった、その後は、僕の帰るべきところに帰れることになっているはずだ。僕の頼りない記憶は、そう判断している。でも、僕の帰るべきところ、本来の居場所ってどこなんだろう? どうしてこの世界から消えなくてはいけないんだろう。まあ、たしかにこの世界にはうんざりしてはいるのだが、理想にかなった世界がそう簡単にあるわけがない──と思う。嫌なことはあるけれども、いいこともあるだろうさっていう気分でやっていかないと、この世界自体が僕を拒否しているような、みじめで希望の持てない気分になってくる。
 シロカミさんは“自分を信じろ”と言った。“自分で自分を否定するな”とも。それは決して間違いではないと思う。あのときは急に言われてよくわからなかったけども、自分を信じるということは──いや、今でもよくわからない。でも、たしかに、自分が信じられなくなって、自分で自分を否定するようになってしまったら、生きる意欲、元気や勇気は無くなってしまうだろう。
 これからどうするかについてだが、たしかにこの世界での僕の住所は不明だ。記憶にない。自分の住所がわからない人間って居るんだね。自分でも不思議だ。じゃあ、手っ取り早く、この腕時計みたいなもののボタンを押して、僕の帰るべきところへ帰ろうか──とも思うんだが、何かやり忘れたことがあるような気がする。──あ、カート、ゴミ出し用の手押し車を午後の仕事のために下まで取りに行かなきゃいけない。しかし、これからこの世界から消えようって時に、はたしてそんなことが重要なのか? 疑問だが、とにかく僕はやるべきことはちゃんとやっておかないと気が済まないタイプなのだ。僕は最後の仕事だと思って、カートを取りに地下二階まで下りることにした。
 いくつかの同じような通路の角を何回か曲がり、荷物搬出用のエレベーターの前にきた。僕はそのエレベーターに乗り、地下二階のボタンを押した。普段は荷物の搬出用なのだが、作業員も乗っていいことになっている。エレベーターは順調に最上階から地下二階まで下りた。地下二階は暗くて、人を暗鬱な気分にさせる雰囲気があった。全面湿った色のコンクリートのせいもある。壁の上のほうには照明がついていたが、気分が晴れるほどの明るさではなかった。エレベーターを降りると、ちょうどゴミの収集車が来ていた。地下は収集車が入れるほどの広さがある。カートはどこかな──と探していると、ジェミーが通りかかった。
「お疲れ様です」僕は一瞬ドキッとしたが、一応、仕事上のあいさつをした。
「あ、パロットさん。カートなら上にあげておきました」ジェミーが言う。
「え、ああ、そうですか」なんだ、わざわざ取りに来なくてもよかったんじゃないか。今、エレベーターに乗ったときは見当たらなかったけど──メラとロンチャが清掃場所まで持っていったんだな。僕はなんだか拍子抜けしてしまった。それじゃあ、さっそくこの腕に付けた腕時計みたいなもののボタンを押しますか──
「なんだか楽しそうですね」ジェミーが話しかける。
「いや、なんでもないんですよ」この世界の人間に僕がこれから別の世界に行くなんてことを言ったってしかたない。僕はそう思った。
「じゃあ、シロカミさんによろしく」とジェミーは言った。
「え?」どうしてその名前を知っているんだ? 僕はわけがわからなくなってきた。
「ほら」と言うとジェミーは自分の左腕を上げて見せた。僕は驚いた。なんとジェミーの左腕には僕の左腕に付けている腕時計みたいなものと同じものが付けてあったのだ。「私とあなたはメイトなの。同じようにそれぞれのインクルージョンからエネルギーをもらってる。そして今、同じインクルージョンの中で出会えたってわけ」
「ちょ、ちょっと待って。インクルージョン?」
「そう。別の言葉でいえば、直接的な意味は“内包物”。私もあなたも自分の意識を結晶化しているの。この世界はあなたのその結晶化された意識の中に内包されている世界の中のひとつなの。あなたはまだ自分の意識を完全に結晶化しきれてない。だから、記憶があいまいになってるのよ。最近、インクルージョンの異常をきたすメイトが増えてる。何か特別な力が働いているかららしいけど、詳しくはわからないわ。私はその原因を調べるために、実験的にわざわざあなたのインクルージョンの中に送り込まれたの、実体のある意識体としてね。」
「じゃあ、シロカミさんは?」
「あの人はあなたの担当医、主治医みたいなところかな。あなたの意識がまだ不完全だから、その異常を防ぐために常に監視してくれているの。渡されたこの装置は、自分の意識を結晶のほうへ戻す装置。まあ、あなたの場合、その肝心の結晶がまだ完全ではないんだけど」
「結晶が不完全だと何か悪いことでも?」僕は半信半疑で訊く。
「もちろん。このままだとあなたの意識の総体である結晶は、インクルージョンからのエネルギーが供給されなくなって、ついには崩壊してしまうことになる」
「それじゃあ、僕はどうしたら?」
「インクルージョンが異常を起こす前に、意識を結晶のほうに戻すしかないの。それを繰り返してゆっくりと結晶を育てていくしか、今のところ方法はないわ」
 僕たちは暗い、コンクリートで囲まれたゴミ集積所の大きな扉の前で話をしていた。照明は暗かったが、ジェミーの顔はよく見えていた。僕はまだ半信半疑だったが、これからどんなことに気をつければいいか、大体のところはわかった。とにかくこの世界が異常をきたす前にこの装置のボタンを押して、おさらばすればいいのだ。この装置? そう言えば──「この装置って、名前あるの?」
「インターチェンジ」ジェミーはぶっきらぼうに答えた。インターチェンジ?──どっかで聞いたような。あ、高速道路のあれだ。
「どうして最初から渡されてないんだ?」
「それは私にもわからない。たぶん、あなたの結晶が不完全なことと関係あるんじゃないかな」
「ふうん。...じゃあ、もうこのインターチェンジを使ってもいいわけ?」
「ええ。まだもう少し大丈夫みたいだけど、どうする?」
 僕はもう考えるまでもなかった。もうメラやロンチャの顔を見たくなかったし、ペットショップも十分堪能したし、お世辞にもうまいとは言えなかったが食事もした。この世界にはもう用はない。
「帰るよ」
「そうね、早めに帰ったほうがいいわ。私はあと少しやり残したことがあるから、ここで。じゃあ、またどこかで会えるといいね」
「大丈夫なんですか?」
「うん、大丈夫」ジェミーはそう言うと僕の乗ってきたエレベーターに乗って上へ上がっていった。
 ジェミーと別れると、僕はなるべく人目につかないようにコンクリートに囲まれた殺伐としたゴミ集積所の一角に行き、──別にこの世界の人間に消えるところを見られてもいいのだろうが──この腕に付けたインターチェンジなるもののボタンを押した。僕は少しためらったが、いつもそうするようにゆっくりとボタンを押した。


ドリーム3 旅行

僕はこの年代にはよくありがちな派手な観光バスに乗っていた。行き先はどこだろう。それがわかっては面白くない気もする。とにかく僕は旅行をしているのだ。
 僕の意識は以前より格段にはっきりしている。シロカミさんのことやジェミーと話したこともはっきりと覚えている。だけど、どうして今ここに居るのか、どうしてこんなバスなんかに乗っているのかがわからない。なぜだろう。とにかく、今回のこの旅行も適当なところでシロカミさんが現れて、インターチェンジなるものを渡してくれることになっているはずだ。それまで僕は、適当にこの世界を楽しめばいいのだ。──適当に楽しむ? そんな気分じゃないな。なんだか眠いし、それにこのバスの中ときたら、いろんな人が好き勝手なことを下品にしゃべっていて、それがいちいち僕の耳の奥の頭の中で反復されているのだ。たまったものじゃない。この人たちの立場になって考えれば無理もない。せっかくの旅行なのだから、どちらさんもみんな気心の知れた人とおしゃべりして、精一杯楽しもうってわけだろう。僕はどうも他人がしゃべっているのを聞くと、とくに笑いながらそうしているのを見ると下品に思ってしまう。自分で言うのもなんだか心苦しいものがあるが、何を隠そう僕は人一倍“人見知り”が激しい。だから、こんなに狭いところに押し込められて、ずうっと、他人の会話を聞いているとイライラしてくるのだ。こんな苦労をわかってくれる友達が居たら、どんなに心が救われるか。そうだ、今の僕には話し相手が必要なのだ。そうすれば、他の大勢の人たちの会話に意識が向かないはずなんだ。
 僕はそう思いながら、二人掛けの通路側の僕の隣の席をちらと見てみた。すると、目が少しギョロっと大きな、なんとも特徴のある顔の、僕と同じくらいの年齢らしい青年が座っていた。その青年は無表情で、無心な様子で文庫本を読んでいた。ふむ、こんなやかましいバスの中で本を読むとは、どういうやつなんだろう。僕はふつう、道を尋ねるとかよほどのことでもない限り、こちらから他人に声をかけるなんてことは絶対にしないのだが、これも何かの縁かなと思いつつ、話しかけてみることにした。
「あの、気持ち悪くありませんか?」僕は比較的大きな声で言ったつもりだったが、その青年は無表情で本から目を離さなかった。僕はもう一度、大きい声で言ってみることにした。「気持ち悪くないですか?」今度は通じたらしい。ギョロっとした目をめんどくさそうにこちらに向けた。
「うるせえ」
「は?」僕はこんなことでは負けんぞと思いつつ、むきになって言う。「なんだって動いてるバスの中で本を読んでるんですか?」
「おまえこそなんだってそんなによそよそしいんだ?」 
 その青年は妙なことを言った。僕は少し間をおいて考えてから言う。
「だって、まだ名前も聞いてないし、第一、君とは今会ったばかりだし、それに──」
「“きみ”って言うな。気持ちわりい。──あーっ、そうか、まだ俺のこと知らねえんだったな。わりいわりい」その青年は眉間に手を当てて、思い出すような仕草をしながら続けた。「おーれぁ、あー、おめえと同じメイトで、んー、他に何か、あー、要するに友達ってことよ」
 僕はこの青年のことはまったく記憶になかったので、──まったく?──あるようなないような、とにかく不思議な感覚だった。
「そう言われても僕には覚えがないんですけど──」
「そりゃそうよ。なんたっておめえはまだ不完全体だからな。だから気にすんなって。丁寧にしゃべらんでええから」
 そう言えば、おまえとか言われても悪い感じはしない。
「それで名前のほうは? 僕はパロット」
「知っとるって。俺は仲間うちではポリッシュっつーて呼ばれとるから、ポリッシュでええよ。──ほんとにわからんのかあ? まあ、無理もないか。ほれっ」そう言うと、さっきまで向こう側で見えなかった左手を上げて見せた。その腕にはあのインターチェンジがあった。
「ああ、それは知ってる。インターチェンジ」
「ほう、これは知っとるのか。略してアイシー。じゃあ、まあ、この世界ではよろしくってとこだな」
「君もジェミーと同じように、僕のインクルージョンを調べにきたわけ?」
「だから“きみ”って言うなって」
「じゃあなんて?」
「お、おめえは──、だからポリッシュだって。何回も言わせるな」
「ああ、そうか」
「俺はぁ、単におめえをサポートするために送り込まれたんだ。別に調べてるわけじゃない。だから、退屈なんだ。これから何が始まるのか知らねえがな」
「僕もわからないんだ。ただ、旅行に来ていることは確かだな。こんなバスに乗ってるってことは」僕は手を伸ばしてバスの内壁の上のほうに付いている、やけに豪華なシャンデリア風になった小さな照明を、ちゃらちゃらと触りながら答えた。「ところで、ポリッシュさんの結晶は完全なの?」
「“さん付け”もやめろ。おめえは石頭か」
「じゃあ、ポーさん」
「やっとその呼び方を思い出したか」
「え?」
「おめえはいっつも俺のことをポーさんポーさん言うとったわい」
「はは、ほんとに? そう言えば、なんか懐かしいような──」それは確かな感想だった。「それでポーさんの結晶は完全なの?」
「当たりめえよ」
「どうして僕の結晶は完全じゃないの? そもそも結晶ってなんなの?」
「そんなこと俺だって知るか。とにかく完全なのが当たり前なんだから、おめえの場合は特別なんだろ。ま、せいぜい楽しむこったな。俺も付き合ってつかわすから」
 僕は友達が居てくれると思うと、なんだか心強く思えてきて、この先何が起こっても大丈夫なような気がしてきた。車窓の外の風景を見るとバスの中とはうってかわって、なんとなくさみしいさびれた風景が延々と続いていた。左には大きなゆったりと流れる深そうな川があり、右にはまばらな人家が見える田園風景。ずっと、同じような山と川、からりと晴れた空に白い雲といった風景。
 話してみると意外と会話が続かなかった。僕は話をするのが苦手だった。必要なことをしゃべったあとは、何をしゃべっていいものやらほんとに困ってしまう。他の多くの人がしているように、他人のうわさ話やどうしようもない世間話をするのは、僕にはできなかったし、そもそも嫌いだった。だから、他人がそんな話をしているのを聞くとむしずがはしるわけだ。他に話すことがないのだろうかと思う。ポーさんとの会話はそれっきり途絶えてしまった。ポーさんのほうも僕に話をするネタがないらしく、本を開いたまま、いつの間にか目をつむって眠ってしまっていた。といっても、こんな騒がしいバスの中で安眠できるはずもなく、おそらく目をつむっているだけだろうと思う。僕も眠かった。外は相変わらず同じような殺風景な風景が続いていた。僕はうとうとした。
 しばらくするとバスのエンジンが止まった。着いたようだ。見ると、小さな路地が迷路のように続いていて、坂になっている。坂の街だ。僕は一見してそう思った。
「着いたぞ」僕はまだ目をつむっているポーさんに向かって言ったのだが、目を開けなかったので、ポーさんの肩をゆすりながらもう一度言ってみた。「ポーさん、着いたぞ」
「ん、あー、着いたのか? ──なんだここは?」
「坂の街らしい。ほら、丘の上に大きな建物がある」僕は直感でこれからあそこに行くのだと思った。「これからあそこに行くんだ」
「おいおい、まさか歩いてか? 勘弁してくれよお。あそこまでけっこうあるぜ」
「そうだな」僕もこれから歩くのはしんどい気がした。でもまあ、ゆっくり歩けばなんのことはないだろう。
 ポーさんが言う。「まあ、いいか。ひまつぶしにはもってこいだな。ゆっくり行こうや。おめえのインクルージョンも落ち着いてることだしな」
 僕たちはバスを降りた。そして、大きな道路を渡って、小さな路地に入った。小さいといっても車一台ぶんぐらいはある道だった。ゆるやかな葛(つづら)折(お)りの道の両脇にはいろんな店が並んでいた。お土産屋さんが多いがなかには八百屋や魚屋、何の店かわからないような雑貨がたくさん置いてある店、お食事処なんてのもある。しばらく歩いた僕たちはちょうど通りかかったある一軒の喫茶店に入って休むことにした。ポーさんの提案だった。僕なら普通、喫茶店なんかには入らない。そういう時間の過ごしかたを僕はあまり好きではなかった。でも今はポーさんが居る。二人でならそういう時間の過ごしかたも幾分、必然性が与えられる。
 中が狭い店だったが、カウンターや椅子、照明なんかがなかなかしゃれた店だった。僕は以前にもここに来たことがあるような気がした。二人ともホットコーヒーを注文した。僕はコーヒーはブラックで飲むことにしている。胃にはよくないかもしれないが、ダイエットをするにはコーヒーはブラックに限る。それにコーヒー本来の味が楽しめる気がするというのも、そうする理由の一つだった。ポーさんはというと、ミルクと砂糖をたくさん入れていた。僕は体に悪いのになあと思いながらそれを見ていた。悪いといってももちろんダイエットをするにはである。それにこれは気持ちの問題なのだ。僕だって一回や二回、ミルクや砂糖を入れて飲んだってかまやしないのだ。しかし、僕の中のダイエットをしなきゃいけないという、切迫した思いがミルクや砂糖の入ったコーヒーは飲んではいけないと言っているのだ。だからと言って、最近流行の薬でなんとかしようとは思わない。僕はダイエットが緊急に必要なほどの体型ではない。しかし、最近太ってきたような気がしていた。それでだ。
 僕は黙ってコーヒーについての僕の考えを再考察するのに飽きたので、ポーさんにさっきから気になっていたことを聞いてみることにした。
「インクルージョンが落ち着いてるってどういうこと?」
 ポーさんはせっかくコーヒーを楽しんでいるのに、急に妙なことを聞くんじゃねえと言わんばかりの表情になって言った。「なんというか──俺も詳しいことはわからんのよ。要はおめえが無事に何事もなくこの世界で過ごせとるってことよ」
「何事もなくって、このままだと何かが起こるわけ?」
「うん、確実にな。やっかいなことになる」
「やっかいなって、まさか結晶が──」
「そうだな、あるいは。そうなるとほんとにやっかいだぜ。シロカミさんでもとてもじゃないが対処できんだろう」
「あら、ポーさんでもシロカミさんを“さん付け”で呼ぶんだな」
「あたりめえよ」
「なにかあった?」
「別に──」
 僕はこれは何かわけありだなと思った。僕はそれ以上詮索するのはやめることにした。何もないのかもしれないが、話したくないそぶりを見せた場合、それ以上詮索するのは失礼だし、第一僕には人の秘密を暴いてやろうという邪な勇気はなかった。いや、ないはずだ。
「どうしてこんなことになったんだろう?」僕はほんとに嘆かわしく思う。
「そりゃ、人が病気になるのと一緒さ。本人にはなんの罪もないんだ、それだけは言える」ポーさんはそういうと、黙って残りのコーヒーを飲んだ。
「でも、日ごろの不摂生が原因てこともあるよねえ」僕は考えて言う。
「まあ、たしかに病気にもいろいろある。だけどおめえの場合はそうじゃねえだろ。あるとき、突然、なんの前ぶれもなく、そうなっちまった。だから、何も責任はねえんだ」
 僕はそう言われて少し心が晴れる気がしたが、なにか不安のようなものが残っていた。
「僕には何か原因があるような気がするんだ...」
 僕たちはその喫茶店を出ると、丘の上に見える大きな建物を目指してまた歩き出した。坂の下のほう、後ろを見るとだいぶやってきたことがわかる。複雑に入り組んだ路地が、複雑に入り組んだやさしい色の屋根の間から、ところどころに見え隠れしている。天気もいい。僕は自然と早く歩いていた。ポーさんも早く歩いてついてきていたが、しびれをきらしたように言う。
「なんでそんなにはよ歩くんじゃ」
「ああ、すまん」僕ははっと我に返る。
「ゆっくり行こうや」
僕たちは階段にさしかかった。坂も急になってきた。建物と路地が複雑に入り組んでいるために、もうどこをどうやってきたのかまったくわからない。しかし、確実に丘の上に見える大きな建物に近づいてきた。
「だいぶ来たね」、僕はふり返って下のほうの街を眺めながら言った。
「おう」
無愛想だな。僕はそう思う。
「なかなかいい眺めだね」
 遠くのほうには海が見えた。僕は絵になるような美しい風景だなと、心から思った。しばらくして、階段を上りきると急に建物がない場所に出た。
「なんだここは?」ポーさんが言った。見るとお地蔵さんが道の両側一面にたくさん並んでいる。しかも、異様なくらいの数だった。
「地蔵だよ」僕は言った。
「そりゃわかっとる。なんでこんなところに──」
「たぶん、なにかを供養してるんじゃないかな。それにしてもすごい数だね」
「おめえのインクルージョンも変わってるなあ。今までこんな風景見たことねえぞ」
僕は妙なことを言うなあと思った。
「今までって、ポーさん、いろんなインクルージョンに行ったことがあるの?」
「まあな」
「たとえばどんな?」
「まあ、いろいろだよ、いろいろ!」
「ふーん」
 僕たちはそんな話をしながら歩いて、やっとのことでこの丘の上に見えていた大きな建物の入り口の門のところに着いた。その門に付いている看板には、“旅宿・アルメダ館”とあった。
「旅館だったのか」僕はそれはそうだなと思った。旅行に来ているのだから。
 僕たちはその旅館のしゃれた大きな門をくぐって、建物の中に入り、フロントに行った。
「あのう...、僕、パロットといいます。こっちは友達のポーさん」僕ははっきり言って、旅館に来たのは初めてだったのでなんと言っていいかわからなかった。そのフロントの紺の制服を着た女の人は、愛想よくにこにこしながら言った。
「はい、パロット様ですね。承っております。こちらがお部屋の鍵になります。それから、お連れ様がロビーでお待ちになっていますよ」
お連れ様? 誰だろう。ポーさんを見るとどうしようもないやつだなと言わんばかりの表情になっていた。
「おめえ、旅館に泊まったことねえのか?」
「ああ、まあね」僕はそんなことを言われて恥ずかしく思っている場合ではなかった。僕を待っている人が居るのだ。
 僕はフロントから後ろを向いて、右のほうにあるがらんとしたロビーを見渡してみた。ゆとりをもって大きなソファーがたくさん整然と並んでいて、大きなシダのような観葉植物が点々と置いてある。落ち着いた色のじゅうたんが敷いてあり、その床から天井までガラス張りの大きな窓が東側全体を占めていて、庭園が見渡せるようになっている。池には美しく大きな錦鯉がたくさん泳いでいた。静かな、本当に気にならないくらい穏やかな音楽も流れている。
「誰だ? その待ってる人ってのは」ポーさんが額に手を当ててロビーを見渡しながら言った。家族連れや年配の夫婦などいろんな人がソファーに座ってくつろいでいる。うーむ、見渡しただけではわからないな。そう思っていると、向こうの奥の窓際の観葉植物があるところで、こっちを向いて手を振っている人物が居るではないか。
「あれ、あの人じゃない?」僕はよく見ながらそっちのほうを指差して言った。
「む、あれは──シロカミさんじゃないか」
 そう言えば、あの深くかぶった黒い紳士帽には見覚えがある。
「シロカミさん? 行ってみよう」
 僕たちはこっちを向いて手を振る人のところに歩いていった。近くまで来ると確かにシロカミさんだとわかった。僕はなんだか懐かしく思えた。
「遅かったじゃないか」シロカミさんが言う。「どうだね、久しぶりに旧友に会った感想は?」
「ええ、なんとなく覚えている気がするんですけど、ポーさんに関する記憶はあまり判然としないんです」僕はポーさんには悪い気がしたが、率直な感想を言った。
「ポーさんというのは? ああ、ポリッシュのこと?」
「はい、そうです」僕は言う。
シロカミさんは続けた。「そうか、そうだな。やっぱりまだ結晶が完全ではないからかな」
「そのことでいろいろ聞きたいことがたくさんあるんですけど──」僕は言った。
「うん、まあ座りな」
 僕たちは座り心地のいいソファーに座った。窓ガラス側に僕、右隣にポーさん、向かい側にシロカミさんという具合だ。静かで穏やかな音楽は絶え間なく流れている。ここからの庭園の眺めはすばらしかった。池の錦鯉に餌をやっている人が居る。
「何から話そうか」シロカミさんが言った。
僕はまず結晶というものがなんなのか知りたかった。
「じゃあ、まず“結晶”というものについて教えてください」僕がそう言うとシロカミさんは険しい顔をした。
「結晶? ──そうだな、いざ説明するとなると難しいな。なんて言ったらいいか、みんなの、いわゆるメイトの意識がみな結晶化されているっていうのはわかる?」
「はい、それはジェミーから聞きました」僕は言った。
「そうか。そう、つまり“結晶”というのはメイトの、言い換えれば君の意識のすべてなんだ。それが君の場合、何かが原因で不完全なんだよ」
 僕はわかるような、わからないような気がした。やっぱり原因があるのだ。
「メイトっていうのは?」僕は言った。
「メイトはだから、意識を結晶化しているヒトのこと」
「え、シロカミさんはメイトじゃないんですか?」
「もちろんメイトさ。だから、こうして君のインクルージョンの中に居られるんだ」
「あ、そう、そのインクルージョンというものについても教えてください。ジェミーはインクルージョンからエネルギーをもらっているとか言ってましたけど」僕は頼りない記憶から確実らしい情報を引き出した。正直、自分でもここまで覚えているとは思わなかったくらいだ。
「そうだよ。エネルギー、つまり“元気の素”と言ったらいいかな。インクルージョンは君の意識の中にある世界、言い換えれば、君が意識しているものすべてがそうなんだ。そして、インクルージョン世界はたくさん存在する。だから当然、今、君が意識しているこの世界も意識の中にあるひとつの世界ってわけだ」
「じゃあ、シロカミさんやポーさんやジェミーもそれぞれのインクルージョンからエネルギーを?」僕は言った。
「もちろん」シロカミさんはタバコをふかしながら言った。
「おめえ、そんなことも知らねえのか?」さっきまで黙っていたポーさんが口を開いた。
 僕はひるまずもう少し尋ねてみた。「どうもまだよくわかりませんね。いつも僕が帰る“結晶”というのは、そもそもどこにあるんですか?」
「どこにあるって言われても答えようがないな。要するに結晶の存在する世界が、“真の現実世界”なんだよ。だからと言って、このインクルージョン世界が重要でないということではないんだ。今言ったようにインクルージョンからエネルギーを得ているから、私たちは生きていられるんだ」
 僕は少し考えてから、もうひとつジェミーから聞いたことを薄暗い記憶の雲の中から引き出した。「インクルージョンが異常をきたすというのは、僕の結晶が不完全だからですよね。異常というのは具体的にはどんなことが起こるんですか?」
「うん、私の知る限りでは、意識が他の不完全な意識と混ざり合ってしまうんだ。これは本当に恐ろしいことでね、幸い今君のインクルージョンは常に安定している。このまま順調に結晶が成長してくれればいいんだが──ほら、これを見たまえ」
 シロカミさんはポケットから小さな装置を取り出して、電源らしいボタンを押した。すると、丸くて平らな装置の一面に立体的な光の波が現れた。その美しい青白い光の波はゆっくりと波打つように動いていた。ときどき波と波の間隔がせばまったり、広くなったりしている。
「これが今の君のインクルージョンの状態を示すグラフだ。この装置はひとつしかなくてね、君に渡すわけにはいかないんだ。だから、常に私の指示に従っていればインクルージョンがどんな状態かを知らなくても大丈夫だ。その点は心配しなくていい」
 僕はだいぶ事態が飲み込めてきた。
 それから、僕たちはしばらく沈黙していた。“結晶を順調に育てる”、それが僕の全生命を懸(か)けた目標なのだ。しかし、なんだって僕の“結晶”は不完全なんだろう? 僕が何か悪いことでもしたというのか? それだったら、なぜインクルージョンは今まで安定していたんだろう。シロカミさんのおかげということもできる。しかし、僕が今考えているのは、シロカミさんが現れる以前のことだ。それを思い出すことは不可能だ。僕のその記憶は、紡錘形の細い先端部分から無の部分へと既に移行してしまっている。いったい、僕の“結晶”に何が起こったんだろう。
「忘れないうちにこれを渡しておこう」シロカミさんが言う。シロカミさんの右手には新しいインターチェンジが握られていた。僕は黙ってそれを受け取った。「風呂にでも入ってきたらどうだい?」シロカミさんの指差すほうを見ると、“大浴場はこちらです”と書かれた立て看板があった。正確には立て看板のように見える立体映像だ。矢印が書いてある。
「いいな。俺も入ろう」ポーさんが言った。
「インクルージョンは大丈夫ですか?」僕はシロカミさんに聞いてみた。
「うむ、このグラフによるとまだ余裕があるようだ」
「じゃあ、行ってきます」僕は言った。
「私はこれで帰るから」
 僕たちとシロカミさんはそこで別れた。ポーさんと僕は“大浴場はこちらです”と書かれた案内板に従って歩いていった。案内の看板の映像は通り過ぎて振り返るともう見えなくなった。そういう仕掛けになっているのだろう。最初の大きな看板は、左の通路を行くように矢印が指していた。天井には規則正しく丸い照明が並んでいる。通路の壁面にはところどころに絵が飾ってある。僕はそれらの絵を見る余裕もなく、次々に現れる矢印の映像を追っていった。次の比較的小さな看板には“大浴場”とあって矢印が階段を下りるように示してあった。僕たちは階段を下まで下りた。するとまた案内板が現れて、今度は右に行くようにとある。右に曲がって行くと渡り廊下になっていて外の景色が見えるようになっていた。外はだいぶ薄暗くなってきていた。下のほうに街のつき始めた色とりどりのやさしい灯りが見える。僕たちはかなりの距離を歩いてきたのだということがわかった。別の棟らしいところに入り、しばらく通路を歩くと突然がらんとした広い場所に出た。見渡すとマッサージチェアが置いてあったり、飲み物の自販機があったりした。そして向こうの中央に“ゆ”と書かれた大きなのれんが下がっていた。あそこだ。僕たちはその中に入った。すると、今度は“男”と“女”と書かれた二つののれんがあった。僕たちはもちろん“男”のほうに入った。そこはまたがらんとした脱衣所になっていた。誰かが使ったらしい整髪料の臭いがした。着替えている他のお客さんが見える。僕は適当な空いた脱衣ボックスを見つけると、手早く服を脱いだ。
「インターチェンジはとらないほうがいいぜ。防水加工になってるから心配ない」少し離れたところでポーさんが服を脱ぎながら言った。
「でも風呂に入るときは腕時計ははずすだろ?」
「ああ、まあ好きにせえ」ポーさんは自分のインターチェンジをはずさなかった。
 僕たちは大きな引き戸をがらりと開けて大浴場の中に入った。中は湯気がたちこめていて、壁面には薄暗い照明が灯っていた。片側に体を洗うシャワーが取り付けてあるところがあった。僕はまず体を洗うことにした。湯船に入る前には必ず体を洗うのが、僕の流儀だ。まあ、当たり前か? と思って体を洗いながらポーさんのほうをちらと見ると、もう湯船につかっているではないか。あの野郎、他人のインクルージョンだと思って──不潔野郎め。僕はそう思った。湯船はひとつだけではなかった。いくつかある中で、僕は岩屋のようになった風呂に入ることにした。そこに入るとなんだか洞窟の中にいるような感覚だった。黄色い照明も効果的に照らされていた。僕は両手に湯をすくって顔をぬぐった。ふー、いい気分だ。そんな感想が自然に浮かぶ。湯が少し熱めだ。しばらくしてポーさんがこちらにやってきた。そして、黙って僕より少し離れたところに腰を下ろした。あっち行ってくれないかな、不潔野郎。そう思っていると話しかけてきた。
「なあ、俺たち、どうして意識を結晶化していると思う?」
 僕は今までそんなこと考えもしなかった。だから、あいまいな返事をした。
「さあ、知らない」
「前にシロカミさんに聞いたことがあるんだ。でも、そのことは教えてくれなかった」
「あっそう」僕はそんなことはどうでもいいような気がした。あのインターチェンジでさっさと結晶のほうに意識を戻せばいいのだ。何もそんなことを疑問に思うことはない。僕はポーさんに少し冷たく答えてしまったかなあと思って、ちらと顔をうかがったが、別にどうということもなく無表情だった。しばらくの沈黙。
「じゃあ、俺帰るから。またな」そっけない言葉。そう言うとポーさんは風呂を出て行った。僕は黙っていた。またどこかで会おうな、くらい言えばよかったかなと後で思った。
 僕はしばらくして風呂、大浴場を出た。脱衣所にポーさんの姿はもうなかった。僕は服を着てインターチェンジを装着すると、もうしばらくここに居たい気がしてきたので、食事でもしてから帰る(結晶のほうに意識を戻す)ことにしようと思った。僕のインクルージョンはすこぶる安定している、と自分でも感じるのだ。もと来た通路を逆にたどりながら、自分の部屋はどこかなと思って、鍵に付いたタグを見てみると“526”とあった。五階か。迷路のような通路で、もう自分がどこに居るのかさえわからなかった。タグに付いたボタンを押してみると目の前にこの旅館の全体の地図らしき映像が出てきた。現在位置はこの赤い点らしい。僕はそれでもよくわからなかった。とにかくエレベーターを探そう。僕がそう思って通路を歩いていたら、ちょうど従業員らしい紺の制服を着た中年の男の人が通りかかった。
「いらっしゃいませ。ごゆっくりどうぞ」
僕はちょうどいい機会だと思ったので、尋ねてみることにした。「あの、ちょっとうかがいますけども」
「はい」
「自分の部屋がどこなのかよくわからなくて、とりあえずエレベーターを探しているんですけども──」
「エレベーターはですね、えー、ここから二番目の通路を右に曲がって、突き当たりを左に行きます。そして、三番目の通路をまた左に曲がって、しばらく行きますと右手に階段がございます。そのすぐ隣にエレベーターはございます」
「はあ、ずいぶんとややこしいですね」僕は言った。
「タグのほうにナビゲーション・システムが付いておりますが、なにぶん当館は広いですから──私がご案内しましょう」
 僕はこの従業員のうしろについて行くことになった。いくつかの宴会場らしい部屋の前を通り過ぎ、いくつかの角を曲がると、ふきぬけになった広い場所に出た。ロビーで見たのと同じ大きな観葉植物が置いてあり、噴水がある。高い天井はガラス張りだろうか、美しい星々のまたたく夜空が見えている。庭には薄暗い感じのいろんな色の照明が灯っている。そのフロアの中央にエレベーターはあった。
「こちらです」その年配の従業員はめんどくさそうなそぶりをまったく見せず、丁寧に案内してくれた。「五階に着きますとお部屋のほうはすぐにおわかりになると思います」
「ああ、どうもすみませんでした」
 僕はエレベーターに乗ると、五階のボタンを押した。五階に着くまで誰も乗って来なかったので、思ったより早く着いた。廊下にはじゅうたんが敷いてあり、歩く度にフワフワとした感覚がある。ところどころに観葉植物が置いてある。僕はちょうど通りかかったところにあった観葉植物の葉を触ってみた。やっぱり。よくできた人工のプラスチックでできた観葉植物だ。こんな日光のあまり当たりそうにないところで、うまく育つはずがないんだ。でも、見た感じは悪くない。ということは、さっきのふきぬけのフロアにあった植物もみんな人工の植物なのかな。ほどなく自分の部屋に着いた。鍵でドアを開けて中に入った。照明が自動的に灯る。シングルだがなかなか広く、物書き用の机と椅子が置いてあるし、また人工の観葉植物なんかも置いてある。椅子に座ると机に付いている装置が自動的に作動した。スクリーンにこの旅館の案内が現れた。「当旅館をご利用くださいまして、誠にありがとうございます──」僕はちょっとうるさいなと思ってオフのボタンを押そうとした。「お食事はこちらへおいでください」なになに? ふむ、最上階と一階に食べるところがあるのか。スクリーンにはこの他にこの旅館の近くにある観光名所の案内なんかが次々に流れていた。僕はオフのボタンを押した。
 僕はもうなんだか疲れた。食事をしたいところだが帰ってもいい。僕は左腕に付けたインターチェンジを眺めた。帰ろう。早めに帰ったほうがいいのだ。僕は窓際に行って、窓のブラインドのスイッチを探した。それはすぐにみつかり、僕はスイッチを切った。すると、さぁーっと外の風景が現れた。見えるのはまばらな街の灯りと、満天の星空だけだ。暗い空をずっと見ていると赤や緑の光の点が動いている。あれは飛行貨客船だろう。一通り外の風景を眺めると僕はブラインドのスイッチをオンにした。すると窓はまた壁の色と同じベージュになった。僕は椅子に座り、インターチェンジのボタンを押すことにした。次のインクルージョンはどんな世界なのだろう。僕はちょっと期待を抱きつつ、ボタンを押した。


ドリーム4 鉱石

“いじめる”と言うのはいじめられたほうがそう言うのであって、自分はいじめたという認識はないのだ、だから、いじめた覚えはない──という論理は、まったく卑劣だ。こんな幼稚で卑(いや)しい論理を平気で言うやつは、ろくでもないやつに決まっている。街を歩いていると突然、誹謗中傷されることがある。見ず知らずの人に容貌について、外見について、思いつく限りのあらゆる悪口を言われるのだ。僕は急に気分が悪くなり、早々と家路につくことになる。そして、もう二度と外を出歩かないと誓う...。


そう、始まりはいつも突然にやってくる。僕は“何か”に追われていた。山道を懸命に、できるだけ早く歩いて、ときどき走って、“何か”から逃げていた。まるでいやな白昼夢を見ているようだ。気温は涼しく、山も紅葉がそろそろ見られる季節だ。しかし、そんな感慨に浸っている場合ではなかった。道はところどころ凸凹していて、走るのは難しい。それに、朝早く目覚まし時計に無理やり起こされたときのように、なんだか眠気がある。でも、“何か”から追われているという感覚が、足を強制的に前に運ぶ。その感覚とともに、さっきから僕の頭の中をノイズのようにひとつのメロディが繰り返し、絶え間なく聞こえている。いや、聞こえていると言うより、脳がそれをメロディとして認識しているだけで、実際に聞こえているわけではない。

イーバ、アーゼ、チーガ、
ローズ、アーゼ、ンードゥ、
イーバ、アーゼ、チーガ、
ローズ、アーゼ、ンードゥ、
トゥルトゥトゥトゥトゥ、トゥルトゥトゥトゥトゥ、
トゥルトゥトゥトゥトゥ、トゥルトゥトゥ!
トゥルトゥトゥトゥトゥ...

なんだかアリアのような感じにも聞こえる。それに音楽が加わったひとつのメロディだ。それが頭から離れない。ずっと聞こえている(メロディとして認識している)。僕を追う“何か”が、それを発して、僕の意識を狂わすために脳に直接攻撃しているのかもしれない。僕はなぜかそう思った。しかし、メロディの繰り返しが頭から離れないだけで、特に害と言うものは感じない。むしろ鼻歌を歌うように、なんだか心地いいし、気分も昂揚してくる。僕は逃げているのではない、急いである場所に向かっているだけだ。そんな気がしてきた。

イーバ、アーゼ、チーガ、
ローズ、アーゼ、ンードゥ、
イーバ、アーゼ、チーガ、
ローズ、アーゼ、ンードゥ、
トゥルトゥトゥトゥトゥ、トゥルトゥトゥトゥトゥ、
トゥルトゥトゥトゥトゥ、トゥルトゥトゥ!
トゥルトゥトゥトゥトゥ...

しばらくして舗装された道路に出た。僕はできるだけ走った。山の中の狭い道だ。いつ舗装工事がされたのか、おそらくずっと昔だろう。カーブには苔むした大きなミラーが雑草に囲まれて虚しく立っている。とうに忘れ去られたような、寂しい道だった。角を曲がると突然、大きな穴、トンネルが現れた。僕はその異様に真っ暗なトンネルに吸い込まれるように入っていった。後戻りはできないのだ。向こうに出口の明かりが見えている。聞こえていた(認識していた)メロディはトンネルに入るとだんだん強く、僕の頭を刺激し始めた。トンネルの側面には、防空壕のような横穴が等間隔に開いていた。この横穴はどこに続いているんだろう。考えただけでぞっとする。この横穴の奥では得体の知れない生き物がうごめいているのだ。僕は出口に向かって、まっすぐに走った。すると、周りの闇が文字通り追いかけてくるような感覚におちいった。いくら早く走っても追いつかれてしまう。そんな感覚だ。なんだか体中の汗腺から汗がふき出して、全身に鳥肌が立つような強いふるえを何度も感じた。そういういやな感覚に襲われたが、ほどなくトンネルから抜け出せた。僕は立ち止まって振り返る。何も見えない。そこには闇があるだけだ。しかし、“何か”が追ってくる感覚は消えない。メロディは幾分弱くなった気がする。僕はまた道の先を急いだ。できるだけ早く。
しばらく歩いたり、走ったりを繰り返すと人家が見えてきた。助かった。かくまってもらおう。僕はためらうことなくその家の玄関の戸を開けた。
「ごめんください」僕はしんどくてはあはああえぐのをできるだけ押し殺して言った。しかし、こんな山奥によく住んでいるなあ、と思いながら玄関に置いてある大きな水槽を泳ぐ赤い魚(金魚?)を目で追っていた。不思議なことに、さっきまで聞こえていた(認識していた)メロディは玄関に入るとはたとやんだ。僕を追う“何か”は追跡をやめたのだ。僕はそう思った。しばらくして、この家の住人が出てきた。
「──どうされたのですか?」そのショートカットの女の子は、ちょっと切迫した雰囲気を醸し出している僕を見て言った。「あれ、もしかしてパロット?」
「え、どうして僕の名前を?」僕は言った。
「どうしてって、ボクのこと忘れたの?」その女の子は自分のことをボクと言い、また、内容がちょっと気にかかることを言った。僕はどちらかと言えばというより、完全な奥手で、女の子の知り合いなんて絶対に居ない。ジェミーを除いて──。
「忘れたも何も、もともと知らないんだけど...」
「ひどいな。ボクはパロットのことよく知ってるのに」この娘は頭がおかしいのか、こんなところで偶然にも知り合いに出会うはずがない、しかも女の子に──とも思ったが名前を知っているってことはあるいは──いやいや、僕に限ってそんなことは──もしかしてメイト? そんなはずは──「あいつらに追われてるんだね。いいよ。かくまってあげる。この家の中にいれば安心だよ。でも、この貸しはいつか返してよね、絶対だよ」
 僕はそれ以上、何も言うことができなかった。いつの間にかそういうことになって、家に上がらせてもらった。僕は応接間に案内された。
「ここで適当にくつろいでね。じゃ、飲み物持ってくるから」その女の子は言った。そのとき、奥の部屋から、年配の女性が応接間に入ってきた。
「リナ、誰か来たのかい?」その年配の女性は言った。
「うん、パロットが来てくれたんだよ」女の子は言った。この娘、リナっていうんだ。
「あの──」僕はよせばいいのに確かめてみることにした。
「なに?」
「名前、リナっていうんだね」僕は言った。
「え? それっておかしいよ。ボクのことほんとに知らないって言うの?」女の子は──リナは言った。
僕はさっきから気になっていたことも聞いてみることにした。「うん。それに君って、女の子だよね?」
「失礼な。ボクはれっきとした女だよ。ばあちゃん、さっきからパロットが変なことばっかり言うんだよ。どう思う?」
「どうも。ちょっとわけがあってお邪魔してます」僕はその年配の女性──ばあちゃんに挨拶した。
「うん、そう言えば変だねえ。石の妖精さまが予言したとおりになったんじゃろうて」ばあちゃんは言った。
「ああ、そうか。そうかもしれないね。パロット、まあ、座ってくつろいでよ。今飲み物持ってくるから」リナはそう言うと奥の部屋へ行ってしまった。
 応接間には僕とばあちゃんの二人だけになった。黙っているのも何か悪い気がしてきたので、さっきばあちゃんが言った、“石の妖精さま”について聞いてみようと思った。「あのう──」
「石の妖精さまのことかい?」ばあちゃんは言った。
「え、は、はい...」僕はどきっとした。このばあちゃん、心が読めるのだ。
「お告げがあったんじゃよ。おまえさんの身に何かが起こるとな。何かはわからんがとにかくよからぬことが近いうちに起こるじゃろうということじゃった」
 しかし、この世の中に妖精だの予言だの、まったく変なばあちゃんだ。あ、もしかしてこんな感想も読まれているのかな。
「はい。おまえさんの心を読んどると退屈せんわい」ばあちゃんはふぉっふぉっと笑って言う。
「ははは」僕は苦笑した。
「それより、おまえさんは石の妖精さまに会わにゃならん。会わせちゃるけんね」
「あ、はい」僕はだいぶ落ち着いてきた。何かに追われていたこともほとんど意識の外にあった。眠たいという感想も。しばらくして、リナが飲み物を持ってきてくれた。
「はい、パロット」リナは言った。そして、飲み物をテーブルの上の僕の前に置くと、自分は僕の隣の椅子に座った。
「あ、ありがとう」僕はその飲み物を一気に飲み干した。オレンジ味のすっきりと甘い飲み物だった。「リナはメイトなの?」
「メイト? なにそれ」
「いや、いいんだ」やっぱり違うんだ。リナはメイトじゃないらしい。じゃあ、どうして僕の名前を知っているんだろう? 確かに僕にはシロカミさんに会う以前の記憶がない。あるのかもしれないがそれは記憶のグラフの紡錘形の細い先端よりももっと先にあるのだろう。まったく思い出せない。どうしてこうも僕は記憶があいまいだったりするんだろう。記憶というものはもともとそういうものかもしれない。だけど、僕の場合、それが極端過ぎるのではないか。結晶が不完全なのにも関係があるらしいが...「さっき、あいつらって言ってたよね。何者なの?」僕は言った。
「そんなことも知らないっていうの? あいつらはあいつらさ。名前なんてない。とにかく悪い連中さ」リナはあきれた様子で言った。
「ふーん」
 しばらくの沈黙。
「それじゃ、そろそろ石の妖精さまに会いに行くかい?」ばあちゃんが言った。
「あ、はい」僕は半信半疑だったし、第一、なんでそんなものに僕が会わなきゃいけないんだ。そう思った。
すると、ばあちゃんがすかさず心を読んで言う。「まあまあ、ついてくればよろしい」
「はい」僕はばあちゃんについて行った。リナも後についてきた。応接間を出て南側の長い廊下を通り、しばらく行くと広い部屋に着いた。部屋の中は薄暗かったが、僕たちが中へ入ると同時に照明がついた。部屋と言うより、ガレージのような納戸のようなカビくさい臭いのする部屋だった。壁には一面に天井まで木製の棚が設置してあり、見た感じが地味な鉱物標本が無数に置いてあった。部屋の真ん中には椅子と机。左の壁には何かを祭った祭壇のようなものがある。僕たちはその祭壇の前まで来た。
「あれが石の妖精さまが眠っていらっしゃる鉱石、モルダヴァイトじゃ」ばあちゃんが言った。その視線の先は、祭壇の中心に向いている。見ると、子供の握りこぶし大くらいの鉱石の結晶が、小さな座布団の上に安置してあった。モルダヴァイト──聞いたことがある。隕石が地球に落下した時、その熱で地球の鉱石が溶けて飛散し、再び固まったものらしい。つまり、遠い宇宙からやってきた隕石の成分と地球の鉱石の成分とが混ざり合ってできた鉱石。それがこんなに大きな結晶になるなんて、それは聞いたことがない。よく見るとところどころ平面があったり、溶融したあとらしい波打った面も見える。透明度があって、色は緑だがはっきりした色ではなく、どちらかと言えば暗い感じで、神秘的な弱い光を内部から放っているようにも見える。しかし、僕はどうしてモルダヴァイトについての知識を持っているんだろう? 少し気になったが、それ以上は深く考えなかった。ばあちゃんは旧世紀のゴーグルを付けて、祭壇の横のほうの、何かの装置らしいものをいじっている。「ちょっと待っとれよ。今、妖精さまに覚醒していただくけんの」
「ばあちゃん、手伝おうか?」リナが言った。
「ん、頼むわい」
 ばあちゃんとリナは祭壇のわきに付いているスポットライトのようなものを調節したり、横の装置のボタンを何回か押してみたりしていた。どうやら、石の妖精さまを呼び出す装置は旧式らしい。僕もどちらかと言えば機械には弱いほうだ。しばらくしてばあちゃんが装置を一回叩くとブーンという低い音とともに、スポットライトのように青い光がモルダヴァイトに照射された。モルダヴァイトはにぶい緑色の光をいっそう強く放ち始めた。
「やった」リナが言った。その石はみるみる強い光を放ち始め、ついには部屋全体が弱い緑色の光につつまれた。そして、祭壇の前にひとつの立体映像が現れた。これがまぎれもなく石の妖精さまだとわかるけれども、なんとなくぼやけていてはっきり見えない。人間のように顔や手足があり、茶色いぼろぼろになった布をまとっていて、右手には杖のようなものを持ち、首には緑色の丸い玉がいくつも付いたネックレスのようなものを付けている。
「これが石の妖精さまなんですか?」僕は言った。
「失礼な言い方をするんじゃないよ。このかたが正真正銘、石の妖精さまだよ」ばあちゃんが言った。
 僕はうさんくさいなあと思った。だって、これは装置によって投影されている映像でしょ? この装置の中に組み込まれている映像なんでしょ? いくら機械に弱いからといっても、それくらいはわかる。
「これだから下手に年を食ったもんはだめなんじゃ。目の前の神秘を認めようとせん」ばあちゃんは情けないと言わんばかりの表情になって言った。
「いえ、僕、けっこう若いほうなんですけど──」僕は反論した。
「石の妖精さまを呼び出す装置が開発されて以来、わしらはどんなに助けられたことか。畑の野菜がうまく育たんかった時も、石の妖精さまのお告げのおかげで食料を前もって保存することができたし、悪いやつらにだまされそうになった時も助かった。わしらがこうして生きとるのもみーんな、石の妖精さまのおかげなんじゃ」
「ほんとですか?」僕は言った。
「わしはうそは言わん」
「パロット、ばあちゃんの言ってることはほんとだよ。ボクも請け合うよ」リナが言った。
そこまで言うなら信じよう。信じる努力をしよう。僕はそう思った。
「いやー、なんやかや言うても、自分人間やろ? そやったらまず同じ人間の言うことは信じなあかんわ。そりゃ、悪いやつもおります。そやけど世の中それが基本やで。人を疑うちゅうのはサイテーや」突然、この石の妖精さまが勢いよくしゃべりだしたのだ。
僕はしばし呆然となった。
「はい、妖精さま。パロットはまだなんにも知らないみたいなんです。予言されたとおりになってしまったみたい」リナが言った。
 さっきより幾分、石の妖精さまの像がはっきりし始めた。だんだんと横の装置の調子がよくなってきたようだ。
「あのう、あなたが石の妖精さまですか?」僕は言った。
「そうやけど。なんか文句ある?」石の妖精さまは不機嫌そうに言った。
「いえいえ、あの僕、パロットといいます。はじめまして」
「やめろや、そんな堅苦しいあいさつは。それに名前は知っとるし。あんさんにまつわる予言ちゅうのをな、この前呼び出された時にばあちゃんとリナに言うたんよ。そしたらリナが大泣きしよってん。わし、びっくりしてな。あと謝ったんやけどな、なんか後味悪うてなあ。もう一回謝っとくわ。ごめんな、リナ」
「ううん、もういいんです。ありがとう、妖精さま」リナは言った。
「それでな、パロット。あんさんの身に何かよからぬことが起こっとるっちゅうのは、わかってるよな」石の妖精さまは言った。
「はい、だいたい。結晶のことですよね。僕の結晶が不完全なせいでインクルージョンの世界がどうかなってしまうっていう──」
「そう、そこやがな、問題は」
「もちろん、この世界もインクルージョンのひとつなんですよね?」僕は尋ねた。
「ちゃうちゃう。この世界はちゃんと独立した世界、意識の集まる場所、なんちゅうたらええかな、とにかく“もとの世界”っちゅうことや。インクルージョンちゃうで。結晶のほうとも違う」
「でも、すべての意識は結晶化されて、結晶のところにあるんでしょう?」僕は言った。
「そりゃそうやけど、この世界がいわば本当の現実の世界っちゅうわけや」
 僕はなんだかますますわからなくなってきた。僕はいったいどの世界に生きているんだろう。
「ま、とにかくあんさんはこれから“真のモルダヴァイト”を探さにゃあかんのや。そして、寝とる妖精をたたき起こして、結晶を完全にする方法を聞け。それがあんさんの使命や」妖精さまは言った。
「その“シンのモルダヴァイト”っていうのは?」僕は尋ねた。
「そりゃ大昔のことや。ツングースカっちゅう深い森の中で謎の大爆発があった。隕石のようなものが落ちたっちゅう話やが、その痕跡は一点を中心に持つ同心円状になぎ倒された森の木々くらいで、隕石そのものはみつかってないんや。おそらく氷でできた隕石なんで、空中で溶けてなくなったっちゅう説が有力やが、なぜかモルダヴァイトはみつかった。そこがミソなんや。そのモルダヴァイトは実は人の意識を食いよる化け物だったんや。まず最初にそれをみつけた村人が犠牲になった。それに触った村人は自分の意識が他の不特定多数の人間の意識と混ざってしまいよって、前後不覚の強い精神症状を起こして、ついには意識がなくなった。つまり、死んだも同然やな。こりゃあかんちゅうことで、ある世界的に有名だった研究機関がその石を完全に封印したんや。そこまではよかったんやが、誰かさんのひまつぶしのお遊びのせいで第三次世界大戦が勃発よ。保管してあった研究棟は破壊され、どさくさにまぎれてその石が盗まれてしもうたんや。実はそのとき、その石を使って新兵器の開発がなされていたらしい。研究日誌みたいなもんも一緒に盗まれたらしいんや。それから、人間たちは瘴気の中から奇跡の復興を成し遂げて、今に至るわけやが、そのことはまったく忘れ去られたままや。あとな、その石は人間の意識を混ぜることもできるが、逆に統合することもできるんや。わしはなんもできんけどな。ついでに言うとくと、石自体の色はわしのとちごうて青や」
 僕は歴史にはうといほうだが、興味はあった。あの大戦のことはよく知らなかったし、“真のモルダヴァイト”に関する伝承のようなものも聞いたことがなかった。「じゃあ、僕はいったいどこを探せばいいんですか?」僕は尋ねた。
「そのうち向こうからあんさんの手に入ることになるはずや。不完全な結晶を持つあんさんは特別やからな。言うても、素手で持っちゃああかんで、意識を他の意識と混ぜられたらおしまいやからな。うまくその“真のモルダヴァイト”に宿っている妖精さまとうまく交渉せなあかんのや。そやからな──あ、あら...」そこまで言うと石の妖精さまの像に、ノイズが入り始めた。
「いかん」ばあちゃんが叫んだ。そして、横の装置のボタンを何回も押したりして調整した。しまいには叩いた。やがてそれも虚しく、完全に石の妖精さまの像は消えてしまった。
「消えちゃったね。よくあるんだよね、こういうことって。もう少しってところで、消えちゃうんだ」リナが言った。
「だいたいわかったよ。僕は“真のモルダヴァイト”を探さなくちゃいけない」僕は言った。
すると、リナが反論した。「でも、どうやって? 手がかりもないのに──」僕は一瞬、答えることができなかった。もう一度、シロカミさんに会えば何かわかるかもしれない。しかしここは、インクルージョン世界ではない。普通の普段の日常がある、なんの変化もない、平穏な世界。“あいつら”っていうのが気になるが、今のところなんの害もない。追われているってことだけは、確かなようだが...。とにかく、僕はいったん結晶に意識を戻す必要がある。そしてまた、インクルージョン世界の中でシロカミさんに会わなければいけない。
僕は何気なく、左腕に付けた腕時計を見た。あれ、腕時計なんかしてたっけ? 「あっ、これは!」まぎれもなく、インターチェンジだった。「これで、あの世界へ行けるよ」
「それなに?」リナが言った。
「インターチェンジっていうんだけど(名前はどうでもいいか)、とにかく意識を結晶に戻してくれる装置なんだ。それで、インクルージョン世界に行けるんだ」僕は言った。
「ふーん、よくわかんないけど」リナはこれから悲劇が起こるのではないかという不安を声に乗せていた。少なくとも僕にはそう聞こえた。ばあちゃんはまだ装置をいじっている。
「じゃあ、僕、行くよ」僕は言う。
「行くってどこへ?」リナは言った。
「だから、インクルージョン世界へ」
「ちょっと待った。まだ来たばっかりでしょ? 食事くらいして行ったら?」リナは提案した。僕はちょっと迷った。早く“真のモルダヴァイト”をみつけないといけない。でも、このまま行ってしまうのはリナに悪い気がした。僕は決めた。
「わかった。お言葉に甘えて、そうするよ」僕は言った。
「よし、そうこなくちゃ! ばあちゃん、機械はもういいから、食事のしたくしよう」リナは言った。
「んー、あと少しでパワーが入るはずなんじゃが──」ばあちゃんが言った。
「うん、もういいから。早く。パロットの気が変わらないうちに、ね」
「そうかい、じゃあ、そうするとしようかのう」ばあちゃんはゴーグルをしぶしぶはずして奥の部屋へ行った。
「さっきの部屋で待ってて。すぐ食事の用意するから。ボクが腕によりをかけて、忘れられないくらいおいしいもの作ってあげるからね」リナはそう言って、ばあちゃんの後を追った。僕は頷(うなず)いて、さっきの応接間に向かった。
 えーと、この部屋を出て左の通路を行くんだったな(部屋に入ったのは右からだったのだから?)──僕は自慢じゃないがひどい方向音痴だ。見ると同じような、見たことあるような通路だ。壁の上のほうには明かり取りの窓が等間隔に付いていて、青い空と白い雲が見えている。来る時、この通路を通っただろうか? 記憶が定かでない。こんなついさっきのことすら覚えていないのだから、シロカミさんに会う以前のことなんて覚えているはずがない。当然だ。僕はそう思いながら、通りかかった部屋のドアを開けた。ここだったっけ? 見ると部屋の中にはベッドと机と椅子、誰が描いたのかわからない森の絵、天井には大きな天窓、といった明るいが少し狭い部屋だった。ゲストルームかな? 天窓には美しいさわやかな青空が見えている。白い雲がゆっくり動いている。だが、本当の空ではない。なぜならここは三階建ての一階だからだ。僕は自然に机の上の旧世紀の写真というものが立て掛けてあるのに気が付いた。僕は気になって部屋に入り、その写真を見た。僕は驚いた。リナの横に写っているのは、まぎれもなく僕だった。どうしてだ? 僕はリナとツーショットで写真に写るくらい親しかったのか? いずれにしても記憶の紡錘形のグラフの細い先の向こうに答えがありそうだ。深く考えたって仕方ない。僕はそう思った。リナの写真があるということは、ここはリナの部屋なのかな? 僕は机の上にあるアルバム装置をいじってみた。すると、立体的な映像が現れた。また、リナと僕のツーショットだ。次の映像も、その次の映像も、場面はそれぞれ違うが、確かに僕がリナのとなりに居る映像だ。僕とリナとの間に何があったのか、今となっては思い出すのは不可能だ。そんな気がする。机の上には開きっぱなしになった日記が置いてあった。最新式の日記帳だ。僕は少し悪いかなと思ったが、僕のことが載っているかもしれない。僕の過去を知るてがかりが見つかるかもしれないのだ。ためらうことなく“再生”のボタンらしいのを押す。するとリナの声と立体映像が出てきた。
《今日、石の妖精さまのお告げを聞いた。明日、パロットがうちに来るらしい。ボクはあれ以来、まったく会っていないので、明日が楽しみだ。ボクの野望が達成されるのももうすぐのような気がする──でも、楽観はしないことにする、以上》
 少しギクシャクした声だが、確かにリナの声で、映像はさっき見た石の妖精さまが映ったり、リナが映ったりしていた。昨日の日記はここまでらしい。リナの野望ってなんなんだ? 少し気になるが、あまり気にするのもどうかと思う。このことはひそかに胸にしまっておこう。僕はそのリナの部屋を出ることにした。それにしても、応接間はどこなんだ。
 僕はまた部屋を出て左の長い通路を歩いた。しばらく行くと少し大きな部屋に着いた。ここだ。僕は大きな窓から見える山々の景色を眺めた。“あいつら”はもうどこかへ行ってしまっただろうか。それにしても、どうして追いかけられなくちゃならないんだ。そういえば、やつらの姿を一度も見ていない。姿のないものなのか? でも、追いかけられている最中は、とても恐ろしい切迫した気持ちだったのを覚えている。もうあきらめただろうか? それが気になる。この家の他にも家はあったけど、一軒一軒調べられるとお手上げだな。そうしていたとしたら、もう来てもいいころだ。リナはこの家の中に居れば安心だと言っていた。何か“あいつら”が入ってこられない理由があるのかな。
 僕はしばらく椅子に座ってぼうっとしていた。本棚には百科事典だの物語だのといった本が雑然と並んでいる。なになに? 『大陸の歴史』か、興味はあるが今更見たって仕方ない。学校で習ったが、試験の対策のためだけの授業だったから、おもしろくなかったな。どの国にどんな人物が居て、何を成したか。そんなのでなしに、交易の中心地で暮らしていたそのころの僕と同じ年頃の少年がどんな物語を生き、寝床の小さな窓から星々の瞬く夜空を見上げて何を思っていたか。たぶんそんな話が聞きたかったような気がする。そうもっと昔の生活の様子が知りたかったなあ、昔の人が何を考えながら生活していたか、自然環境はどうだったとか。きっと、とても美しい世界が広がっていたんだろうなあ。──学校か──学校? そうか。リナとは学生の時の、クラスメイトだったんじゃないか? そんな気がするが、僕の記憶はそのことを明確に示してはいない。
 しばらくして、リナとばあちゃんが料理を持ってきた。テーブルに並べられた料理を見るとどれもうまそうに見える。メインは鶏肉の入ったシチューだ。
「じゃあ、パロット、遠慮なくやってよ。おかわりあるからさ」リナが言った。
「うん、いただきます」僕は言った。
料理はどれも見た目以上においしかった。野菜が特に新鮮だ。野菜を取らないとガンで死亡する確率が上がるらしいからな。しっかり食べておこう。このシチューときたら、コクがあって具もよく煮えていて絶品だ。ばあちゃんとリナも僕と一緒に食事をした。
「ねえ、パロット。インクルージョンとかっていったいなんなの?」リナが尋ねてきた。
「うーん、要するに僕たちメイトの──あ、メイトのことも知らないんだっけ? 僕も実は詳しいことはよくわかんないんだけど、メイトっていうのは意識を結晶化してるらしいんだ。その結晶が僕の場合、不完全なんでこういうことになってるらしいんだ。僕たちはインクルージョン世界からエネルギーをもらっているわけなんだ。生きていくための力をね」僕は食べるのを少し休んで答えた。
「ふーん。じゃあ、その世界に行かないとどうしてもだめなんだね?」リナは言った。
「うん、仕事みたいなもんさ」僕は頷(うなず)いて、また食べるのを再開した。僕はそのとき、仕事はもううんざりだと思った。馬の合わない連中から自分への悪い風評を聞きながら、毎日毎日、同じ精神作用の繰り返し。つまり、疲労と憎悪と忠誠の矛盾した精神の営み。それでも、仕事の手を休めない歪曲した心。そんな精神生活はしたくない。カネというものがなくなって、いったいどれだけの不幸がなくなるだろう。今の時代、無理に働かなくてもいいのだ。少なくともこの現実世界にはそんなものは必要ない。そんな気がする。「そう言えば、リナは人の心が読めるの?」
「内緒。それを教えちゃったら、ボクとてもじゃないけど人前に出れないよ。ばあちゃんはもう慣れてるからいいみたいだけど」リナは言った。
「いんや、わしも人に心が読めることはあまり言わんことにしとるんじゃ。悪い気を起こされたらいけんからの。おまえさんは別じゃ。おまえさんは確かな精神を持っておる。結晶が不完全なのはそれが影響しとることも考えられるんじゃ。いや、そうに違いないんじゃ。わしが保証する。じゃから、そのことで自分を責めちゃいかんぞえ」ばあちゃんはスプーンを振り回しながら言った。
「わかりました」僕は自分の精神のことを褒められて、少し頬を赤くした。いや、そうなったと思う(自分では鏡でないと見られない)。
 食事は和やかなうちに終わり、ばあちゃんとリナは皿を片付けた。そして、コーヒーを持ってきてくれた。僕は何も入れないほうがいいんだと言って、いつものようにブラックを飲んだ。とてもおいしい食事だったし、このコーヒーもおいしい。こんなささやかだが気持ちのいいだんらんは久しぶりのような気がする。満足に会話はできなかった気がするが、ばあちゃんもリナも、僕のことを理解してくれている。信頼してくれているのかどうかはわからないが、とても優しい。僕もうまく言えないが、信頼しているのだという態度をとらないと失礼だ。失礼と言うより、僕の全人格がそうしないといけないんだと訴えている。でも、それは意外と難しいことだということに後で気付いた。なんでもいい、とにかく僕はあなたたちを当然憎んではいないし、機嫌を損ねるようなことはしたくない、ということを会話や態度で示さなくては。しかし、その思いは成就しないまま、別れを迎えることになった。
「じゃあ、僕、行くから」椅子に座ったまま、僕は言った。
「本当に行っちゃうんだね、パロット。なんて言ったらいいかわかんないけど、どんなことがあってもボクはパロットの味方だからね。これだけは忘れないで...。いつだって応援してるからさ」リナは言った。僕はなんだか直接そんなことを言われると、恋人ではないのに自分はリナの恋人であるかのような気分になった。僕はこれは愚かな気持ちだと思い、すぐにその気持ちを消去しようとした。リナの部屋で見たツーショット写真と映像、あれは何を意味しているのか。恋人だったかどうかはわからないが、いずれにしても、リナは僕のずっと前からの親しい知り合いなんだ。そんな気がした。
「じゃあ、おばあさんもお元気で」僕はばあちゃんに言った。
「ん、わしゃいつでも元気じゃわい」ばあちゃんが言った。
 僕は立ち上がってインターチェンジのボタンをなんとなくいい気分で押した。見えている周りのあらゆる像が波打ち始め、低いうなるような音がして、僕の意識はその世界から消え失せた。意識が消える寸前、リナの声が聞こえたような気がした。
(ボクは味方だから...)

{リナの日記}
 少しギクシャクした声。パロットの映像。
《今日、予言どおりパロットがうちに来てくれた。あの頃とちっとも変わってなかった。パロットはいつでも優しいし、自分の信念に従って行動している。ボクが見込んだ男だ、間違いはない。でも、またすぐにどこかへ行ってしまった。インクルージョン世界って言ってたけど、よくわからない。メイトの仕事はとにかくその世界でなんとか生活しなきゃいけないようだ。そうそう、パロットにはボクがメイトのことを知っていて、それになろうとしているってことは内緒にしておいた。特に意味はないんだけど。──ボクはメイトになれるだろうか? いや、ならなくてはいけない。それがボクの野望なのだから──以上》


ドリーム5 戦闘

 人は何か目的を持って行動しないと評価されない。街中や公園をなんの目的もなく、ぶらぶらと歩くことは許されないのだ。何か目的を持たないと...そう、恐喝でもいい。痴漢でもいい。殺人だってかまやしない。とにかく、目的が必要なのだ。ただ、これらの場合は悪い評価しか与えられない。だから、僕は慎重に目的を選ばなくてはならない。しかしその前に、目的を選ぶための精神的余裕を確保する必要がある。これが意外と困難なのだ。だから、ときどき余裕がなくて選択を誤ることがある。それも間違いに気付くのはいつも家に帰った時に限られている。家の中では選択の間違いに気付くことができる精神的余裕がある。そこには完璧な安息がある。評価されないことよりも、精神的な安息のほうが僕にとっては大切だった。だから、僕はずっと家の中に居たんだ...。──甘えている? これのどこが甘えているんだ。悪い評価を与えられないように慎重になって、自分一人だけで一生懸命に考察しているのに。評価の良し悪しは関係ないとでも言うのか? とにかくやってみろと? ──確かに家の中にずっと居たって、それ自体が悪い評価を受けるかもしれない。いや、そのままでは絶対に悪い評価を与えられる。しかし、外に出て何をすればいい? 目的を選ぶ精神的余裕がないまま、行動しろというのか? それでは心のないロボットのようなものだ。社会の忠実に動く歯車のひとつ。一方では反社会的なことはしたくないが、一方では目的を選択するための精神的余裕を欲している。これらは僕の中では二律背反したことなのだ。とにかく、僕は前に進むために、目的を持って家の外に出なくてはいけない。それには恐喝、痴漢、殺人、その他諸々の悪い評価を与えられるであろう目的を絶対に選んではいけない。絶対だ。そのことは僕を恐怖させる。絶対的な恐怖。そんなことを絶対にしないと言い切れるか? 話が極端だから簡単に言うことができる、僕はそんなことはしないと。でも、悪い評価というのはそんなことだけに与えられるのではない。僕という個がその世界全体に及ぼしている事象すべてにおいて、評価はなされる。それがたとえ、僕の容姿、外見だったとしてもだ。それはもはや目的ではないし、自分が意図的に選択できるものでもない。ある程度、服装や髪型や太るかやせるかといったことは選択できるかもしれない。しかし、目が大きい細いとか、鼻が高い低いとか、腕や足が長い短い、肌の色が白い黒い、背が高い低いとかいったことまで選択はできない。それでも、“評価”は容赦しないのだ。髪の毛が薄いだの、太っているだの、色が白いだのといった、他より劣った(評価する者の基準による)ところに評価が集中するのは世間では当たり前のことになってしまっている。いつ、それらを自分で選択した? いつ、他より劣った姿になろうとした? 少なくとも僕は、残念ながらこれらを選択することはできなかった。
...というわけで、僕は常に思いつく限りのあらゆる命題を頭の中で反芻していることを自覚している。つまり、次に何をしなければならないか、いや違う──次に自分に何が要求されているかを常に考え、その要求に従って行動しなくてはいけないと思っているのだ。街中や公園をぶらぶら歩くにも──早く歩け。すれ違う人とできるだけ目を合わせないようにしろ。目立たないように歩け。地味な服装にしろ。できるだけ人のしゃべる声に耳を貸すな──といった要求に従わなくてはならない。いや、厳密に言えば、それに従わなくてはならないのではなく、脳が判断したものを自動的に行動に移しているだけ、といったほうがいい。だから、そうするのは当たり前のことであって、不自然なところはひとつもないはずなのだ。しかし、僕はそうすることを恥じ、そうさせるもの(自分? それとも他?)を憎み、ついには自分が他よりも劣っているという気持ち──劣等感を持つに至った。慢性の絶望感とでも言おうか。かくして、僕は目的を選択する以前に、この病にさいなまれることになったのだ。


 ...気がつくと、僕は飛行戦艦アガメムノンの広いロビーで、朝礼の真っ最中の長い列の中のひとつに、ちょっときついカーキ色の戦闘服を着て、眠気と闘いながらぼうっと立っていた。──飛行戦艦アガメムノン? なんでそんなこと知っているんだ。どうやら僕の記憶には、インクルージョン世界に入るための予備知識が自動的にインプットされるらしい。他に知っていることと言えば、隊長の退屈な話はいつも長いことくらいだ。あとはおいおい思い出すだろう。スピーカーから大音量で、隊長の声は聞こえている。
「...えー、従って戦闘はいつもよりもまして、激戦になることは否めない。気を引き締めて行動するように。それから...」
 はいはい、そんなことはわかってますよ。そんなことより、早く朝の日課をこなさないと、午後の戦闘に間に合わないんだけどなあ。隊長の演説はしばらく続いた。そして、やっと朝の日課の時間になった。
朝の日課、それはトイレ掃除だ。僕は以前にもインクルージョン世界ではこんなことをやった記憶がある。ロビーから何回か角を曲がり、船尾近くにあるのがトイレだ。トイレに付くと僕はまず自分の用を済ませてから、ボルトンと一緒に掃除道具入れからデッキブラシを取り出し、水をまいて床を掃除することになった。いつものことだ。ぬかりはない。このトイレの臭いには幾分脳が麻痺している感覚があって慣れてしまった。ときどき床にぶちまかれた汚物にもだ。床すりが終わると、便器をきれいに拭き、ゴミを所定の場所に持っていった。僕たちは黙々と念入りに作業をした。この仕事は一番したくないことではある。面倒くさいし。しかし、義務付けられていると意外と素直にできるものだ。それにやり遂げた後は気持ちがいいのだ。洗脳って怖いなあ。あらためてそう思う。
掃除が終わるとほどなく食事の時間になった。僕はいつもボルトンと一緒に行動している。自分の食事を持って、食堂の席に着くと僕たちはやっと口を開いた。
「最近、俺、頭の中にもやがかかったようなんだ。起きているのに、眠っているような感じ。ひどい近視なのに、眼鏡をかけていないような感じでもある。とにかく、常に意識が眠っているようなんだよ。かと言って、夜はあまり眠れていないんだ。変な夢ばかり見るし」ボルトンが言う。
「そのせいじゃないの? 夜眠れないから昼間ぼうっとするんだろ」僕は言った。
「いや、ぼうっとする感覚とも違うんだ。何もかも、感覚が鈍くなっているようなんだ。脳が外からの刺激に反応しないんだ。今、おまえと話していることも、俺がしゃべっているにも関わらず、別の人間がしゃべっているような感じなんだ。だから、言うことに責任が持てない」ボルトンはパンを片手にシチューをかきこみながら言った。
「いちいちしゃべることに責任なんて、僕だって持っちゃいないさ」僕はスプーンを見つめながら言う。
「このままだとそのうち意識が永遠に眠ってしまうような気がするんだ。起きているのに、眠っているような意識の状態って想像できるか? しかも、それをはっきりと自覚しているんだ。朝、目覚まし時計に無理やり起こされたときのようだとも言える。そんな状態が一日中つづくんだ。だから、毎日の日課や戦闘が辛くて仕方ないんだ。俺はなんでこんなことしているんだろうって、ずっと思いながら行動しているんだぜ」ボルトンはシチューをたいらげるとツナのサラダにとりかかっていた。
「でも、今の君の様子からはそんなふうには見えないな。食欲もあるようだし」僕はゆっくりと少し水っぽくてぬるい、味はまあまあのシチューをすすりながら言った。
「食欲はなぜか別なんだよ。メシの時間になりゃあ腹が減るんだ。ただ、食ってるって感覚がないんだ。このサラダだっておいしいんだろうけど、うまいって感覚がない。やわらかく、みずみずしい物体を口の中へ入れて、無感覚に噛んで飲み込んでいる。たったそれだけの感覚。他のことも一緒さ、五感が鈍いんだよ」ボルトンはサラダをかきこんでから、げっぷした。そして、ぬるい茶をすする。
「そう言えば、僕もそんな気がしないでもないな」僕もそんな感じがするような気がする。ちょっと感覚が鈍って、起きているのに意識が眠っているような感じ。
「ちょっと、君らの話を聞いてたんだけどな。俺もなんだよ」さっきから僕たちの話を聞いていたらしいとなりの同じ戦闘服を着たやつが言った。
「ふーん、そうなんだ」僕はそれ以上訊かなかった。
「どうやら俺の他にも居るようだな。意識が不完全のやつが──」ボルトンが言った。「パロット、あまり気にせんでいいさ。みんながこんな症状ってことはありえんし、もし、そうだとしたらちょっとした寝不足さ。早起きの俺らにはつきものなのさ。うん、気にすることはない」ボルトンは気を使って言う。
「まあね。もしひどいようだったら医者に診てもらおう。ただ、そんな病気があるのかどうかもわかんないけどね。きっと、自律神経か何かのせいにされるのがオチさ。若いんだから更年期障害ってことも考えられないし」僕は鼻で笑って言った。そのときは何も知らなかったんだ。まさかやつらのせいだとは微塵も思っていなかった。
 昼食が終わると、次はアーバニでの市街戦の予定だった。飛行戦艦アガメムノンは西に進路を取っている。このご時世に市街戦? そう、そこが問題なのだ。そうしなくてはいけないのは、敵の性質のせいなのだ。僕たちが戦っている敵は人間ではない。エイリアンでもロボットでもない。それは青い思念体、意思を持った球体、冷たい光、呼び方はいろいろあるが、僕たちが皮肉を込めて呼ぶ呼び名は、“絶望”だ。それ自体は青い光のかたまりで、丸い。そして、何もない空中に突然現れたり、消えたりする。特筆すべき特徴は、その戦闘方法にある。その“絶望”は僕らの意識に直接攻撃してくる。自分がもっとも気にかけていること、例えば、劣等感やコンプレックス。その気持ちを増大させて生きる意欲を消去して、廃人にしてしまう。言うのは簡単だが、実際、その攻撃にさらされた者の証言によれば、あまりにも意識、脳への刺激が強くて、死ぬよりも辛いだろうということだ。そこで、僕たちは特殊なヘルメットをかぶるよう義務付けられている。そして、肉眼では“絶望”は見えないので、これまた特殊なゴーグルを着用する。また、僕たちの使う武器はちょっと変わっている。正確にはその“絶望”を痛めつける武器ではない。理論としては、逆に癒してやるものだ。外観は普通のプラズマ銃に似ているが、性能は正反対のものだ。僕たちはこの武器を“希望”と呼んでいる。“希望”から照射される赤い光によって“絶望”は消える。僕たちは探知装置で“絶望”を発見し、“希望”を使ってただちにせん滅する。これが課せられた任務だ。
 “絶望”が世界にあふれだしたのはつい最近のことではない。この世に人間が出現してからずっとそれは居たのだ。そして、人間の数に比例してどんどん増えていった。僕たちの戦いは旧世紀に開発された特殊なゴーグルによって、その存在が明らかになったときから始まったのだ。“絶望”は文字通り人間の心を絶望させる。それによって幾人の人間が自ら命を絶っただろう。想像がつかない。とにかく、“絶望”は倒すべき悪であり、駆除すべき害虫のようなものなのだ。ほどなく、対“絶望”用の武器が開発された。そして、僕たちが組織され、大々的な作戦が実行されることとなった。作戦名はもちろん“希望の奪還”だ。
 どうして“絶望”なるものが居たのか、生まれたのか。それは大いなる謎として認識されている。人間の絶望感が形となって現れたものであるという仮説もある。しかし、数が半端ではない。たくさん、そこらじゅうに居る。やつらがあからさまに攻撃してくるのは僕らのように姿の見えるゴーグルを付け、“希望”を持って攻撃してくる軍人に対してだけだ。特殊なゴーグルを付けないと“絶望”は見えないので、普通に生活している人たちはそれと気付かず、いつの間にかとりつかれてしまう。“絶望”にとりつかれた人は、そのゴーグルでは口から頭のあたりにかけて黒い煙のようなもやが湧き上がっているように見える。とりつかれると普通に生活している人は、じわじわと絶望感にさいなまれることになるが、急激な症状を見せることもある。“絶望”にとりつかれて絶望した人間を更生させることは難しい。現在の医療でもそれを完治させるのは困難となっている。だから、やっかいなのだ。
 飛行戦艦アガメムノンはアーバニに着陸した。僕たちは“希望”と探知装置をそれぞれに持って、特殊なヘルメットとゴーグルを着用して戦闘態勢に入った。ほどなく僕らを乗せた戦闘車(対“絶望”用の特殊なバリアがはられている)は出動した。そして、さびれた街のある一角に着くと、それぞれ散開した。僕とボルトンはある廃屋の屋上に上がって、“絶望”が現れるのを待った。低い壁に隠れるようにもたれて、座りこむ。
「なあ、俺がこういうふうな起きているのに眠っているような症状になったのは、やつらのせいじゃないかと思うんだ」ボルトンが言う。
「まさか。薬の副作用みたいに?」僕は“希望”を点検しながら言った。
「確かに特殊なヘルメットで防護してある。でも、少しだけやつらの思念が脳に届いているんじゃないか。そして、意識をかく乱させているんじゃないか、そんな気がする」ボルトンは探知装置を見ながら言った。
「かく乱ってどういうこと?」僕は尋ねた。
「つまり、自分の何かをやろうという意志を阻害してしまうってことだよ」ボルトンが答える。
「それで意識が不完全なような、五感が鈍いような気がするわけ?」僕は言う。
「そうさ。だからやつらの攻撃に似ているだろ? 人を絶望させるっていう──。なんであんなやつらが生まれたんだろう。人類が生まれて、そのせいで人間の思念からやつらが生まれたってことを言う学者も居るが、俺にはどうもふにおちないね。だって、人間も含めた生命っていうのは希望の象徴だろ? 人間だけが絶望を味わうことができる生き物だという哲学者も居る。だけどな、一度絶望を味わった人間が次に味わうのは希望に違いないんだよ。そうだろ? いくら絶望したって、人は希望を持つことができるものなんだよ。希望は絶対に絶望に勝つ。まあ、その理論からこの“希望”という武器は開発されたんだけど...。絶望のないところに、希望はないってことなのかな? それらは対になるものだけれども、相反するものではないってことなのかもしれない。なんだか、よけいわからなくなってきたけど、要するにやつらが生まれたのは人類の進化の過程から見て必然だったってことだよ、俺の仮説は」ボルトンは探知装置から目を離さずに言った。
 僕は探知装置はボルトンに任せて、人通りのほとんどない街角を眺めながら意見する。「君の仮説はだいたい合っていると思うよ。ただねえ、慢性の病気みたいに絶望感をずっと背負ったまま生きている人だって居るんじゃないかな」
「そんな人だって、いつかこんな生活ががらりと希望に満ちたものに変わりはしないかと、ずっと思い続けているわけだろう。でないと、とっくに自殺してるよ」ボルトンは言った。
「いや、自殺は怖いからできないし、希望を持つにはもう元気がないって人はきっと居るさ。だから、“絶望”はどんどん増えていくんだよ」僕は言う。
「そういう気もするな。“絶望”が人間の思念から生まれるという仮説が正しいとすればな。だけど考えてもみろよ、俺たちなんで生きてんだ? 少しでも希望を持っているからだろ?」ボルトンは言った。
「そんなこと普通に暮らしている人間が考えることじゃないよ。形而上的に、哲学的に何も考えていない。だから、生きていられるのさ」僕は少し気取って言った。
「そうかな。確かに俺たちは毎日の日課に追われて生活している。その中では希望なんてものは抱く時間はない。食事をすること、トイレに行くこと、目の前の仕事を片付けること、それだけ考えてりゃいいんだ。そりゃ簡単なもんさ。だけどな、俺はそんな毎日にうんざりしてるんだ」ボルトンは言う。
「いけないな、そんなこと考えちゃ。毎日の日課をこなして、相等な報酬ももらっている。それのどこが不満なんだ?」僕はなぜか間違ったことを言っているような気分になった。
ボルトンはこちらの心を探っているような目をして言う。「俺はそういう仕事に追われる生活はいやなんだ。それで、報酬がもらえないとしてもな」
「それだったら、生活していけないよ。カネがなきゃ、なんにもできないのが今の世の中だろ?」僕は言う。──しばらくの沈黙。“絶望”はまだ現れない。探知装置も穏やかな規則的な音を出している。だが、“希望”の準備はできている。いつやつらが現れても大丈夫だ。
「この前、母さんがとうとう入院したんだよ。ずっと寝込みがちだったんだが、姉さんが身のまわりの世話をしてくれていた。母さんは女手ひとつで俺たちを育ててくれた。定年退職してから急にがたがたと調子を崩してな、俺もこうなるんじゃないかと予想はしていたんだ。カネというシステムさえなけりゃあ、母さんがあんなに体を壊してまで働く必要はなかったんだ。世の悪の元凶はカネというシステムなんだよ」ボルトンは言う。「そのために俺たちは毎日の日課と戦闘をこなしている。ばかばかしいとは思わんか?」
「そんなことないよ。だって、そのおかげで、君が働いてるおかげで君のお母さんは入院することができたんだろ? じゃないと、今頃は家の万年床の中でもっと具合が悪くなっていたかもしれない」僕は“死んでいたかもしれない”と言うのをとっさに回避した。「確かにカネって、なんかいやなシステムだよ。だけど、そのおかげで僕たちは生活できてるんじゃないのか?」
「そこでだ。さっきの希望の話に戻るけど、カネというシステムに純粋な希望はあるか?ってことなんだよ。どうせ、金持ちになりたいっていう欲望が生まれるだけだろう?」ボルトンは言った。
「いや、少しでも稼いで、経済的に生活を成り立たせたいっていう希望もあるんじゃないかな」僕は言う。
 ボルトンは少しにやつきながら言う。「それが希望と言えるか? もしも、それが全人類の希望だとしたら、確実にこの世は、人間の世界は終わるだろうな」
「君の言うことは何か視野が大きすぎるよ。希望にも種類があるんじゃないかな。単なる欲望だったり、好ましい未来を思う心であったり、君の言うのは後者だろ?」僕は言った。
「まあ、そうだな。好ましい未来か──うまく言えそうにないから、仮にそういうことにしよう。そういう希望を人間は抱くことを忘れてしまっているんじゃないかと思うんだ。“あきらめてしまっている”と言ったほうがいいかな。つまり、その意味で絶望しているのさ」ボルトンはときどき探知装置から目を離しながら言った。穏やかな規則的な音。
 僕は半分自信を持って言う。「あきらめてなんかないさ。好ましい未来を実現したいからこそ、人間はやりたくもない仕事をしょうがなくやって、カネを稼いでいるんだよ」
「いやいや、そういうんじゃないんだよ。絶対に違う。それは本当の希望じゃない。うまく言えないが俺の言う希望っていうのは、そんなちんけなものじゃないのさ」ボルトンは言う。
「そんなに悪い希望じゃないと思うな。だって、そうしないと生きていけないんだから」僕は言う。
「カネがなくたって、食いもんはあるじゃないか」
「カネがないと、衣、食、住は手に入らないんだよ」
「ああ、違う違う」ボルトンはヘルメットをかぶった頭を自分で2、3回叩いて言った。「おまえは衣、食、住がカネがないと手に入らないと思っている。カネがなくてもそれらが手に入る世界ってのを考えないのか?」
「まじめな話なのか?」僕は鼻で笑って言った。「それじゃ、犯罪者がはびこる世界じゃないか」
「まじめな話だ。俺はカネというシステムがなくなってくれりゃいいと思っている」ボルトンは探知装置から目を離さずに、“希望”にもたれかかったまま言った。
「何もかも、カネのおかげなんだぜ。そうは思わないのか?」僕は言う。
「うん、確かにそういう時代もあった。だけど、もう必要ないのさ」
「まあ、君一人がそんなこと言ってたってなんにもならないし、実際、政府のおえらいさんがたに言っても無駄だけどね。笑い話にもならないよ、そんなこと」僕はにやにやしながら言う。
「それはいいんだよ。要は考え方の問題なんだ。今の人間は堕落している。本当の希望を抱くことをあきらめているという点において! 少なくとも忘れているだけなんだと思いたいね」ボルトンは真顔で言う。
「君にはかなわないな。堕落ときたか。ふ、そうかもな」僕は言う。「ところで、さっきからやつら現れないな。今日はお休みかな」
「たぶん、俺たちが希望について話しているからだろ。やつらは希望を抱いている思念に満ちているフィールドにはあまり近づかないらしいからな。このままじゃ、仕事にならねえ。もっと絶望的なことを考えようぜ」ボルトンはちょっといたずらっ子のような無邪気な笑顔で言った。
「はは、そりゃいいや。絶望的なことなら任してくれって?」
「ははは、なんせ絶望するのは人間の特性だもんな」
 僕たちは一瞬、戦闘のことを忘れて笑った。“絶望”はそのせいかどうかはわからないが、しばらく現れなかった。探知装置もずっと単調な穏やかな音を出している。日が傾いてきたころ、撤退の時刻が近づいてきたときにやつらは現れた。探知装置が激しく反応して高い乱れた音を出し始めた。
「パロット、来なすったぜ。団体さんのお着きだ。約20体。一気にやろうぜ。撤退の時刻がせまっているからな。俺は後ろから追いつめるから、おまえは適当に正面からやってくれ。よし、散開だ」ボルトンはそういうと今まで居た廃屋の白い斜めの側面を駆け下りて、向こうの街角のほうへ走っていった。
 見ると探知装置のとおり、向こうの街角のほうに青い光のかたまりが見え始めていた。僕は廃屋の斜面をどたどたと駆け下りた。そして、“希望”をかまえてそのやつらの集まっているほうへ急いだ。すると、頭の中にあるメロディが聞こえ始めた。正確に言うと、“それ”をメロディとして認識し始めたのだ。それも繰り返し繰り返し聞こえている(認識している)。

イーバ、アーゼ、チーガ、
ローズ、アーゼ、ンードゥ、
イーバ、アーゼ、チーガ、
ローズ、アーゼ、ンードゥ、
トゥルトゥトゥトゥトゥ、トゥルトゥトゥトゥトゥ、
トゥルトゥトゥトゥトゥ、トゥルトゥトゥ!
トゥルトゥトゥトゥトゥ...

 そのメロディは僕の意識をやさしく包んでくれている。冬の寝床の暖かい毛布のようでもあり、柔らかいソファーに座って聴くアリアのようでもある。とにかく、とても懐かしく、心地いいのだ。しかし、油断してはいけない。これが“絶望”の攻撃の一種なのだ。僕は青い光のかたまりの近くまで来ると、手当たり次第に“希望”を照射していった。その赤い光のすじは青い光のかたまりに当たると吸い込まれていくように消えてしまう。攻撃を始めると“絶望”は一斉に僕の脳、意識に直接語りかけてきた。このヘルメット効いてるのかと思うぐらいの強い思念だ。
〈おまえはどうして働かないのだ?〉
〈おまえはどうして人の目を見ない?〉
〈おまえはどうして家の外に出ようとしない?〉
〈おまえはどうして不安になるのだ?〉
〈おまえはどうして間違いばかり犯す?〉
〈おまえはどうして他人と優劣をつけるのだ?〉
〈おまえはどうして他と違うことをしようとする?〉
〈おまえはどうして病気になったのだ?〉
〈おまえはどうして──〉
 “絶望”の人間の意識への攻撃の内容は、大体が観念的におとしめようという誹謗中傷に聞こえる(認識している)。今の時点ではほとんど自分とは関係がないことばかりだ。が、よく考えると中にはこちらの劣等感を見抜いているものもある。僕は耳を覆いたくなるが、たとえそうしたとしても無駄だ。空気を振動させて聞こえる音としてではなく、意識に直接認識される声なのだから。僕は早く戦闘を終えたい厭世的な気分になってくる。“絶望”の攻撃はますます強くなる。一体、また一体と“希望”から照射される赤い光によって青い光のかたまりは確実に消えていった。しかし、それと同時に僕の精神も確実に疲弊していった。ボルトンが言っていたように、薬の副作用のような影響が脳の中に残るのではないかという仮説は当たっているかもしれない。
〈おまえはどうして卑(いや)しいことばかりする?〉
〈おまえはどうして精神力が弱いのだ?〉
〈おまえはどうして他と会話をするとき内省的になり、無口になるのだ?〉
〈おまえはどうして──〉
 こいつらがどうして僕のいろんな心の迷いや悩みを知っているのかはわからない。だが、それが誹謗中傷に聞こえるということは、僕の意識している思いと同じことをこいつらが考えているということになる。だって、そうじゃないか? 自分の一番気にしていることをゆきずりの他人がぴたりと言い当てるということは、ありえない。あるとすれば、それは目に見える欠点だけだ。そうでないと、意識がその他人の意識と混ざっていることになってしまうからだ。こいつらの思念はまさに人間の思念と混ざって、その意識の中に溶け込んでいるに違いない。だから、こいつらは人間から、人間の思念から生まれ、分離した思念体なのだろう。そして、人間の思念を読み取っているというよりは、もともとその一部だったのだ。つまり、人間自身、僕自身にも自分の欠点を他人から誹謗中傷されはしないか、という静かな、穏やかな恐怖の思考が、意識の中にあるということだ。僕は闘いながらそう思った。
 なんとか“絶望”の攻撃をかわしながら、半数以上、消去することができた。そう言えば、さっきからボルトンの姿が見えない。濃いチョーキーブルーの光のかたまりを追って街角を曲がると、そこにボルトンがあお向けに倒れていた。ゴーグルごしに見ると顔の前には黒い煙のようなもやが湧き上がっているように見える。これは“絶望”にとりつかれている症状だ。ボルトンの顔は少しにやけたまま、目はどことも言えない宙を見ている。僕は“希望”をわきに置いて、ボルトンの上半身を抱き起こした。
「おい、ボルトン、ボルトン?──」僕は大きな声で言った。
 ボルトンの目は一瞬、僕のほうを見て、また何もない宙に戻った。そして、妙なことを言い出した。「あなたがたは誰ですか?──もしかして、妖精さまですか? ああ、会いたかったんですよ。でも、姿が見えませんねえ。どこにいらっしゃるのですか? 声だけ聞こえますが──どうぞ、私の目の前に姿を現してください」──と、突然穏やかな口調から、ドスの効いた声に変わる。「──まさか、おまえらストーカーだろ! 俺にかなうと思っているのか、この下衆野郎どもが! これは犯罪だぞ、わかってるのか! どこに居やがるんだ! 出て来い! そこに居るのはわかってるんだぞ!」──すると、また穏やかな口調に戻る。「──ああ、やっぱり妖精さまなんですね? 私はなんて幸運なんだろう。妖精さまの声が聞こえるようになるなんて。どこにいらっしゃるんですか? どうか姿を現してください。お願いします」──ここで口調がまた変わる。「──なんだ、ガキどもか。さっさと向こうに行きやがれ! うっとうしい。人の悪口を言うもんじゃない! 末恐ろしいわ! ほんとに! どこに隠れているのか知らねえが、とっととうせろ!」──この繰り返し。どうやらボルトンは“絶望”の意識に語りかける声を“妖精さま”、“ストーカー”、“ガキども”が言っていると認識してしまっているらしい。これは重症だ。早く手当てしないといけない。しかし、“絶望”はあと五体残っているようだ。それに、僕の意識にもまだやつらの(声と認識している)声が聞こえているのだ。
「ボルトン、ここでちょっと待っててくれ。すぐに戻ってくるから」僕はボルトンを路上に寝かしたまま、また“希望”を持って立ち上がった。大詰めだ。やつらの思念も弱くなりつつある。いつもより攻撃が激しいとは言っても、このヘルメットは大いに改善の余地がある。

 僕は“絶望”の残りの一群を手早く全滅させて、また、ボルトンのところへ戻った。ボルトンはまだ、目が宙に泳いだままうわごとを言っていた。
「──パロット? パロットじゃねえか? どうしたんだ? 何か俺に用か? それにしても久しぶりだな。うまくやってるか? まあ、上がれよ、そんなとこに居ないで──ん? 玄関のところに誰か来たようだ。やばい、見つかった! 秘密組織のやつらだ。逃げなきゃいけない──なんだ、母さんも居るんじゃないか。何も心配することはないんだね?──野郎、まだそこに居やがるのか。姿を見せろ!──」
一瞬、名前を呼ばれたので正気に戻ったのかと思ったがそうではなかった。
 僕はリュックから簡易救急セットをとりだした。そして、新しい注射器をとりだして、筋弛緩剤をボルトンに注射した。これは軍の実習で習っていたので手慣れたものだ。これで艦に戻るまでは大丈夫だろう。それからは本格的な薬物治療をすることになる。僕も少し例のメロディが頭の中にかすかに残っていたので、液体の軽い向精神薬を飲んでおいた。

 集合場所にはもうみんな集まっていた。みんな僕とボルトンを待っていたのだ。僕はここまでボルトンに肩を貸して、支離滅裂なうわごとを聞きながらゆっくりと戻って来たのだった。ボルトンはすぐに担架に乗せられた。そして、僕らは戦闘車に乗り、艦へ急いだ。みんな苦戦だったらしいが、実際に“絶望”にとりつかれたのはボルトンだけだった。僕は輸送車の眠りに誘うような心地よい揺れを感じながら、今日、ボルトンと話したことを思い返していた。
(はははは、なんせ絶望するのは人間の特性だもんな、はは──)
 こんなことになるとは。あんなに人間という生命にひそかな希望を抱いていたボルトンが“絶望”にとりつかれるなんて...。──いや、本当のところボルトンはこの世界に絶望していたのかもしれない。母親が入院したこと、カネというシステムのこと...これらは彼に絶望感を抱かせていたに違いない。母親が入院、その次に待っているのは母親の死しかないのだ。また、カネというシステムはどうにも変えようがない絶望的なシステムと言える。彼にはこの世界では、希望的な考えを抱かせるようなものは何ひとつなかったのかもしれない。それはとても悲しいことだ。
(──だけど考えてもみろよ、俺たちなんで生きてんだ?)
 僕たち人間はほんのひとかけらの希望を持っていれば、生きていけるのかもしれない。でも、そのひとかけらの希望が何かの拍子に投げ込まれた邪悪な爆弾によって跡形もなく吹き飛んでしまったら? 僕はそれ以上考えることができない。なぜなら、本当の絶望というものを経験したことがないからだ。希望に満ちている者が絶望している者のことを推し量ることは、残念ながらできないのだ。自分が希望に満ちているかどうかは怪しいものだ。だが、少なくとも絶望はしていないと言える。多分──。
 
僕は学生時代、自分が決めたことなんだから、という嘘を自分につき続けることにうんざりして、ついに自分が出場することになっていた陸上部の大会を一人でボイコットしたことがある。当然、次の日、先生に怒られ、僕はみっともなく涙を流すことになった。本当は陸上部なんかに入りたくなかったんだ。それなのに入った。その理由は今となっては定かではない。母さんがスポーツクラブに入りなさいと言ったからか、あるいは好きな女の子が居たからか、どうせそんな理由だろう。ある時点まではうまくやっていた。しかし、心の中では嫌で嫌でしかたなかった。「なんで、おまえ科学部に入らなかったんだ?」と、今でも誰かの声が聞こえてくるようだ。結局その顚末(てんまつ)は、卒業まで陸上部に居座ることになったのだが、嫌な思い出だけが残った。そのとき、僕は絶望感を抱いていたのかもしれないと思う。いろんな意味あいにおいて。顧問の先生や先輩、同級生とのしがらみ、自分が決めたのだと自分に嘘をついていたこと、家庭の崩壊、真面目という偽善、それらはみな慢性の病気のように僕の心を苦しめていた。それでも、僕は自分で自分の命を絶つということはしなかった。第一、そんなことをするのは怖かったのだ。それに、苦しみの中にも確かに希望はあったのだ。それは思い出せるものではない。面白いやつが居たこと、先生に信頼されていたこと、片思いだったが好きな女の子が居たこと、どうせそんなところだろう。とにかく、あの頃の僕には希望があったのだと言える。半分は絶望し、半分は希望を抱いていた。
今の僕はあの頃の惰性で生きているんじゃないのか? 本当にこの世の中に希望を見い出しているだろうか? 自分の意識している現実を、世界を、“そういうもの”としてだけ捉えているのではないだろうか? ──それでいいのかもしれない。余計なことは考えずに、意識せずに生きることがどんなに大切なことか。

〈おまえはどうして──〉
 “絶望”の思念が、僕を誹謗中傷する声と認識しているものが、まだ僕の頭の中で繰り返し聞こえている(認識している)。さっき飲んだ薬はあまり効いていないようだ。みんなも僕と同じ症状なのだろう、今日の戦いはどうだっただとか、晩飯のメニューはなんだろうかといった話をまったくしない。みんな黙っている。
〈おまえはどうして親戚(しんせき)のおばさんやおじさんから小遣(こづか)いをもらうのを悪いと思うのだ?〉
〈おまえはどうして働いてもいないのにメシを食うのだ?〉
〈おまえはどうして母親が本当は心の奥でおまえのことを蔑(さげす)んでいると思うのだ?〉
 まったくもって、うるさい。僕は小声でうなりながら頭をかきむしった。僕の記憶の中に“それ”はあるのだ。心当たりのあることが──。それを“絶望”の残存思念は知っていて、僕を観念的におとしめようとしてくるのだ。ゴシップ好きの嫌な女のように、はたまた集団という力を利用して何にでも食らいつく悪ガキのように、僕の精神を疲弊させる。僕はもう一本、液体の薬の入った小瓶を出して、ついでにタブレットと一緒に飲んでおいた。それで少しは気持ちが落ち着いた。
 戦闘車は飛行戦艦アガメムノンのわきに横付けされた。点呼をとるために、僕たちは外に出て整列した。それが済むと隊長の話だ。
「えー、今日、負傷者が出た。みんなもだいぶ精神をやられているようだ。各自、静養するように。これは諸君の気のゆるみの──」
 隊長の比較的短い話が終わると解散となった。早く晩飯を食べて、風呂に入り、ゆっくり精神を休めないといけない。僕がそう思っていると向こうのほうから、こちらに近づいてくる人が居る。黒い紳士帽をまぶかにかぶり、黒いコートをはおった人、シロカミさんだった。
「やあ、パロット君。大変だったようだね。君のインクルージョンが少し異常を示し始めているんだよ。ほら」シロカミさんの右手には僕のインクルージョンの状態を示す装置。見ると、青白い光の波が前に見たときより鋭角になって激しく波打っている。「こういうことはよくあるんだよ。バイオリズムといってね、人間には一定の周期で調子が悪くなったり、良くなったりする波があるんだ。今の君は一時的にちょうど調子が悪い状態になっているだけなんだ」シロカミさんは焦る様子もなく淡々と言った。
 僕は“絶望”の残存思念のせいで、言葉を発する気力がなくなっていた。しかし、僕は大切なことを思い出し、力をふりしぼって言う。「──真のモルダヴァイト」〈おまえはどうして〉「...が必要」〈ゆきずりの他人がおまえのことをそしっていると〉「...なんです──」〈思うのだ?〉僕の声は途切れがちになる。“絶望”の残存思念が発する声と認識しているものを認識する作業と、自分が声を発するという作業を同時にしなければいけないからだ。それは回避することができない。「──それで僕は...」〈おまえはどうして──〉
「まあまあ、待ちたまえ。君の今の状態では会話するのは難しい。早く結晶のほうに意識を戻そう、それが先だよ」シロカミさんは言う。
「──でも」〈おまえはどうして〉「...それじゃあ、またいつ会えるか」〈親類や親兄弟でさえも、おまえのことを〉「...わからないじゃないですか」〈そしっていると思うのだ?〉僕はなんとかそう言う。
「私は定期的に君に会うようにしている。だから、また必ず会えるよ。どこに居たとしてもね。約束する」シロカミさんはそう言うと、黒いカバンの中からインターチェンジを取り出して僕に手渡した。手慣れた作業をするように。「じゃ、私はこれで帰るから、君も早く帰りなさい。これ以上、この世界に居ると確実に取り返しのつかないことになるから。現実とインクルージョン世界とは、密接にリンクしているんだよ。つまり、もうひとつの現実と言ってもいい。さ、急いで。とは言っても、必ず私の居なくなったあとに帰るんだよ。それじゃ」シロカミさんはそう言うと、自分のインターチェンジのボタンを押した。シロカミさんの姿は歩きながらのまま、すうっと消えた。
 ちょっと待てよ──僕はシロカミさんに会ってどうしようとしたんだ? 真のモルダヴァイトについて聞こうと思ったのか? だったら、もう知っている。妖精さまのことも。何を聞こうとしたのか。それが思い出せない。僕がなぜ現実世界に行けたのかということ? どうして現実世界でインターチェンジを持っていたのかということ? どれも疑問に思うことだが、シロカミさんに会わなければいけないと思った理由ではない。
“シロカミさんが、真のモルダヴァイトを持っている”
 突然、こんな考えが浮かんだ。いや、正確には思い出したのだ。しかし、僕の記憶の認識では、どうしてそうなのかという話の筋道が欠落している。さっきから“絶望”の残存思念のせいかどうかはわからないが、余計なことばかりが頭の中をよぎる。この記憶は、記憶と認識しているものはそのつづきかもしれない。
“シロカミさんが、真のモルダヴァイトを持っているのだ”
 この考えが繰り返し繰り返し、あのメロディと認識していたもののように、僕の頭の中を支配している。もし、そうだとしたら、いったいどういうことなのだろう? シロカミさんは主治医のように僕を常にいい状態に保ってくれている。言うまでもなく、信頼すべき先生のような人であり、愛情を持っている親のような人なのだ。なのに、まるで真のモルダヴァイトと僕が接触するのを避けているかのように、シロカミさんは振る舞った? ──僕の心に疑いの念がふつふつとこみあげてくる。
〈おまえはどうして親類や親兄弟でさえも疑うのだ?〉
 “絶望”の残存思念は、なおも僕の精神を攻撃してくる。これ以上、この世界に居るのは危険だ。僕は初めてそう感じた。いや、以前にもこんな感覚に陥ったことがあるような気がする。それは僕の意識のビッグバンより以前、つまり、僕がインクルージョン世界で万物を意識し始めた地点よりも前にあったことなのだ。それでもこんな感覚に陥ったことがあるという記憶が消えずに残っていたということは、現実世界にも“絶望”に似たものが居て、常に僕の精神をむしばんでいたという仮説が成り立つ。そして、そのせいで僕の結晶は不完全になってしまったのではないだろうか? 僕はそう思う。あの時、現実世界で僕を追っていた者、それは“絶望”だったのかもしれない。とにかく、今はそんなことを深く考えている場合ではない。僕は震える手ですばやくインターチェンジを左手首に装着した。
 大きな音がして飛行戦艦アガメムノンは離陸のためにエンジンを起動させた。僕もそうであるように誰も僕一人のことなんてどうでもいいのだろう。今から僕は結晶へ意識を戻すのだから乗り込む必要はない。でもひとつボルトンに訊きたいことがあった。君は絶望しているのかと。僕は重い体に鞭打って戦艦に乗り込もうと思い出入口に向かったがすでに閉まっていた。アガメムノンは砂埃を巻き上げてゆっくりと垂直に上昇を始めた。僕はとっさに目についた通気孔のわずかなでっぱりにしがみついた。鶏肉の照り焼きの香ばしい臭いがしているから、どうやら通気孔は厨房につながっているらしいことがわかる。五メートルくらい上昇したところで、僕はあきらめて手を離し地面にどさっと落ち、うつぶせに倒れこむ。
 そのときに再び“絶望”の残存思念が聞こえてきた(声と認識する)ので、僕は上半身をゆっくりと起こしまた液体の向精神薬の入った小瓶を出し、念のために飲んでおいた。精神と肉体の疲れでもう立ち上がる気力はなかった。そして、力なく上半身を倒し、地面にあお向けに寝転がる。地面は毛布のように暖かかった。目の前に左手首を持ってきてインターチェンジを眺める。僕はシロカミさんへの疑念だけが意識を支配しているのを強く感じた。インターチェンジのボタンを押すという行為がばかばかしく思えるくらいだった。 そのときの僕の精神は“絶望”の残存思念が追いかけてくるように、しつこく頭の中にこびりついた状態だった。僕はしかたなくインターチェンジのボタンを小刻みに震える右手の人差し指で押した。
〈おまえはどうしてシロカミさんのせいだと思うのだ?〉
 僕の意識はその世界から遠のいていく。


ドリーム6 教授

 僕はかなり目に見えて太ってきたので、健康のためにジョギングしたいと思う。街中をぬけて、できれば人家の少ない山道か広い公園、あるいは川の土手を気分よく走り、いい汗をかきたいと思う。しかし、“それ”によれば、黒いジャージを着て走れば、泥棒か、あるいは、いかついあんちゃんか、はたまた怪しい人と思われるだろうという。じゃあ、赤いジャージがある。“それ”によれば、それでは男が着るには派手すぎるという。青いジャージではどうだ? “それ”によれば、学生でもあるまいにという。では、普段着で走ってはどうだ? “それ”によれば、それではあまりにも滑稽だという。僕は結局、あさぎ色の控えめなラインの入った、グレーのジャージを着て、走ることにする。僕は自分のペースで速くもなく遅くもないスピードで走る。すると、“それ”は言う(僕は“それ”が言っているのだと認識する)。
〈走るんなら、もっと速く走れよ。もっとかっこよく、さっそうと。それに、夕方じゃなく朝か昼間に走れよ。薄暗い中で人にぶつかったらどうするんだ? こんなご時世にこの時間、外をうろついているのは泥棒か、痴漢ぐらいだぜ。まさか、おまえ痴漢じゃないだろうな? なんか怪しいやつだな。おまえ、この街の生まれじゃないだろう? とにかく、なんでおまえはジョギングなんかしているんだ?〉
 僕は嫌な汗をかき始める。僕は健康のために走っているんだ、泥棒や痴漢をするためじゃない。しかし、“それ”によれば、夕方の薄暗い中をジョギングするのは、泥棒や痴漢といった怪しい人だと街の人に思われるからやめろと言う。走っている最中は意外と孤独ではない。“それ”がいつも僕の意識の中に居るからだ。“それ”のおしゃべりは止まらない。
〈おまえ、働いていないんだろう? 親や親類がおまえのことをどう思っているか、本当のところを教えてやろうか? そりゃ、おまえが思っている以上にひどいことを思っているんだぜ。口には出さないけどな。だけど、おまえは真面目なんだろ? 泥棒や痴漢をするような人間じゃない。でもな、何事にも表があれば、裏があるんだよ。おまえが真面目ぶっているのは表なのか? じゃあ、裏の部分はどうなっているのか、全部ぶちまけちまえよ! そうすりゃ、楽になれる〉
 ──僕は健康のために、あるいは体力づくりのためにジョギングしたいだけなのだ。裏なんかない──すると、“それ”によれば、仕事に就いていない人間がほざくなと言う。
〈やせたらどうだっていうんだ? どうせ女にもてたいんだろ? だったら無理だね。やるだけ無駄だ。おまえには魅力がないんだよ、一切な。カネもなけりゃ、名誉もないし、第一ぶさいくじゃないか。やめろやめろ、ジョギングなんて。ぶくぶく太ったっていいじゃないか。そのうち、肝臓や心臓がおかしくなって、ひっそりと夭折(ようせつ)さ。そういう人生も悪くないぜ〉
 ──病気になって死ぬ。それもひとつの人生かもしれない──僕は“それ”の言うことに少し納得する。しかし、僕は交互に前へ運ぶ足を止めない。まだ、あまり疲れていないのだ。
〈おまえのその走る足音や、足や手を動かすたびに聞こえる服のすれる音、はあはあいう荒い息づかいを聞いて、その姿を見て、街行く人たち、あらゆる老若男女がおまえのことをなんと考えると思う? やつらはあざけりの感想しか持たないんだよ。なんで走っているんだってな。そして、やつらはおまえを憎み、おまえはそんなやつらを憎む。今、おまえは憎しみをまきちらしながら走っているんだぜ。それなのにおまえはどうしてジョギングなんかするんだ? みじめだとは思わないのか?〉
 僕は“それ”のせいで厭世(えんせい)的な気分になってくる。もう走りたくない。僕は歩くことにする。 
〈ほら、走れよ。ジョギングしているんだろ? おまえみたいなやつがジャージを着て歩いていたらおかしいだろ。おまえは学校帰りの学生なのか? それとも、街を徘徊する変態なのか? どれとも違うんだろ? ただ健康のために、体力づくりのためだけの理由で走っているだけなんだろ? だが、連中にとってはそんなこと知ったこっちゃないんだよ。食卓に入ってきたうるさいハエぐらいにしか思っちゃいないのさ。食べ物にとまるんじゃないか。たたいて潰したら内蔵やウジが出てくるんじゃないか。本当に面倒くさくて厄介なやつが入ってきたもんだ。そういう疑念と憎悪を人に抱かせる存在、それが今のおまえなんだよ。だから、そういう格好で歩いていると余計に怪しまれるぜ。あれはいい女が居ないか、カネを持っていそうなやつが居ないかと物色しているんだってな。おまえは、少しでもそういうそぶりを見せちゃあいけない。おまえは常に監視されているんだ。いつも疑念の目で見られていることを忘れちゃいけないんだぞ〉
 僕はじっとりと嫌な汗をかいているのを感じながら、また、ゆっくりと走り出す。もう少しで家に着く。“それ”によれば、ここから家までできる限りの速いスピードで走れと言う。僕はその指示に従う。横腹が痛い。それでも僕はできるだけ速く全力で走った。
〈このまま苦痛に耐えて家まで全力で止まらずに走れたら、おまえはあこがれの彼女と結婚できる。幸せになれるんだ。どんなに苦しくても、スピードを落としちゃあいけない。この課題をクリアしないと、おまえは永久に不幸になるんだ〉
 僕はもう限界だった。横腹が痛くて苦しい。疲労と一時的な絶望感と“それ”の繰り返し言う(言っていると認識している)声の中で、それでも僕は幸せになりたいと思った。彼女と結婚したいと思った。しかし、僕はとうとう足を止め、両ひざにそれぞれ両手をついて、はあはあいいながらかがみこむ。
〈だめだな、そういうやつなんだ、おまえは。おまえは不幸になるんだ、永久に。しかし、チャンスはあげよう。次のジョギングのとき、もしもこの課題をクリアできたら、不幸にはならない。ごく普通のありふれた人並みの生活はできることにしてあげよう。ただ、あこがれの彼女との結婚はあきらめるんだな。それは最初に決めたことだ、撤回はできない。せいぜい、次のジョギングはがんばるんだな〉
 僕は家までの短い距離を、痛い足を引きずるようにしてとぼとぼと歩いて帰った。
〈できるだけ、静かに歩けよ。やつらに気付かれたらおしまいだ。おまえは憎悪ができるだけ増えないようにしなければいけないんだ。おまえ自身が憎悪を抱かないためにもな〉
 僕は暗い夜道をできるだけ気配を殺して歩く。家々の暖かそうな灯りの前を何回も通り過ぎていく。“それ”によれば、すでにやつらに気付かれてしまった可能性があると言う。それは仕方ない、しかし、これ以上憎悪を増やすわけにはいかない。このまま、できるだけ目立たないように静かに家まで帰るんだ、と言う。
〈約束を忘れるなよ。次だ。次のジョギングのときにおまえの今後の将来は決まるんだ。ただ、もうあこがれの彼女と結婚ができないことは確定したけどな。おまえは絶対に結婚してはいけない。これは約束だ。おまえは約束を破るような人間じゃないよな? その点、オレは安心しているんだ。かわいいやつだよ、おまえは〉
 そのときに、僕の人生は半分以上決まってしまったようなものだ。あれ以来、僕はジョギングをしていない。でも、約束を忘れているわけではなかった。むしろ、ありありと思い出せる。今あったことのように。あの娘(こ)、もう結婚しただろうか? 幸せに暮らしているだろうか? でも、もう僕には何も関係ないんだ。何も──僕は自分に言い聞かせた。何度も。


 ──意識が自分のものになると、僕はとても暑くてじっとりと汗をかいていることに気が付いた。そして、ほどなく何もない砂丘の広がる、広大な砂漠をひとり歩いていることを認識した。僕は汚れたターバンをかぶり、全身汚いボロ布をまとっている。腰には水が半分くらい入った丸い水筒が結わえ付けてある。他には何も持っていない。ひどいインクルージョンだな。僕は思った。どこに向かっているのかわからないが、じきに見えてくるだろう。このままずっと砂漠をさまよいつづけるってことはない。そんなことが結晶のエネルギーになるとは考えられないからだ。苦しい、つらいことばかりではないはずなんだ。僕の好ましいと思うことが少し反映されているのがインクルージョン世界なのだから。僕は砂に足をとられながらそんなことを考える。
 できれば、いや絶対に“絶望”のようなものは現れてほしくない。第一、肉眼では見えないんだから、そんな心配をすることもないのだが、現実とリンクしているらしいからその心配は完全には拭えない。“絶望”に似たものが居る可能性は十分に考えられるのだ。こうなったら、遭遇しないことを祈るのみだ。
 それにしても、見渡す限りの砂の海。僕は自然に厭世的な気分になってくる。これではいけない、いけないと思う。“絶望”を引き寄せてしまうからだ。すると今、あの不思議な心地よいアリアのようなメロディが聞こえた気がした。僕は驚いて立ち止まり、辺りを見回す。何も見えない。見えるはずがない。──気のせいか。僕は何かから逃げるようにまた歩き出す。あの声が(声と認識していたものが)聞こえてきはしないかという、思いこみ? 先入観? いや、恐怖だ。僕はそういう恐怖感をずっと持ったままだった。どういう恐怖感かと言えば、描写するにはあまりにも不確実なものであり、捉え難いものだ。それは幼い子供が描いた絵のようなものだ。その絵は大人には不確実なものにしか見えないが、実は確実に何かあるものを認識して描いているのだ。それと同じように、僕の意識の中には確実にその恐怖感はある。
 僕はしばらく、足を砂にとられては姿勢を整えるという繰り返しに全精神を集中させた。なんの視覚的刺激もない、のっぺりした砂の地面を見つめながらあてもなく歩を前に進める。足跡であるくぼみがあとへあとへとついているのだろうが、僕は振り返らない。振り返ることを忘れているのではなく、断固として振り返らないことに決めたかのようだ。自分でもなぜかわからない。そっちを見たいと思えば、見るだけだ。どうせ見渡す限りの砂丘がどこまでもつづいているに決まっている。僕はやつらを確実に意識している。やつらの(声と認識していた)声を。見えないものから発せられる声を。しかし今、“それ”は僕の意識の中にある僕の考えであって、絶対にやつらから発せられたものではないはずだ。
〈どうして前を向いて歩かないんだ? そんなに人の視線が怖いのか? だったらもっと見られた格好をしろよ。おまえの格好はどう見ても違和感がある。街中を歩く格好じゃない。それに、水を飲むんだったら、あまり人目につかないところで飲めよ。みっともないからな。ここではガムさえ噛んじゃいけないんだぜ。もし、やるんだったら飲み込めよ。そこらに吐き捨てちゃいけない。ほら、向こうから人が来る。あれは子供か、学生か、女の人か、おじさんか、おばさんか、誰だろうとおまえの敵には違いない。絶対に目を合わせるな。どんな因縁をつけられるかわからんからな〉
 僕は“それ”をもてあますが、いちいち答えることにする。──前を向かないのは足元をよく確認するためだ。人の視線が怖いからじゃない。水はまだ飲まなくても大丈夫だが、飲むのはどこだってかまやしない。それは砂漠の中で自分の生命を守ることでもあるのだから。ガムは持っていないし、もし持っていてやったとしても子供でもあるまいし、そこらへんには吐き捨てない。吐き捨てるくらいだったら飲み込んでやる。向こうの遠くに見えるのは蜃気楼だ。本当の人じゃない。それにここは砂漠だ。めったに人に出くわすことはないだろう──すると、“それ”はさらに言及する。
〈なにせ、おまえは真面目だからな。かといって、生きていくためには真面目なだけじゃ、役に立たないぜ。大きい声ではっきりものを言い、的確にものごとを判断していく度胸がおまえにはない。いつも、聞き取りにくい震えた弱々しい声で、しかもものごとをうやむやにして、あとで勝手に思い込みやがる。自分の声が嫌いなのか、大きい声を出しているのを人に聞かれるのが嫌なのか、どちらにせよ、おまえはできそこないなのさ。世界を“そういうもの”として捉えることができないのが、おまえのそもそもの欠点だ。世界が何か捉えようのない、アメーバみたいなものだと思っているんだろう? だけど、この世界のあらゆるものごとは決まりきった規則に従って動いている。数学みたいに、ひとつの問いには、ひとつの解がある。ひとつの原因には、ひとつの結果しかないんだ。おまえが大きい声を出せば、確実なはっきりしたひとつの答えが返ってくるものなんだよ。おまえはそれが嫌なんだろう? なのにおまえは複数の答えが返ってきはしないかといつも怯えている。そりゃ、自己矛盾ってやつだぜ。世界は、一方では“そういうもの”としてしか機能しない、一方では複数の答えをはらんでいる。そう思っているわけだろう、おまえは? どっちが正しいかわからない。だから、とりあえず真面目ぶっているんだろう?〉
 僕は“それ”を無視したいと思う。しかし、“それ”はどんどん僕の意識の多くの領域を支配していく。“絶望”の(声と認識していた)声のように。でも、大部分は誹謗中傷には聞こえない。僕はしかたなく答える──真面目ぶっているわけじゃない。ただ、わからないだけなんだ。人前で、あらゆる場面でどう振る舞っていいのか──すると、“それ”は言う(僕は言っているように認識する)。
〈ひとつの命題に対して本当の唯一の正しい答えが、この世に存在するかどうかがわからないんだろう? あるようでない、ないようである、つまり、“そういうもの”なんだよ、世界は。もっと、人生を楽しめよ。やつらも言ってるぜ。楽しいことを考え、楽しいことをしないと生きる意味がないってな。それでもおまえは真面目ぶって黙っているつもりかい?〉
──いつまでも黙っているつもりはない。僕だって言うときは言うんだ──“それ”はしばらく沈黙するが、また勢いよくしゃべりだす(僕はしゃべっているように認識する)。
〈おまえには本当に楽しいことなんてわからないんだ。みんなが楽しんでいるときに、おまえはいつも冷めていた。みんなが笑っているときに、おまえはむしろ泣いていた。どうしようもない弱いやつだよ、おまえは。おまえみたいなやつはひとりでひっそりと誰にも気付かれずに野たれ死ぬ運命なんだ。いくら深く思考したとしても、みんな空回り。無駄なことなんだよ〉
──ひっそりとのたれ死ぬのも、ひとつの死に方かもしれない──僕は“それ”の言うことには同意したくないと思う。しかし、たしかに僕の性格は暗いといつだったか誰かに言われたことがある。“それ”はなおも言及する。
〈おまえは他人がものを食べるくちゃくちゃいう音が気持ち悪いんだろ? だから、一人で食事をすることを好んでいる。外食するなんてとんでもないと思っているんだろう? どうして、そんな音に耳を傾けるんだ? いつだってそうだ。なんでもない他人の会話を聞いて、自分の悪口を言っているんだと思いこむ。気持ちよく笑っていればいいのに、どうして人を疑い、憎むのだ?〉
──人を憎むのは、いけないことなのか? いい顔をしていた人が、次の瞬間にはもう誹謗中傷している。そんな場面に何度出くわしたか知れない。そこで憎しみが生まれたって、何の不思議もないじゃないか──すると、“それ”は笑いながら言う(僕は言っていると認識する)。
〈おまえが“それ”の存在に気付くのがいけないんだよ。普通の人間は“それ”には気付いていないんだぜ。やつらの声も聞こえていない。だから、なんだって平気なんだ。怖いものなんてない。だけど、おまえは“それ”に気付いてしまっている。その状態を正常に戻すには、もう結晶を完全にするしかないんだよ〉
──結晶? どうしてそんなことを知っているんだ?──僕の問いかけに“それ”は答えない。
〈じゃあな。オレはしばらく眠る。だけど、覚えておけよ。おまえは結晶を完全にしなきゃいけない。あの世界で生きたければな〉
──あの世界って? 現実世界のこと?──“それ”はもう眠ってしまったようだ。
僕は体も精神ももうへとへとだった。やわらかい砂のゆるやかな斜面で両膝をつき、乱暴に水を飲みほす。それにしても、どこまで歩けばいいんだ。何も見えないぞ。僕は目を上げてあたりを見回す。すると、右斜め前方、二時の方角になにやら緑が生い茂ったところが見える。オアシスか? それに大きな白い建物も見える。いや、蜃気楼かもしれない。僕はとりあえずそこに向かって、また、歩き出す。あの場所が約束された場所なのだ。僕はそう思った。

 ここは天国なんだろうか? よれよれとした足取りで、重厚な門をくぐって一番最初に目についたのは何本もの白い列柱と蝶の舞う緑の中庭。これはペリスタイルというもので、緑の草花や低木でいっぱいの中庭を囲むように白い石の柱が見える。そして、庭の中ほどには豊かな水が湧き出ている泉がある。建物自体はチューダー様式に似ている。荘厳さがそこかしこにうかがえる。僕は庭の中ほどまで来るとそこにうつぶせに倒れこんだ。すると、ずっとこちらの様子を伺っていたかのようにすぐに建物の奥から、なにやら人のような生き物が一人(一匹?)、僕のへたばっているところへすばやく走りよって来た。人のような生き物と思ったのは、その風貌があまりにも何かの動物のように見えたからだ。腰のところを紐で縛った白い綿布をまとってはいるが、黄土色の毛むくじゃらの腕が見えている。顔も短い毛に覆われ、目は丸く大きく、ブルーの瞳で、頭の上に猫か犬のような三角の耳らしいものが付いている。背丈は僕よりも低い。僕はそれ以上描写する気力がなかった。そして、力なく目を半開きにしてうなだれる。初めて会った人にするような態度を取る余力も残っていなかった。その子は黙って泉の水を両手にすくって、僕の口もとへ持ってきた。僕はその小さい手にすくわれた少量の水が、ほおをつたって口に入るのを感じた。そして、そのなけなしの水をごくりとやった。すると、どうしたものか、なにやら純粋な元気みたいなものがふつふつとみなぎってくる。厭世的な気分もどこかへ行ってしまった。
「ありがとう」僕はかすれた声でその子に心からのお礼を言った。そして、上半身を起こして、そこへ座る。「僕はパロット」
 その子はにっこりして初めて口を開く。「私、クロロ」はっきりした澄んだ声。どうやら、女の子らしい。そう言えば、目は幼いが女性的な光を放っているように見える。
「ここは君の家?」僕は尋ねる。その子は頷(うなず)いた。「君一人で住んでいるわけじゃないよね?」
 すると、またにっこり微笑む。まったく邪な感じがしない自然で無垢な笑顔。「父さんと一緒。それとサンドロ」
「ふーん。お母さんは?」僕は考えなく尋ねる。 
「母さんはいないの。私の小さい頃に死んじゃったんだって、父さんが言ってたの」少女はその微笑みを絶やさずにそう言った。僕はしまったと思った。悲しいことを思い出させてしまった。
「ごめんね。こんなこと訊いて」僕は言う。
「んーん、いいの。私、母さんがどこにいるか知ってるもの」少女は言った。僕はそれ以上訊かないことにする。この女の子はこれから母親がそばに居ないということをずっと背負って生きていかなきゃいけない。そう考えると、自分のことのように悲しく思えてくる。でも、この子にはお父さんが居るんだ。
 しばらくぼうっとしていようと思っていると、建物の奥のほうから、どやどやと人声が聞こえてきた。そして、その人たちは僕のところにやってきた。
「ようこそ、パピルス荘へ」その背の高い人物は言った。すると、その横に居る背の低い色白の青年が口を開く。
「こちらはクヌート・クレーベ教授。僕は助手のサンドロです。よろしく」
「僕はパロットといいます」僕も座ったままあいさつする。
「待っていたんだよ、旅人よ。まあ、まず風呂に入りたまえ。新しい服に着替えて、それから食事でもしながらじっくり話をしよう」教授は言った。
 それから僕は風呂に案内され、きれいに砂と汗を流した。新しい服ももらった。教授たちが着ていた白い綿で出来た、腰のところを紐で縛るやつだ。履物は革で出来ているらしいサンダルだ。着心地はなかなかいい。そう思っているとサンドロがやってきて食事の用意が出来ていると言う。僕は食卓のある広間に通された。そこにはクロロ、クレーベ教授、サンドロ、みんなそろって食卓に向かって座っている。見ると、そんなに豪華とは言えないが、十分腹を満たしてくれそうな食べ物が地味な皿に盛り付けてある。僕はこんな砂漠の真ん中で、よくこれだけの食べ物があるものだなと余計なことを考えた。僕のために特別に作ってくれたのかもしれない。
「さあ、遠慮なくやってくれ、パロット君」教授が言った。僕ははいと言って席に座り、食欲に任せて手当たり次第に食べ始める。みんな僕が食卓につくのを待ってくれていたようだ。「旅人が来るなんて久しぶりだ。ここはもともと図書館だったんだよ。だから、たくさんの本がある。小説から、歴史、化学、哲学、なんでもそろってるよ。君は何に興味があるんだい?」教授はパンをかじりながら言う。
 僕は何を煮たのかわからないものをスプーンですくいながら答える。「そうですね。学術的に言うと、人がどうして他人をそしることを楽しむのか、その生来的な性質が宇宙の根本原理の中においてどういう現象として捉えられるのか、ということについて知りたいですね」
「ははは。君はおもしろいところに興味を持っているねえ。たしかに性格の卑(いや)しい人物でなくとも、他人をそしるのは我々人間の社会では日常茶飯事のことだね。四六時中他人をそしっている人も居れば、そうでない人も居るし、けれどもまったく他人をそしることをしない人間は居ないと言ってもいいだろう。それがこの世界における人間の存在、現象すべてに照らし合わせた場合においてどういう意味を持っているのかを知りたいわけだね?」教授は言う。
「それ、砂漠ネズミの煮物です。おいしいでしょ?」サンドロが横から言う。
 ネズミ?──僕は一瞬手と口を止めたが、もう遅い。それにうまいのだ。教授との会話に集中する。「ん、んー、そうですね」僕は少し口ごもってしまう。ネズミのイメージ。「そうなんです。人間は平気で他人をそしります。それは人間が起こす現象の中のひとつであって、自然なことだと思うんです。でも僕は、それに費やす時間の無駄さと、そういう行為を繰り返す低俗さに、絶望すら感じます。こんなことをしていていいのかと」
「ふむ、君がそのことをどれだけ大きな命題として悩んだか知らないが、それはね、森羅万象、宇宙の視点から見るとケシ粒のように小さな事柄なんだよ。そんなみみっちいことを確固とした人間の起こす一現象として捉えていいかどうかということだよ、問題は」教授は咀嚼している物をきれいに飲み込んで、一呼吸置く。「例えば、例えばだよ。遠い銀河のかなたから、人間よりはるかに高い知能と文明を持った宇宙人が地球にやってきたとする。友好を深めるために人間の特徴をその宇宙人に言う時がきた。その人間の特徴のリストの一番上には、こう記してあった──“人類の最たる特徴は、頻繁に他人の誹謗中傷をすることである”──とね。ばかばかしいだろう? そういうことなんだよ、私の言いたいのは。だから、今から君はそのばかばかしい命題を捨てたまえ。そんなことを考えることのほうが無駄な時間の浪費だよ。──と、私は思うんだがねえ」と言って、教授は野菜のサラダにとりかかる。
「そうですよね。ただ、僕はそんなみみっちいことを人がどうしてするのか、しかも楽しんでする、というところが納得がいかないんです」僕は少しだだをこねるように言う。そして、もうひとつの大きな皿に盛られた料理に手をつける。
「君はそんなに他人からそしられた経験がたくさんあるのかい? 人をそしるってのは普通、本人の聞こえないところでするものだろう?」
すると、また色白のサンドロが言う。「それは砂漠イナゴに衣をつけて、油で揚げたものです。つまり、から揚げですね、要は。おいしいでしょ?」
僕はまた手と口を止める。イナゴって虫だよな。しかしこれも、文句なくうまい。香ばしくて塩が効いている。歯ごたえも申し分ない。僕は抑揚をつけて言う。「おいしいねえ、これは」そして、教授との会話に戻ろうとしたが、一瞬何を言っていいかわからなくなった。そのくらいの砂漠イナゴの群れるすごいイメージ。「ん、えーと、なんでしたっけ。あ、そう、たしかに直には聞いたことはないんです。でも、僕の意識の中には、僕の考えと言えるのかどうかわからない、他人の意識のようなものが入り込んでいるんです。つまり、どう表現していいかわからないんですが、要は他人の話し声を自分の誹謗中傷を言っているのだと自動的に認識してしまうんです」僕はもぐもぐしながら言った。
「それは一種の精神病のようなものじゃないかな。統合失調症というのがあってね、昔は分裂病なんて言われていたんだ。自分の妄想に基づいた幻聴が聞こえるのは、その症状のひとつなんだよ」教授は食べた食べたと言わんばかりに腹をさすりながら言う。
「はあ、そんな病気があるんですか?」僕は言う。僕はそのときは教授に精神病かもしれないと言われてもショックを受けなかった。むしろ、そうかもしれないと思ったくらいだ。
「うん。過覚醒と言ってね、君の脳はそれ自体の脳内物質であるドーパミンの過分泌によって、覚醒し過ぎているんだよ。もし、その病気だとしたらね。どうしてこういうことが起こるのか、いまだに解明されていないんだ。その症状は今のところ薬物で抑えることしかできない。この病気で苦しんでいる人はある時を境に全地球的な規模で急激な増加を示していてね、はっきりとわかっているのはそれが1908年のツングースカ大爆発以降だということだけなんだ。あの大爆発が原因だという証拠はどこにもないがね。知ってるかい? ツングースカ大爆発」教授が尋ねる。
「はい、オカルトか何かの本で読んだことがあります。中にはブラックホールが衝突したんじゃないかっていう説もあって、なかなかおもしろいなと思ったので、記憶に残ってるんです。それに偶然の一致かもしれませんが、僕はそのときに出来たといわれるモルダヴァイトを探さなくちゃいけないんです」僕はフォークを置いて言った。
「モルダヴァイト? あれは隕石が落ちたときにしか出来ないはずだが?」教授は言う。
「そうですよね。それがあるって言うんです。真のモルダヴァイトとして。詳しいことはわかりませんが、人と人の意識を混ぜ合わせてしまうらしいんです。僕の意識はすでに誰かの意識と混ざろうとしています。自分でもわかるんです。幻聴に似た声が聞こえてくることがあるからです。それは自分の思考とは違う“意識の中の声”なんです。」僕は天井の照明を見ながら言った。ここには電気が来ているのか、それとも自家発電か、あるいは...。僕はそんなことを考える。
「真のモルダヴァイトか──それは聞いたことがなかった。ふむ、人と人の意識を混ぜ合わせると症状としてはどういう状態になるんだろう?──私の考えではおそらく自分の思考していることが他人に筒抜けになったような感覚になるんじゃないかと思うんだ。つまり、自分が普段気にしていること、劣等感やコンプレックスに思っていることが他人に知られてしまっていると認識している状態、言い換えれば、大変な恐怖感にさいなまれている状態になると思うんだ。だから、外見はとてもおどおどした感じになるんじゃないかな、自分の考えが何から何まで他人に知られてしまっていると認識しているわけだから。これはさっき言った統合失調症にも見られる症状だ」教授は言い終わるとサンドロの持ってきたお茶をすすった。
「考えただけでも恐ろしいことですね。でも、僕の場合はなんていうか遠い昔のある青年の意識が、僕の意識に余分なものとして入り込んできているといった感じなんです。その症状は特に結晶からこの世界に意識が開闢(かいびゃく)するときに起こるようなんです」僕は言う。
「結晶から? そうか君はメイトだったね?」教授が尋ねる。
「そうです」僕はすばやく答える。
「じつは私たちはメイトがこの地にやってくることはわかっていたのだよ。石の妖精さまのお告げでね」教授は言う。
「えっ、ここにも石の妖精さまがいらっしゃるんですか? 早く言ってくださいよ。僕は石の妖精さまから大事なお告げを聞いたんです。真のモルダヴァイトのことを」僕は言う。
「すまないね。君が落ち着いてくれないかと思って、言うのを後まわしにしたんだよ」教授が言った。
「それじゃあ、ここは現実世界なんですか?」僕は尋ねる。
「そりゃそうさ。私にとってここは正真正銘の現実世界だよ。君にとってはどうか、私は知らないがね」教授が言った。
すると、助手のサンドロが言う。「モルダヴァイトはある部屋に安置してあるんだ。逃げたりしないから安心なさい」
「そのモルダヴァイトは、真のモルダヴァイトではないんですか?」僕は少し興奮気味になってお茶を飲む。
「さあ、自分で確かめてみるんだね。それじゃあ、案内しよう。サンドロ」教授は言う。
 サンドロははいといって立ち上がり、こちらですと言う。僕はサンドロについて歩くことになった。クレーベ教授とクロロもついてくる。一行は美しい中庭の見える長いテラスを横切り、古そうないかめしい題名の付いた大きな本がたくさん棚に並んでいる書庫を通り抜け、一番奥の小部屋にたどり着いた。その部屋には西側の壁に祭壇があって、そこに暗緑色に燐光を放つ、子供の握りこぶしくらいの大きさのモルダヴァイトが安置してあった。すでに主電源が入っているらしい。
「これは真のモルダヴァイトじゃありませんね」僕は言う。
「どうしてわかるんだい?」教授が問う。
「色が違いますから。真のモルダヴァイトは青です」
「照射します」サンドロはそういうと装置のスイッチを入れる。すると、二つの方向から青い光が鉱石に照射され、石は鈍い緑色の光を放ちはじめた。そして間もなく、石の妖精さまの立体映像が祭壇の前に浮かび上がってきた。頭には巻貝のようならせん状の帽子、とんがった耳は真横につき出し、しみのような黄色い色の服装、せむしのように曲がった背中、首には黒い玉のネックレス、老木でこしらえた杖を両手で持っている。
「よく来ましたね、パロット。待っていたのですよ」その石の妖精さまが言う。女性らしい言葉づかいだが、明らかに老いている。その声は少し震えていて弱々しいのだ。
 僕は言う。「あなたに訊きたいことがあるんです」
「わかっていますよ。真のモルダヴァイトのことですね? ──“世界の終わりに邪悪な王はよみがえり、冒瀆(ぼうとく)と蹂躙(じゅうりん)の炎が世界を焼き尽くすだろう”──これは古い言い伝えです。真のモルダヴァイトはその世界の終わりに現れるというメシアを導くキーストーンなのです。しかし、その石は人を生かしもするが殺しもする、両刃の剣です。パロット、あなたはすでに運命によって選ばれし者です。結晶が不完全であることがそれを示しています」
「結晶って、いったいなんなんですか?」僕は尋ねる。
「結晶はあなたのすべて。あなたの肉体も精神もすべて結晶に内包されています。それが不完全であるというのはありえないことなのです。鉱石の結晶をごらんなさい。形はどんなに不完全でも分子的に見ればどれも均一で完全な結晶です。人間の結晶も同じこと。容姿、性格、考え方、そういう人間のあらゆる多様性が完全な結晶として晶出しているのが当然のことなのです。あなたは言ってみれば宇宙の根本原理を乱す存在。だから、善にもなれば悪にもなる。光と闇。陰と陽。それらは表裏一体、対をなす融合の象徴、それがあなたなのです。これは宿命です。誰が決めたのでもないし、自分が決めたわけでもない、すべてはあの世界の運命──」
「あの世界というのは?」僕はまた半信半疑な気分で質問する。
「あの世界とは結晶のある世界のことです。私達はこの世界と結晶のある世界とをつなぐ、残像にしか過ぎません。メシアを導く使命を負っているのです。あのツングースカ大爆発のときからずっと──。そして、あなたが結晶のある世界に生まれた。あなたなら世界を導くことができるはずです」
「僕にはそんな大それたことはできそうにありません。でも、結晶が不完全なのは気になります。僕はただ、みんなと同じように結晶を完全にしたいだけなんです」僕は訴えるように少し強く言う。
「そうですね。あなたのしたいようになさい。そうすれば、知らないうちに運命に導かれることになるでしょう。それでいいのです。それで...」石の妖精さまは静かに言う。
僕はもう何も迷うことがなくなった。とにかく、自分の結晶を完全にするために、真のモルダヴァイトの妖精さまに会いに行くのだ。「僕は真のモルダヴァイトの妖精さまに会いに行きます。そして、結晶を完全にします」僕ははっきり言う。「その石はどこにあるんですか?」
「あなたはもう気付いているはずです。──そう、あなたに近づき、導いてくれた人物...シロカミという男が真のモルダヴァイトを持っています。正確にはあなたが彼に渡したのです。すでにあなたは苦難の末にあの石を手に入れていた。ところがその石の力であなたの意識は異次元へ飛んでしまい、それとともに記憶も失ったのです。彼は石の力を利用して邪悪な王をよみがえらせようとしています。それにはあなたが必要なのです。結晶の不完全なあなたが──」石の妖精さまは静かに言う。
「そんな...僕はシロカミさんが結晶をうまく育ててくれているんだと思っていたんだけど──違うんですね?」僕は少し憤りを覚える。
「最初は違います。あなたからあの石を受け取ったときから、シロカミの心に邪悪なものが芽生え、そしてついには彼を支配したのです。あなたもまた石に試されるときがくるでしょう。そのときあなたが何を成すかに、世界の運命はかかっています」
「そんな大変なことが、僕みたいなただの青二才にかかっているなんて、とてもじゃないけど僕には背負いきれません」僕はまた泣きごとを言う。
「ええ、あなたはただそうやって結晶を完全にすることだけを考えていればいいのです。そうすれば運命の扉はおのずと開かれるでしょう」石の妖精さまは震える声で穏やかに言う。
「わかりました。僕は絶対に自分の結晶を完全にします」
──しばらくの沈黙。
「もういいかね?」クレーベ教授が口を開く。「このパピルス荘全体の電力がなくなりそうなんだよ。すまないがもう電源を切らせてもらうよ?」
「ええ、もういいですよ。すべきことがはっきりしましたから...」僕は言う。
「サンドロ」教授はサンドロに電源を切るように言う。
サンドロは「はい」と頷(うなず)いて、モルダヴァイトに照射されている光の装置の電源を切る。石の妖精さまの映像はゆっくりと消えていった。
 教授は腕を組んでしばらく考え込んでから言う。「うーむ、どうやら君の肩にはどえらい荷物がしょわれているようだね。まあ、あまり深く考えなくてもいいんじゃないかな。君の結晶は不完全で、だから君はその結晶を完全にしようと努力する。それはごく自然なことだよ。何も不安に思うことはないんだ。自分に欠点があったら、それを直そうとするだろう? それと同じさ、気楽にかまえていればいい」
「でも、どうして僕は他のメイトと同じではないんでしょうか? そもそもどうして結晶が不完全なんでしょう?」僕は言う。
「うーむ、それは正直私にはわからない。でもひとつ確実に言えることは、結晶が不完全な状態で君が存在していることだ。それは実に興味深い。石の妖精さまも言っていたが、結晶が不完全なメイトなんてそもそも存在しないんだからね。それを考慮すると、この先の世界の運命が君にかかっていると言ったって不思議ではないよ。それに難しく考えなくてもいい。とにかく君は結晶を完全にすればいいのさ」クレーベ教授は腕を組んだ状態で言う。
「でも、真のモルダヴァイトの妖精さまの前で僕はどうしたらいいんでしょう?」僕は疑問に思う。
「うーむ、それも私にはわからないな。とにかく真のモルダヴァイトの妖精さまを呼び出して、お告げを聞けばいいんじゃないかな。それから先は誰にもわからない。君次第だね」教授は言う。「それにしても、そのシロカミっていう人物は何者なのかね?」
「シロカミさんは僕の主治医みたいな人で、ずっと僕のインクルージョンが異常を起こさないように監視してくれているんです。そのはずなんですが...」僕は青空の見える窓の外に無意識に目をやる。
「でも結局はその人が悪者のようだね──」教授がそこまで言ったか言わないかくらいの間合いでクロロが教授の足にしがみつく。
「くる...」クロロが不安そうに言った。次の瞬間、その祭壇のある部屋の中心にシロカミさんの姿が突然現れた。僕はそれに気付いて驚く。
「誰が悪者だって?」シロカミさんはいつもの黒い紳士帽とスーツにコートをはおり、片手にビジネスケースを持っている。そして開口一番こう言った。
「シロカミさん...ここは現実世界じゃないんですか?」僕はおそるおそる尋ねる。
「何が現実で、何が現実でないか──そんなことは重要ではないのだよ。今、君は私を疑っている。それは取り返しのつかない罪を犯しているのと同じこと。私はもう君の力にはなってやれない、君が私を疑っている限り。ただ、インターチェンジだけは持ってきてあげるよ。これがないと君は死んでしまうのと同じことだからね。君の生命に関わることは、仕事上するわけにはいかない。ただもう助言はできない」シロカミさんは辺りを見回しながら言う。
「この人がシロカミ?」教授が小声でつぶやく。
「あなたが真のモルダヴァイトを持っているのですか?」僕ははっきりと尋ねる。
「真のモル? なんだって?」シロカミさんは本当に何も知らないというふうに訊き返す。
「真のモルダヴァイト。僕の結晶を完全にする方法を知っているかもしれない石です。石の妖精さまによれば、その石はすでに僕があなたに渡したと言うんですが」
「その石っころがなんだって、君の結晶を完全にする方法を知っているんだね? 何か悪い夢でも見たんじゃないのかい? 君の結晶のことなら、私の指示に従っていれば何も問題ないんだよ。ああ、わかった、君はインクルージョン世界にどっぷりと浸かっているだけなんだよ。結晶に戻れば何もかも忘れてしまうさ。さあ、これを付けてさっさと帰りたまえ」と、シロカミさんはインターチェンジをケースから取り出す。
僕は少し考える。「今まで、結晶に戻って、次のインクルージョンで意識が開闢したとき、むしろ記憶がはっきりと残っていました。しかも、だんだんと意識がとぎすまされていっています。あなたの言うことは信用できません」
「うん、そうかもしれない。だけどね、ずっとここに居るわけにもいかないだろう? 私の言うことよりも、インクルージョン世界で見聞きしたことのほうを信用するというのかね? 前にも言ったとおり、このままだと確実に君のインクルージョンは破綻してしまうんだよ。うん、今はまだ大丈夫のようだが」シロカミさんは例の装置を取り出して言った。「ほら」──見ると波形が緩やかに動いている。これは安定を意味しているようだ。
「あなたは邪悪な王をよみがえらせようとしているんではないですか?」僕はいつもの半信半疑な気持ちで尋ねる。
「何を言っているんだ。もう、ほんとに大丈夫かな──この先...
「あなたは真のモルダヴァイトの力に操られているだけなんじゃないですか?」と、僕。
「ああ、話にならないな。とにかくここはいったん結晶に戻りなさい。そうだ、いい薬がある。今の君にぴったりだよ」シロカミさんはケースから注射器と液体の入った小瓶を取り出した。「さあ、腕を出しなさい」と言って僕の腕を取ろうとする。僕はやめてくださいと言って、その手を振りほどく。するとそのはずみでシロカミさんはよろけて、そばにあったビジネスケースを蹴飛ばした。鍵がゆるんでいたケースは開いて中にあったものが転がり出てきた。──青い! まさしく真のモルダヴァイト。
「それは! 真のモルダヴァイト?」僕は言う。
「...みつかったか。ちくしょう!──そうだよ、真のモルダヴァイトさ」シロカミさんは黒い革手袋をはめた手でその青い石を拾い上げる。そして、目の前へ。「こいつはおまえさんの手に負えるしろものじゃねえ。俺のような高貴な人間が持つにふさわしい石なのさ」なんだか言葉からシロカミさんが若返ったような印象を受ける。
「その石を僕に貸してください」僕は言う。
「は! はははは...へへへへっ! レンタルしようってか? は! 料金は一個300デイン、四個で1000デインになりま~すっ! おや、こちらは特別割引の対象外ですね。申し訳ありませんが、その金額ではお貸しできませ~んっ! は! おまえには一生貸さねーけどな!」──なんだかシロカミさんじゃないような感じ。
「どうしたんですか? シロカミさん?」僕は異様な感じを受ける。クロロも教授の後ろですっかり怖がっている。
 教授が言う。「だめだ。手袋をしていても意味がない。力が強すぎるんだ」
「この石はなあ、ただの石じゃねえ、俺の欲望を最大限引き出してくれる、ありがてえ石なんだ。は! 誰にも渡すもんか、ぐふう」
「そんなに大事なら、ケースにしまったらどうだい?」教授がとっさに言う。
「うるせえ! 俺に指図するんじゃねえよ。ま、大事なもんだからな。しまっておくか」──シロカミさんはそう言うとしゃがんで丁寧にケースにしまいぱちんと鍵を閉める。そして、深い深呼吸をした。「すまない──石の力で私の増大した欲望が表に現れたんだ。君に知らせるにはまだ早すぎると思ってね。時期が来たら、君に教えようと思っていたんだ。ほんとだ。今更、信じてくれとは言わない。ただ、君に真のモルダヴァイトを引き合わせるにはまだ早すぎるんだよ。君もだんだんインクルージョン世界に取り込まれつつある。これは結晶を完全にするには、少々やっかいなことでね。それも考慮すると早く結晶に戻ったほうがいい。ほら、インターチェンジはここにある」シロカミさんがさっき散乱したものの中から、インターチェンジを拾い上げた。僕は一応それを受け取る。
「結晶って──いったい何なんですか?」僕はいいかげんこのもどかしい気分を払拭したかった。
「前にも言ったとおり、君のすべてが──
「そのすべてという意味がよくわかりません。いったい僕は結晶世界ではどういう状態にあるんですか?」僕は言う。
「それは知らないほうがいい。こんなことを言っても信じてもらえないと思うが、我々人類は今絶滅の危機にあるんだよ。いや、地球上のすべての生命がと言ったほうがいい。太陽系の惑星そのものが熱した鉄板の上の水滴のように蒸発してなくなってしまうんだからね。そこである研究機関がメイトという意識を結晶化したヒトを誕生させた。これは人類救済のためのひとつの実験なんだよ。メイトの肉体と精神は結晶というひとつの形態をとり、あらゆる災厄から人間の意識を守っているんだ。ストレス、病気、その他もろもろの外的要因による死の危険を回避することができる。メイトと呼ばれる人間は文字通り、不死身になったも同然なんだ。ただひとつの欠点はそのエネルギーの源であるインクルージョンが不安定なメイトがときどき生まれるんだ。しかも君の場合は結晶そのものが不完全という、特異体質を持って生まれた」シロカミさんは弁解するように言う。
「それを利用して、邪悪な王とやらをよみがえらせようとしているんじゃないのかね?」教授が言った。
「はは、そんなおとぎ話みたいなことを君は信じるかね?」シロカミさんは僕に質問する。
「僕は今、何を信じていいかわかりません。ただ、結晶が不完全なことは確かだと自分でも感じます。意識が遠い昔の青年らしい意識と混ざり始めているからです。そして、唯一の手がかりがその真のモルダヴァイトです」僕は言う。
「そうだね。ただ今も言ったようにまだ早すぎる。君の結晶がある程度育ってからでないと危険なんだ。また同じことを繰り返さなくてはならなくなるからね。大丈夫、私の指示に従っていれば何も心配することないんだよ」と、シロカミさん。
「わかりました。ここはひとまず結晶に戻ることにします。ただ、忘れないでください。真のモルダヴァイトはすでにそこにあることを」僕は言う。
「ああ、忘れないとも。この石は私が責任をもって管理する。──それじゃ、私は帰るから。皆さん、お騒がせしました」そう言うと、シロカミさんは左手のインターチェンジのボタンを右手の親指で押し、結晶世界へ帰っていった。鈍い音とともにシロカミさんの姿は消える。僕の右手にはしっかりとインターチェンジが握られていた。
 
僕たちはその部屋を出て、食事をした部屋へ戻った。サンドロがコーヒーを用意してくれた。それを飲みながら僕はいろいろと考える。
「あの人はほんとに信用していいのかな? 私はあまりいい印象は持たなかったが、クロロもとても怯えていたし、どうなのかな」教授は言う。「どちらにしても君は結晶世界に戻らなくてはいけないようだね」
「僕にはわかりません。何が正しくて、何が正しくないのか──そんなことは重要でないかもしれません。でも、僕は正しいことをしたいんです。結晶を完全にすることが正しいことなのかどうか、疑問に思います」僕は言う。
「うん、そんなにかまえてたって意味ないと思うよ。運命はなるようにしかならないからね。正しいことをしたいと思うのは大切なことだ。だけどね、たいてい世界は思うようにまわっちゃくれないものだよ。真面目なだけじゃ、なんの役にも立たないようにね」教授が言う。
「あなたも同じことを言うんですね」僕は残念な気持ちになる。
「同じって、誰と?」
「いえ、いいんです。──僕はみんなと同じように結晶を完全にしなくてはならない。何があろうとも。そして、石のありかもわかりました。僕は帰ります、結晶へ」僕は言う。
「うむ、そうだな、私にできることは君がうまく結晶を育てて完全にできることを祈ることぐらいだな。何も力になってやれなくて申し訳ないな」教授が言う。
「いえ、いいんです。じゃ、僕はこれで──
「さよなら」クロロが言う。
「さよなら」僕は言い返す。そして、さっき左腕に付けたインターチェンジのボタンを右手の親指でしっかりと押す。僕の意識はシロカミさんに対する疑念と、真のモルダヴァイトがみつかったうれしさ、それと漠然とした不安が一緒くたになってぐるぐると渦巻いているような感覚を伴って、ゆっくりとその世界から消えていった。


ドリーム7 遺跡

僕は目覚まし時計なんかで強制的に目を覚まされると、その一日は非常に気分が悪い。ましてや、誰かわからない人の話声や何かの物音で目が覚めた場合、憤慨するのだ。
〈おまえは一生サラリーマンには向いてないな。朝が苦手なだけじゃない、便意をもよおす時間がまちまちで仕事中にトイレに行くことになるからな。しかも、一日に何回も。そんなこと、サラリーマンにはあってはならないことなんだ。だから、一生無理なんだよ!〉
 僕は“それ”の言うことはもっともだと思う。天気のよい日に軒先で洗濯物を干しながら、僕は“それ”との会話(僕は“それ”が僕に話しかけているのだと認識している)に精神を集中させている。──うん、絶対無理だな。でも、やろうと思えばできないことはないさ──
〈いや、おまえにはそもそもサラリーマンなんて向いてないんだよ。おまえは真面目なんだろ? だけど、会社がおまえに要求しているのは少なくとも真面目さじゃない。それはこの前、面接を受けたときにわかっただろう? かといって、おまえにはこれといって取り得がない。むしろ、欠点のほうが多い。人と話すときはうまく考えをまとめられずに赤面して閉口しがちになるし、背は低いし、少し太りぎみだし、髪の毛は少ないし、顔は不健康に白いし。だからな、こっちから蹴ってやりゃよかったのさ。こんな会社で働く気はありませんって、はっきりとな。〉
──そんなこと、できないよ。あのときはむしろ、なんとか雇ってほしいっていう気持ちのほうが強かったんだから──しわしわのTシャツをしゃんと広げながら、僕は“それ”の言い分に答える。
〈そうそう、あのときのおまえは初めて見る建物や人、とにかくすべてに怯えていて、ほとんど何もまともに考えられなかったからな。はは、本当に弱いやつだな、おまえは。そんなおまえを受け入れてくれる世界はそこにはなかったわけだ。これからどうする気だ? この世界はな、働いてカネを稼がなきゃ何もできないようになっているんだぜ。それに一人前として認めてももらえない。それはいくらおまえでもわかっているよな?〉
 ──そりゃ、わかってるさ。僕だってなんとかしようと思っているんだ。このまま、何もしないでいようとは思ってない──僕は靴下を伸ばして洗濯バサミでとめる。
〈幸いなことにいくらでも逃げ道がある。その中には暗黒面も存在しているからな。カネのためにはなんでもするっていう世界がな。気をつけろよ。まあ、おまえはなんといっても真面目だから、その点は大丈夫だろう?〉
 ──もちろん、大丈夫さ──僕は洗濯物のしわしわのズボンを広げながら、少し上機嫌になる。
〈だがな、もし、いつまでもいい商売が見つからなかったらどうするんだ。やつらは一見知らんふりをしているけれども、確実におまえの行動を監視しているんだぜ〉
 ──やつらって、誰のことだい?──
〈そこらじゅうにうようよ居やがるやつらのことさ。連中はおまえが次に何をするかちゃんと見ているんだ、一挙手一投足すべてな。だから、おまえは慎重に行動しなければいけない。何をするときも。その意味じゃ、どこにも逃げ場はないけどな。信じれるのは自分だけさ。だけど、おまえは自分をすでに信じちゃいない。むしろ、憎んでいる。そうだろ?〉
 ──そうかもしれないね──僕はやっと洗濯物を干し終わり、しばらく縁側に座りこみ、“それ”の言うことに耳を傾けることにする(実際には耳に聞こえているわけではない)。
〈言ってみれば、これからのおまえの人生は贖罪なんだよ。やつらの犯しているすべての罪をおまえは贖(あがな)わなければいけないんだ〉
 ──どうしてそんなことを?──
〈だから、おまえは自分を信じちゃいないんだろう? 自分を信じることができないやつはそうするしか道はないんだよ。憎しみの輪を広げたくはないだろう?〉
 ──じゃあ、僕はどうすればいいんだい?──
〈まずは手始めにトイレの掃除をしろ。部屋も掃除機をかけて、窓を雑巾で拭け。自分のことができないやつに贖罪なんてできやしないからな〉
 ──それから?──
〈まずは今言ったことを毎日でもできるようにするんだ。そうできるようになったら、今度は一日一回外でジョギング。ウォーキングでもいい〉
 ──なんだか、面倒だな──
〈贖罪の道は厳しい。だけど、おまえはしなければいけない、絶対に〉
 ──そもそもどうしてやつらの罪を僕が贖(あがな)わなければいけないんだ?──
〈人間はな、一時的でもいいから何かを信じないとやっていけないんだよ。そりゃ、なんだってかまわないんだが、おまえは何も、自分すら信じちゃいない。それをやつらは知っていて、常におまえをおとしめようとするだろう。その攻撃に打ち勝つにはもうその方法しか残っていないんだよ。だから、まず自分のことをちゃんとしろ。まあ、昼飯を作ったり、洗濯したりするくらいはできているようだが、それは自分の下着を母さんに触ってほしくないからだろう?〉
 ──君は何でも知っているんだねえ──
〈当たり前さ。おまえのことはなんだって知っているさ。他の人間を信用しちゃいないことも、親類、親兄弟でさえも憎しみの対象になっていることも、つまりおまえはこの世界では何も信じちゃいない。信じることがどんなにばかばかしいか、おまえはよく知っている。よく裏切られたもんな。午後の教室で、放課後の運動場で、おまえはいつも独りだった。独りが好きだったんだな? ところが、いざ学校を卒業して文字通り独りになって気が付いたわけさ、独りじゃ何もできないことにな。でも、もう取り返しがつかない。そうだろう?〉
 ──うん、でも今でもどっちかっていうと孤独なほうが好きなんだ──
〈違うんだよ。それはおまえに課されている懲罰なんだよ。今までおまえは何をしてきた? ろくでもない野卑な欲望を乱暴に満たしてきただけじゃないか。そして、これからもそうしていくつもりなんだろう?〉
 ──いや、僕はただ平穏に暮らしていければいいと思っているだけだよ──
〈ふん、いいんだぜ。欲望のままに生きるのを悪く思う必要はないんだ。現にやつらを見てみろ。手当たり次第に周りのものに食らいつき、食い尽くし、自分の体を無意味に太らせていやがる。この世の中の仕組みだって人間の欲望に基づいて動いているんだ。何も恥ずかしく思ったりする必要はない。大手を振って欲望の牙をむきだしにすればいいのさ。みんなそうしてるんだぜ〉
 ──でも、僕はそうはできないな──
〈おいおい、どうしちまったんだよ。前のおまえはそうじゃなかったはずだぜ。みんなと同じようにうまいものばかり食い散らかし、まずいものは遠避けていた、前のおまえはどこに行ったんだ? そうか、わかったぞ。それがおまえの一番の望みなんだな? だとしたら、おまえはまだみんなと同じ正常だ。そのままでいい。どうなんだ?〉
 ──そう、平穏に暮らすことが一番さ──
〈ああ、おまえも落ちたもんだな。そんなどうでもいいようなことが望みなのか? たしかに正常だが、そんなことで世界はおまえを許しちゃくれないぜ。もっと欲望の黒い翼を広げて飛び立たなきゃな。世界の仕組みがそうなっているんだから、おまえもその歯車のひとつにならなきゃいけないんだ。そうしないとおまえは野たれ死ぬことになるぞ〉
 ──それもひとつの人生かもしれないよ──
〈そんな悠長なことを言ったって、やつらに笑われるだけだぜ。さあ、食え! 食って食って、食い尽くせ! そのためには何が必要か考えて、そのためだけに行動するんだ。それが正義であり、贖罪でもあるのだから〉
 ──いやだ。僕はそんなに腹が減っているわけではないし、第一間違ってるよ。欲望に任せて行動するなんて──
〈ばかだな、おまえは。行動するには欲望というものがどうしても必要なんだよ。前のおまえもそうだっただろ? 欲望を満たすために行動しただろ? それでいいんだよ。世界の仕組みがそうなっているんだから〉
 ──じゃ、僕が世界の仕組みを変えてみせるよ──
〈はん。何を寝ぼけたことを言ってるんだ。そんなことできるわけないだろうが〉
 ──はは、そうだね。でもそうありたいと願うのは無駄なことじゃないと思うよ──
〈そうだな。それが欲望の基本だからな。間違っちゃいない。だけどな、考えてもみろよ、おまえの生きているうちに世界の仕組みががらりと変わると思うか? しかも、おまえの望んだとおりに。それは天文学的な確率でも起こりうることではないんだよ。だから、地道に働いてるやつの勝ちだ。だが、おまえは違う。おまえには贖罪の道がある。それは何よりも崇高で、意味のある生き方だ。おまえはその自分の生き方を恥じることも、卑(いや)しむこともないんだ。堂々と筵道(えんどう)の上を歩けばいいのさ〉
 ──でも、不安だな。とりあえずカネは必要だし──
〈カネなんて親のすねっかじりでも、アルバイトで稼いでもなんだっていいじゃないか。正社員にこだわる必要はない。なんてったって、おまえは贖罪のために生きているんだからな。すばらしい生き方だよ〉
 ──贖罪って、いったい何をすればいいんだい? 環境問題の解決? 紛争を鎮める? それとも食糧問題?──
〈その気になりゃ、なんだってかまやしない。おまえのやることはすべてイコール贖罪なんだからな。だが、おまえ一人ではそんなにたくさんできないし、大きいこともできない。だからまず自分の心を磨くことから始めるんだ。自分の部屋の掃除でもいい、トイレ掃除でもいい、ジョギングでもいい、とにかく何か自分のために始めるんだ。そうすりゃ、自然に欲望が生まれてくれる。そうなったら、あとはそれに身を任せりゃいいのさ〉
 ──欲望欲望って言うけど、欲望は悪の象徴じゃないのかい?──
〈何言ってんだよ。欲望は人間の本質のようなものだ。欲望がなけりゃ、そいつは人間とは言えない。それ以前に生き物として失格だ。おまえにもあっただろ? ろくでもない欲望が。よかったんだよ、あれで。今のおまえはふぬけだよ。オレがそれをたたき直してやる。贖罪の道は遠く険しいが、おまえにはできるはずだ。なにせおまえは真面目なんだから〉
 ──でも、どうして贖罪をする必要があるんだい? しかも、やつらのために──
〈送るんだよ。はるか未来へな〉
 ──送るって、何を?──
〈おまえの意識を。おまえが思考したことのすべてを未来の人間に送りつけてやるんだ〉
 ──え? 未来の人間に? 仮にそんなことができたとしても、どうしてそんなことをするんだい?──
〈おまえが五感で感じ、そして思考したことがどんなに有意義なものだったか、それを教えてやるんだ。これは大きな計画のほんの一端なんだよ。やつらはすでに勘付いていやがるからな。少し急がなきゃならない。おまえの意識は少しずつ未来のある一人の青年とつながりつつある。その青年もやつらに気付いている。そして、おまえのことも〉
 ──僕はどうすればいい?──
〈今言ったように自分のことをちゃんとして精神をとぎすませておくんだ。そうしておけば自動的におまえの意識は未来の青年に送られる。そうだ、もっと確実に送る、いい方法がある。それは日記を書くことだ。日記を書けば、おまえの意識はもっとはっきりしてくる〉
 ──日記か。ちょっと面倒だな──
〈ときどきでもいいんだぜ。気が向いたときでいい〉
 ──そう、それならできそうだな──
〈いいか、おまえのやることはすべて贖罪なんだ。それを忘れるなよ〉
 ──わかった。ところで君はいろんなことをよく知っているけど、何者なんだい?──
〈は、同じことを何回も訊くんじゃねえよ。オレは次元の狭間の住人、とでも言っておこうか。なーに、気にすんな。オレはおまえを見込んで、いろんなことを教えてやっているだけだからな。じゃ、またな〉
 僕は立ち上がり、洗濯かごを持って自分の部屋へ帰った。“それ”が言うには僕は未来の青年に意識を送っているのだそうだが、どうだか。でも、明日から、いや今日から僕は部屋やトイレの掃除をし、日記をつけることにする。気が向いたらジョギングもしようと思う。贖罪のために...。


いつものように意識が自分のものになると、僕はバギーにまたがり、ハイウェイを西に向かって猛スピードでぶっ飛ばしていることに気が付く。驚いて、少しよろけたがすぐに体勢を整えた。このバギーというやつはよくできていて、アクセルが右手で、ブレーキが右足でそれぞれ操作できるようになっている。正式名称は反重力なんとかって言うらしいが、詳しくは知らない。そんなものだろう? 乗り物ってやつは。
 僕は今むしゃくしゃしているので、自然とスピードが上がってしまうのだ。シロカミさんへの疑念、近くに真のモルダヴァイトがあったこと、結晶を完全にしなくてはならないこと、何者かの意識が僕の中にあること、それらをいちいち考えているといらいらしてくる。このスピード感と後へ後へと流れる風は僕のこの鬱積した気分をいくらか解放してくれた。バギーはうなるような低い音を出しながら路面をすべるようにつき進んだ。周りの景色も雄大でいわゆる木々の少ないどこまでも見渡せる砂漠に近い土地ではあったが、今の僕は虚しい気持ちにはならなかった。
 間もなく、道端にひとつの小さな店が見えてきた。僕は昼飯を買おうと思い、店の駐車スペースへバギーを止めた。背負っているリュックの中に使い古されて黒ずんだマゼンタの財布が入っているはずだ。僕は一応確かめてみる。いつものように確かにその財布の中にはカネが入っていた。僕は店の中に入る。
「いらっしゃい」と、店のおっさん。
一角がちょっとしたバーになっていて田舎じみているが、それがなかなか感じのよい雰囲気だった。僕はサンドイッチとコーヒーを取り、レジに行く。
「お兄さん、この辺の人じゃないね。どこへ行くんだい?」店のおっさんが尋ねる。
「いえ、別に──そう、ドライブしてるんです」と、僕。
「そりゃいい。ここらは遺跡の出る土地だから、他にはなんにも余計なものがありゃしない。当局の区画整理もここらじゃ手が出せないってんで、道路ばっかり立派につくられているんだ。工事のたんびにそこらじゅうで遺跡が出て、やっとこのハイウェイができたときにはもうほとんど予算がなかったって話だからね。ドライブのついでに遺跡を見学していくといいよ。観光のために一般に公開されている遺跡もあるからね。──三八〇デインになります」店のおっさんは余計なことをべらべらとしゃべる。
「そうですか。行ってみます」僕は一〇〇〇デイン札を出しながら言う。
「まいど。──ああ、一番の見物はシズネロス遺跡だな。あれはすごいよ。考えただけでもゾクゾクしてくる。まあ、一度は行ってみなさい」と、店のおっさん。
「はあ、そうですか。──それじゃ」僕はおつりを受け取り、妙に人なつっこい店のおっさんのしつこい視線を振りほどき、店を出る。
 シズネロス? 僕はバギーのエンジンをかける。そしてまた、どこまでも続いているように見えるハイウェイを西に向かう。しばらく行くと、なるほど遺跡の発掘現場が見えてきた。僕はスピードを落とし、道の両側に広がる光景を交互に眺める。たくさんの発掘作業をしている人と機械が見える。そして、間もなく僕は大きなクレーター──最初、僕はそう思った──を右手にとらえた。なんだ、この遺跡は。やたらに大きい地面にぽっかり開いた穴。どうやら露天掘りのようだ。僕はその遺跡の近くまで来ると、駐車場らしいところにバギーを止めた。僕はその巨大な穴の縁に行って、はるか下を見た。なにやらわけのわからない機械が虫のようにうごめいている。僕はその発掘作業を眺めながら、さっき買ったサンドイッチとコーヒーをやる。作業員らしい人が一人通りかかったので、僕は質問することにする。
「あの、ここは何を発掘しているんですか?」
「ん、ああ、観光の人?」
「はい、そうです」
「じゃ、知らねえわけだ。ここで何が発見されたか。知ってたらこんなところ誰もこねえぜ」
「いったい何が発見されたんですか?」
「プルトニウムだよ。旧世紀のやつらがやっかいなもんをなんでもかんでも土ん中に埋めちまいやがったんだ。プルトニウムはそのうちのひとつで、俺たちゃそれを掘り出して燃料にしてるってわけだ。他にもそこらへんを掘りゃ、わんさと出てくるぜ。最近じゃ、プラスチックがよく出てるって話を聞いたな。──とにかく、これ以上近づかねえこった。毒にやられちまうからな」と、作業員の人は言う。
 僕はこんなところでメシを食ってる場合じゃないなと思った。「この遺跡はなんていうんですか?」
「シズネロスっていうんだが、それがどうかしたか?」
「いえ、なんでもないんです」あの店のおっさん、僕をかついだんだな。僕はそう思って、少し不愉快になる。「毒って、あなたは大丈夫なんですか?」
「ああ、作業するときは防護服を着ているし、大半の作業は機械に任せてあるんだよ。それじゃな、俺は今から休憩なんでね」と、作業員。
「どうも、お邪魔しました」僕は早々に立ち去ることにする。するとちょうどそのとき、作業場のほうから警報ベルが鳴る。
「なんだ? 何があったんだ? ──まさかまた出やがったか」作業員は言う。
「なんですか?」と、僕。
「泥棒だよ。まいったな、これから休憩だってのに。真っ昼間っから盗みに来るたあ、いい度胸だぜ。あんたもさっさと帰ったほうがいいぜ。泥棒に間違われるかもしんねえからな。泥棒は見つけ次第、射殺していいことになってる。なんせプルトニウムを盗むやつだからな」作業員はそう言うと、走って下へ降りるリフトに跳び乗った。そのリフトと入れ違いになって下から隣のリフトが上がってきた。僕はそんなことにかまっている場合ではなかった。泥棒に間違われて射殺されてはたまらないからな。
 僕はバギーのエンジンをかけようとまたがっていつものようにボタンを押す。──かからない。メーターを見ると、燃料がないらしいことがわかった。こんなときになんだってんだ。くそっ! すると後ろで声がする。
「これ、あんたの?」
 僕はびっくりして、慌てて振り返る。するとそこには地味なカーキ色の服と長ズボンを着た、小柄で、髪がセミロングの少女が立っていた。少女だと思ったのはその雰囲気からだ。耳にはピアスをし、首には水晶のペンダント、そして背には少し大きめの重そうなリュックを背負っている。こんなところでヒッチハイク? 発掘の関係者かな、とも思う。
「──うん、そうだけど」と、僕。
「乗せてくんない?」と、少女。
「それがその、ガス欠なんだ」
「こんなキレイなコが頼んでるのに断るの?」
「ほんとにガス欠なんだよ。ほら、メーターを見てごらん」僕は言う。少女は近くに来てメーターを見る。
「ほんとだ。しかたないなあ、あたしが燃料をあげるよ」少女はそう言うと、おもむろにリュックを下ろし、中から銀色のカプセルを取り出した。そして、勝手にふたを開け、手慣れた手つきで燃料カプセルを交換する。そして、リュックを背負い後ろの席に座った。「はい。いいよ」
「ああ、ありがとう。でもなんで君、燃料を持ってるの?」僕は尋ねる。
「余計なこと聞くんじゃないの。そら、急いで!」
「どこへ行く?」
「どこでもいいから早く。出発!」
 僕はわけがわからないままエンジンをかけ、またハイウェイを西に向かうことにする。僕はバギーを操縦しながら、思いをめぐらす。もしかして、さっきのシズネロス遺跡での泥棒騒ぎ、このコが泥棒じゃないのか? 燃料を持ってるのが不自然だ。だけどこんな女の子がまさか...。誰も追ってきていないようだが、僕はしばらく後ろを気にする。
「僕はパロット。君は?」僕はバギーが風を切る音に負けないくらいの大声で、後ろにしがみついている少女に尋ねる。
「あたしティオ。遺跡の守り神!」と、少女ティオが言う。遺跡の守り神? ──何かの本で読んだことがある。ティオは遺跡の守り神の名だ。
「どうしてあんなところに居たの?」僕は精一杯の大声で言う。
「余計なことは訊くなって!」と、ティオは言う。──怪しいな、僕はそう思う。
 しばらくすると、左手に小高い丘の上に街が見えてきた。ティオはそこで降ろしてくれと言う。僕は街に入ると適当なところでバギーを止める。
「ここでいい?」と、僕。
「うん。ありがと。──よかったらさ、お礼に食事でもどう?」と、ティオは言う。僕はこれからすることもないし、適当にインクルージョン世界を過ごすのに、女の子と一緒というのはなかなか気分の悪いことではなかったが、突然思い出す、僕は奥手だということを。下心がないと言っては嘘になる。でも、僕の中にはその下心を蔑視する心も確かに存在しているのだ。僕は混乱し、閉口してしまう。「こっちから誘ってんだよ? お兄さん──あ、えーっと、パロットだっけ。どこに断る理由がある?」今、少し例のメロディが聞こえた気がした。僕はそのメロディが聞こえてくるのではないかという恐怖感に押し出されるように、返事をする。
「じゃ、僕のおごりで」
「え、なんか変だな。──ま、いいや、行こうよ」
僕はティオに手を引かれて人通りの少ない少し寂れた街を歩く。女の子と手をつないだのはいつ以来だろうか。
〈学生時代、運動会のフォークダンスのとき〉
 突然、そんな意識が一瞬脳裏をよぎる。あいつの意識だな──僕は直感でそう思う。すると次々と芋づる式に“それ”が目を覚まし始める。
〈若い男と若い女が出会ったら、あとはやることは決まってる。それをおまえはよく知ってるよな?〉
 僕はティオと街を歩きながら、“それ”の言う(言っていると認識している)ことに答えることにする。僕はこれから答えることに妙な自信を持ち、初めて“それ”に対して怒りを覚えた。──やめろ! 僕はそんなことはしたくない──
〈そうだな。おまえはそんなことをするような男じゃない。だけど、女のほうから誘ってるんだぜ。これはめったにないチャンスだ。それをおまえはみすみす逃してしまうのか? おまえには確実に欲望が巣くっているんだ。言い逃れはできないぜ〉
──うるさい! 僕にだって同じ年頃の女の人と、一緒に時を過ごしたいと思うことくらいはある。だけど、それだけだ──
〈はーん、おまえはむっつりすけべタイプだな。なさけないやつだ。はっきり言ったらどうだ。君とやりたいってな!〉
「ここ、ここ」と、ティオ。僕はハッと我に返る。僕とティオはある一軒のこじんまりした古びた食べ物屋に入る。店に入るとおいしそうな香りが意識を刺激してきた。
僕は“それ”の言ったことをふりほどき、席に座りながらティオに尋ねる。「この店にはよく来るの?」
「うん。いつもここで食べてる。ここの煮込みがとってもおいしいんだ」
「ああ、ティオ。いらっしゃい。今日はボーイフレンドと一緒かい?」と、奥から店の主人らしい年配の太った女性が出てきて、注文をとる体勢になって言う。
「やめてよ、おばちゃん。今日この人に助けてもらったんだよ。──あたし、いつものね。パロットはなんにする?」
「あ、同じものを」と、僕。
「煮込みふたつ!」と、店のおばちゃんは大きい声で奥に向かって言う。「それで、今日の収穫はどうだったんだい?」
「このとおりよ。はっはっは」と、ティオは隣の席に置いた大きなリュックを自慢げにポンポン片手でたたきながら言う。
「ねえ、あんなところで何をしてたんだ?」僕は唐突に尋ねた。
「あんたもしつこいねえ」ティオは不機嫌そうになる。
「教えてやんな。このお兄さんは悪い人じゃなさそうだよ」と、店のおばちゃん。
「うん。それはわかってるんだ。あたしの見込んだ人だからね。──しかたない。あたしはね、泥棒なんだよ。遺跡から出る遺物を盗んで、裏で売りさばいてるのさ。今日の獲物はちょっとやばいってウワサを聞いてたんだけど、まんまと盗んでやったよ。こいつは高く売れる──」
 僕はそれを聞いてうすうす勘付いてはいたのに改めて愕然とする。
「見つかったら、射殺されるよ」僕は言う。
「大丈夫、大丈夫。あたしみたいな美しい娘がまさかプルトニウムなんかを盗むとは誰も思わないからね」と、ティオは言う。
「は、よく言うわ」と、おばちゃんは言って奥へ引っ込む。
「でも、そんな大きい声で言ってもいいの?」見回すと他にも2人の客が居るのだ。
「いいの、いいの。この街の人はみんな泥棒だから。でも、危なかったよ。あたしのバギーがなくなってたんだもん。あれは絶対、バレてたんだね」
 間もなく、煮込みが運ばれてきた。とてもいい香りがする。見た目は普通のビーフシチューだが、一口やるとただならぬコクがあってうまいことがわかる。
「ねえ、これからあんたどうすんの?」と、ティオはパンをちぎりながら言う。
 僕はスプーンをカタカタやってスープをすすりながら、しばらく考える。「──いや、別に何も予定はないけど」僕はシロカミさんがいつごろ来てくれるだろうかと思いながら言う。
「じゃ、うちに来なよ」と、ティオは言う。
「え?」僕は少し戸惑う。するとまた、“それ”が意識の中にしゃしゃり出てくる。
〈やった! こんなチャンスはめったにないぜ。言え。言っちまえよ!〉
 ──うるさい、だまれ! これは僕が決めることだ──
〈何言ってんだ。オレとおまえは一心同体。オレが決めたことはおまえが決めたことでもある。さあ言うんだ、“冒瀆(ぼうとく)の言葉”を!〉
 ──やめてくれ。君が言ったように、僕はそんな人間じゃない──
「どうかした? そんなに悩むことかな。それともまた、お誘いを断る気?」と、ティオ。
 僕は“それ”の語りかける声をふりほどき、うつむいた顔を上げて言う。「いや、そうじゃないよ。その、僕が君の家に行ってもどうしていいのか、わからないっていうかね...」
「変なことを言うねえ。大丈夫だよ、とって食ったりしないからさ。って、あんたのセリフか、ははは。──あんたに見せたいものがあるんだ」と、ティオが言う。
「何?」
「あたしが盗んだものなんだけどね、ひとつ変なものがあるんだ。あんたならわかるかなあと思うんだけど──」
「わかった、お邪魔するよ」──僕は昔の遺物に興味があるのだ。
〈そうじゃないだろ? 下心があるからだろ? まあいい。どっちにしろ、チャンスはできた〉
 ──僕は“それ”を無視する。
「よし決まった。あたしんちここから近いんだ。あのとき急いでたからどこでもいいって言っちゃったけど、ほんとはこっちに来てほしかったんだよね。だから、こっちに来て正解だったわけ」 
 僕たちは食べ終わるとブラックのコーヒーを飲み、一悶着の末、結局割り勘でカネを払い、その店を出た。そして、ティオの家まで歩くことになった。あたりは暗くなりつつあった。その家は小高い丘の上にある古びた平屋建ての小さな一軒家だった。中に入ると、盗んだらしい古(いにしえ)の遺物がところせましとこれ見よがしに並べられている。陶器の修復されたマグカップ、大きなプラスチックのキューブ、化石になったブドウ、などなど。ティオはそのひとつの棚から手のひらサイズの小さなものを取ってよこした。
「これなんだけど──」見ると、ひし形で本体が茶色くさびついていて、端部に目のような透明なレンズがはめ込まれている。ああ、これなら何かの本で見たことがある。
「ルーペだよ」と、僕。
「ルーペ? 何それ」
「要するに拡大鏡だよ。その丸いところを通して小さなものを見てごらん。そうだ、そのペンダント」僕がそう言うと、ティオはペンダントを首からはずして、レンズをのぞきこんだ。「目の近くにレンズを固定して、ペンダントのほうを動かして距離を変えて見るんだ」
「ん? 水晶の中に何かある! なんだこれ。星の形をした金色のものがたくさんある」と、ティオが驚いて言う。
「ああ、それはインクルージョンだよ」そう言って僕は、自分の運命について思いをめぐらせる。「その星のひとつひとつが僕たちが今居る世界なんだよ。そして、その水晶の結晶そのものが僕なんだ」
 すると、ティオはそのルーペのレンズから目を離して言う。「あんた、メイトなの?」
「そう」と、僕。
「じゃあ、この世界はあんたの中にある世界ってわけ? あたしも?」
「そういうことになるね」
「なんだか不思議だよね。人の中に世界があるなんてさ」
「うん」僕はそれ以上言葉が見つからない。
「──ところでさ、あんた、浄化しない?」
「ジョウカ?」
「そう。あたしはいつも仕事が終わったら浄化してるんだ。そんなに難しいことじゃないよ。正座して水晶に向かって祈るんだ。“世界中のみんなが幸せになりますように”ってね。最低3回は唱えて。じゃ、最初あたしがやってみるから」そう言うと、ティオは部屋の真ん中に正座して、目をつむり、両手で水晶のペンダントを優しく包んで、しばらく黙りこむ。そして、どうやら頭の中でさっき言った祈りの言葉を唱えているようだ。そして、深呼吸をして目を開ける。「はい、次はあんた」と言って立ち上がり、水晶のペンダントを僕に渡す。
 僕は半信半疑な気分でティオがやったようにやってみる。──世界中のみんなが幸せになりますように、世界中のみんなが幸せになりますように、世界中のみんなが幸せになりますように──すると、例の声が聞こえてくる(僕は言っていると認識する)。
〈おい、無駄なことはやめろ! そんなことをしてなんになる? そんなことより早くその娘をものにしちまえよ〉
 ──世界中のみんなが幸せになりますように...
〈おい、やめろと言ってるだろうが!〉 
──世界中のみんなが幸せになりますように...
〈そんなことをしてタダで済むと思うなよ。クソッ!〉
 その邪悪な(声と認識していた)声はそこでぷっつりと消える。僕の中の忌まわしい気持ちがなんだか晴れやかなうやうやしい気持ちに変わっていくのがわかった。僕は静かに目を開ける。「これがジョウカというものなんだね」
「わかった?」と、ティオ。
「うん、わかった」僕はジョウカというものがとてもいいものだと思った。そして、唐突に尋ねたい気分になり、口を開く。「ねえ、僕が下心があって君についてきたんだって、君は思ってないの?」僕は自分でも本心がわからなかった。
「ううん、最初からわかってたんだ。あんたが浄化のできる人間だってね。だから、もういいんだよ、そんなことは考えなくても」と、ティオは言う。
「うん、そうだね。──じゃ、僕は帰るから」
「帰るってどこへ? 泊まっていきなよ。もう暗いしさ」
「いや、いいんだ。僕は結晶へ帰るんだから」
「──じゃあさ、これ持っていきなよ」と、ティオは水晶のペンダントを差し出す。「今度また邪(よこしま)な気持ちになったら、これに祈るといいよ」
「いいの?」
「いいの、いいの。また盗めばいいから。それにその水晶にはもうあんたの念が封じ込められちゃったからね。あたしにはもう使えないんだ。だから、持っていきなって、ほら」と言って、ティオは僕の首にペンダントを付けてくれた。
「ありがとう。確かにジョウカすると気分がいいよ。──それじゃ」と、僕。
「さよなら。また会えるといいね」僕はこのティオの別れの言葉を聞いて、前にも聞いたことがあるような気がした。気のせいかもしれない。
 僕はティオの家を出て、街に向かい、バギーのところへ戻った。盗まれていやしないかと思ったが、バギーは街灯に照らされてまだそこにあった。なにせ泥棒の街なのだから。しかし、いったん仲間になればしごく優しいのだ。そういう連中に僕は仲間と認められたのだ。僕はそう思う。──さて、これからどうしたものか。僕はバギーに寄りかかってしばらく考え込む。このままシロカミさんを待つか、それとも夜のドライブに出かけるか。ドライブは昼間の分で少し飽きてしまった感がある。
「よう、兄さん。さっきはよくもオレをなぶりものにしてくれたな。覚悟しな」見ると、ボロを着た少年が僕にナイフを向けている。
「君は──まさか、僕の意識の中の声? どうして──」と、僕は驚いて身構える。
「うだうだ言ってんじゃねえ! おまえなんか死んじまえ!」と、その少年はナイフを振りかざし、僕に向かってきた。僕は簡単にその攻撃をかわし、ナイフを奪い取った。少年は怒り狂って、僕につかみかかってくる。僕はナイフを遠くへ投げ捨て、その少年をはがいじめにした。「ちくしょう!」と、少年。
「どうしてなんだ?」僕は息を切らせながらその少年に尋ねる。
「おのれ!」──すると、急に少年の体の力が抜け、声色の違う声で言う。「──姉さん...姉さんが」
「姉さん? ティオのこと?」僕はティオのことだと直感する。「ティオがどうかしたんだね?」僕は少年を放す。
少年はその場にへたりこみ、泣きながら言う。「ティオ姉さんがあいつに殺されちまうよ」
「あいつって?」
「黒いコートを着た人...」と、少年。
「まさか。とにかく家に行こう。走れるかい?」
「うん」
 僕と少年はティオの家に急いで走って行った。その途中、僕はまた“それ”の声を聞く。
〈昔はよく走ったねえ──遅かったけど! あはははっ〉
 僕は胸の水晶を右手で握り、祈った。そして、全力で走った。
──世界中のみんなが幸せになりますように...
──ティオが無事でありますように...
 僕が祈っているせいか、例の声はそれ以上聞こえてこなかった。そして、間もなくティオの家に到着した。
「ティオ!」と僕は叫び、少年は姉さんと叫んで、家の戸を開けた。そこには得体の知れない不定形の黒いものが灯りに照らされてうごめいていた。少なくとも、一瞬僕にはそう見えた。それはよく見ると黒いコートをはおり、紳士帽をかぶったシロカミさんだった。
「やあ、パロット君。見られてしまったねえ。今ちょうどハイブリッドを消去したところなんだよ」と、シロカミさん。
「よくも姉さんを!」少年はそう言うとシロカミさんに跳びかかった。
 シロカミさんは子供をあやすように落ち着いた口調でよろけながら言う。「おやおや、ここにもハイブリッドが居たのか。消えなさい」と、シロカミさんは言うが早いか、その少年を持っていた旧式の銃のようなもので撃った。バンという大きな音がして少年は倒れ、その姿はゆっくりと煙のように消えていった。
 僕は一瞬のことだったのでただ驚いただけだった。
「なんてことを! ティオも同じように消したんですか?」と、僕。
「そうだよ。ハイブリッドは君の意識と混ざってしまった別の意識なんだ。だから、こうして丁寧に排除していかないと、あとで大変なことになるからね」
「まさか今まで僕が出会った人物はみんな消去して──」
「そう。あの飲食店の主人も、遺跡の作業員も、小売店の店長も、もっとさかのぼったらきりがないがね」とシロカミさんは言う。
「どうして、どうしてそんなことを?」僕は悲嘆にくれる。罪悪感に似た気持ち。
「どうしてって、そりゃ、余計なものであり、邪(よこしま)なものだからだよ。言ってみれば、病原体みたいなものだな」
「本当の邪悪なものは僕の中にあるんです」と、僕。
「そうだよ、君のインクルージョンの中には余計なものがうようよと存在している」
「いや、そうじゃなく、意識の本体であるこの僕の中にあるんです。ああ、ティオ...」
「そんなに悲しむことはないと思うがね。物語に出てくる脇役に注意を払う必要がないのと同じだよ。けれど、本当の邪悪──か、それは一考の価値があるね。まあいい、そら」シロカミさんは銃をしまい、インターチェンジを取り出して僕に差し出す。僕はそれをいつものように受け取る。いつもと違うのはシロカミさんに対して疑念とともに殺意に似た気持ちを抱いていること。
「ティオは消してほしくなかった...」と僕は言う。
「ふん。ほれていたのかね?」と、シロカミさんは鼻で笑う。
「そんなんじゃありません」
「じゃ、どうする? 私を殺すかね?」
〈そうだ、殺せ! こいつを殺しちまえ!〉
 僕は(声と認識している)その声を無視し、胸の水晶に右手をあてる。
「もともと僕の意識が生んだ世界でしょう? どうしてほうっておいてくれないんですか」と僕はかなり憤慨して言う。
「自分の家の庭木に付いている害虫を自分で殺すか、業者に任せるか、それだけの違いだよ。結果は同じこと」
「僕は自分の意識の中にあるものを消すことができません。それはしないのではなく、できないんです」
「そうだろう? だから私がこうして消去してあげているんだよ」
「どうして消さなくちゃいけないんですか?」と、僕は興奮気味に尋ねる。
「意識の多様性の中にあるのはカオスという闇だ。私はその君の意識に秩序という光を照らしてあげている。つまり、余分なものを排除することで君の意識は健常に機能するのだよ。何もいぶかしがることはないんだ」と、シロカミさんは落ち着いた様子で言う。
「──真のモルダヴァイトを手に入れてから、あなたは変わった。そうでしょ?」と、僕。
「まあ、変わっていないと言えば嘘になるかな」
「邪悪な王は僕の中に居るんでしょ? 僕は最初、あなたが邪悪な王をよみがえらせようとしていると聞いたとき、石の中に宿っているのが邪悪な王だと思ってた。でも、僕の心をジョウカしたときに感じたんです、これこそが邪悪な王だと」と僕は言った。
「その話はもうよしたまえ」シロカミさんは面倒くさそうに答える。「それは君の意識が作り出した荒唐無稽なシナリオに過ぎないのだよ」
「いや、僕は信じます。石の妖精さまの話を」と、僕。
「そんなことを言っていると現実になってしまうぞ。冒瀆と蹂躙の炎とやらが世界を滅ぼすことになる。それでもいいのかい?」シロカミさんはますます落ち着いて言う。
「いえ、僕はそんなことにはさせません。結晶を完全にすればいいんでしょう?」
「しかたない、本当のことを言おう」シロカミさんは一呼吸置く。「──結晶は完全にはならない。未来永劫ずっと不完全なままだ。鉱石の結晶を知ってるだろう? そう今君がしているペンダントの水晶のように、いったん生成したらよっぽどの条件が再び整うか、人工的に手を加えない限りそれ以上成長することはないんだ。人間の結晶も同じことなんだよ。このことは別に隠していたわけじゃない、君がショックを受けるかと思って言うのを控えていたんだよ。たぶん、他のメイトも知らないんじゃないかな」
「そんな。──いや僕は結晶を完全にできると信じます。この世界は僕の意識の中の世界ですよね? だったら、実現できるはずです」と、僕は言う。
「残念だが、現実と意識の中の世界は違うんだよ」
「あなたも言ったじゃないですか。何が現実かは重要ではないって」
「あれは言葉のあやだよ、真に受けないでくれ」
 しばらくの冷やかな沈黙。
「わかったかね? それじゃ君も早く帰りたまえ、この世界に飲み込まれないうちにね」そう言うとシロカミさんは自分のインターチェンジのボタンを押し、この世界から消えた。
 誰も居なくなった家の中には僕ひとりがとり残された。まるで、悪いことをした罰のために暗い蔵の中に閉じ込められたような気分だった。あの棚の上には、ひとつぽつんとあのルーペが置いてあった。古の遺物たちが僕を見つめているような感覚。僕はこの悲しみに似た気持ちを乗り越えて、また別の世界へ行かなくてならない。何のために? 僕は自問する。何のために僕はいろんな世界を過ごしているのだ? 結晶はもう完全にはならない。じゃあ、僕はなんのために生きている? ──わからない。何かわからないまま生きている。それが生きるということなのか?
〈ちっ! 一回ぶん殴ってやりゃよかったんだ。そうすりゃすっきりしたのに〉
 僕は“それ”が聞こえてきた(言っていると認識する)ので、ゆっくりと部屋の中央へ行きそこへ正座する。──君は邪悪な王だろう?──僕は意識の中で語りかけるが、“それ”は素直に答えない。
〈おまえはチャンスを逃してばかりだな、腰抜け野郎が! そんなことじゃ、おまえは一生幸せにはなれねえぜ〉
──欲に任せて女の子と関係を持ったり、人を殺したりすることが幸せになることとは思えない──
〈くそったれが! そうすることがおまえの本性だろうが! 素直に楽しめばいいのさ、この世界を!〉
 ──君はやっぱり邪悪な王だよ。僕にはできない、そんなことは──
〈おいおい、神様気取りか? 前にも言っただろう、おまえとオレは一心同体だって〉
 ──僕はジョウカする。何度でも。君が僕の意識に現れたら、その度に僕はジョウカするよ──
〈いつまで続くか、見物だな。オレがおまえの意識を支配するのはとても簡単なことだからな。オレはいつでもおまえの中に居る。心配しなくても、その度におまえは思い知ることになるのさ、オレの偉大さを!〉
 ──もういい。君と話していると本当に頭がおかしくなってしまいそうだ。真のモルダヴァイトの妖精さまに訊けば、君の排除の仕方を教えてくれるよ。それまで、せいぜいおとなしくしておくんだね──
〈は! オレを脅しても無駄だぜ。すでにやつらも気付いているからな。オレの復活を祝福するためにみんな集まってくれる。おまえのほうこそ、せいぜい世界を悠長に過ごしておくんだな〉
 ──やつらって、“絶望”のこと?──“それ”は答えない。そのかわり、悪態をつく。
〈オレが復活しちまえば、おまえなんか用済みのカスだからな。そのときはたっぷりとお礼をしてやる〉
 ──あの少年にのりうつっていたのは君だったの?──“それ”は答えない。
〈バカ野郎が!〉
僕は正座をしたまま胸の水晶に右手をあて、その上から軽く左手を添え、目をつむる。そして、ティオに教えてもらった例の言葉を頭の中で唱える。──世界中のみんなが幸せになりますように...唱えるにつれて僕の中の邪悪なものが消えていくような感じがした。僕はゆっくり目を開け、そして鼻で一回深呼吸する。“それ”は聞こえなくなった。ジョウカが完了したのだ。
僕は立ち上がったがしばらく正座をしていたので足がしびれていた。でも、今の僕にはそんなことは気にならなかった。棚のさびついたルーペに目をやり、そしてティオの笑顔を思い出した。ジョウカすることを教えてくれた女の子。それをシロカミさんはあっけなく消してしまった。それは僕の意識の中では殺されたのと同じだ。許されるべきことではない。少なくとも、僕は許さない。いずれ消えゆく運命だとしても、僕が生きている限り、僕が意識している限り、ティオは永遠に存在していたはずだ。
〈ははは、人間ってやつは実に勝手だねえ。気に入らねえものは消したがり、愛したものは永遠であってほしいと願う。それこそ卑(いや)しい欲望だよ。そして、あるとき必ず気付くんだ。あれは一夜の夢だったんだってな。ざまあねえよ。おまえもそんな卑小な人間にすぎないんだよ〉“それ”がまたしゃべりだす(僕はしゃべっていると認識する)。
──違う! 僕はそんな人間じゃない──
〈どうしてそう言える? ロンチャのことを思い出せ! おまえはあんなに憎んでいたじゃないか。そして、うまくやつのしがらみから逃れることができた。そうだろ?〉
 ──とにかく、僕はおまえの口車には乗らない。いいかげん消えてくれ!──
〈おやおや、ご立腹のようですな。じゃあな。オレはいつでもおまえの中に居る。それを忘れるな!〉
 今度こそ、“それ”の声、いや邪悪な王の声というべきか、それ以上その声は聞こえなくなった(認識されなくなった)。さっきはごまかしたが、確かにロンチャのことは憎んでいた。しかし、それがなんだと言うのだ。人が人を憎む、それはよくあるどこにでもある話だ。問題はその憎しみをどう処理するかにかかっている。僕の場合、何もせず時とともに忘れてしまうのを待つしかない。そして、次から次へとめまぐるしく変わる目の前の現象に全神経を集中させるのだ。
 僕はティオという意識の中の存在を消されてしまった。この喪失感はどこから来るのか? ティオを好きになったからかもしれない。でも、そんなことは重要ではない。ティオは僕の結晶の中のインクルージョンのひとつとしてここに“存在していた”のだ。世界の多様性の中には自分にとって良いものもあれば、悪いものもある。僕はそのきれいな上澄みだけをすくい取り、自分の中に取り込むということは絶対にできないのだ。何もかも一緒くたになって僕の中に入ってくる。しかし、それらを統合して良いものとして発現させることができるのは、他ならぬ僕自身なのだ。だから僕は、努力してその作業をこなそうとする。
シロカミさんは良いもの悪いもの関係なくすべてを消し去っている。それは僕の精神衛生上、必要な作業らしい。でも、僕はそれを知り、喪失感を抱いている。このことは僕の意識の中では重大な事件であり、シロカミさんに対して確実に憎悪を引き起こさせている。僕はシロカミさんをティオがされたみたいにあの旧式の銃で消してしまうかもしれない。僕はそんなことを考える。いや、僕にはそんなことはできない。そんなことより僕は結晶を完全にするために行動しなくてはならない。シロカミさんは結晶を完全にはできないと言ったが、もはや信用できない。
僕はインターチェンジを左腕に装着する。次のインクルージョンでは真のモルダヴァイトを貸してもらおうと思う。もし、できなければ無理やり奪うことも考えに入れる。そして、僕はインターチェンジのボタンを押した。 そのときの僕は頭の中で例の言葉を繰り返していた。
──世界中のみんなが幸せになりますように...


ドリーム8 深淵

 僕はあれ以来、気が向いたときには日記をつけ、定期的にトイレや部屋の掃除をし、ウォーキングにも何回か出かけた。そして、ある日数少ない旧友から便りがあった場合に備えて、こんな手紙を書いておいた。
《拝復 お便りありがとうございますが、お伝えせねばならないことがあります。私と関わることは、貴方様にとって不利益であるばかりか、ご不幸になられる恐れがあります。従って、今後一切のご通信、ご訪問などのお付き合いをお絶ちくださいますよう、お願いしたいのです。勿論、こちらから干渉することも金輪際まったくございませんので、どうぞご安心ください。私はこれからやつらの犯している罪を贖(あがな)うことにします。贖罪こそ、私に課された使命であり、私にとっての正義なのです。他人に自分の正しさを認めてもらおうという生き方は、絶望感を伴って私を苦しめます。ですから、私というひとつの魂がよりよく生きていこうとするならば、そして、すべての人間の本当の幸福を願うならば、私は贖罪の道を歩むしかないのです。自分以外の人間を不幸にするわけにはいきませんから。──かくのごとき愚拙(ぐせつ)な考えに基づいた処置ですけれども、ご理解くだされば幸甚(こうじん)です。末筆ながら、貴方様やご家族のますますのご発展とご多幸を心よりお祈り申し上げて、最後の筆を置きます。 敬具》
 この手紙はいつまでも出されることはなく、ずっと机の引き出しの中に入ったままだった。僕はあとで何回か読み返してみたが決意を新たにしただけで、とくに内容を変えようという気は起こらなかったし、この内容がおかしいと思うこともなかった。友達はみんな、僕と違ってサラリーマンになってしまった。もはや腐れ縁もこれまでだろう。
〈しかし、おまえはよくやってる。トイレの掃除も、日記をつけることも。オレが見込んだだけのことはある。このままいけばオレの復活も間近だな〉
 ──え? 復活? なんのことだい?──僕は風呂に入るために脱衣所で服を脱ぎながら、“次元の狭間の住人”の言うことに耳を傾ける(実際に耳に聞こえているわけではない)。
〈いや、なんでもない。おまえは今までどおり自分のことに集中していればいいんだ。それにしても、最近のやつらの行動は手に取るようにわかりやすい。今日だっておまえはそれに感付いて、少し調子を崩したな。まあ、よくあることだから気にしなくていいんだ。やつらはやつらで考えて行動し、会話し、生活している。おまえはおまえで考える。だから、意見が合うほうがおかしいんだ。やつらの言葉には毒があり、おまえにはそれを毒として受け取る機能が働いている。どうしようもないんだよ。おまえのその性質はどんなことがあっても変わらない。やつらもそれを利用しておまえを死の淵に追い込んでいくだろう。でも、おまえは知らん顔をして毎日を過ごせばいいのさ。やつらの作用はおまえにだけ反応しているんだから、おまえがそれを無視しちまえば何もないのと同じことなんだ。憎しみの蔓延を恐れる必要もなくなる。ただ、そこが一番難しいところだな。やつらはそのおまえの弱みにつけこんで、どんどん増殖している。ははは、どんどん増えろ! そうすりゃ、オレの食べ物が増えるからな〉
 ──やつらは増えてもいいものなの?──僕は体を洗いながら、次元の狭間の住人に質問する。
〈やつらの増殖は誰にも止められないんだ。たとえおまえがやつらのことを放っておいたとしてもな。──人はみんなカネを稼ぐために生まれてくる。世界もカネを稼がなくては生きていけないようになっている。ある人間にとってはそれは絶望でしかない。そして、誰も気付かないが確実にそういう人間は居るんだ。そいつに待っているのはのたれ死ぬことだけだ。だからみんなそうならないようにいろんな手を使ってカネを稼ぎ、カネを稼ぐために動く。でも、おまえは違う。おまえは言わば、世界に選ばれた人間なんだ。何もかもが薄汚れた人間世界をなんの苦もないすばらしい世界に変えるために生まれたんだ。だが、おまえはそのことを気にする必要はない。やつらのことも同じように意識しなくていいんだ。おまえはただ自然に生まれる欲望と憎悪がコップから溢れてしまわないように監視していればいいのさ。そうすれば自動的に贖罪はなされ、おまえに生きる意味が与えられるのだよ〉
 僕は気分がよくなって狭い湯船に浸かりながら鼻歌を歌う。

イーバ、アーゼ、チーガ、
ローズ、アーゼ、ンードゥ、
イーバ、アーゼ、チーガ、
ローズ、アーゼ、ンードゥ、
トゥルトゥトゥトゥトゥ、トゥルトゥトゥトゥトゥ、
トゥルトゥトゥトゥトゥ、トゥルトゥトゥ!
トゥルトゥトゥトゥトゥ...

 ──そう、そうすれば僕は生きる意味がもらえるんだね。確かに今までは愚かなことをしてきた。でも、これからは違うんだね?──
〈そうさ。おまえは真面目なんだから、報われる資格がある。絶対にそれ相応の幸せが手に入るのさ、オレが保証する。だから、何度も言うようにやつらのことは気にするな。憎悪の念が増大する一方だからな。やつらのことはオレに任せておけばいい。楽しみだな、一度にいくつ食えるか...〉
 ──食えるか? 君はやつらを食うのかい?──
〈いやいや、こっちのことだ、気にするな。それより贖罪はおまえが第一にすべきことであり、生きる意味であり、正義なんだ。おまえは正しいことがしたいんだろう? それこそが唯一の正しいことだ。わかったか?〉
 ──うん、よくわかったよ──


 僕はなんのために生きているか? それは全人類の犯している罪を贖(あがな)うために生きているのだ。そんな生き方があってもいいと思う。みんなは僕を蔑(さげす)み、非難し、排除しようとするだろう。それでも僕はみんなのことを思いやり、助け、受け入れなければいけない。──と、彼の意識が僕の意識に働きかける。彼の名前はなんというのだろう。僕は彼の名前を知らないし、彼も僕の名前を知らない。それはお互いに意識していないからだろう。彼にとっても僕にとっても自分の名前なんてなんの意味も持たないのだ。大事なのは何をどう考えて生きているかということだけなのだ。言い換えれば、何を意識しているか、ということだ。
 僕は意識が開闢(かいびゃく)すると、寒々とがらんとした、ほの暗い大聖堂の中の中心に立っていることがわかった。大きな柱が幾本も整然と立ち並び、大きな窓からは明るい光の筋がさしこんでいる。壁や柱にあしらわれた彫刻や、窓にはめ込まれたステンドグラス、天井から吊り下げられたシャンデリアが雰囲気をかもしていた。正面の祭壇の前に一人の男が居る。いつもの全身黒づくめをしたシロカミさんだった。僕はシロカミさんのところへ向かって歩き出す。
「パロット君、ここが最終ステージだ。君の私に対する憎しみはインクルージョンの許容範囲を超えてしまっているんだ、ほら」とシロカミさんはインクルージョンの状態を示す装置を右手に持って僕のほうに向けた。ベクトルを示す青白い光が幾何学的な模様を描きながら激しく無秩序に動いていた。
 僕はシロカミさんの五メートルほど手前で立ち止まる。祭壇にはふたの開いた例のビジネスケースに青い石、真のモルダヴァイトが中心にセットされている。
「さあ、ここに来て真のモルダヴァイトに君の心をさらすのだ。そうすれば何が正しいことかおのずとわかる」
「僕はもうあなたの言いなりにはなりません。僕は自分の意志で石の妖精さまと対話します」と僕は言う。
「どちらでも結果は同じだよ。悪魔が出るか、天使が出るか。天国か地獄か、もうすでに決まっているはずだ」そう言うとシロカミさんはビジネスケースに付いているボタンを押す。すると、真のモルダヴァイトに対になった二つの方向から青白い光が照射された。そして、祭壇の前に石の妖精さまの像が浮かび上がってきた。
「おまえの頭の中にあるものをおくれ。そうすれば、おまえの結晶は完全になる。さあ、石に触れるのです」何かで見たガネーシャによく似た石の妖精さまは開口一番にこう言った。
「結晶はどうやっても完全にはならないと聞きました」と僕。
「今のままではね。人間の結晶は鉱石の結晶と違って、ある作用を施せば簡単にまた成長するのですよ。おまえの頭の中にある害虫みたいなものを私に渡せば、病気が治るようにおまえの結晶は完全になるのです。さあ、石に触れるのです」
 僕は真のモルダヴァイトを両手ですくうようにして手に持った。すると、光の照射からはずれたために石の妖精さまの像は跡形もなく一瞬で消えた。そして、石は燐光を放ちながら、僕の頭の中にある邪悪な王の意識を吸い取っていった。僕はジョウカをしたときのようなすがすがしい気分になっていくのを感じた。やがて燐光は消える。
「よし、もういいだろう。かせ」とシロカミさんがいきなり僕の手の中にあった石を取り上げた。「こんどは私の番だ。ふははははっ! これで邪悪な王は完全に復活する」石は燐光を放ち始める。「パロット君、安心したまえ。邪悪な王はこんなくだらん世界なんぞ一瞬で消し去ってくれるよ」
「あなたは一体何をしようとしているんですか?」と僕。
「はははっ、調べたんだよ。その結果、邪悪な王が何者かがわかったんだ。邪悪な王は君がインクルージョンで過ごしている間にできる、一種のストレス因子のようなものなんだ。しがらみとも言える。私はそんなものができないように丹念にハイブリッドを消してきた。それでも君の中には邪悪な王という形をとってストレス因子が溜まり始め、結局はすべてを無に帰す二度目のビッグバンを起こす引き金になるはずなんだ。インクルージョンの異変とは意識の二度目のビッグバンのことだったんだ。そこへ意識を混ぜ合わせるという真のモルダヴァイトが生まれた。私はそれを利用して君の意識をもう一度ビッグバンを起こすことなく、正常な意識と混ぜ合わせることによって正常な結晶に戻すことができると考えたのだよ。しかし、このままではビッグバンは回避することができない。だから、確信はもてないが心配することはない。邪悪な王が復活すれば、君の意識は正常に戻るはずだ」とシロカミさんは言う。
「その仮説は間違っています。今のは意識を混ぜ合わせたんじゃなくて、邪悪な王を石が吸い取っただけです」と僕。
「じゃあ、今私が吸い取られているのは...まさか私の邪悪な心? ──とすると大変なことになる。君のインクルージョンの中の人間達は倫理、道徳あらゆるルールを無視して好き勝手に動き出すことになる」
 そこへジェミーとポーさんが走りよってくる。
「シロカミさん! やつらが集まってきます」とポーさん。
「そうか、やつらが集まりだしたってことは復活が近いんだな。とにかく例の武器で対処してくれ」とシロカミさん。
ジェミーとポーさんはわかりましたと言ってまた大聖堂の外へ出ていった。
「やつらって、“絶望”ですか?」と僕。
「そう、邪悪な王の食べ物だよ。やつらも君の意識が生んだものなんだよ。これはしかたのないことだ。よし、もう一度妖精さまを呼ぼう。そうすれば何かがわかる」とシロカミさんは言うと祭壇にあるビジネスケースの放つ光の中心へ石を置いた。
 石の妖精さまの像が再び現れる。が、さっきと様子が違う。「体をよこせ!」そう言うと僕に向かって像が突進してきた。そして、僕の顔の直前で止まる。像を形作っている光はゆるやかに点滅している。「ふむ、おまえは駄目だ。水晶を持っている。──じゃあ、おまえだ!」そう言うとシロカミさんの体の中へ像が吸い込まれていった。
シロカミさんはふらふらとよろけたあと、自分の両手を眺めた。「おう、う、うーむ。ふははははっ! ついに復活したぞ。──おい、おまえ、よくもオレをこけにしてくれたな。借りは返すって言ったよな。くらいな!」そう言うとシロカミさんの意識と体を支配した邪悪な王は殴りかかってきた。その攻撃は僕の腹や背中など痛いところに当たる。僕はその場にひざをついてうずくまった。
「やめろよ。君は僕の意識が産んだんだ。だから、僕を殺せば君も消える」と僕は痛いのをこらえて言う。
「うるせえ!」
 僕の腹に蹴りが入る。
「おまえはもう用済みなんだよ!」
 次の一撃で僕は気を失う。

真っ暗な闇の中で、誰かのやさしく美しい声が聞こえてきた。懐かしい、僕が一番好きだった女の子の声に似ている。〈私はおまえのすべてを知っているよ。その卑小な悩みも、嘘をついたことも、欲望に任せて過ちを犯したことも。ずっと見ていたんだよ。そう、ずっと──。だからもう何も心配しなくていいの。ほら、みんなおまえのところへ来てくれたよ。さあ──〉急に声色が恐ろしくも醜い低い声に変わる。〈死ね!〉

 僕はうなりながらはっと目を覚ます。体のあちこちが痛いのをこらえて上半身を起こすと、シロカミさんの姿をした邪悪な王(僕の邪な心)が“絶望”を食べていた。どうして肉眼で見えるのかわからないが、見まわすと無数の青い光の球体が周りをとり囲んでいる。僕の心を惑わす“絶望”のたくさんの思念が飛びかっている。僕はそれらをいちいち理解することができなかったが、強い吐き気がして気分が悪くなった。
「うぐ、ははは、もっとだ。もっと集まれ!」と邪悪な王。
 青い光の球体は邪悪な王の口の中に吸い込まれていく。そして、シロカミさんの姿は次第に化け物の姿へと変貌する。口には牙がむき出しになり、頭には悪魔のような角が幾本も生え、恐竜のような尻尾(しっぽ)が伸び、手足は想像上の妖獣のような醜いものに変わった。目は瞳がなく全体がらんらんと赤く光っている。そして“絶望”を吸い込むたびに巨大化していった。
僕は祭壇にある真のモルダヴァイトをもう一度手に取り、両手で包み込んだ。今度は僕の良心の部分を吸い込ませるのだ。そうすればやつは消えるはずだ。誰かのやさしい声が聞こえてくる。
〈そんなことをしても無駄です。あなたの意識は無に帰ろうとしています。もう誰にも止められません〉
──君は“絶望”?──
〈私はあなたの眠っていたやさしい心でもあり、石の妖精でもあります。でももう私も間もなく消えます〉
──せっかく会えたのに、どうして?──
〈人間は誰でもやさしい心の種を持っています。けれど、それが発現するのはごくわずか。常に邪な卑(いや)しい欲望と憎しみがやさしい心を押し殺しているのが普通なのです〉
──でも、誰にでも君みたいに確実に存在しているわけだね?──
〈そうです。発現する確率はとても低いですが、確実に存在します〉
──じゃあ、僕はそれに賭(か)けるよ。人間のわずかな良心に。僕はみんなの幸福を願う──
〈どうしてそう思うのですか? みんなあなたのことなんかこれっぽっちも気に留めていないのですよ。むしろ、あなたのことを憎み、忌み嫌い、のけものにしているのです。それでもあなたはそんな人間たちのことを思いやるのですか? どうして?〉
──思い出したんだ。幼い頃に聞いた母さんの言葉を。母さんは正しいことをしなさいと言った。でも、今まで僕は本当に正しいことがなんなのかわからなかった。それが遠い昔の青年の意識のおかげで気付くことができた。どんなことがあっても、みんなの幸福を願うことが本当に正しいことなんだってね──
〈あれはあなたの意識の一部である邪悪な王が“絶望”をおびきよせるために仕組んだことだったのですが、思わぬ効果をもたらしたようですね。そうですか、しかたありませんね。ビッグバンを起こさないであなたの意識を正常に戻すには、その利他の気持ちを強く心から念じるのです〉
 巨大化した邪悪な王は暴れ始める。「死ね! 卑(いや)しい人間ども。みんな死んでしまえ!」邪悪な王は近くにある柱をなぎ倒した。
そのとき、短めの白髪で小さな丸いレンズの眼鏡をかけた青年が走りよってくる。「天井が落ちる。こっちへ来るんだ、さあ」そう言うとその青年は僕の手首を強くつかんで引っ張った。
僕はその感覚で我にかえる。「君は?」
「また会ったね。話は後だ、さあこっちへ」
 僕は片手に真のモルダヴァイトを持ったまま、その青年について邪悪な王の横をすり抜けて大聖堂の中心を横切り、出入口へ走った。僕の横腹は足が床に着くたびに痛んだ。その痛みは学生のとき、体育の時間にマラソンをしたときのことを思い出させた。もちろんこれは遠い昔の青年の意識だった。扉を開けるとそこはまったく同じ大聖堂の中で真正面に祭壇があり、そこに邪悪な王になったはずのシロカミさんが居た。僕たちは扉を閉めてそこへ走りよる。
「シロカミさん?」と僕。
「ようこそ、異極晶の世界へ」とシロカミさんは言う。
「僕の結晶は君の結晶に対応した異極晶なんだよ。そして、ここは僕のインクルージョン」と白髪の青年。
 僕は事態がよく飲み込めなかった。「どういうことですか?」シロカミさんに尋ねる。
「その石はね、君も知っているとおり人間の意識を他の人間の意識と混ぜ合わせるんだよ。でもそれは君の意識の中で設定されていたことであって、この青年の意識の中では異なった意味を持つんだ。この世界ではその石は人の思念を放出させるという役割を持っている。これがわかったのは君のインクルージョンの中になんらかのバグが生じて、それが異極晶として成長していくのを観察していたからなんだ。そしてもちろん、出来上がった結晶は完全だ。──地球の生命はもうすぐ終わる。けれど人間の意識は永遠に生き続けるんだ。それがこの臨床実験によって実証された。人類の未来は明るいよ。──さて、最後の仕事だがパロット君、新しい意識が出来上がった以上君はもう文字通り用済みなんだよ。結晶は不完全だし、ビッグバンは起こすし、ろくな意識体じゃない。君には消えてもらうよ」そう言うとシロカミさんは胸のポケットから例の旧式の銃を取り出し、銃口を僕に向けた。
「待ってください」と白髪の青年。「異極晶は異なる極が二つあるけれども、実際は一つの結晶です。彼を消せば僕も消える。そうでしょう?」
「ふむ、言われてみればそうだな。かと言って一つのインクルージョンの中に異なる二つの意識が存在しては矛盾が生じる。──やはりパロット君、君はもはやハイブリッドと同じ、消えるべきなんだよ」とシロカミさん。
再び僕に銃口が向けられる。
「いやだ、死にたくありません」と僕は言う。意識がなくなることは死ぬことだ。
「そうだね、人間は誰でも死にたくない。けれど心配しなくていいんだよ。この青年が新しいパロット君として生き続けるんだから」とシロカミさんは言い、引き金に指をかける。
「ちょっと待ってください。賭けてみませんか、石の力に。その石は僕の世界では思念を放出させて新たな世界を生む力を持っている。パロット、その石に向かって強く念じるんだ。君の一番正しいと思うことを」と白髪の青年は言う。
「それならもう決まってる」僕は両手で真のモルダヴァイトを持ち、そして心から念じた。
 ──世界中のみんなが幸せになりますように。僕はみんなからどんなに蔑(さげす)まれ非難されても、みんなの幸福を願う──
 すると深淵からの声が聞こえてくる(言っているのだと認識する)。〈おまえはどうして他人の幸福などを願うのだ? おまえは連中にとっては生活をおびやかす害虫みたいな存在なんだぞ。誰もおまえに同情なんかしない。むしろ、おまえなんか虫けらのように死ねばいいと思っている。それでもそんな連中の幸福を願うということは──どういうことかわかるよな。それは無駄であり、徒労であり、報われることのない無に等しいんだぜ〉
 ──でも、僕はみんなの幸福を願うことが本当に正しいことだと思うんだ──
〈おまえは神にでもなったつもりなのか? おまえ一人がそんなことを願っても何も変わりゃしないし、かといってみんなが今のおまえと同じことを願うなんてことはありえない。人間は欲望に従って動いている。そこに利他という概念が入り込む余地はまったくないんだよ〉
 ──そんなことはない。人間は苦しむ人を助けようとするし、傷ついた人を癒してあげることだってできる──
〈おまえは今までにそういう慈悲の心を受けたことがあるのか? まったくないだろう? 人はおまえを憎み、そして駆逐しようとしただけじゃないか。卑小な心しか持っていないんだよ、人間は〉
 ──知らないだけだよ、どう思いながら生きればいいのか──
〈無知といっても本当に知らないのではなく、知りたくないんだよ。人間は己の欲を満たすことだけを考えて生きている。その点では虫けらと同等なんだ。はなから他人のことなど眼中にないのだよ〉
 ──でも僕は祈るよ、みんなの幸せを──

 そのとき、大きな音がして大聖堂の出入口が壁ごと壊れて大きな穴が開き、邪悪な王と“絶望”が入り込んできた。僕はその音で我にかえる。
「ばかな、こっちの世界に入ることはできないはずだ」とシロカミさんは言う。
「異極晶はひとつの結晶だから、こっちに来てもおかしくない。パロット、急ぐんだ」と白髪の青年。
「ここに居たか、薄汚い人間ども」邪悪な王は横の壊れかけた石壁を大きな腕でなぎはらった。石壁はがらがらと崩れた。
「このままではこっちの世界までビッグバンに巻き込まれてしまう。そうなればもともこもない」そう言うとシロカミさんは旧式の銃をかまえて邪悪な王の手前まで行き、銃を邪悪な王にむけて何回か撃った。しかし、まったく効かず、邪悪な王の蹴りでシロカミさんは吹っ飛ぶ。そして、さらに攻撃を加えようと邪悪な王はシロカミさんにゆっくりと近づく。
「パロット早く。その石に向かってもう一度強く念ずるんだ。君の一番の希望を──」と白髪の青年。
 僕はわかったと頷(うなず)いて、もう一度真のモルダヴァイトを両手で包み目をつむる。

 ──世界中のみんなが幸せになりますように──
何回か同じことを念ずると、また深淵からの声が聞こえてきた(言っていると認識する)。〈人間の幸せは欲望が満たされることに他ならない。──でもまあいい。おまえの思いをみんなに届けてあげよう。そのかわり、おまえの意識はゼロに戻る。それからはおまえ次第だ。人を憎むようになるか、それとも今のような境地に達するか、誰も教えちゃくれないよ。それでいいんだね?〉
僕ははいと返事をする。

突然、真のモルダヴァイトが激しく鋭いチョーキーブルーの光を放ったかと思うと、その光は僕の体にのりうつって体全体から溢れだした。“絶望”の色と同じだった。虹色の光輪も見える。僕の体は何かの力によって祭壇の前で床から一メートルくらいゆっくりと浮き上がり、胎児のような姿勢になった。真のモルダヴァイトは僕の手の中で燐光を放っている。光はどんどん僕の体から放出されていく。光のあたった大聖堂の壁や床、天井は木の葉の虫食いのように不定形な穴が開いていった。
その激しく鋭いチョーキーブルーの光は大聖堂全体に放たれ、やがて大聖堂は消え、さわやかなやさしい風と暖かく穏やかな春の日差しが降り注ぐ緑の草原へと変わった。そこかしこに色とりどりの草花が咲き、その上を幾匹かの白い蝶が舞い、どこかで雲雀(ひばり)がしきりにさえずっている。白い雲の一群がゆっくりと青い空を流れていく。何もかもが消え、思念だけがそこにあった。
〈彼は神だったのですか?〉
〈いいや、彼は人間だよ。本当の意味でね〉
〈あの光は慈悲の光だったのですか?〉
〈いいや、彼の意識が放出されただけさ〉
〈彼は絶望したのですか?〉
〈いいや、大いなる希望を見い出したのさ〉
〈それじゃあ、彼の思いはみんなに届いたのですか?〉
〈それはわからないな〉
〈この世界はどうなるのですか?〉
〈もちろんいつかは破滅する。でもね、私たちは希望を持って生きなくちゃいけないんだ〉
〈それは欲望に従って生きるということですか?〉
〈いいや、お互いを思いやるということさ〉
〈でも、憎しみが生まれてしまったらどうするのですか?〉
〈そうなったら祈るしかないんだよ、彼のようにね。さあ、私たちも祈ろう。憎しみに意識を支配されないように〉
〈──世界中のみんなが幸せになりますように──〉


エピローグ

 ここはのどかな高原にあるサナトリウム療養所の診察室の一室。空間はやわらかい午前の光で満たされていた。
机に向かってカルテに何やら書き込みながら、先生が質問する。「──それで、君の言う意識の放出というのはあれ以来ないんだね?」
「はい、ありません」と僕は答える。あれ以来ここに一ヶ月入院して、退院してからもう三年が経っていた。
「誰もいないのに誰かの声が聞こえることは?」と先生。
「ありません」と僕。「でも──」と言いかけて僕は少し躊躇(ちゅうちょ)する。
「うん、なに?」先生はボールペンを持った手を止め、逆の手で髪をかきあげる。
「その、ひとつの考えがあれ以来ずっと頭から離れないんです」
「なんだい、それは?」
「その、僕はみんなの幸せを願っているんです」
「それはいいことだね」
「それなのにみんなは僕の悪口を言うし、仲間はずれにしようとします」
「ふむ」先生のボールペンを握った手がまたせわしなく動き出した。
「僕はみんなのことを憎みたくありません。でも、悪口を言われたり、仲間はずれにされていると思うとどうしても嫌な気分になります。殺意さえ抱くことがあります。そんなの本当はいやなんじゃないかって思うくらいです。それでも、僕はどんなことがあっても心からみんなの幸せを願うことが本当に正しいことだと思います、絶対に」と僕は少し興奮気味に言う。
「うん、君の病気はねえ、絶対にこうありたいと強く思っていると悪化するんだよ。生活していると思い通りにならないことのほうが多いからね。──今回はちょっと薬の量を増やしたほうが良さそうだけど、どうする? 君が決めていいよ」と先生が落ち着いた様子で言う。
「そうですね、増やしてください」と僕は言った。

──僕の病気との闘いはこのようにして今も続いている。三週間に一回この療養所に来て診察を受けて三週間分の薬をもらうわけだ。調子が悪くなったら早く来てもいいことになっている。自分でもなぜこんな病気になったのかわからない。でも、今となってはそんな憎むべき呪わしい運命はひとつの信念によって受け入れることができる。それに、僕はもう自分の中のどんな憎しみにも打ち克(か)つことができるのだ。
この物語はフィクションです。
水面文庫 - ご感想・ご意見・お問い合わせ